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折登ひろしのGRAFFITI

日本人と英語と国際社会と、ちょっぴり料理について考える

被爆から被曝へ

2011年08月13日 | Weblog

した国がするとはどういうことなのでしょう。実のところ、私は、被爆の他に被曝という別の表現があるのを知りませんでした。辞書をひもとくと、被爆は:原水爆による爆撃を受けること、またその放射能の害を受けること。被曝は:放射能にさらされる、または浴びること、とあります。今回の原子力発電所の事故で、初めて状況によって二者択一があることを知るという、あらためて、我が浅薄かつ皮相な認識を実感した次第です。

  さて、前回述べた問題に再挑戦してみます。今回の原発事故と過去の放射能被害を含め、どのように理解したらいいのか、私なりに気になる事を以下に記します。

  その1. 原発を、「安全」 という皮でくるんだ 「毒まんじゅう」 と言われる原発建設地域に国から出る交付金です。その交付金というのはどんなものだったか、私はテレビで知りました。それは、福島県の被曝地で、退去を命ぜられた年配の女性が自宅の前で、どんなことがあっても家を離れないと言うのです。その理由は、「原発のおかげで、こんな豪邸を建てていただいたので、離れるなんてとんでもない」 と言っていることです。

  その2. 第2次世界大戦で、広島と長崎に原子爆弾が投下され、多数の死者と被爆者が出ました。さらに、戦後、太平洋のビキニ環礁で、アメリカが何度も行った水爆実験で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」 の船員の一人が、いわゆる 「死の灰」 を浴びて死亡しました。

  その3. 戦後日本では、上記のように、甚大な被害を受けた事から、原水爆の放射能に対する危機意識が高まり、アメリカ海軍の原子力潜水艦や原子力航空母艦が日本の基地に寄港するたびに、港で、大規模な 「寄港反対運動」 が繰り広げられました。しかし、どいうことか近年その反対運動が終息してしまったように見受けられます。

  その4. 世界で唯一原爆が投下され被害を受けた国 「日本」 ということで、原子力発電施設の設置や原子力を動力源とする船舶などに厳しい目を向けていた日本ならびに日本人が、一転、平和利用での原子力は、「安全でクリーン」 さらには 「安価」 であるという発想に転換してしまったのは、なぜでしょうか。

  その5. 私たちが使用している電気代には、交付金の原資とかは請求書の明細には表示されていないということを、マスコミから知らされました。

  今回の原発事故は、図らずも日本の恥部というより病巣があぶり出されました。私がこれまでたびたび指摘してきた、閉鎖社会あるいは村社会における、「癒着・なれ合い・洗脳から抜け出す」 という、意識や理性が培われない限り、この国はいつまでも、「日本でこんなことは起こり得ない」 と、言い続けるでしょう。

  最後に、使用済み核燃料の貯蔵・処分についてですが、現在、北のグリーンランドかどこかに深い穴を掘っていて、そこに埋める工事が進行している、という記事を読みました。そのうちに、使用済み核燃料を、ロケットに積んで、月か火星に向けて打ち上げて処分するのではないかと、人間の勝手さに思いが至っています。

  次回は、あらためて、日本のいいかげんな英語教育について書きたいと思います。また同時に、東京都内に、私が考えている英語教育を実践する英語学校を立ち上げる予定についてもお知らせしたいと思います。教科内容は、もちろん、1週間でペラペラとか、聞き流すだけで英語が話せるようになる、といったたぐいではありません。


「日本でこんなことは起こり得ない」

2011年07月15日 | Weblog

この表題は、1989年に、サンフランシスコ市の湾岸地域で起きた地震の被害を、日本の地震の専門家たちが視察した際に、このような発言をしました。当地の高速道路で高架になっている個所が横倒しになっているのを見て言ったのです。

  ところが、後の1995年に起きた「阪神・淡路大震災」では、阪神の高速道路の高架部分が横倒しになり、その下の道路を走っていた何台もの車が、運転手や同乗者もろとも圧死しました。

  今度の「東日本大震災」で生じた福島原発の津波による事故には、表題の言葉が当てはまるのではないでしょうか。世界一安全な原子炉であると公言していた末に起きた事故ですから。

  かつて、私がアメリカに在住していたころ、小説を映画化した、On the Beach(「渚にて」1959年、アメリカ)を見ました。

1964年に第3次世界大戦が勃発したという設定で、核戦争によって放射能汚染が北半球に広がり人類が絶滅する中、アメリカ海軍の原子力潜水艦が、難を逃れて、まだ汚染が広がっていない南半球のオーストラリアのメルボルンに一時避難します。その後、北米のサンフランシスコに帰港を試み、港内で潜望鏡を海面上に揚げて様子を見ると、サンフランシスコ市内のどこにも全く人の気配が無く、死の町と化した索莫とした光景が広がっていました。やむなく、その潜水艦の艦長と乗組員は、またオーストラリアへと向かったのでした。

  この映画で見たサンフランシスコ市内の光景は、今回テレビで見る、放射能で汚染されたとされ、住民が退去させられた福島県の飯館村のそれと全く同じで、身がすくむ思いをさせられました。

  「日本でこんなことは起こり得ない」という言葉は、アメリカのスリー・マイル島、ロシアのチェルノブイルにおける原発事故の現実に対し、東京電力の役員や原子力保安院、あるいは日本の原子力専門家や有識者の一部の認識と一致するのではないでしょうか。大津波に「想定外だった」と、東電の幹部が言って批判を浴びるのは当然です。

  去年の夏、猛暑が日本を襲いました。私は都内の接骨医に通っていましたが、真昼間のカンカン照りの最中、乗り換えのために汗だくになって上野駅のホームで電車を待っている時、ふと上を見ると、プラットホームに沿って2列の蛍光灯の照明が、端から端までずらりと点灯しているではありませんか。それも上り下りの両側のプラットホームの上、さらに、ずらりと並ぶ他線のプラットホームに目を向けると、すべてが点灯しているのです。

  上野駅の高架上の何本ものプラットホームは、地上にありますから、日照りのとき、それも真夏の日中では明るすぎるくらい明るいのです。しかし、プラットホーム上のすべての照明が点灯しているのです。私はしばし呆れて、他の駅ではどのようになっているのか観察してみました。どの駅もすべて同じでした。

  現在、普通、街灯にはセンサーなどを取り付けて、無駄な電気を使わないために、ある一定の時刻になるとか、特定の暗さになると、安全のためとか事故防止のために、自動的に街灯が点灯する工夫が施されています。駅のプラットホームにも、そのような配慮がなされていてもおかしくないはずです。それが節電どころか照明の使い放題です。大口の利用者には使用料金の優遇処置がなされていることがはっきり見て取れます。

  地下鉄で、乗り換えのために、エスカレーターで上下するだけの構内の空間も、まぶしいほど照明がずらりと点灯されています。何年も前のオイルショック時にはそんなことはありませんでした。ちょっと暗すぎるかな、と思われるくらいでしたが、あっというまに、「のど元過ぎれば何とかやらで」節電の風潮は風化してしまいました。

  さすがに、今度の東電の原発事故で、電力の使用削減を余儀なくされ、計画停電とか列車の本数が削減され、われわれ一般市民は多大な迷惑をこうむりました。ところが、何年か前のある夏、関東地方は冷夏になりました。その時東電は、消費者にもっと電気を使用するよう促しました。理由は赤字になるというものでした。何とも身勝手な経営手法です。

  「世界一安全」と吹聴してきた日本の原発が、現在の状況になって、原発とはどういうものなのか連日マスメディアで報道されることから、否が応でも、私も学習せざるを得なくなりました。福島原発事故以後、情報が氾濫し、私のように原子力発電や放射能汚染に疎い者にとって、にわか仕込みの知識ではとても対応しきれるものではありません。

  ただ、最も気になることは、使用済み核燃料をリサイクルするための再処理、あるいは貯蔵・処分の問題です。私は時間が許す限り、CNNとCNBCのニュ-ス番組を見ますが、先日、福島原発事故に関連して、CNBCの特集番組がありました。この番組でも、使用済み核燃料の貯蔵・処分の問題が提起されました。番組がインタビュウ―した、ある原発推進派のアメリカ人識者が最も不明瞭な返答をしていたのが、この問題でした。結論を言うと、いずれこの問題は解決するというものでした。つまり、先送りまたは棚上げすべきことであるという、何とも後味の悪い番組でした。

  今回、福島原発事故に関わる問題を過去の地震被害と絡めて取り上げましたが、その事故の広がりはあまりにも深刻かつ底知れず、先に述べたように、とても私の浅薄な知識や皮相な認識では対応できるものではないことを痛感させられました。結局、日本の恥部があぶり出された感じで、次回も、この問題に再挑戦させていただきます。

 

 

 


「衆愚」と「猿芝居」

2011年06月03日 | Weblog

大方の予想通り、石原都知事が再選されました。対抗馬となる他の候補者たちが小粒だったせいもあって圧勝でした。神奈川県知事だった松沢成文氏は、石原知事に裏切られ早々に退散という、政治家としての生存競争に敗れてしまいました。

  彼の敗因は、神奈川県知事だったときに石原知事に同調し、東京・神奈川・埼玉・千葉県の一部を、賛否両論はあるものの「首都圏連合」という、私としては、「馬鹿げた構想」を掲げたために墓穴を掘りました。石原という「はったり男」にしてやられたのです。

衆愚という魔物

 遅きに過ぎますが、今回の都知事選を総括すると、「衆愚」が勝ったということでしょう。民主主義は、かねてから言われるように衆愚主義(政治)でしょう。しかし、これまで「社会主義」「共産主義」「全体主義」「軍国主義」「帝国主義」などと言われる、いろいろな国家または人間社会を統一したり統治する手段や手法が実行され、また試されてきましたが、理想的な思想または人間社会を統一、治める形はないようです。

  現在、日本を含め、世界で最も押し進められている体制あるいは制度は「民主主義」であるのは論を待たないでしょう。最近のチュニジア、エジプト、リビア、シリアにおける北アフリカや中東における政争は、独裁者による圧政から抜け出す政治形態として「民主主義」が国民あるいは市民の間で支持されています。辞書をひもとくと、「民主主義」とは、「人民が国家の主権を有し自らのためにその権力を行使する政治形態。古代ギリシャの都市国家に始まり、17,8世紀のヨーロッパの市民革命によって一般化した思想」などのように載っています。

  しかし、日本の歴史をさかのぼると、日本語には「民」という言葉あったとしても、「人民」とか「民衆」という言葉は存在したのでしょうか。私は、歴史家でも言語学者でもないので、よく分からないのですが、たぶんこれらの言葉は、ギリシャ語やラテン語を日本語に訳したのではないかと推測するのですが?ただ、日本語の「人民」「民衆」「大衆」の言葉の意味の間に違いはさほど無いようです。

 [衆愚]というのは、「多くの愚かな人々」ということですが、「衆愚政治」になると「堕落した民主主義をあざけって言う」となります。ちょっとした良識ある(私の判断)人たちに「日本に民主主義はありますか」と尋ねると、ほとんどの人が「無い」と答えます。これらの人たちはしっかり認識しているのです。日本には制度としての「民主主義」(または議会制民主主義)はあっても、実際は「なれあい主義」であることを知っているのです。最近話題になっている、相撲の八百長問題などはなれ合いの一例です。

   一方、「軍国主義」一色であった日本でも、敗戦後は「主権在民」という言葉が日本の憲法にうたわれるようになりました。しかし、石原氏は軍国式がお好きなようで、ちょっとした挨拶や警察官などの行進を謁見するときには、まるで軍隊の指揮官であるかのように、誇らしげに挙手敬礼をしています。

  ところで、今回の「東日本大震災」による福島の原発事故で見えたことを、5月19日付け朝日新聞のコラムで、「日本の原発推進という組織の意志に隷属する人々の姿が赤裸々となった」と指摘しています。さらに、「原発やこの行動原理に疑念を持った役職員は排除され、推進に寄与する職員は厚遇されてきたのだろう」と書いています。つまり「長いものには巻かれろ」ということでしょう。

猿芝居に感激?

  なぜ東京都民は、石原氏を都知事に推すのでしょうか。以前にも書きましたが、日本に限らず他国でも、大衆(人民、民衆、国民など)は、選挙というものを候補者やタレントに対する人気投票や行事と見なしているからでしょう。"Yes, we can!" というスローガンで、大国の大統領が決まってしまうのですから。

  テレビやインターネットの普及が、特に、その傾向に拍車をかけているようにも見えますが、かつて、ドイツにおけるヒットラーの台頭など、歴史をさかのぼると大衆の心理というものは、いつの時代も変わらないようです。首長を選ぶ判断を左右するのは、結局は、選ぶ側の良識や教養や教育程度のいかんに関わってくるという、永遠の不毛の命題に帰結してしまいます。

  原発事故が起きた時、石原知事は、事故現場にう向かう職員を案じ、感極まって?おえつしました。私は、下手な芝居を打った見苦しい行為、つまり「猿芝居」と受け止めましたが、大方の有権者には、「さすがは部下を思いやる石原知事」と、感じ入ったかもしれません。そういう点を心得ている、つまり、彼は大向こう受けを狙った行為が上手な人物です。「小泉何とか」という人物と重複するような気がするのは私だけでしょうか。

  このブロッグを投稿する前日に、日本の国会でもっと大掛かりな猿芝居を見せ付けられました。

  次回は、福島原発事故に関わることを書かしていただきます。

 


この不遜な男に天罰を

2011年03月16日 | Weblog

石原都知事が3月14日に、おおよそ次のような発言をしました。日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落す必要がある。やっぱり天罰だと思う

  このはったり男に、我欲を洗い落とさせ天罰を下すべきです。たかが「芥川賞」を取っただけで、日本人のタレント好きのミーハー族にはったりをきかして、国会議員はおろか都知事を3期もやりました。さらに、4期の都知事の座に触手を伸ばそうとしているのです。

  ペテン師小泉に負けず劣らずのはったりをかましています。小泉は、郵政を民営化すれば景気が良くなると、善良な有権者をたぶらかしたにもかかわらず、大マスコミはおろか有識者と言われる連中まで、今も小泉元首相には指導力があったとたたえています。

 ペテン師小泉はったり男石原は、お似合いの輩です。宮城県の村井知事が抗議して、石原知事は発言を撤回したそうですが、当然です。

 石原知事の長男である石原伸晃氏は、知性の動脈硬化を起こしている父親を、今回の都知事選に担ぎ出したことを大いに恥じるべきです。

  あまりにもおごりきった石原知事の発言に、急きょ私の気持を記しました。もし彼が今度の都知事選に当選したら都民の恥です。都知事選で彼を落選させることが、彼に天罰を下すことです。


社交下手は外交下手に通じる

2011年01月27日 | Weblog

10月に更新してもたもたしているうちに、年が明けてしまいました。その間、日本政府の外交下手が次々と表面化したことから、前回約束した、「口下手で社交下手な・・・」の続きをちょっと迂回して、上記の表題で書くことにしました。

  私は外交の専門家ではないので、何から書き始めたらいいのか思案していたら、過日、放送されたNHKの番組がそのきっかけを作ってくれました。シリーズもので再放送でしたが、私には、第一回目の「日本人はなぜ戦争へ/外交敗戦」が強く印象に残りました。

  当時の外交官、松岡洋右が国連会議に首席全権大使として派遣され、後に国連を脱退することになるきっかけを作ったというくだりは、ある程度認識していましたが、私の薄っぺらな知識を補完するのに有益でした。

  ともかく、当時の日本政府と外務省と軍部の三者間で意思の統一ができていなかったことが、松岡氏の国連会議場を退場、という手段を取らざるを得なかったようです。

  翻って、このことは現政権の民主党に限らず、日本の外交にたびたび見られることで、やはり、という感がしました。

  この報道番組が伝えていたことで、改めて考えさせられたことは、日本の政府あるいは指導者間に「戦略」が欠けていたことです。「戦略」は、英語で strategy と言い、私がニューヨークで携わっていた広告業界では、商品を売るための strategy を考えることは必要不可欠でした。

  「戦略」とは、私の手元にある辞書によると「戦争・闘争など勝つための大局的・長期的計略」「政治・社会運動・企業競争などを行う上での総合的・長期的な計画」とあります。どうも日本人は過去、現在ともに戦略を立てることが苦手なようです。その代り、足を引っ張り合うとか根回しに頼りがちです。

  なぜ、このような風土が根づいたかと言うと、島国で鎖国に慣れていることにあると思います。狭い日本の中では、出る杭を打ち、足を引っ張り合うことで事足りるからです。これでは、激しい内戦や侵略にさらされてきた、したたかな中国やロシアに対抗できるわけはありません。

  今の民主党や自民党や他の政党を見ていると、内向きの日本人の性向や上に述べた得意技を最大限(?)に発揮しているとしか思えません。多種多様な民族や宗教や国と付き合うための社交や交渉術を心得ていない日本人は、残念ながら、「外交下手」という評価を甘んじて受けるしかないのです。

  次回は、日本人の慢心が現在の国力の低下と不況を招いていることについてです。日本人の英語についてはその次にします。


口下手で社交下手な日本人が英語を話すとき

2010年10月11日 | Weblog

この前、腰を痛めて都内の接骨院に毎日のように通院していたとき、英語学校が入居しているビルの前を通りました。そのビルの入口の状差しに宣伝のチラシが置いてあるので、興味半分に一枚持ち帰って内容を見ると、週末にグループで自由に会話できるクラスがあるのを知りました。インターネットでこの学校を検索してみると、ネイティブスピカーの先生数人で運営していることも分かりました。

  私は、最近あまり英語を話す機会がなく、会話の能力に不自由を感じていたので、たまには英語だけで会話をする機会がほしい、と思っていましたから、そのクラスに参加してみることにしました。エレベーターに乗って、受付嬢に「会員ではないけれど、飛び込みでもいいですか」と聞くと、「経営者の先生に聞かないと分からない」と言うので、日を改めて伺い、所定の料金を払うことで、4時間のクラスに参加することになりました。

  学校は、1フロアーのみで、三人の外国人の先生がちょうど在席していましたが、一人は約束があるということで、すぐに退席しました。案内されて、クラスの奥の一角のソファーに着席すると、すでに年配の日本人とみられる先客が座っていて、外国人教師とかなり流ちょうな英語で話をしていました。後で分かったことですが、彼は、かつて東南アジアに勤務していたそうで、英語はお手の物だったのです。

  早速、彼と二人の先生と欧米式に握手を交わしながら、私の名前を告げ英語で自己紹介をしました。一方、先生三人の出身国を私が聞くと、まず、最も活発でおしゃべりな先生は、イギリスのマンチェスター出身、もう一人は、カナダのトロント出身、早退した先生はオーストラリア人だそうで、面白いことに、アメリカ人は一人もいませんでした。そこからは、私のアメリカでの経験や職歴、現在の職業などいろいろおしゃべりが弾みました。

  そうこうするうちに、30代前後と見られる女性がクラスに参加、20代後半と見られる男性も続いて加わりました。しかし、二人ともクラスに加わって着席しても何も発信しないので、「見知らぬ変な年寄りが座っているな?」ぐらいにしか思われなかったのかもしれないので、私は立ちあがって二人と握手を交わし名前を告げました。それからは、受付の女性もグループに加わり、総勢七人のクラスになりました。受付の女性は、かなり英語が上手なので、全体の会話を盛り上げるかと思ったら、意外と控えめなのが驚きでした。

  カナダ人の先生は、その後来校した高校生と見られる男女二人を教えるために、他のテーブルの席に移動し、受付の女性も自席に戻ったので、結局イギリス人の先生を中心としたクラスになりました。

  ここまで書いて、すでに数週間が過ぎてしまいました。この先を書く気力がなくなったのです。このクラスでの経験を思い出して憂うつになったのでした。私が欧米から帰ってきた40年前には、旧態依然とした学校英語教育がはびこっていました。NHKのラジオ英語会話講座では20年以上にわたって、故松本亨先生が日常使われる英語会話の普及に努めていたにもかかわらずです。この英語会話学校でのささやかな経験は、改めて、日本人が抱える深刻な問題英語について考えさせられたと同時に、このことは、私が帰国してからもまったく進歩していないことに気がめいってしまいました。むしろ後退しています。

  私と船田教授との共著
『英語と日本人 なぜ英語ができない』 で触れましたが、日本人は、英語を話すときに積極性が乏しいことです。皆、おとなしく活気がなく、率先して会話を進める意欲を示せないのです。仲間内では会話(日本語で)するけれど、英語になると、特に外国人に対しては黙りこくってしまいます。外国では、そのことは社交下手として現れます。大きなパーティーなどでは日本人同士で固まってしまう傾向があります。

  会話でも、ユーモアを利かすような談話を進めることは苦手です。口下手では自他共に認める政治家の小沢一郎さんのように、英語では、「あー」「えー」「うー」の連発ではどうにもなりません。英語が上手下手以前に、もっと冗舌になるように努力しなければなりません。このクラスで痛感したことは、かねてから言われていることですが、「日本人は何を考えているのか分からない」ということを改めて見せ付けられたことでした。

  英語を話すときには、いやでも応でも、英語社会の生活感覚で話さなければ通用しません!「L」や「R」の発音や文法的間違い以前の問題です。もっと活発に、堂々と自己主張をする会話をしなければなりません。

  次回も、この問題について話さなければならないと思います。

 

   

 


英語が社内公用語になるという怖~い話

2010年08月26日 | Weblog

「ユニクロ」の商標で知られる「ファーストリテイリング社」が、社内公用語を2012年から英語にするという記事が世間を驚かせたと思ったら、インターネット通販大手の「楽天」も、同年から英語を社内公用語とする、と発表しました。

  このことについて、各界から賛否両論がある中、私は、このブロッグで指摘したと思いますが、日本人は、英語(あるいはインド・ヨーロッパ語)と日本語との、または、ヨーロッパの文化と日本の文化との落差や格差を認識できていないことが、国際化という一見かっこいい掛け声の下に、英語を社内公用語にするという皮相な判断が下されたように思えます。

  このことは取りも直さず、多くの日本の指導者が抱える国際感覚の欠落に起因していると思います。閉鎖社会、密室社会、村社会、内向的思考、鎖国思考等々、それぞれが起因しているでしょう。四海を海に囲まれ、たやすく殻に閉じこもる環境にあるために、外側に目を向けることが苦手です。

  確かに、楽天の三木谷社長は、アメリカの一流大学に留学し、MBA(Master of Business Administration=経営学修士)を取得した経歴から、株主総会での決算発表を英語でやっていました。しかしこのことは、三木谷氏と英語国に留学経験や生活経験のない社員との間に、著しい先ほど述べた落差や格差が生じることに気がついておられないようです。

  例えば、Japan Times (7月16日)の記事内の写真では、社員食堂のメニューは英語になっていますが、厨房の職員は日本人のようですし、注文の料理の受け渡しは英語でなされていないようです。また、毎日新聞のネット記事(7月27日)によると、社内食堂での社員の会話は、ほぼ100%日本語だそうで、明らかに外国人と分かる社員も、流ちょうな日本語で日本人の同僚と会話を交わしていた、とあります。

  また、この Japan Times の記事によると、三木谷氏は、「英語は、かつて『読み書きそろばん』と言われた、そろばんのようなもので、英語が話せないような社員は論外である」とまで言い切っています。ハーバード大学で修士の学位を取り、ビジネスで成功した頭のいい三木谷氏ですから、「英語なんて、そろばんの珠をはじくようなもの」ぐらいにしか感じないのかもしれません。

  しかし、私は、言葉の習得というものは、そろばんをはじくような、技術の習熟とは異なると思います。ここに、やはり先の毎日新聞に載っていた、東京外国語大学教授で同時通訳者ならびにフランス語、イタリア語の話者でもあるという、鶴田知佳子氏の談を紹介しておきます。「言葉を変えるということは、考え方や文化など背景にあるものも変えてしまうということ。道具を取り換えるようにはいかない」と、述べておられます。

  鶴田教授の言っておられることは、前述のヨーロッパ文化と日本文化との落差や格差を認識できていないことなのです。つまり、言葉の習得は、技術や道具によるのではなく、文化を理解する力」なのです。

  この件については、手前みそで恐縮ですが、このブロッグでも紹介した 『英語と日本人』(名城大学教授船田秀佳/折登洋共著、2007年発行)で、私見を述べていますので、お読みいただければ幸いです。

  次回も「英語の社内公用語」の是非について述べたいと思います。

   


日本の混迷

2010年07月29日 | Weblog

宇宙人と言われ、また自認している「世間離れした鳩山総理大臣が辞任しました」と、ここまで書きだして、このブロッグをまた中断する羽目になりました。4月半ばの雪の降った寒い日に、階段で足を滑らし転んで脊椎を痛め、その後一週間寝たきりの生活を強いられ、同時に腰の激痛と戦う闘病生活を経験する事態になりました。  

   実に3カ月かかってやっと痛みも無くなり、まともに歩けるようになりました。原因は、後期高齢者の宿命(?)と運動不足でしょう。『松本亨 英作全集・第3巻』(改訂版)の編集に精力を注入するあまり、健康管理をおろそかにしていた結果です。私の健康管理の原点である足腰を鍛える「空手」から遠ざかっていたのも、怪我のもとでしょう。

  このブロッグにアクセスしておられる方で、『松本亨 英作全集・第3巻』(改訂版)に関心がある方に今後の出版予定についてお知らせします。現在上記の理由から改訂作業は大幅に遅れています。従って、7月の出版予定が、早くて9月末になることを誠に残念ながらご報告させていただきます。

  この3カ月間に日本の政治は大きく変わりました。マスメディアは、菅総理と民主党の無策ぶりを書き立てています。しかし、前政権の自民党時代はどうだったのでしょう?大して変わり映えしなかったはずです。なぜでしょう?長年にわたって政権交代がなかったからです。政権交代をすることによって、政党間で切磋琢磨する機会が生じるのを、単に「安泰である」という理由から有権者はその機会を摘んできたのです。

  「地盤、看板、カバン」を守るだけのために有権者は駆り出され、結果的に世襲議員世襲総理の乱立を生じさせ、日本の政治に活力を失わせ混迷を招いたのです。政治家に世界の中の日本の在り方を考えさせることより、選挙地盤の利益を優先させる結果を招いたのは明らかです。

  金の力は恐ろしいものです。宇宙人まで総理になれるし、アメリカの前大統領のBush 氏はミリオネアーでした。現大統領の Obama 氏だって、市民の多大な献金がなかったら大統領になれたかどうか分かりません。前回述べたニューヨーク市長も70億もの選挙資金をつぎ込んで当選しました。

  このブロッグは、たびたび長期にわたって中断するのを余儀なくされ情けなく思っています。従って、もっといろいろ書きたいのですが、このあたりで今回はやめときます。

  次回は、日本の企業で、英語を「社内公用語」にすることについて私見を述べたいと思います。

  


日本人がバカになった?

2010年04月12日 | Weblog

週刊誌、週刊現代(2月13日号)の特集記事の表題に、上記のような表題が大きく踊っていました。私からすれば、やっと気が付いてくれたか、という思いがあります。

  私は、この表題を、大変失礼な言い方かもしれませんが、「日本に住んでいるとばかになる」と書き変えた方が正しいのではないかと長年思っています。

  私が帰国して以来、年々、自分自身の意識だけでは解決できない、この国の閉鎖性に、やり場のない気持ちを抑えきれないことから、このブロッグを始めたのが真意です。だが、私的な事情から、いつも更新するのが遅くなり、内容も尻切れトンボになってしまい、目的を達し得ないのが残念です。

  今回も『松本亨 英作全集・第1巻』(改訂版)の続編 「第2巻」(改訂版)の編集に、時間と精力を削がれて、日時が過ぎ去ってしまいました。しかし、これも、やっと今月中旬には出版できるところまでこぎつけました。英作文に興味のある方は、「第1巻」(改訂版)同様お求めください。「第2巻」は、「第1巻」より程度を少し上げています。これから、「第3巻」(動詞編)の改訂に取りかかりますが、6月末発売の予定です。

  さて前回は、「だまされやすい日本人」を主題にしようか、とお伝えしましたが、それよりは、もっと適切な、前述の雑誌が取り上げた「日本人はバカになったのか」にします。と言うのは、新たに、SAPIO(3月31日号)という雑誌が、「年々歳々日本人は信じられないほどバカになっている!」という特集記事を載せたからです。

  実のところ、前述の「日本に住んでいるとばかになる」という私の気持ちは、残念ながら今も変わりません。

  前回も前々回も書きましたが、石原慎太郎を都知事に選んだ都民のバカさ加減に上記のことが証明しています。日刊現代(3月22日)の記事によると、知事の海外旅行での都税の浪費ぶりは目も当てられません。こんな「ガキ大将」ならぬ「ならず者」を、見てくれがいいというだけで知事に祭り上げた都民のおつむの程度が疑われます。

  海外では、ニューヨーク市長が、日本円で70億(?)もの選挙費用をかけて再選を図るという記事を読みました。批判があったにもかかわらず当選しました。ただ、石原都知事と異なることは、彼は、株の取り引きなどで儲けた大金持ち(全米8位-2008年)で、選挙費用は私財を投じているのです。給料は1ドルだそうです。大富豪ですから当然でしょう。また、彼のこれまでの市政への評価は高く、それも再選を果たした理由のようです。都税を浪費する輩とは大違いです。

  私が前回述べた、「だまされやすい日本人」と思った最大の理由は、帰国したときです。最もびっくりした事は、「コーヒー」が「ホット」に、「ご飯」が「ライス」に変わったこと以上に、総会屋の存在と牛肉の存在が無くなっていたことでした。

  その後、さらにびっくりしたことは、国会議員を含む公務員に、年2回ボーナス(賞与)が出ることでした。ええっ!ボーナスというのは、企業が利益を出して、その一部を社員に配分するものと思っていましたが、何と税金で賄われている公務員にボーナスというのはどういうことなのか?あぜんとしました!しかも、一般企業では、景気が悪いときにはボーナスは出ませんが、公務員には給付されるのです。ボーナスは給料の一部というへ理屈が通っていますが、それならば、12等分して月給として給付すべきです。

  日本人を「バカ」にしている最大の原因は、マスメディアと言うか大マスコミでしょう。四方を海に囲まれた閉鎖社会であるがために、外界から収集する情報は、日本人さらには日本社会にとって非常に大切です。しかし、日本の代表的な大マスコミは、プロ球団を所有したり高校野球を後援したり、金もうけに腐心しています。

  日本の大マスコミは、規模を競うよりも、正しい情報を日本人に供することに精力を傾注することです。

  ここまで書いて、自民党から脱退した国会議員数人が新党を立ち上げました。これもバカバカしいのですが、またあの石原都知事がしゃしゃり出た来たのです。この男は、日本を食い物する「ならずもの」としか言いようがない輩です。そして、退職するときは、億という退職金(税金=都民税)が払われるのです。

  これらのことに関連しての話は次回にします。いろいろあり過ぎて、「バカ」さもいい加減にしろと言いたくなります。何ともおめでたい国民です。 


マインドコントロールか洗脳か?

2009年12月18日 | Weblog

またまた、長いお休みいただくことになり申し訳ありません。年を取ると、いろいろと身体に障害が生じ、今回は頸椎と脊椎のゆがみによる故障で、右肩から上腕にかけて激痛が走り、おまけに右手の握力が無くなり、箸もペンも握れなくなりました。もちろん、キーボドも打てなくなり不自由していました。しかし、私の罹りつけの接骨医の治療のおかげでやっと快方に向かっています。

  日本人がよく使う 「マインドコントロール」 という言葉は、いつごろから使われるようになったのか不明ですが、Wikipediaや手元の辞書で調べると、「洗脳」(brain wash)という言葉が広まった後に使われようになったようです。私は、てっきり「和製英語」だと思っていました。

  私は、日本人のほとんどが「マインドコントロール」「洗脳」されていると思います。特に、日本の大マスコミと呼ばれる報道関係者(社?)はひどいものです。

  その好例を挙げましょう。前回、石原都知事のオリンピック招致に関して、私は、反論しましたが、驚くなかれ、あれだけ税金を浪費し、招致に失敗していながら、ある大新聞は、1頁の半分を割いて、やんちゃ坊主にインタビューし、招致失敗談を載せました。多分、広告スペ-スが埋まらないので、知事の取材記事に切り替えたのかもしれませんが、読むに値しないひどいものでした。

  こんな "KY"(困った輩、懲りない奴)な人物に取材を試みるだけでも、「マインドコントロール」「洗脳」されているとしか考えられません。

  最近、「記者クラブ」について批判が高まっていますが、今ごろになって、やっと報道されるのですから、これも驚きです。

  私が30年前に欧米から帰国した時から変わらない実情です。もちろん、ほとんどの日本人には興味のないことでしょうが、これは、報道統制と同じようなことです。

  あの忌まわしい第2次世界大戦時代を思い起こさせます。「マインドコントロール」「洗脳」の時代です。

  「衆愚」という言葉がありますが、これは、人間がこの世に生を受けてからの習性でしょう。アメリカを見ても、うなずけます。あのとんでもないブッシュ大統領を2期にわたって居座らせた結果、現在の世界不況です。

  政権交代にかかわる話が昨年以来ずっと続いてきました。だが、驚くなかれ、やっと政権交代が実現しました。自民党に投票していれば「安泰」だ、というかつての選挙民が、衆愚から脱皮できるのか問われているのです。

  デフレと不況が世間を覆っていますが、私とてその影響から免れません。そこで、チーズの話ですが、円高になったとは言え輸入チーズは、今の私にとって贅沢品となってしまい、あまり語るような気分にならなくなりました。従って、この話は、しばらく封印します。

  次回も、不景気な、「マインドコントロール」「洗脳」の話を続けさせていただきます。「だまされやすい日本人」、というのが本当の表題かもしれません。