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折登ひろしのGRAFFITI

日本人と英語と国際社会と、ちょっぴり料理について考える

私が薦めるアメリカのテレビドラマ

2008年10月05日 | Weblog

アメリカでは優れた TV Movies(連続テレビドラマ)が、これまで多数世界に送り出されています。これらの中には、日本で大ヒットしたものがあることはご存じでしょう。

  もちろん内容にもよりますが、吹き替えされていない生の英語は、英語に興味のある皆さんにとって格好の英語教材になるので、私なりに紹介してみようというのが、今回のブロッグの趣旨です。

  また、ほとんどのTV Moviesは、videoDVDに収録され市販されているので、購入すれば繰り返し視聴することができ、以前述べた、日本に蔓延している「幼児英語」から脱却する道が開けます。

  最近では、前回紹介したSex and the City があり、NHKの地上波では、Desperate Housewives (悩める人妻たち)、Full House(フルハウス)などがありますが、後者は、ほのぼのとしたcomedyで、NHK教育テレビの定番のようになっています。

  過去の作品で、日本で人気のあったドラマは、数ある中で古いものではI Love Lucy(アイ・ラブ・ルーシー)、上述のFull HouseBewitched(奥さまは魔女)、Mission: Impossible(スパイ大作戦)などでしょうか。

   アメリカではあまり話題になりませんでしたが、日本で大ヒットしたものに、Ben Casey (ベン・ケーシー)があるでしょう。当時、私はアメリカにいたので、日本で放映されていることも大変な視聴率を稼いでいたことも知りませんでした。帰国後、再放送?を見て正義感あふれる医師の姿に日本人が感動したのだろうと納得、納得。

  Medical drama(医療関係のドラマ)では、近年日本で放映されたテレビドラマで、Chicago Hope というのがありました。架空の Chicago Hope Hospital を中心としたドラマですが、私が推薦する理由は、Cast(出演者)全員のspeech(せりふ)がしっかりしているからです。かつて、俳優志望者必修のspeechの訓練を受けたのでしょう、発音がきれいで、英語教材としてまた医療用語を覚えるのに恰好なドラマです。

  また、日本で見る映画の大半はNew YorkLA(Los Angeles)を撮影現場にしたものですが、このドラマは、日本人になじみの薄いアメリカ中西部の大都市Chicagoが背景になっていることも推奨する理由です。ただ残念ながら、videoしか市販されていないようです。

  日本人は、やたらに新しいものを追い求める傾向があるので、私がこれから紹介するTV Moviesは、「古い」ということで、皆さんに歓迎されないでしょうが数点選びました。

  まず、前述のI Love LucyI(1951~1957)です。腹を抱えて笑って肩をほぐしながら英語に親しむのに最適でしょう。ユーモアの精神を理解することも英語には必要ですから。主演の Lucille Ball を、一度、他の映画で、彼女がdressed up with a serious look(まじめな表情で正装した)を見たことがあります。ファッションモデルと見まがうほど魅力的でした。実の夫だった Ricardo Arnaz のスペイン語なまりの英語に慣れるのもいい経験です。

  次は、Family Ties(ファミリータイズ)(1982~1989) で、Michael Fox主演の家族愛の物語です。Family Tiesは「家族の絆」という意味ですが、なぜ日本語の題名にしなかったのでしょうか?Michael Foxは、映画 Back to the Future でもよく知られていますが、後にParkinson's Disease(パーキンソン病)を発症したことから、自ら、パーキンソン病の研究と助成をする団体を設立しました。

  Family Tiesは、Michael Foxと両親、妹二人(後に弟が生まれる)の五人家族を中心に生じる話題を描いたcomedyです。アメリカの中流家庭の生活が描かれているので、話される英語はごく平均的で、学ぶ教材として適材です。

  これまで、『英語と日本人 なぜ英語ができない』に書いた、学ぶ外国語の生活環境や文化を、日本で体験することは容易でないだけに、それを補うには、Family Tiesのようなドラマで、アメリカ生活の一端を肌で感じ取ることも大切です。ちまたにあふれる「幼児英語」の教材にお金を使うよりずっと効果があるはずです。

  Michael Foxと共演する同世代(teen-ager)の男子も女子も、その芸達者には感心するばかりです。日本の若手俳優も、最近は演技力がついてきたので安心して見れるようになりましたが、かの国において、若くしかも優秀な俳優の層の厚さには驚かずにいられません。ドラマを見ながら、登場人物になったつもりで英語を話すときの表現力を養ってみたらどうでしょう。

 余談ですが、Michaelは後に、彼のgirlfriend役で共演したことがある女性と結婚し、四人の子供をもうけています。

  最後は、Murphy Brown(マーフィー・ブラウン)(1988~1998)です。Candice Bergen主演で、Washington D.C.にある架空のテレビ局 FYC が舞台になっています。Candice Bergenが演じる人気キャスター Murphy Brownと同僚四人が繰り広げるcomedyで、内容は秀逸です。

  それは、Emmy Award(エミー賞)のcomedy部門で、Candice BergenOutstanding Lead Actress(主演女優)を5回受賞し、番組も、Outstanding Comedy Seriesの作品賞を2回受賞していることからも分かるでしょう。

  いずれにしても、このドラマは、アメリカの首都 Washington D.C.が舞台になっていることが救いです。『英語と日本人 なぜ英語ができない』でも、先にも述べたように、多くの日本人は、東京一極集中主義に毒されて、New Yorkがアメリカの中心と勘違いしているようで、少しは頭の切り替えに役立つのでは…と思います。

  物語は、テレビ局のみが舞台になっているのではなく、会話も多種多様で、どこまで英語が理解できるか挑戦してみてください。ただ、売れ行きが不振だったということで、DVDになっているのは最初のシーズンだけのようで残念です。

  しばらく多忙だったために、間が空きすぎてしまいました。次回は、「がんもどき」ならぬ「英語もどき」についてです


予告の臨時変更です

2008年08月31日 | Weblog

アメリカの民主党大統領候補指名大会も、民主党の分裂を避けるために、Hillary Clinton さんの提案という計らいで、代議員の投票を中断し、出席者多数の賛成 "Aye!"(賛成)の斉唱で、Barack Obamaさんが、民主党大統領候補の指名を受けて終わりました。

  大会の二日目に、Hillary Clintonさんの演説が行われましたが、彼女の支持者が Hillaryさんが候補者になりえなっかたことに悔しい思いをしたようです。

  私も、以前述べたように残念です。もちろん、彼女のアメリカ大統領としての資質は未知数ですが、現時点では Obamaさんより適任であると思っています。

  一方、共和党はと言えば、John McCainさんは、a running mate(副大統領候補)に、女性の Sarah Palinアラスカ州知事を選び、9月1日から始まる共和党党全国大会で、大統領候補者として選出されるのが確実となり、11月4日の本選挙に向けて走り出しました。

  民主党、共和党両者の接戦が予想されます。世界に影響を及ぼすアメリカだけに、私から言えば、とんでもないBush Administrationを、2期 8年間支持した過ちを繰り返さないよう、アメリカの有権者の賢明な判断を期待したいものです。


SEX AND THE CITY を見たら?

2008年08月24日 | Weblog

日本で上演されることになった、映画 SEX AND THE CITY が盛んにマスメディアで宣伝されました。実はごく最近、テレビ東京の深夜放送で、この映画の元になるアメリカのテレビドラマ Sex and the City が放送されているのを知りました。調べてみると、1998年から6年間にわたって放送され、人気があったようです。

  編集者の常として?私は夜型人間なので、深夜仕事を終えた後、ビールを飲みながなら、さて、寝る前に何を見ようかな…と思いながら、リモコンと新聞の地上波の番組表で、気に入った番組を探します。

  深夜に盛んに放送されるアニメには興味がないので、酒の肴になる番組を見つけるのに苦労します。その折、深夜3時ごろから SATC と表示されている番組を見つけました。ちょっと遅いが我慢して、好奇心で見ることにしました。

  開いてみてびっくり、アメリカのテレビドラマではないですか!しかも、二重音声放送なのです。さっそく「副音声」の英語に切り替えると、懐かしいニューヨーク市、マンハッタン区の街並みを背景に、当然のことながらアメリカ英語が聞こえて来ました。

  1部、2部、3部と続けて放送され、主役は四人の女性であることが分かりました。現在、テレビ東京では、金・土曜日に毎回30分番組を3部放送しているようで、火曜日には、1部だけ放送することもあるようです。四人の恋愛や性の本音を過激な映像と笑いで描いています。

  次にびっくりしたのは、セックスの場面だけでなく、赤裸々な性にかかわる言葉がポンポン飛び出すではないですか。かつて、Back to the Future の映画で有名な Michael Fox がパーキンソン病にかかる前に出演、ニューヨーク支庁を舞台にしたテレビドラマ Spin City がありました。これも、あからさまな色っぽいドラマでしたが、Sex and the City は、それよりずっと過激です。

  ネット上で見られる最近の pornography と比較すれば、男女の性行為の場面は、こっけいで、意図的に映像を抑えてありますが、テレビドラマとしては当然でしょう。だが、このドラマを見ることを薦めるのは、ドラマで交わされる会話です。私は、映画を見ていませんが、ドラマの方を見ることをお薦めします。

  このドラマ(映画でも)には、四人の女性が登場しますが、意識的に、blonde(男性はblond), sandy hair, brunette(男性はbrunet), red head と、それぞれ白人の典型的な hair color を持った女性を登用していて、観る人それぞれの好みを意識しています。

  一方会話の方ですが、先に述べたように、性や男女の性器にかかわる言葉があからさまに出てきます。しかし、時と場合によっては、アメリカでは別に異常なことではないので、驚くほどのことではありません。例えば、blow job とか vagina とか dick などなどです。

  日本で生活して英語を使う限り、知る必要のない言葉かもしれませんが、少なくとも英米の生活習慣の現実を実感するには、男女とも、私は知っておいた方がいいと思います。

  dick は、Dick と書けば、男子名 Richard の別称ですが、dick は男子の陰茎を意味します。会話では大文字、子文字の区別ができませんから、要注意です。似たような表現でよく知られているのに、John があります。"Where is the John?" と言えば、「トイレはどこですか」の意味になります。

  かつて、ニューヨークで働いていたときに、私より上役であった女性の本名は Helen でしたが、Jackie の愛称で呼ばれていました。彼女の祖先は、イギリスからやって来た清教徒にたどり着くそうで、アメリカでは上流階級に属し、非常に上品でたしなみの良い女性でした。

  一方、私の直近の上司は男で、Richard が彼の名前でした。社内では、だれもが、彼を愛称の "Dick." と呼んでいましたが、Jackie だけは、いつも "Hello Richard." とか "Good morning Richard." のように呼んでいました。当時は不思議でしょうがなかったのですが、よく考えてみれば、彼女にとって、男性の性器を暗示する Dick と呼ぶのは、彼女の生い立ちから控えたのだと思います。

  次回は、私が推薦するアメリカのテレビドラマの紹介です。
 

  追伸 Sex and the City を見るときは、日本語吹き替えでなく「副音声」の英語でなければ意味がありません。

 


外国語を学ぶのは「しんどい」?だがその成果は?

2008年08月16日 | Weblog

なぜ「しんどい」という関西弁を使うかというと、「ああ、しんど」という言葉もあるように、標準語の「つらい」と言うより、「つらさ」がもっと身近に感じられるような気がするからです。それが関西弁の妙、というところでしょうか?それとも、お笑いブームに影響された結果でしょうか?

  私が真剣に英語に取り組み始めたのは、このブロッグの初期に「英語の劣等生」の表題で書いたように高2の時でした。大学に入ってからは、自分自身を英語漬けにした、ということも前に書きました。

  当時、そのことを知っている同級生のドイツ人女性が、読み終えたロシアの文豪トルストイ作 Anna Karenina (これまで「カレニーナ」と読んでいたところ、日本語では「カレーニナ」であることを今回調べて知りました)の英訳本を貸してくれました。

  辞書を引き引き読み出しましたが、遅々として進まず、情けなくなりました。しかし、本を貸してくれた彼女の私に対する期待を感じ、放り出すには自尊心が許さず、毎日、我慢して読み進むうちに、一カ月もたつと、あれあれ、初めのころと比べると進歩が明らかに見られるようになったのです!さらに一カ月過ぎると、その進歩が驚くほど実感できるようになりました。語彙が増えるにつれ、英語の理解力も読む速度も向上し、それに励まされて懸命になって読み続けました。

  本の内容も、名作だけあって大いに興味をそそりましたが、ただ、登場人物が多いのと、ロシア人の名前をなかなか覚えきれず、英語を理解することよりも何度も前に戻って、人物の確認をするのが大変でした。

  全部読み終えるのに十カ月くらいかかったような記憶がありますが、アンナが列車に投身自殺する結末に、小説とは言え、何ともやるせない気持ちになりました。

  「やれやれ、やっと読み終えた!」ということで、彼女に本を返すと、手を叩いて褒めてくれたのはいいが、「じゃあ、次はこれを読んだら」と言って手渡されたのは、彼女が読み終えた分厚い本で、著名な伝記作家、Emil Ludwig の代表作の一つ Napoleon でした。原著はドイツ語で、その英訳本でした。今でも覚えていますが、500頁を超えるポケットブックで、読み終えることができるかどうか不安でした(著者の作風は、史実と心理的描写を織り交ぜた創作に特徴があるとされています)。

  まず、Napoleon を読んで驚いたことは、ナポレオンが戦術家として台頭していく記述の中で、当然のことなのでしょうが、軍事・戦術用語や武器・弾薬の類の単語だらけで、こんな単語を覚えても、しかも200年も前の戦争のことで、近代に通用しないので無駄骨を折るだけだと思いましたが、単語の意味が分からないと先に進めないので、分からない単語はノートに書き留めていきました。ところが、アメリカに渡って、これも驚いたことに、覚えた単語が大いに役立ったのです。

  世界の警察官を自認するアメリカは、現在でもそうですが、世界の各地で戦争をしています。したがって、そういったニュースには、戦争用語であふれています。その戦争用語の多くは、200年前のナポレオンの時代と変わりがないのです。妙なことで努力が実り嬉しくなりました。

  さて、彼女は、母国語であるドイツ語はもとより、日本語、英語、フランス語を操り、『英語と日本人 なぜ英語ができない』の中で述べたように、私にとって驚異でした。英語だけでも、もてあましているのに、20歳そこそこの彼女が、こともなげに「英語はやさしい」と言うのです。悔しくて、何でこんな理不尽なことがあるのか、と思いました。

  しかし、彼女からドイツ語を学ぶにつれ、以前書いたように、ヨーロッパ人にとって、インド・ヨーロッパ語に通じるのは、そんなに難しいことではないということが分かり、自らを慰めるしかありませんでした。

  私たち日本人にとって、何度も言いますが、欧米語を修得するのはしんどいです。言語はおろか、欧米の文化や生活習慣まで理解しなければなりませんから、しんどいことです。しかし、そのしんどいことをやり抜いて得るものは、数字や尺度で測れないもので、もちろん言葉でも言い表せません。

  こんな抽象的な表現で説明する理由は、と言うと、その成果は、ご自身で体験していただくことが一番だからからです。

  英語について言えば、受験英語や検定英語からは、文化や生活習慣を学び取ることはできないということを付け加えておきましょう。先のナポレオンの戦術用語などは、受験英語や検定英語に出題されませんしね!

  次は、映画 SEX AND THE CITY についてです。


To hell with it!

2008年08月10日 | Weblog

"To hell with it!" を日本語にすると「くそくらえ!」ではないかと思います。

  英語の名詞 hell(地獄、奈落)は、curse word(呪いの言葉あるいは強調する言葉)として、よく使われます"Hell, no!"(とんでもないこった!) とか "Go to hell!"(地獄へ落ちろ!)とか "What the hell!"(こんちきしょう!)などなど数多くあり、また多用されます。curse word なので、上品な言葉でないことは確かですから、使うにあたって注意が肝要です。とは言う私も、つい口を突いて出ることがあるので、忠言する立場にはないようです。

  一方で、"Hell of a mess!"Helluva mess! のように発音される)「(手が付けられないほど)めちゃくちゃだ!」のようにも使われます。

  さて、なぜ "To hell with it!" を表題にしたかと言いますと、前回書いたように、英語の検定試験に振り回されていることに対し、そんなの「くそくらえ!」の精神を持ってほしいからです。検定試験に受かるだけの姑息な努力や、幼児が話す程度の日本語を英語に直す技術だけを競う、といったことにきゅうきゅうとしている日本人を見ると、「あほか!」と、関西弁で言いたくなります。

  先ごろ、父親を刺殺した女子中学生が、動機に、「周りにいい子ぶるのに疲れた」、といった告白しているそうですが、この子こそ、「くそくらえ!」の精神を持ってほしかったと思います。

  まず、自分自身の中身を充実させることが第一であって、周りの事や人や英語なんて二の次でいいのです。どうしても英語が使えるようになりたいのであれば、日本語でも英語でも、充実した自分の中身を表現できるようになるまで身につける努力をすることです。

  かく言う私だって、それはたやすいことではありません。このブロッグで勉強させてもらっているのが実情です。

  次は、私の体験を通しての、日本人が英語を学ぶ「しんどさ」についてです。


幼児英語の氾濫に歯止めが掛からない

2008年08月08日 | Weblog

前々回 「私の英語は13歳」 で始めた話は、誤解を招かないためにも、私の精神年齢を指しているのではありません。もちろん、英語での生活経験の期間であるわけです。

  しかし、近ごろ、と言ってもかれこれ20年くらい、英語で言えば two decades にわたるでしょうか(a decade =「10年間」のことです)、日本人の英語に対する認識は、年々下がる一方で歯止めが掛かりません。『英語と日本人 なぜ英語ができない』「はじめに」で、すでに書いたことですが、最近の英語学習者の意識は初級止まりなのです。中級、上級は消滅してしまいました。

 なぜこういう現象が起きているのかと言うと、おおかたの日本人の成人の知性や常識の程度または精神年齢が、幼児止まりになっているからではないかと思います。最近頻発する殺傷事件の加害者の動機を聞くと、それがよく分かります。自立していないあるいは自立できない幼児の認識です

  例えば、英語の幼児化について述べると、日本語では気が付きませんが、英語にするとそれが顕著に表れるのです。通信販売の Amazon「本」のカテゴリーで、「カスタマーレビュー」 という書籍購入者が感想や意見を書き込める場所があります。「英作文」の項で、今、ベストセラーになっている教材を買った読者が、次のような書き込みをしていました。

 「『私は昨日歩いて学校に行きました』という簡単な文を "I walked to school yesterday." と瞬間的に、かつ滑らかに言えるようにするトレーニングをする本である」、といった書き出しで推奨しています。

  それはそれで大変結構なことですが、私だったら、"I had to walk to school yesterday." のように言います。なぜかって?"I walked to school yesterday." と言えば、「昨日は歩いて学校に行った」ということですが、では、今日はどうやって行くのか、自転車で行くのか、それとも車で行くのか、あるいはスクールバスで行くのか、また、一昨日も歩いて行ったのか、理由が判明しません。

  "I walked to school yesterday.""I walk to school everyday." 「私は毎日歩いて学校に行きます」ならば、ああそうか、と納得がいきますが、yesterday となると、何か特別な事情があって、昨日は歩いて学校に行った、ということになります。ですから、私なら "I had to walk to school yesterday." 「昨日は歩いて学校に行かなければならなった」のように言うわけです。その後に続く会話は、通常ならば、"Why did you have to walk to school yesterday? " のように相手から聞かれるでしょう。もちろん、日常は自転車で通学している、といった前提があってのことです。

  こういった疑問に対し、"I had to walk to school yesterday. Because my bicycle was stolen the night before yesterday. "(注) のように言えば、相手は、"I see." と言って納得するでしょう。しかし、先の例文での売りは、 I walked to school. なのでしょう。定かではありませんが、このような英語表現はあまり日本の英語の教科書に出ていないからでは…?察するに、"I went to school on foot yesterday." のような表現が、これまでの日本の英語教科書の典型になっているからかもしれません。

  私なら、"I walked to school yesterday." と言われたら、"Oh, yeah? How come? " と聞き返すでしょう(How come? は会話体で、Why? の同義語です)。

  この単純な英会話を日本語に訳すと、
   「ぼく(あたし)昨日学校に歩いて行ったんだよ」
   「えっ、何で?」 
  こんな会話を「瞬間的に、かつ滑らかに言えるようにするトレーニングをする本」が、今、世間で評価されているのです。

  上記(注)の私の英会話例を日本語に訳しても、
   「きのう、学校に歩いて行ったんだよ。だって、ぼく(あたし)の自転車、前の晩に盗まれたんだもん」

  英文では大人の会話が交わされているように思われていても、内容的には幼児の会話程度にしか過ぎないのです。schoolkindergarten, nursery school(幼稚園)に変えた方がずっと状況に合っているようです。

  日本語を単に英語にする(直す?)技術ばかりが先走って、肝心の中身がおろそかになっているのが、今日の日本の英語学習の悪弊です。小学校で英語を必修科目にするというのも、その悪弊の延長でしかありません。簡単な日本語を英語に訳すだけなら、市販の翻訳機を使えばいいわけですが、英語で自分の口から言いたい、それも、瞬間的かつ滑らかにです。幼児英語を瞬間的に滑らかに話す程度のことが、そんなに大変なことなのでしょうか?

  私も、最近あまり英語を使う機会がないために、とっさに英語が口を突いて出て来ません。それは、大人同士の会話で、福田政権の内閣改造(reshuffling of the Cabinet)、オバマ民主党大統領候補の中東訪問(the tour to the Middle East)、昨今の消費者物価の値上がり(the rise in consumer prices)、とかについて私見を尋ねられたような場合です。

  先に、私が4年間の大学生活中に独学して、日常の英会話程度はそこそこに話せるようになった、と書きました。テープレコーダーもCDもテレビの英会話番組も無い時代です。しかし、今も変わりないのは、日本人が外国語を身につけるには、毎日毎日こつこつと自分の脳に単語や文章を音声と一緒に植え付けるしか手がない、ということです。この忍耐のいる作業を実行に移すには、やる気なのです。

  英検、TOEIC、TOEFL などは、私から言えば言葉は悪いが 「くそくらえ」 です。他者の評価を気にするより、自分自身が真剣に取り組むこと無くして、身につくものは何もありません。

  次回もこの話の続きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


英語を話すときは英語の生活感覚で

2008年07月25日 | Weblog

どうやって英語の生活感覚を身につけるか、ということと、英語の生活文化と何年間付き合ったか、というのが前回の命題でした。そして、私の場合はどうだったかという所で、時間切れプッツンしてしまい失礼しました。

  『英語と日本人 なぜ英語ができない「バイリンガルよりバイカルチュラル」(77頁)で詳しく述べましたが、日本人が外国語を習得するには、バイカルチュラル(bicultural=二文化併存)の存在と重要性を認識することが大切です。学ぶ外国語の生活環境や文化を、日本で体験することは容易でないとはいえ、それを補う努力をしなければ、外国語の修得は到底無理です。

  私は1957年の9月にアメリカに渡りました。読者の多くはびっくりされるかもしれませんが、その当時ですから、日本の貨物船で2週間掛けてアメリカ本土に渡りました。CanadaVancouver からアメリカ西海岸の Oregon州、Portland の各都市の港を経由して、California州、San Francisco で下船し、後は、客車に乗って陸路一時滞在先の Long Beach市に着きました。

  貨物船ですから、各港で積み荷を降ろしたり新たに荷を積み込んだりするために、一昼夜繋留されるので、市内見物をすることができました。同乗の船客は、3人でしたが、一人は、Vancouver で下船したので、英語のできる私が二人を連れてタクシーと市内の交通機関に乗って巡りました。 

  アメリカ大陸に渡っての第一印象は、最初に上陸した Vancouver 以外は、外国に来た気がしませんでした。それは、渡航前に一年以上にわたって、アメリカ留学や渡航経験をした方から、つぶさに当時のアメリカ事情を聞きとっていたからでしょう。このことはつまり、アメリカの生活感覚を身につける努力をしていた、ということです。

  当時の私の英語の実力はどうであったかと言うと、芸大在学中に、まれにアメリカ兵などが、ぶらりと構内に入ってきて案内を求めると、「折登を探せ」というのが合言葉のようになっていました。芸大は、音楽学部を除く美術学部には、私の記憶では、在校生の総数は800人程度であった?しかも上野の狭い校内で私を探し出すのは苦もないことでした。

  不意の外国人訪問者を英語で案内するのは、私にとってそんなに難しいことではありませんでした。これも 『英語と日本人 なぜ英語ができない で述べたことですが、芸大在学中にアメリカ留学を目指していましたから、学業以外は、私自身を英語漬けにしていました。Japan Times の購読はもとより、理解できなくても TIME誌を常に持ち歩き、下宿では毎晩何時間も、辞書を引き引き洋書を読むことに精を出しました。

  4年間みっちり勉強したので、日常会話程度はそこそこにこなすことができました。ということは、4年間の大学の英語漬けの勉強と13年間のアメリカ生活を足せば、英語の実力は17年ということになるはずですが、そうはいかないのが、一日24時間、生活に密着していない場合の言語習得に限界があるかと私は思っています。

  13年間の英語での生活経験は、生まれてから数えれば、中学一年くらいまでの経験でしょう。ということは、私の英語を操る能力は、その程度であるというわけです。別に謙遜しているわけでも、自分を卑下しているわけでもありません。もし、私の日本の大学での専攻が英米語であり、留学先が美術学校ではなくアメリカの大学の言語学部や文学部であったら、アメリカの大学生程度の英語を使う実力は付いたかもしれません。

  これは、前回のブロッグで書いたことの根拠を改めて述べているわけですが、欧米人と異なり、全く異質の言語文化を持つ日本人は、欧米語を学ぶ場合、対象とする言語の背景となる生活文化にもっと目を向けるべきだ、ということを、強調して強調しすぎることはありません

  現在の日本での英語の勉強法は、英語を修得する技術ばかりが先行して、生活文化を学ぶ努力は皆無に等しいために、英語の学習書が氾濫しているわけであり、同時に、いつまでたっても英語産業に利用され、日常会話さえままならない、という悪循環が繰り返されているわけです。

  次回も、この「日本の悪弊」について述べたいと思います。

 


「私の英語は13歳」

2008年07月21日 | Weblog

13歳と称しているのは、「私」本人であることはお分かりでしょう。実際の年齢は高齢者ですが、私の英語の実力は、13歳程度であるということを言いたかったのです。その根拠は、私が英語国に滞在した期間が約13年間であったということからです。

  アメリカやイギリスなど英語を公用語とする国に滞在した、と言っても、『英語と日本人 なぜ英語ができないでも触れましたが、英語国で生活している人でも、外国からの移住者や移民などに限らず、英語があまり話せない人はいくらでもいます。日本人も、2、3年あるいはそれ以上滞在している、例えば、企業から出張・派遣されている海外駐在員、大学や研究所などの研究員・学者、報道関連の特派員、外交官の卵、留学生などでも、英語が達者な人はそういるものではありません。

  テレビで、よくお目にかかる英語国に滞在した元特派員で、キャスターや解説者を務める人たちでも、英語に堪能な人を見るのはまれです。発音のことを言っているではなく、日本語で考えながら英語を話していることからです。教養のある方たちですから、文法も正しく、発音もしっかりしているし、直訳しているわけでもないにもかかわらず、日本語を聞いているような錯覚を覚えさせます。つまり、日本語の壁を乗り越え、日本語という宿命を克服した人は少ないということです。

  こういった日本人の方の中にも、バイリンガルではないのに、まれに英語感覚で英語を話す人がいます。それは、native speaker of English(英語を母国語とする人)と結婚している人です。ただし、それも夫婦間で常に英語で会話を交わしている人です。私の実感から、大体において男性よりも女性の方が英語感覚を身につけるのが上手なようです。

  先ほど、英語国に数年あるいはそれ以上過ごした人でも、日本語で考えながら英語を話していると言いました。こういう方たちは、連れ合いが日本人である場合がほとんどです。英語国に住んでいて、ネイティブの人たちと仕事をしていても、家庭に帰れば日本語を話す立場にある人は、なかなか英語感覚を身につけることができません。なぜかと言うと、日本語感覚英語感覚のかい離が甚だしいからです。

  日本語を話すときの生活感覚英語を話すときの生活感覚は、言葉以上に隔たりがあります。例えば、夫婦間で互いを呼び合うときに、日本では、「お父さん」とか「お母さん」と言うのは、別に異常ではありませんが、英語国では、まずあり得ないことです。大抵、名前で呼ぶか、ニックネームで呼ぶか、"Honey."と言うかです

  その他、数え上げればきりがありませんが、言語は、その言語が話される地域の歴史と文化を代表するものですから、簡単に順応できるものではありません。例えば、現代の日本では、誰もが標準語を話しますが、京都や大阪など関西地方に行けば、ほとんどの人が関西弁を話して生活しています。そうであっても、関西弁は日本語ですから、吉本興業の芸人が関西弁で漫才をやっていても、慣れれば、関西人でなくても、理解するのにそんなに苦労することはありません。

  しかし、これがいったん英語や他の外国語になると、関西弁のようにはいきません。そこで問題となるのは、外国語とそれを生み出した文化とどれだけの期間付き合ったかということです。先に述べた、日本語を話すときの生活感覚と英語を話すときの生活感覚の違いを克服するには、日本人には、日本語を話すときの生活感覚は身についているので問題ありませんが、英語を話すときの生活感覚をどうやって身につけるかです。

  それが私の言いたい、英語の生活文化と何年間付き合ったか、ということです。そして、私の場合は13年間であったというわけです。しかし、連れ合いが日本人の場合、日本の生活文化と英語の生活文化を掛け持ちしなければなりません。その場合、日本人であれば、慣れ親しんだ日本語の生活文化から離れることは大変難しいということになります。

  それでは、私の場合はどうだったかということですが、残念ながら、今日は時間切れです。私も結構多忙なため次回に譲ります。陳謝。

 

 

 


カタカナ英語は、使い勝手がいい、それともかっこいい?

2008年06月30日 | Weblog

カタカナ英語や和製英語は、毎日、細胞のように増殖していく感じですが、今後も増え続け、次第に癌細胞のように日本語の命まで犯してしまうのでしょう。したがって、無駄と分かっていながら、また、このブロッグで嘆いても、増殖を止める特効薬とはならないでしょう。

  私が日本語を忘れて帰国し、その後、日本の社会に適応できるまでに4年かかり、そして、まともな日本語が何とか書けるようになるまでに10年かかった自分自身のことを振り返ると、日本語のアルファベット化、カタカナ英語化は、何とも悲しい事象です。なぜならば、印刷物やテレビで見たり聞いたりするアルファベット文字やカタカナ英語は、英語国では、まず、絶対と言ってもいいでしょう、通用しないからです。それなのに増え続けています。

  先日、某新聞の囲み記事に音楽番組の紹介がありました。以下は、その記事(14字詰29行)に使われていたカタカナ語を順に拾ったものです。

  表題の Music Lovers から始まって、ライブハウス、アーティスト、スペシャルライブ、ゲスト、トーク、ナビゲーター、ヒット、メドレー、カバー、タイプ、ノリ、ドラマ、以上です(楽器名のギターは外してあります)。

  何でこんなにカタカナ語を使うのでしょうかね…。ノリは、「乗り」のことでしょうが、漢字に直すのは面倒くさい?例えば、「アーティスト」ですが、日本語では、芸術家、画家、彫刻家、音楽家、演奏家など、さまざまですが、ここの記事では、演奏家がふさわしい感じがします。

  アメリカでは、確かに artist と、十把一絡げに art(芸術)に携わる人たちのことを言います。私が留学先の美術学校で油絵科の同級生と話をした時、自分のことを "I'm an artist." と言うのにびっくりしたのを覚えています。artist=芸術家、と記憶していましたから、アメリカ人は、すべてにおいて積極的なことは分かっていたにしても、「ずいぶん図々しいことを言うなあ…」と思いました。当時(今も?)は抽象画ばやりで、猫も杓子も抽象画を描いていましたが、時代遅れ?の写実画を描いていた私から見ても、とても上手とは言えない抽象画を描いている彼が、「おれは芸術家だ」と言うのですから、びっくりするのも当然です。"I'm a painter."「おれは画家だ」と言ったにしても、大学院生で、職業画家としてまだ自立していないのに「よう言うよ」と、正直思いました。

  "artist" 同様、"athlete" も私から言えば十把一絡げの呼称です。 さて、The Random House College Dictionary によると、
 artist1. a person who practices one of the fine arts especially a
                painter or sculptor. 

               
2. a person who works in one of the performing arts, as an
                actor or musician.
 athlete = 1. a person trained to compete in contests involving
                   physical agility, stamina, or strength.
               2. a trained competitor in a sport, exercise, or game
                   requiring physical skill. 

とあります。訳は付けませんので、ご自分で理解してください。

  アーティスト、アスリート、と言うより、それぞれが専門とする呼称を使うべきだというのが、私の持論です。なぜかって?かつての私のように、日本語で意思疎通 (下記注参照) を図る能力が衰えるからです。時流に流されず、アーティストは、1. の場合、画家とか彫刻家と言うべきで、2. の場合は、俳優、演奏家…さらには、ピアノ奏者、バイオリン奏者のように言うべきです。

注:2015年6月23日投稿の 「『意思疎通』か『コミュニケーション』か?」 を参照してください。

  しかし、アスリートは、日本語での呼称が難しいですね!例えば、swimmer は、水泳家とは言わず、水泳選手でしょう。boxer は、以前は、拳闘家と言いましたが、今は残念ながら、ボクサーと言うのでしょう。runner は、短距離走者、中距離走者、長距離走者、のように言えますが、golfer は、ゴルフ選手、ゴルフ家、ゴルフ者のどれも当てはまらないようで、ゴルファーに落ち着くのでしょうか。

  コンピューター用語なども、圧倒的にカタカナ語が支配していますので、私の持論は通用しませんが、NHKのニュース番組の呼称、「ニュース セブン」「ニュースウォッチ ナイン」などは明らかに和製英語で、こういった用法は、ぜひ避けてほしいものです。

  アーティスト、アスリートのように、総称の方が使い勝手がいいとか、カタカナ語の方がかっこいいとか、ということばかりに気を取られていると、「オープン」「スタート」としか言えない、表現の貧弱さを一層進行させることにつながります。豊かな表現は、心の豊かさを表すことで、それは英語を使うときも同じで、最近の日本の英語教育は、幼児英語の普及でしかなく、成人の使う英語とはほど遠いものです。

  数日前、ある放送局のニュース番組で、アナウンサーの後ろに表示されている字幕には、ある施設が「開場した」とあるのに、アナウンサーは、施設が「オープンした」と言っていました。

  次回は、「私の英語は13歳」です。

 

 


日本語が消えていく

2008年06月18日 | Weblog

何でこんなにカタカナ語アルファベット文字が日本で横行するのでしょうか?このブログを読まれた方で認識されたことはありますか?
 
  まず、「スタート」から始めましょう。

  最近は、「始める」「始まり」という日本語が消滅してしまい、代わりに「スタート」というカタカナ英語が幅を効かせています。日本語には、「始める」「始まり」以外に、懐かしい言葉、「よーい始め」から、名詞の「出発」「開始」「初め」「最初」「門出」といった言葉がありますが、近年、ほとんど使われなくなりました。新聞や雑誌のような印刷物にはいくらか残っていますが、テレビやラジオといった電波による媒体ではほとんどが、アナウンサーに限らず、日本人の大好きな種族… タレントや芸能人によって「スタート」が使われています。かく言う「アナウンサー」もカタカナ英語ですけれど…

  私にとって、毎日、アナウンサーによって発せられる耳障りな言葉は、あまりにも頻繁で、いらだちます。たまたま英語で生活してきた年月が長かったために、いやーな気持ちになります。

  毎日聞かされる、耳障りなカタカナ英語をここに頻度順ではありませんが、折に触れて書き留めたものを列記すると…
   1. スタート  2. アピール  3. サポート  4. コーナー
   5. フローア  6. ケース  7. ブレーク  8. グッズ  9. トラブル
   10. ピーク  11. ホットニュース  12. アップ  13. ヒートアップ
   14. ゲット  15. コラボ  16. リニューアル  17. エリア  
   18. アイテム  19. オープン 20. キープ などなど枚挙にいとまがありません。

  いいかげんなのは、英語では主として動詞として使う、アピール(to appeal)やサポート(to support)などに、日本語の「する」(to do)を語尾に付けて、(動詞を)名詞化して使うことです。つまり、アピールする、サポートするのようにです。

  これらのカタカナ語のほとんどは、英語から由来しているわけですが、『英語と日本人 なぜ英語ができない でも指摘しましたが、ひどいのは、NHKの「ニュースセブン」です。これだけで終わらず、「ニュースアンドスポーツ」と言うにあたっては、開いた口がふさがりません。ニュース、スポーツは、すでに日本語になっていることは認めますが、なぜ「ニューススポーツ」と言わないのでしょうか。アンドは、and で、英語のカタカナ表現であることは自明です。NHKは、日本の公共放送機関であり、正しい日本語を用いての報道は必須でしょう。日本語とカタカナ英語のちゃんぽんは、避けて当然です。

  「オープン」も「スタート」に負けていません。「オープン」を意味する日本語には、語彙が豊富です。思いつくままに列記すると、開演、開場、開店、開館、開会、開通、開業、開始、開催、公開 などなど。これらの言葉が、最近では、全てカタカナ英語の「オープン」で代用されてしまいます。何か異常を感じませんか?

  私が14年間の海外生活に終止符を打って日本に帰ってきたときに、びっくりしたことは、「ご飯」が「ライス」になっていたことでした、と 『英語と日本人 なぜ英語ができない に書きました。「ライス」は英語では、riceであることは指摘するまでもなく知られていることですが、「ご飯」は、英語では cooked rice であるのに、どう取り違えたのか「ライス」になっていました。多分、「クックド・ライス」では長たらしいうえに語呂が悪いからでしょう。「ニューススポーツ」も語呂が悪いから「ニュースアンドスポーツ」にしたのでしょうか?

  しかし、日常使っている自国語の言葉を、こんなに簡単に都合でもって変えていいものでしょうか?私が生活したアメリカやイタリアでも、自国の主食の呼び名を変えてしまうようなことはあり得ないでしょう。bread(パン)を das Brot(ドイツ語) pasta(麺類)を pastry(英語) のように言い変えるということなど考えられません。どの民族でも、自民族の主食に誇りを持っているはずです。

  ただ、食品の呼び名は同じでも、国によって、食品の内容が違うということはあります。メキシコでは 、主食は tortilla と言って、トウモロコシの粉を練って、餃子の皮のように丸く平たくして焼いたものをそのまま、または料理を包んで食べます。そこで、私がスペインに行ったとき、メニューにあった tortilla と料理を頼んだら、何と、平たいオムレツと料理が来ました。スペインでは tortilla はオムレツなのでした。

  今の日本におけるカタカナ語の氾濫は、二千年も前から受け継いできた日本語を破壊する行為であると私は思います。海外から日本に帰ってきたときに驚いたのは、「ライス」だけではありませんでした。食事のときに箸を正しく使えない多くの大人たち、一瞬、スラムにいるのかと思えた公衆道徳の不在などです。欧米のスラム街は、貧しい人たちが居住している地域で、生活も心もかなり荒れ果てています。しかし、日本の町並みはきれいなのに、道行く人たちのマナー (公衆道徳) の悪さはスラム並です。箸を正しく使えない、ということは、家庭教育の欠如です。私は、こういった状況を見た時、いつかこの国は、衰退していくと思いましたが、事実その通りになりつつあります。

  日常用いる「言葉」や「箸」のふさわしい使い方をおろそかにする民族は、いずれ没落するでしょう。

  次回もこの続きです。