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折登ひろしのGRAFFITI

日本人と英語と国際社会と、ちょっぴり料理について考える

戦後始まった「ラジオ英語会話放送」の黎明期

2014年11月03日 | Weblog

表題の件については、以前からどうしても総括しなければならないと思っていました。なぜかと言うと、現在のラジオ、テレビによる英語教育放送の原点が、以外にも周知さられていないことから、後世に伝えておきたいという私情に駆られていたからです。またそこには、下に記す私の父親がその出発点から深くかかわっており、前回述べたように、ひいては「英友社」の設立につながりました。

  ご承知のように、戦時中、敵国の言語という理由で使用を禁止(アメリカでは逆に敵国を知るための日本語の研究が盛んになる)されていた英語が、戦後の日本に「英語会話」という、日本放送協会(NHK)による当時としては実に斬新な、「ラジオ英語会話講座」が始まった(1946年)のです。

アメリカ文明の急速な浸透

  太平洋戦争に敗れた日本に、マッカサ―元帥の率いる連合国軍が進駐してきました。食糧難と空爆で荒廃した日本(今、テレビで放映される戦禍にまみれた中東を見ると、当時の日本の状況を思い起こさせ、身につまされます)に、豊富な物資と活力あふれたアメリカ軍を主体とした占領軍は、日本人の羨望の的となりました。それは同時に、映画館で上映されるびっくりするほど画面の明るいアメリカ映画や軽快なリズムの音楽に、日本人の多くは心酔することにもなりました。

  東京のあちこちの街角には、当時大ヒットしたダイナ・ショア(Dinah Shore ―1916~1994)が歌う「ボタンとリボン」(Buttons and Ribbons)の曲が、並木路子さん(1921~2001)の歌う「リンゴの唄」と競うように、スピーカーを通してがなりたてていた記憶があります。

  そういった時期に、NHKのアナウンサーであった平川唯一氏が初代講師となります。毎回、講座が始まる前の前奏として、「証城寺の狸ばやし」の曲に、「Come come everybody how do you do and how are you ...」と、英語の歌詞を付けた替え歌が大変な人気を博しました。それ故に、平川氏は、「カムカムおじさん」(Uncle Come Come)と言われ、戦後の暗い時代に一服の清涼剤を与えるような響きがありました。

    

 放送中の平川唯一氏。サイン入り写真は、『ウイキメディア(Wikimedia)』より転載。              

 「NHKラジオ英語会話講座」テキストの誕生

  現在、NHKは放送事業にかかわるあらゆる教材を、NHKの関連会社である「株式会社NHK出版」(前「日本放送出版協会」)が出版していますが、戦後間もない当時は、NHKでさえも英語のテキストを発行する体制はできていませんでした。したがって、平川氏の放送を始めるにあたって、使用するテキストを出版するために、新たに出版社を急きょ創設する必要に迫られました。

  平川唯一氏は、10代後半にアメリカに渡り、英語を学ぶために小学校に入学、後に、ワシントン州シアトル市に在るワシントン大学で演劇を専攻、卒業後は、俳優としてハリウッド映画などに出演しています。帰国後、NHKの英語放送のアナウンサーを勤めました(このあたりのことは、Wikipediaにかなり詳しく出ているので、興味のある方はネットで検索してください)。

  戦後の混乱時期に、出版社を創業するのは容易なことではありませんでした。多分、平川氏を中心としてワシントン大学出身者が集まって体制作りを講じたようです。やはりワシントン大学出身者で、後輩にあたる私の父(折登健三郎)が、報知新聞社(現読売新聞社)の記者経験と英語の知識があることから、編集責任者として白羽の矢が立てられたいきさつがあります。それやこれやで出資者を得て、数名の営業、編集要員も確保され創設されたのが「メトロ出版社」です。父から新社名を知らされたとき、「メトロ」の意味が分からず、ただすと、「『都市』というような意味だよ、いい社名だろう」(私が批判するカタカナ語のはしりかもしれません)と自慢していたのを子供心に覚えています。そして「NHKラジオ英語会話講座」のテキストが「英語会話放送」とともに陽の目を見ることになったのです。父は、そこらへんの事情を最もよく知る人物でしたが、残念ながらとっくに他界してしているので叶いません。

赤ちゃんが言葉を学ぶように英語を学ぶ

  その後、NHKのラジオ英語会話放送は、日本の経済復興と国際化の波に乗り、聴取者の増加でテキストの発行部数も増え、前述の「ラジオ英語会話テキスト」は、NHKがかかわる出版物においてドル箱になるまでに至りました。その波は、全国の視聴者間の連携を強める「Come Come Club」の誕生を見、同名の機関誌も「メトロ出版社」から刊行され一大ブームとなりました。

  戦災で都内に残る数少ない集会場であった神田の共立講堂で、Come Come Club の大会まで開催されました。会場で、平川氏は、信条の「赤ちゃんのように英語を学ぶ」というのはどういうことか、会場の舞台上で来場者を相手に実演したりしました。つまり、平川氏の英語指導の骨子は、「赤ちゃんが言葉を習得するように学ぶ」というもので、自身のアメリカでの体験から来る音声から入る学び方でした。

  しかし時は移り、NHKは、NHKラジオの第2放送で放送される教育番組のテキストなどの出版物を扱う子会社、前出の「日本放送出版協会」が、「ラジオ英語会話講座」のテキストを出版することになり、その結果、「ラジオ英語会話講座」のテキストを発行するために設立されたメトロ出版社は(Wikipediaでは、日本放送出版協会がメトロ出版社の事業を引き継いだ、とありますが)ドル箱を失い、あえなく倒産の憂き目に遭いました。

  「ラジオ英語会話講座」のテキストをメトロ出版社から日本放送出版協会へ移行するに際し、講師である平川氏もからむ複雑な問題が、当然、起きたようですが、メトロ出版社設立時同様、その間の事情をよく知る父に(平川氏ご夫妻一家と私ども一家とは家族ぐるみのお付き合いがあっただけに)聞きただすことができない今、残念です。上記の写真は、お元気いっぱいなころで大変懐かしい...。

  一方で、NHKは平川氏に代わる講師の選定の方針を固めることになりましたが、ここでこの問題にかかわったのが、また私の父、折登健三郎です。この後は、いよいよ「英友社」にかかわる話ですが、長くなるので次回にしましょう。


チーズの話アメリカに渡る(序)

2014年08月05日 | Weblog

先日、下書きの設定を忘れたため、表題だけがブロッグに2回も出てしまい失礼しました。今回は、間違いなく本文付きです。ところで、先日ある会に出席したら、出席者の一人から「折登さんのブロッグは更新が遅いし、長くて読むのが大変だよ」と言われ、そう言われればそうだな、と思い、今回もどんどん長くなる内容をはしょって上の表題にしました。最近はブロッグの更新が半年ごとになる始末で、なるべく早めに、と気持ちを切り替えました。

  「ため息は出ても手が出ない輸入チーズ」(2013年1月22日)で予告した「チーズの話、アメリカへ渡る」にやっとたどり着きましたが、チーズの話に入る前に、どうしても書き述べたいことを優先するのが今回のブロッグです。古い話ばかりで恐縮ですが、さかのぼること50年以上前の状況が(「英語を話すときは英語生活の感覚で」〈2008年7月25日〉参照)、(「GMの破たん」〈2009年6月20日〉参照)中心になります。なぜかと言うと、最近の日本(人)は、前々回のブロッグで書いたように、20年超のデフレと経済の停滞で消極的になり、私から言えば、過去から現在までの時の流れを認識することができなくなった、あるいはしたくなくなった(臭い物にはふたをする)のではないかと思われるからです。その反面、政治の世界では、まるで「おれおれ」詐欺のように、「マニフェスト」、「維新」など、内容の無い言葉の遊びに操られる情けない状況は今も続いています。

昔々その昔...

  さて、その昔、私はたどり着いたカリフォルニア州ロング・ビーチ市のスポンサー(身元保証人)宅に身を寄せました。まず、アメリカでびっくりしたものは、(上述のように、時の流れに無関心な団塊の世代を含む今の世代の皆さんにはお分かりにならないでしょう)風土や習慣ではなく、スポンサー家の買い物に同行してスーパーマーケットに行った時です。店内を見て驚いたのは、扉や戸が無い、冷蔵庫や冷凍庫内に設置された陳列棚でした。冷蔵庫の棚には生鮮食品が、冷凍庫の棚には冷凍食品や食肉類がずらりと並んでいて、すぐ手に取れるようになっていることでした。今でこそ日本でも当たり前の情景ですが、当時の日本では、冷蔵庫と言えば、氷を使用して冷やす(現在は保冷庫と称す)もので、それも一般家庭では富裕層にしか見られなかったのに、アメリカでは、一般家庭でも冷凍庫つきの電気冷蔵庫や電気掃除機は常備品でした。

  こんなすごい国と戦争した、当時の日本の軍部や指導者の外界に対する無知と愚かさにあきれました。同様のことは、フルブライト奨学金を受けてアメリカへ留学、後に国連難民高等弁務官を勤めた緒方貞子さんも言っておられました。この事は、戦後アメリカに留学した人たちの共通した認識と言ってよいでしょう。ちなみに、前回、アトランタ空港の項で触れた『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル著)=(Gone with the Wind, Margaret Mitchell)は、長編のテクニカラー方式で映画化され、1939年に公開されています。日本が中国との戦争の泥沼にはまり込んだ時期(1937年)です。この映画を見たことがない人は、70年以上前の日本の映画界と比較しながら一見をお勧めします。

  スポンサー(身元保証人)とは、留学先で留学生に不測の事態が生じたときに、引き受け保証することができる人のことで、私費留学生には、必ず先方の承諾書の提出を留学先国の関係公館から求められます(現在、国によって、どのような制度になっているのか分からないので詳細は省きます)。

  ここまで書いていると、イオンモールがカンボジアのプノンペンに巨大ショッピングモールを開業(「『リニューアルオープン』か『新装開店』か?」〈2008年12月13日〉参照)するに至る経過がテレビで放映されていました。ぴかぴかのショッピングモールの開店当日に入店するカンボジアの人々の表情は極めて冷静で、私が上記スーパーマーケットに行って経験したようなことはなかったようです。世界には、Store やShop そして集合体の Market が在りますが、それが Supermarket へと発展、さらに Shopping Center へ、今は全天候型の Shopping Mall があちこちに出現しています。しかし、近代化の名の下に、あの焼け野が原の後に、高層ビルが林立する都市に変貌していく様を、私は必ずしも、もろ手を挙げて賛同できません。

 スポンサー宅の裏庭には、一本の背丈より高い木があって、それには洋なしの形状をした緑色の実がたくさんなっていました。スポンサーの娘さんがその一つを指差して、「もう少し経つと茶色くなって食べごろになるの。おいしいよ」と嬉しそうに言いました。それが今、日本で、ひところに比べるとずっと安くスーパーなどで手に入るアボカード(avocado)です。

  私がサンディエゴ市のメキシコ料理専門のレストランでコックをしていた時、(前回、ニューヨーク市に愛想を尽かして、カリフォルニア州に移住すると書きましたが、その行きついた先がサンディエゴ市でした)アボカードは、当然と言えば当然の必需食材でした。ところが、国境を越えたサンディエゴ市の隣はメキシコであるのにもかかわらず、それほど安くはなかったので、レストランのメキシコ人女性経営者は、私たちコック(私以外はメキシコ人)に対し、常にアボカードの使用量に目を光らせていました。

  なぜメキシコレストランでコックをしていたかって?それを話せばえらく長くなるので、いずれ自伝でも書くときに譲ります。

癖になる食材とは?

   さらに、娘さんが、「食べてごらん」と言って、缶詰から出されたのが黒いオリーブの実でした。当時、オリーブの実など食べたことがない上に、オリーブは、それこそオリーブ色をした実という認識でしたから、黒いオリーブの実を食べるのは一瞬ちゅうちょしました。「私は大好き。慣れると癖になるよ」と言われ、恐る恐る味見をすると、くせはないが独特の味がしました。今では彼女の言葉通り好物になり、我が家の冷蔵庫に入っています。

  黒いオリーブには、ちょっと塩辛いがギリシャ産のもの、それと後のブロッグで紹介するFeta チーズは常備したい食材ですが、日本では手に入りにくく高価なのが難点です。オリーブの実は、ご存じでしょうが、缶詰や瓶詰になっていて、pitted と言って中をくり抜いて種を取ったもの、そこに赤いピメント(pimiento=スペイン語)やアーモンドを詰めたものなど多種あります。ほとんどがスペインやイタリア産の輸入品ですが、最近は、前菜(appetizer=英語)とか、オードブル(hors d'oeuvre=フランス語)と称し、日本の食卓にそのまま、または付け合わせとしてサラダやチーズと一緒に出される食材なので、表題とは異なるが、チーズに先んじて紹介しました。

  この後には、本題の「チーズの話」があるのですが、冒頭で述べたように長くなるのと、完結していないので、またの機会にします。次回は、戦後、かつて、NHKのラジオ英語会話講座の放送が一世を風靡し、一時代を築き、ひいては、英友社の設立につながったという話です。


経由したアメリカの空港に歴史あり

2014年06月27日 | Weblog

一週間に満たない短い滞在だった20年ぶり(以上)の思い出深いニューヨーク市を離れ、帰国しましたが、それもすでに一年前の話になろうとしています。英語で言うと "Time flies!"、日本語では「光陰矢のごとし」です。

  出国のときは、前回紹介したようにシアトル経由でニューヨーク市に行きましたが、帰途は、便の接続と空港到着時刻(羽田か成田)の関係で、ニューヨーク市のラグアディア空港(LaGuardia Airport)からミネソタ州のミネアポリス・セントポール国際空港(Minneapolis‐Saint Paul International Airport)経由で成田着になりました。これらの手配は、すべて出発前に大手旅行代理店で予約することになったのですが、航空会社は往復ともデルタ航空になり、かつてとは様変わりです。デルタ航空は中堅の航空会社であったのが、合併(私がよく利用していたノースウエスト航空とは2010年)と買収によって一時はアメリカ最大手の航空会社となりました。

東京―紐育間の直行便はしんどい

  なぜ帰国のとき、ミネアポリス・セントポール市に立ち寄ったかと言うと、直行便では若い時と違い、ずっと機内で座っているのは(約13時間)体力的にしんどいからです。ビジネスクラス (前回述べた、バブルがぶっつぶされる前の景気のいい20年前は、ビジネスクラスの常連でした)ならまだしも、狭いエコノミークラスでは、限界を感じるのです。しかも、今回は乗り継ぎしたのに往復便とも満席で、当てが外れ、えらい思いをしました。夏期(7~9月)には、旅行者が多く、その時期を避けたと思いましたが、6月末では、ちょっと遅かったようです。

  今回経由した空港にまつわる話をしようと思ったのは、国の歴史は浅いが、日本と比べ、アメリカの空港は歴史も長く規模が大きいし、また、今回の旅でアメリカの空港の変貌は、私が海外へ行き来した当時と比較にならないので、ビジネスマンとして現在世界中を飛び回っている人でも、空港の過去・現在まで探る余裕はないと思い、一部とは言え、ご紹介するのも一興かなと考えたのです。例えば、上記のデルタ航空は、1929年に創業、現在運営されているアメリカの航空会社の中では最も古い会社なのです。

Sea-Tac Airport  [SEA]

  まず、Sea-Tac Airport と呼ばれるシアトル国際空港(Seattle-Tacoma International Airport)は、シアトル市とタコマ市の間に位置することから、前者のように通称されています。1944年に開港され、1947年、二つの航空会社の定期便の開始、1951年にノースウェスト航空が東京への直行便を開始したことによって、国際(International)が加わりました。その後、空港名や新空港ビル・滑走路建設、騒音対策等、紆余曲折を経て現在の施設となっています。しかし、空港のターミナルとシアトル市の中心街をつなぐ Light Rail (車輪部分がタイヤ)と呼ばれる交通機関(Transit)の駅が遠く離れていたのには閉口しました。空港の案内所で女性の係員に尋ねたら 「エレベーターを降りたら、そこからずっと離れた所にあるよ」 と言われ、今回の旅行のために購入した、あの取っ手が伸縮し車輪の付いたキャリーケース(?)を引きずって、半信半疑で歩いたらその通りで、1キロぐらい歩いたような気がしました。複路は、覚悟していたのでそれほどには感じませんでしたが...。

JFK International Airport  [JFK]

  次のジョン・F・ケネディ国際空港(John F. Kennedy International Airport)ですが、私がニューヨーク市へ行ったころは、アイドルワイルド空港(Idlewild Airport)と呼ばれていました。アイドル・ワイルド・ゴルフ場(Idlewild Golf Course )が、前述のラグアディア空港の混雑を緩和するために1943年、空港の用地に転用されたそうで、当時、Idlewild 「なんて変な名前の空港だな...」 と思っていましたが、暗殺されたケネディー大統領の栄誉を讃えて1963年に、上期のようにジョン・F・ケネディ国際空港と名付けられました。そして世界の経済・文化の中心としてのニューヨーク市を抱えるJFK国際空港は、国際便の扱いで北米一であり、さらに下記の二つの国際空港を併せた体制は全米一、扱う定期便は世界一となっています。ただ、JFKは、マンハッタン中心部から他の2港と比べ最も遠く、今でも不便なことには変わりありません。

LaGuardia Airport  [LGA]

  アメリカでは、空港に限らず、建造物や道路などに、その地域において功績があったり寄与した人物の名前をよく冠しますが、ラグアディア空港(LaGuardia Airport)などはその典型的な例です。ラグアディア(LaGuardia)とは、1934~1945年の3期にわたりニューヨーク市長を務めた人物で、米国史上もっとも偉大な市長の一人と言われています。ラグアディア氏は、現在のニューヨーク市の礎となるインフラ整備などを進めた人でもあります。ただし、一方で、剛腕の批判もあったようです。ラグアディア空港は1939年に開港しました。かつて2回ほど知人の送迎で行ったことがありますが、こじんまりとしたきれいな空港だったという印象がありましたが、今回は広くはなったが雑然とした印象で、利用者の評判も良くないようで、ちょっとがっかりしました。しかし、今年から空港の大改築が予定されているようで期待したいです。

Newark Liberty International Airport  [EWR]

  ニューヨーク市には、世界一の商業都市を支えるために、以上の二つの空港の他に、三つ目のニューワーク・リバティー国際空港(Newark Liberty International Airport)が、ハドソン川を隔てた対岸のニュージャジー州、ニューワーク市に在ります。当初、ニューワーク・メトロポリタン空港(Newark Metropolitan Airport)と称され、後に、ニューワーク・国際空港(Newark International Airport)、さらに、あの9/11テロ事件を追悼する意味で、リバティーが付け加えられ、現在の名称が正式となりました。私は、一度ほど利用した記憶がありますが、当時、場所が場所だけに2次的な空港という意識がありましたが、この一文を書くにあたって調べてみると、ラグアディア空港に先立つ1928年に開港しているのを知り驚きました。また、ラグアディア空港が開港するまでは、ニューヨーク市の玄関口であったことも知りました。

Minneapolis‐Saint Paul International Airport  [MSP]

  ミネアポリス・セントポール国際空港(Minneapolis‐Saint Paul International Airport)は、ミシシッピー川を挟んだ、ミネアポリス市とセントポール市(隣り合わせる両市の実態から、双子の都市―Twin Cities―としばしば呼ばれる)の南部にまたがるように位置しています。乗り換えのために到着したMSP空港の二つあるターミナルの中のコンコース1 は、大変きれいで清潔感のある、いかにも中西部北部の都市の空港という感がしました。ラグアディア空港とは大違いでした。待合室には、何列ものカウンターと座席がずらりと並んでいましたが、驚いたことに、各席に、「Iパッド」が設置されているのです。待っている間、自由に使え、さらに、フードコート(Food Court)内の席には、スマートフォン充電用の差し込みが、50センチくらいの間隔で設置されていました。空港自体の評判も上々のようです。上記ノースウエスト航空の本拠地でもありました。

Kansas City は二つある

  これは空港の話しではない余談ですが、似たような例がもう一つアメリカに在ります。隣り合うミネアポリス市とセントポール市の両市は、ミネソタ州に在りますが、アメリカ中西部のカンサス市(Kansas City)は、隣り合う州にそれぞれ在るのをご存知でしょうか。市の名称は同じだが立地する州が異なるのです。つまり、カンサス市は、ミズーリ川を挟んでカンサス州とミズーリ州に分かれているのです。ですから、カンサス市を指すときは、英語では Kansas City, Kansas (カンサス州のカンサス市)と言い、もう一方は、Kansas City, Missouri (ミズーリ州のカンサス市)と言って区別します。

  最後に、下記の二つの都市の空港を取り上げます。理由は、両者とも離着陸回数や利用客数で、アメリカや世界で一、二位を競う空港だからです。

Chicago O'Hare International Airport  [ORD]

  シカゴ・オヘア国際空港(Chicago O'Hare International Airport)のオヘア(O'Hare)の名称は、先の「ケネディ」や「ラグアディア」同様、第二次世界大戦時にアメリカ海軍の戦闘機隊員オヘア(Edward O'Hare)氏が挙げた戦果を讃えて1949年にOrchard Airport から現名称に変わりました。シカゴ・オヘア国際空港は7本の滑走路がある巨大空港です。成田空港の建設に死闘を繰り返した、人口密度が高く山ばかり(国土の70%)の国から見れば、うらやましい限りです。かつて、2・3回利用した記憶がありますが、当時はコンコース(concourse)が長くて、目的のゲートまで歩いて行くのは大変でした。MSP国際空港では、コンコース内を老人や足の不自由な人のために、4・5人乗りの電動カートが運航していましたが、今のシカゴ空港はどうなっているのでしょうか。2005年までは離着陸回数が世界一だった空港で、空港と施設共に評価は高いようです。

Hartsfield-Jackson Atlanta International Airport  [ATL]

  ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港(Hartsfield-Jackson Atlanta International Airport)という長い名称の空港を運営する、ジョージア州アトランタ市は、かの有名な『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル著)=(Gone with the Wind, Margaret Mitchell)の小説を生んだ南部の町であり、南北戦争時には中心となる重要な町でもありました。あのコカ・コ-ラ飲料が誕生した地でも知られ、その本社が在ります。24時間ニュース専門のテレビ局CNNもこに本社を置いています。

  一方、アトランタ空港は、1926年 Candler field として開業、1930年には定期便の扱いで、ニューヨ-ク、シカゴに次ぐ3位までになっています。1946年、アトランタ市営空港(Atlanta Municipal Airport)と改称され、1980年には、アフリカ系市長 M. Jackson の下で進められた大規模な拡張工事の完成に伴い、これまで航空行政に功績のあった元市長 W. B. Hartsfield の名を冠してHartsfield Atlanta International Airport になりました。さらに、空港工事を進め、2003年に逝去した元市長 M. Jackson の名も加えられ、同年 Hartsfield-Jackson Atlanta International Airport と正式に称せられることになりました。2012年には、世界で利用客数でも離着陸回数でも最も忙しい空港となっています。

  私は、アトランタ空港を利用したことはありませんが、かつて、窮屈で寒いニューヨーク市の生活に愛想を尽かし、広々として暖かいカリフォルニア州に移住するため、車でフロリダ州を経由してロスアンジェルスへ向かいました。その途中、昼食を取るためアトランタ市を通りましたが、もう何十年前のことで、あの南部の中都市がここまで発展するとは考えも及びませんでした。

空港コード(IATA airport cord, location identifier, station cord)

  空港でチェックインして荷物を預けると、必ず、到着先空港を表示する、アルファベットの大文字3字が印刷されたシールがスーツケースに張られたり、輪っかにしてケースの取っ手に付けられます。これまではあまり関心を持たなかったのですが、今回このブロッグを書くに当たって、インターネットの「ウイキペディア」(Wikipedia)でちょっと調べてみました。

   現在、3文字と4文字からなる2種類のコードがあります。ここでは、上記空港名の副題の後に示したのが広く使用されている IATA(International Air Transportation Association)のコードです。この3文字のコードは、欧米では空港と鉄道との合意によって鉄道駅にも振り当てられる、ということを今回知りました。これらのコードは、カナダのモントリオール市に在るIATAの本部が管理しています。

  ちなみに、羽田空港はHND、成田空港はNRTで、大体地域の名称にのっとった文字が使用されます。シカゴの空港は、元々使われていたORDが優先されています。

近況のお知らせ

  前回、前任の猪瀬直樹東京都知事が、5千万円の借入金の問題で辞任したことについて書くと言いました。さらに、「英友社ランゲージ・スクール」の開校準備についても触れました。

  これまで、日本の英語教育の不備について、私は、当ブロッグで散々私見を述べてきました。しかし残念ながら、私の意識の中では、真の核心に迫ることはできていませんでした。つまり、日本の英語教育の問題は、指導方法や教材の問題ではなく、日本人の性向や心理や社会慣習を深層から見極めなければならないことに気付いたのです。

  英語学校を始めるに当たって、教育方針を絞り込めずに中途半端な指導では、日本中に散在する巷の英語学校の二の舞になってしまうので、それでは過去40年間に渡って、実用を目的とした英語教材を開発してきた「英友社」の名を冠する意味がありません。検定英語や幼児英語さらに最近はグローバル人材育成英語等に、どっぷりと汚染されているこの国の英語環境の除染は、放射能の除染ではないが大変な努力を伴います。

  やっと私の頭の中で、しっかりとこの事業に対処する方針が固まりましたので、今度は、開校資金の調達に頭を使わなければなりません。

  東京都知事の問題は、舛添要一氏が就任し、少し落ち着きを取り戻したようです。あのはったり男が、何を考えて猪瀬氏を副知事に任命したのか分かりませんが、不適任であったことは間違いありません。次回は、空港に関わらない話です。


「10年一昔」、「20年は二昔」以上でした

2013年12月20日 | Weblog

アメリカへ出かける前に、期限の切れた古い旅券、「...今はパスポートと言わないと通じないのかな...」 をめくって、最後に海外に出国したのは何年前か調べました。すると、何と1981年なのです。「えっ、何でだ!」 今式に言えば 「えっ、うっそ!」 と、自問を繰り返し、何度も旅券をめくり税関の出入国印を調べました。私の感覚では、10数年とちょっとなのに、20年以上もたっているのです。つまり、これまでの20年は、あっという間に過ぎてしまったのです。

  日本では、自民党から民主党に政権が移り2大政党時代が到来するかと思いましたが、「宇宙人的な首相」「総理になりたかっただけの首相」どじょうならぬたにしだった首相」を輩出した後、民主党は、たった3年で崩壊、自民党が昨年復帰して新政権が誕生しました。その間 「失われた20年」 という言葉が盛んにマスコミの間で報道されました。今回、古い旅券取り出すことでその 「失われた20年」 を改めて実感したのでした!

失われたどころか大損失した話し

  この 「失われた20年」 は、私にとっては 「損失の20年」 でした。20年以上も海外に出なかったことと、「失われた20年」 とが見事に合致しているのです。20年前までは、毎年2~4回は海外に出掛けて英気を養ってきました。閉鎖社会の日本で生活していると、どうしても視野が狭くなります。海外生活を経験した者にとっては、苦痛でもあり、警告とも受け止めていました。しかし 「損失の20年」 間は、海外旅行どころか生き残るだけで精一杯でした。

  実際、インターネットの普及などで、これほど情報の収集が容易であるにもかかわらず、四方を海に囲まれた地理的な現実から、安全と引き換えに内向きになるのは日本人が抱える宿命です。この宿命を感じ取って、日本人が国外にもっと目を向けるようになると良いのですが、これまでは国外よりも国内ばかりに目を向けさせ、中央集権を助長する政治家や政治屋ばかりで、私が育った戦時中を思わせる現実に事欠きません。それが高じると、黒船が、例えば、今話題のTPP(Trans-Pacific Partnership/Trans-Pacific Economic Partnership Agreement=環太平洋戦略的経済連携協定 )とかが海外からやって来て、扉をこじ開けられることになるのがこれまでの常です。

日銀総裁の暴挙の話

  なぜ、20年も日本経済は低迷したのでしょうか。経済の低迷だけではなく、デフレーションにも悩まされることになりました。それには、1989年までにさかのぼらなければなりません。昨年亡くなった元日銀総裁の三重野康氏の任期中に執った無謀な政策に起因しているのです。彼は、東大法学部卒業後1947年に日本銀行に入行しています。その後、私の手元にある資料によると、彼は日銀一筋に総裁まで上り詰めました。

  彼が日銀総裁に就任した1989年には、日本はバブル経済の真っ最中でした。何がそこまで彼を駆りたてのか、これまでにいろいろ言われていますが、彼はバブルつぶしに精力を傾注しました。私は、ちょうどその時、銀行から借金をして、東京都文京区本郷にあった英友社のプレハブの社屋を取り払い、4階建ての新社屋の建設に取り掛かっていました。それが完成する直前に、バブルつぶしの日銀による何回にもわたる公定歩合の引き上げが始まったのです。

  何千万円という借金を背負った私に、出版社の売り上げに反比例するこの急激な公定歩合の引き上げは、こたえました。借入金に加え、次から次へと上る公定歩合と連動する利息の返済に追われ、苦難の連続を経験することになりました。

実体経済に無知な日本の官僚と政治家の話

  バブル経済に限らず経済を急速に冷やすとどういうことになるか、それが日本経済にどういう悪影響をもたらすか、もし、会社などを経営または商売を経験した者には、自明の理であるはずが、当時の三重野総裁という人物には、理解の範囲を超えていたのでした。実体経済については素人でしかなかったのです。その彼が、日本経済・金融の中枢である中央銀行の総裁の地位にあったことは、日本にとって大変不幸なことでした。

  それによって何が起きたかと言うと、まず、1989年には4万円近くあった株価が下がり続け、とうとう1992年には1万5000円を割り込むことになりました。バブルをはじけさせず経済の過熱を下げるには、いわゆる軟着陸(ソフト・ランディング)の道を探り、様子を見るのが常識であるのに、三重野総裁は、膨れあがったバブルを一気に破裂させました。さらに、それに先駆ける1990年には、当時の大蔵省は「不動産融資総量規制」を全国の金融機関に発し、その結果、株価に限らず地価の下落や投資や消費を冷やし、不良債権の山を築き、20年間にわたり日本の経済を低迷させることになったのです。これは私から言えば、経済犯罪に匹敵する事態です。老後の安定を考えて、出版社の他に不動産賃貸業も営んでいた私には命取りとなりました。

日本の大マスコミは大企業を偏重する話

   こんな無謀なことを仕出かし、日本の企業の90%以上を占めると言われる中小零細企業が不況に苦しんでいても、実体経済に無知な、世襲による政治家(「地盤、看板、カバン」〈2009年3月29日〉参照)は有効な対策を打てず、片や大マスコミは、大企業と時の政権におもねるだけで役に立たず、郵政改革民営化が経済回復につながるとうそぶく小泉政権において、株価は一時7000円台までに下がったのは、そんなに昔の事ではありません。

  アメリカのサブプラム・ローンに端を発した金融危機問題(2007年~2009年)に、当時のアメリカのFRB(Federal Reserve Board=連邦準備制度理事会)のグリーンスパン(Alan Greenspan)議長(中央銀行総裁に当たる)は、この日本の失敗に学んだとされ、素早い対応によって株価の暴落を免れたとされます

  民主党から自民党に政権が交代し、安倍晋三氏が総理大臣に再就任し、いわゆる「アベノミックス」と言われる経済政策を、新日銀総裁の黒田東彦氏(上述の三重野元総裁とは異なり「デフレーションの責任は日銀にある」と批判してきた)と協調して脱デフレを掲げ、株価も1万4000円~1万5000円台にやっと戻しました。それでも 「失われた20年」 前の半分でしかありません。「アベノミックス」については、評価が分かれていますが、私は 「もっと大胆にやれ」 と言いたいです。とにかく日本の男性は内向きで臆病ですから、失敗を恐れて冒険することを怖がります。思いきったことをやれません。今は女性の方が大胆です。話はそれますが、英語が苦手なのも失敗を恐れるからです。しかし、バブルを一個人の思い込みで、ぶっ潰し、長い間日本経済を不況におとしめるようなことは、過去も現在も絶対にあってはならないことです。

ニューヨーク市長の話し

  前回述べたように、ニューヨ-ク市を訪問することにしたのは、二つの理由からでした。だが、空手の元生徒達には、会えませんでしたが、市内で精神科医をしているアメリカ人の元妻に、こちらも20年余ぶりに再会することができ、旧交(離婚後も友人として交流)を温めるとともに、今のアメリカならびにニューヨーク市についていろいろ話を聞くことができました。彼女は、私のために一日割いてくれ、その中の会話で、私にとって最も興味深かったのは、前ニューヨーク市長、マイケル・ブルバーグ(Michael Bloomberg)氏の功績でした。

  私がニューヨークに行ったのは、今年の6月でしたから、市長は、まだ、ブルンバーグ氏でした。この11月に市長選挙が行われ、新市長は、民主党の ビル・デ・ブラシオ(Bill de Blasio)氏です。氏は新年からその職務に就くことになります。

  民主党の市長の登場は、20年ぶりだそうで、ブルンバーグ氏も、その前のルドルフ・ジュリアー二(Rudolph Giuliani)氏も共和党に所属していました。ただ、ブルンバーグ氏は、元々は民主党に所属していましたが、市長選では共和党から立候補して周囲を驚かしたといういきさつがあります。現在は、共和党を離党し無所属になっているそうです。

  ブルンバーグ氏は、以前にも述べましたが、大富豪で、全米で8位、世界で23位(2010年)に選ばれています。ジュリアー二氏は、9/11の「同時多発テロ」時の市長で、その対応と指導力が称賛されたことを記憶されている方もおられるかもしれません。

  一方、新市長のビル・デ・ブラシオ氏の夫人は、黒人で詩人、息子は巨大なアフロヘアを売り物にするという異色の一家で、娘を含む一家の写真が選挙戦中に選挙公報に使用され、氏の政策とは別に、支持率を急増させたそうです。彼の政治家としての実力は未知数ですが、一つ言えることは、アメリカがいかに変化したか(前々回の「オバマ大統領の再選で分かるアメリカの今」〈2012年12月11日〉参照)が実感されます。その主因となるものは、ヒスパニック系の人口増加にあります。

  この項については補足することも有り、改めて、書きたいと思います。とにかく、このブロッグを早く更新しないと、年1回の投稿になるという不名誉なことになるので、もろもろの書きたい事項は後回しにしました。

上は、かの有名なThe Plaza。現在は改装されて、ホテルに コンドミニアムが併合されている。下は5番街(Fifth Avenue)midtown から downtown 方面を望む。奥にエンパイア・ステートビル(Empire State Bldg.)がかすかに見える。

The Plaza の反対側にある、アップルのニューヨーク5番街店。エレベータのある入口はガラス張りで、店舗は地下にある。

ブロードウェイ(Broadway)と西34丁目通り(W.34th St.)が交差しているヘラルド・スクエア(Herald Square)で憩う人々。

 

チャイナ・タウン(China Town)側からイタリア人街(Little Italy)を望む。

 

ゲイのパレード。アメリカ全土やカナダからゲイが集合。朝早くから交通が規制された3番街(Third Ave.)をさまざまに飾った山車で移動し気勢を上げる。

 前記、ヘラルド・スクエア前にある世界最大と称するメイシーズ百貨店(Macy's)。

5番街と42丁目(Fifth Ave. at 42nd St.)に建つニューヨーク公立図書館正面入口。ライオンの像が見える。季節が季節だけに旅行者が多い。

 

グランド・セントラル駅(Grand Central Station)の中央広場(Main Concourse)。この下に列車が発着する何十本ものプラットホームがある。今年、駅舎が建設されて100年目に当たるので、前方の巨大な窓に記念の100の数字の一部が見える。

  これを書いている最中に、猪瀬直樹東京都知事が、5千万円の借入金の問題で辞任するという報道がありました。この件は次回のブロッグ更新の際に触れたいと思います。さらに、ちょうど1年前、私は、「英友社ランゲージ・スクール」の開校準備について触れました。とうとう1年遅れになりましたが、来年の春には何とか物にしたいと決めました。

 


やっと復帰しました

2013年07月23日 | Weblog

長らく更新せず失礼しました。何しろ半年ものご無沙汰(?)で、このようなことは去年の3月以来で、私としても大変残念でした。しかし当然これには訳があります。

  4月の始め、「ポータルサイトgooに不正侵入がありセキュりティ強化のためパスワードの変更または再設定のお願い」の要望が管理事務局より要請されました。ちょうどこのブロッグの投稿記事を入力中でしたので、さっそく新しいパスワードで編集画面を開こうとしましたが、どういう理由かことごとく失敗しました。あせればあせるほどどうにもならなくなりました。

  問題解明のため goo事務局とメールでやり取りしている最中に、今度は使用しているプリンタ―が寿命で動かなくなり、秋葉原へ直行..。新しいプリンターを購入...。そしてセットアップを済ませ、ほっとしたところで、ウエブページを印刷する非常に便利な機能(アプリケーションソフト)のあることが分かりました。ところがダウンロードするのに四苦八苦。いたずらに時間だけが過ぎていくので、仕方なく「お客様相談センター」へ電話して解決しました。

  そうこうするうちに、このブロッグにもログインが可能になり、メデタシ、メデタシ!高齢者で門外漢の私には、この IT の時代は試練の連続です。とは言え、私より数年若いだけなのに、独学でコンピューターの知識を修得、専門学校等で教えている従兄弟がいるので、嘆いてばかりいられません。

10年は一昔、20年では何昔?

  気持ちが落ち着いたところで、当ブロッグで予告していたアメリカ本土へ、先月末から行ってきました。何しろ、海外旅行は22年ぶりなので、とっくに有効期限の切れたパスポートの再発行から、アメリカ行きのビザに代わる「渡航認証許可(ESTA)」のネットでの取得、旅行用キャリーケースの買い替え、航空券の購入、ホテルの予約等々、我ながらもたもたして手続きを進めました。

  私は、アラスカ州を除いて、アメリカ全土に居住ならびに旅をして巡っていますが、大都市で、ワシントン州のシアトル市には行ったことがありません。また、シアトル市にはワシントン大学があり、私の父がほぼ一世紀も前に留学していた所でもあります。そこで、今回の予定では、まず、シアトル市へ飛んで、そこからニューヨーク市へ行くことにしました。ニューヨークは、かつて私が11年間在住し、さまざまな面で、一介の留学生から社会人として自立させてくれた街です。ここで空手道場を設立、結婚もした思い出深い街でもあります。

  今回、アメリカへ行くことにしたもう一つの理由は、上記、空手道場のかつての弟子たちが同窓会を開くというので、参加することにしたのです。ところがいざ渡米する段になって、会をまとめる幹事が体調を崩し、しかも入院することになり、結局、かつての弟子(老人)どもに会うことはかなわなくなりました。幹事も彼らのほとんどが、今はニューヨークに住んでいないので、月日を改めて開催されるという残念なことになりました。

  久しぶりのアメリカは、新鮮な印象をもって受け止めれました。私にとってアメリカは第2の故郷と言ってもいいくらいで、懐かしさで、月並みな言葉ですが、胸がいっぱいになりました。9/11の同時多発テロ事件、リーマンショックと続いたアメリカの実状については、このブロッグ「オバマ大統領の再選で分かるアメリカの今」(2012年12月11日)で書きました。私の日本での情報源は、テレビのCNNCNBC とインターネット上で検索するニュースが主体(たまに英字新聞)となっていますが、改めて現地で確認できることを期待していました。

アメリカの自動車産業

  ここまで書いていたら、ミシガン州デトロイト市の破産のニュースが入ってきました。かねてから噂されていた事ですが、このニュースには、上述とは異なり、胸を締め付けられるものがあります。「GMの破たん」(2009年6月20日)で述べたように、かつてのアメリカの繁栄を支えた自動車産業の中心地であったあのデトロイトが自動車産業の衰退とともに、市の人口も半減し、それによる税収の減少から破たんしたとのことで、栄枯盛衰を地で行くことになったのは、世の中の変遷の激しさを目の当たりにしたような気がします。

  戦後の荒廃した日本から、父が留学したアメリカへ渡り、デトロイト市近郊ではありましたが、第2次世界大戦後の1950年代のアメリカの繁栄を(前回のブロッグで触れたように貧乏留学生であった私でも)享受したことは間違いありません。また、アメリカの実社会に一歩踏み出した地でもあるだけに、感傷的になるのは否めません。この地について、追憶とともにもう少し話したいと思います。 

貧乏学生が車を買う

  何とか留学生活を始めたものの一番困ったのは通学用の足でした。前のブロッグで述べたことですが、レストランの屋根裏で、他の住み込みのコックさんと共同生活を始めることになり、寝場所は確保したものの、アメリカのことですから、学校に通う交通の便がありません。始めは車で通学する学生に乗せてもらっていましたが、Cranbrook Academy of Art は原則として全寮制で、しかも学生の仕事場は夜の12時まで使用が可能で、同乗させてもらう学生の予定と私の予定がかみ合わなくなり、結局、有り金をはたいて車を買うことにしました。中古のPontiac という同じGM製大衆車のChevrolet より少し格上の車です。そこで急きょ運転免許を取らなくてはならなくなり、お世話になった未亡人(前回のブロッグで述べた)や学生の運転指導ならびに協力で、生まれて初めて運転免許証というものを手にしました。

  Pontiac は、Cranbrook の北部にある都市名であり、ここの工場で生産されている車名でもありました。Pontiac の車種は2010年にGMの衰退に呼応するかのように廃止されることになりました。車の話が出たついでに、車の街デトロイトにまつわる話をもう少し続けることにします。

  プロペラ機で、留学先を目指し、ロスアンジェルス市からシカゴ市を経由(父の友人に会うため)してデトロイト市に着いたのは、私が23歳の時でした。当時のデトロイト市は、市の最盛期だったようです。それから60年たって市は破たんしたのです。23歳の若さの私は、車を得たことで可能な限り時間の許す限り(当時はガソリンが安かった)遠出をしました。アメリカの大地は、広大かつ雄大で、その美しさに引かれて、中古のしかもかなり古い車を駆りました。

フリント市のスラム化
 
   デトロイト市から約100キロ(60マイル)北に、フリント(Flint)という市があります。GM発祥の地で、日本でも話題になった、『アホでマヌケなアメリカ白人』(Stupid White Men=原題)の著者、マイケル・ムーア氏の出身地でもあります。フリント市では、一時期 GM社の代表的な車種、上記 ChevroletBuick(最高級車 Cadillac に次ぐ上級車)を生産していました。
 
  そのフリント市へ、弟(彼の要望で)のペン・パルだった女子一家を訪ねました。彼女の父親は、Chevrolet工場で働くごく普通の労働者階級の家庭でした。弟から託されたお土産を持参して短時間でしたが、初対面とは言え親交を温めて屋根裏のねぐらに戻りました。
 
  ここで何を問題にしたいのかと言うと、まず、一日に中古車で片道100キロを往復するしんどさと、当時と現在のフリント市の変わり果てた状況です。当時のフリント市は、典型的な緑豊かなアメリカの小地方都市でしたが、現在はと言うと、アメリカで最も危険な犯罪都市の一つになっているのです。ネット上で検索して動画を見ましたが、スラム街に成り果てた街の状況に言葉を失いました。
 
  これは、デトロイト市でも同様で、何とも変わり果てた市内の情景に、東北大震災とは異なる、荒廃した都市の現実の恐ろしさを実感しています。かつて、デトロイト市は、自動車産業の街 Motor town と言われ、これを略した Motown Record 発祥の地でもあり、一時、女性歌手 Diana Ross が在籍していた The Supremes などが数々のヒット曲を生むなど、華やかな活動が話題になりました。それが一転、破産宣告する街に変り果てたのです。こちらもネット上で検索して動画を見れるので、興味のある方は上記フリント市とともに一見されることをお勧めします。
 
初めて訪れたシアトル市
 
 サンフランシスコ市のように、予想以上に上り下りの多い街でした。また、雨の多い街とも聞いていましたが、4泊5日の短い滞在でしたが、幸い私の滞在中は天気に恵まれていたと思いました。上記2都市と異なり、清潔できれいな街ですタコマ国際空港からダウンタウンへ移動する際、Sea-Tac と呼ばれる、シャトル車両内(Light Rail)で、明らかに東洋人との混血と思われる二人の娘を連れた白人女性に下車駅について尋ねましたが、彼女はシアトルが大好きだとも言っていました。
 
  アメリカへ行くので、従来の携帯電話から iPhone5 に乗り換え、不慣れな手つきで観光写真を撮ったので以下に掲載しました。今も iPhone5 の操作を覚えるのに苦労しています。
 
 
 
  上・左から下・右へ。ダウンタウンのビル群、The Space Needle(観覧塔)、ダウンタウン街とトローリーバス、市中心部の公園と人工の滝、フードコート内のすしバー、ランチタイムにスターバックス前に並ぶ人々、最後はホテルの最上階から見た市街。
 
海外へ出てほっとすること
 
  日本を後にしてほっとするのは、AKB48 とか、アリヨシ何とかとか、何とかデラックスとか、お笑い芸人、タレント、芸能人、フリーアナウンサーとかが、頻繁に、民放各局のテレビ番組のあちこちに渡り鳥のごとく出没し、さらに、TVコマーシャルにも出没するという異常な国から解放されることです。しかも、残念なことには、今やNHKにまでも、これらのテレビ族が出没するようになったことです。
 
民放ならまだしも、これらの見たくもない族どもに、「公共放送」と名乗るために、受信料を払わなければならないのは何とも腹に据えかねます。受信料の不払い運動をしたいのは私だけでしょうか。
 
  次回は、ニューヨーク市を中心とした報告になります。

ため息は出ても手が出ない輸入チーズ

2013年01月22日 | Weblog

大好物のチーズのほとんどは、遠くヨーロッパから空輸されるので、チーズは、私にとって高価で、ため息は出るが手が出ません。また、チーズと相性のいいワインも、私の好みの銘柄は値段が高くて購入を断念するのが常です。現在は円高で、いくらか値段が下がったものの、輸入される嗜好品は、いつの時代でも庶民の感覚からはほど遠い「高級品」というのが実感です。

  と、いうことですが、ここらあたりで、かねてから約束していた「チーズの話」に話題を変えることにしました。このブロッグの副題に、「ちょっぴり料理について」とありますから、その点を無視することは、料理好きで、食べることが好きな私としても、おろそかにできません。もちろん、私は、今はやりのソムリエ(sommelier―フランスの料理店などで、ワインの仕入れ管理を担当。また、客の相談を受けてワインを選定、提供する専門職。ただ、日本では、料理や食材の専門家を勝手にソムリエと呼んでいるようです)、つまり、チーズの専門家などではありません。では、なぜチーズの話をしようとしているのかと言うと、海外で食したチーズを語りながら、その周辺あるいはそれにまつわる食品や食文化や食生活、さらには小生の海外の体験についても書きたかったのです。それは、以前に約束した、「日本人の外国音痴」の私見を補完する意味合いもあります。

  まず、古い話で恐縮ですが、第2次世界大戦後に、初めてチーズというものにお目に掛かったような気がします。事は、食糧難と荒廃したヨーロッパを支援する目的で、アメリカのいろいろな団体が協力して1945年に設立したCAREという支援団体から話を始めなければなりません。初期のCAREは、The Cooperative for American Remittance to Europe(対欧送金組合)を略したもので、その支援活動は、食料、衣料などの生活必需品が詰められた「CAREパッケージ」という箱を、ヨーロッパの被災地に送るというものでした。英語の "care" の名詞の意味は、ご存知と思われますが「世話」とか「介護」を意味します。この団体は、支援活動をするのを目的をすることから、英単語の"care"と団体名の頭文字とをうまく結びつけたのだと思います。

日本におけるCAREの活動

 後に、CAREの支援は、日本にも向けられ、1948年から8年間にわたって1000万人の日本人が支援を受けました。「CAREパッケージ」には、脱脂粉乳、小麦粉、砂糖、マーガリンなどの食料や石鹸、木綿生地、毛布などの生活必需品が入っていました。日本でのCAREの支援で、よく知られているのは、小学校の給食用に脱脂粉乳を供給したことでしょう。このようなCAREの支援活動は、日本が立ち上がりの兆しを見た昭和30年12月30日をもって終了しました。その後、世界各地に活動地域が広がるにつれ、The Cooperative for American Relief Everywhere(全世界へのアメリカによる支援組合)から、さらに、CAREは、The Cooperative for Assistance and Relief Everywhere(地球規模の支援組合および救援組合)と変わっていきました。かつてCAREの支援を受けた日本は、現在は、公益財団法人ケア・インターナショナルジャパンとして、途上国において災害時の人道支援を中心とした活動を行っています。(以上、国際協力NGO CARE/ケア・インターナショナル ジャパンの資料による)

  さて、チーズの話をするにしては、かなり道草を食ったようですが、実は、私にとって、チーズの話は、どうしても、戦後から始めなければならないのです。今のように、飽食の時代と言われ、また大量の食品が日常捨てられて政治問題になるような時代に生活している皆さんには、何で?といぶかる方もおられることでしょう。第2次大戦中と戦後に食糧難で腹をすかし、栄養失調に陥った苦しい経験をした者にとって、戦勝国のアメリカからのCAREの支援、特に食糧援助は忘れられない事でした。東日本大震災を経験し、改めて外国から有形無形の支援を受けた私たちは、外国からの善意を感謝し記憶に留めておきたいものです。例えば、時代は変わって、去年、「イル・ディーヴォ(IL DIVO)」という、男性4人で構成される人気歌手たち(これまで2回来日・公演)が、福島の被災地を訪れ、地元の子供たちを励ますために交流したことです。彼らが日本語で子供たちと合唱(曲名は失念)するのを、NHKのテレビ放送で見て大変感動しました。

 余談ですが、かつて、ミシガン州のデトロイトに本社のある、最大手の自動車会社GM「GMの破たん」〈2009年/6月/20日〉参照)の重役の未亡人が、「戦後、アメリカは、ヨーロッパの復興のために多大な援助したにも関わらず、ヨーロッパの人たちは感謝しない」と慨嘆していました。彼女はそれなりに支援団体への寄付行為を行っていたからです。ところで、私は、彼女に大変お世話になりました。と言うのは、留学中の生活費をねん出できなかった貧乏学生(留学先の美術学校の奨学金を逸した私は、私費留学をするしか道がありませんでした)の私を、彼女は、大学の近くのあるレストランの経営者に、昼間の学業を終えた後と週末にパートで働くのと引き換えに、食事とレストランの屋根裏部屋のベッドがあてがわれるよう交渉してくれたからです。

 留学費用についてですが、アメリカ本土に渡った後、学費をはじめ旅費や食費などもろもろの費用が当然掛かります。しかし、クレジットカードなどが無い時代ですから、現金でドルを持たなければなりません。ところが当時の外貨不足の日本では、ドルの持ち出しは、一人当たり、たったの18ドルしか許可されていませんでした。しかも為替の交換レートは、たびたび語られていることですが、1ドル360円でしたから、現在のレートと比較すると信じられないような時代でした。だが、ドルを持たなければ、アメリカに着いても手持ちの18ドルでは、1日や2日で立ち往生してしまいます。そこで威力を発揮したのは、下記の「闇市」です。母親が知り合いから借金し、人を介して「闇市」で用意できた200ドルほどを腹に巻いて、日本の貨物船で10日間掛けて渡米しました。闇での交換レートは、1ドル450円ぐらいだったようです。

戦後、初めて食べたナチュラルチーズは?

  支援の中にチーズは入っていませんでしたが、やがて、CAREと前後して、日本でも国産のバターやチーズが店頭に並ぶようになりました。マーガリンではないバター(生乳)は、食してみると、チョコレート同様、世の中にはこんなにおいしいものがあるのだ!と感激したものでした。チーズは、プロセスチーズ(数種のナチュラルチーズを混合、加熱殺菌、香辛料を加えるなどし、成形加工したもの)でしたが、こちらは、食べた記憶があいまいです。

  では、ナチュラルチーズ(牛乳などを熟成・調整したもの。含まれる水分によって、多くは、軟・半硬・硬の3種に分かれる)は?と言うと、この話も、戦後という過去までさかのぼらなければなりません。現在の「アメ横」は、かつて「闇市」と呼ばれていました。なぜかと言うと、占領軍のアメリカ兵がPX(Post Exchange=基地内売店)で購入した食品や化粧品など、横流ししたものを売っていたからです。私は芸大に進学したので、通学に便利な、台東区の谷中の墓地のど真ん中に建つ、木造のひなびた下宿屋の2階の1室に住んでいたので、上野の「闇市」は目と鼻の先でした。当時も今も変わらない、あの迷路のような狭い通路を縫って、横流しされたきらびやかに包装された高価な外国の商品を、あこがれの目をもって、買うのではなく眺めに行ったものです。

  ある日、缶詰やクッキーなどの食品に交じって目に留まったのが、丸いソフトボール大の大小の赤い物体です。店の人に、あれは何かと聞くと、チーズだと言うのです。それまでは、おなじみの、バターと同様の長方形の箱に入ったチーズしか見たことが無いので、赤くて何かおいしそうに見える物体を、食いしん坊の私は、好奇心もあり、どうしても買って食べてみたくなりました。ただ、学生の身にとっては高価(値段は覚えていません)でしたから、まとまったアルバイト収入を得るまで我慢しなければなりませんでした。そして、やっと手にしてびっくりしたのは、赤いのは、チーズを覆うワックスで乾燥を防ぐものでした。

  このチーズについて解説すると、これは、エダム(Edam) というオランダのチーズで、原産地の都市名から来ています。また、エダムと並んでオランダの代表的なチーズで、よく知られているのは、ゴーダ(Gouda)でしょう。これも、エダム同様、ゴーダという町で作られていることから、その名が付いています。ゴーダは、オランダのチーズの全生産量の60%を占めると言われ、また、日本で作られているプロセスチーズの主原料となっているそうです。

  さて、エダム・チーズを覆っている赤いワックスの一部を恐る恐るはがすと、中は、オレンジっぽい色をしたチーズでした。かなり硬かったので、ナイフで削って食べました。味は、英語で言う sharp (きつい)で、一度にそんなには食べられないので、一口大に削って少しづつ食べました(近ごろのエダムは、味が以前よりまろやかになったような気がします)。当時、英語の勉強に、英語版の『アンナ・カレーニナ』(トルストイ著)を、夜な夜な、辞書を引き引き読んでいる最中でしたので、懐の寒い貧乏学生には、格好の夜食の足しになりました。『アンナ・カレーニナ』を読み終えたころには、チーズも完食していました(「英語を学ぶのは『しんどい』?だがその成果は?」〈2008/8/16〉参照)。そして、元はとれたと思いました。

  次回は、「チーズの話、アメリカへ渡る」です。


オバマ大統領の再選で分かるアメリカの今

2012年12月11日 | Weblog

またまた、このブロッグの更新に月日が過ぎ去ってしまいました。この夏の暑さにかなり参ってしまったというのが、私の言い訳です。そして、以前約束した日本人の外国音痴についての意見は、今回もお休みさせていただきます。本当のことを言うと、音痴の進行度が、国民病と言えるほど定着しつつあり危ぐしていたので、さぼっていたのではありません。どうしたものかといろいろと思いを巡らしている最中に、衆議院の解散そして選挙ということになりました。2大政党制は空中分解、12政党(?)が乱立するてんでんばらばらの総選挙に突入です。

  そこで、視点を変えてアメリカの大統領選挙に目を向けることにしました。まず、オバマ大統領の再選を祝福しましょう。私は、4年前のアメリカの大統領選で、このブロッグに、民主党の予備選中、「Prejudice, Discrimination, Terror and Assasination」(2008年1月13日) と 、大統領選後 「Congratulations Sen. Obama!」 (2008年11月23日) という題で2回私見を述べました。一方で今回の大統領選ですが、再選を目指す民主党オバマ大統領と共和党候補で、前マサチューセッツ州知事ロムニー(W. Mitt Romney)氏の接戦が、早くから伝えられてきましたが、結局はオバマ大統領の圧勝に終わりました。

  オバマ大統領の任期4年間にわたるこれまでの実績の評価は、人それぞれで異なりますが、私から言えば、何とか無難にこなしたということでしょう。就任早々リーマンショックに見舞われ、ブッシュ前大統領が、アフガニスタン、イラク両戦争にのめり込んで残した巨額の財政赤字に対処しなければならない羽目に至ったことを考慮すると、多難であったことは確かです。4年前、私が大統領に推していた、オバマさんの対立候補、ヒラリークリントンさんは、残念ながら予備選で落選しましたが、彼女を説得して国務長官に就任させたのは、賢明な選択であったと思います。ヒラリー長官は、精力的に世界中を駆け巡り、職務をこなし、アメリカでの評価はかなりいいようですが、次期には国務長官を退任する意向を表明しています。

  今回の大統領選で見えてきたことは、アメリカも変わった、ということです。何が変わったかと言うと、これまで日本が英米の後を追っかけてきた2大政党制が、アメリカではそろそろ通用しなくなってきたということです。2大政党制では、先輩格でお手本であったイギリスでも、前回(2010年)の総選挙では、3党(保守党労働党自由民主党)の党首が、首相を目指し、初のテレビでの公開討論を行いました。結果は、保守党(Conservative Party)のキャメロン(David Cameron)氏が首相に選出されたことはご承知の通りです。だが、保守党は議席の過半数を取れず、自民党と連立政権を組むというイギリスではかつてない異例の事態になりました。

  アメリカは、長年、共和党(Republican Party)と民主党(Democratic Party)の2大政党がしのぎを削ってきましたが、こちらも、それが怪しくなってきたのです。もう私が生活していたころのアメリカではありません。ここ10年間でそれが顕著になったような気がします。特に、先ほど述べたリーマンショック以降は、おおらかなアメリカらしさが無くなったと思います。世界的な景気後退で失業者が増え、さらにアメリカ社会の変化を象徴するのは、とりわけヒスパニック系の人口の増加で、いわゆる白人社会の価値観が通用しなくなってきたことにあります。

  かつては、共和党の支持者は経営者で保守的、民主党の支持者は労働者でリベラル、というような大ざっぱな区分けがされていました。歴史をさかのぼるとそうではないようですが、少なくとも私が在住していた当時は、そのような違いが見られました。しかし、ここで問題になるのは、最近の共和党に見られる混迷(?)です。共和党は、別名GOP(Grand Old Party=偉大な古き党)と呼ばれるように、長年アメリカ国民の支持を得てきた党ですが、ここのところアメリカ社会の急激な変化に伴い共和党支持者が付いていけない、あるいは戸惑っているような感がします。

  キリスト教(プロテスタン)信者で、白人を中心とした共和党支持者の価値観が、脅かされていると言っても過言ではないでしょう。銃規制、妊娠中絶、ゲイ、同性婚といった問題が近年次々と浮上し、アメリカ経済の悪化という課題に対応するのと同等の関心を払う必要に迫らています。そういうことから、共和党は、今や、少なくともこれまでの価値観に重きを置く保守派や富裕層、有色人種に反感を持つ白人、オバマ大統領の外交政策に批判的な一派、中道的穏健派、さらには、「大きな政府」に反対するティーパーティ(Tea Party)と称する一派などなどに分断されています。

  私から見れば、かつての世界の警察官を任じていた強いアメリカの時代は、ベトナム戦争からイラク戦争に至るまでに終わりを告げた事は明らかで、共和党は、そういった現実を認めてそれなりに認識を変える必要に迫られていると思います。今、共和党の関心は、オバマ大統領の後任つまり4年後の大統領選の共和党候補者にあるようです。

  アメリカ社会は、黒人大統領の選出で、(上記の「Prejudice, Discrimination, Terror and Assasination」〈2008年1月13日〉参照) とっくに、白人優位のWASP(White Anglo-Saxon Protestant)的な社会ではなくなっていますが、かつての良き時代を懐かしむ人達がいることも確かです。しかし、アメリカはもともと日本と比べ、多様な顔を持った国ですから、インターネットの普及で、タガをはめていたキリスト教的道徳観が外れてきた感があります。

  ここまで書いてきて、実はここ20年、私はアメリカ本土を訪問していないので、この目や耳でアメリカの現状をさらに確かめたいと思い、来月には訪米するつもりでいます。今年の4月に、かつての私の空手の弟子達がニューヨーク市で再開の集いを持ちました。私は、ちょうどその時、蓄膿症の手術後だったので、会合には出席できず残念でした。一方、遅れ遅れになている「英友社ランゲ-ジ・スクール」の春の開校を目指して一月には行動を始めます。その状況は、逐次このブロッグで伝えましょう。


「オーナー様」って、何これ?

2012年07月17日 | Weblog

私のこのブロッグに、これまで、『リニューアルオープン新装開店か?』(2008年12月13日)という項目に特に多くの訪問者がありました。また、前回の『バイリンギャルって、どんなギャル」(Gal)?』で、カタカナ語にかかわることを述べました。これも、そこそこの訪問者があったので、今回も前回の約束を撤回して、実のところ、私が常日ごろ困惑している、ちまたにまん延しているカタカナ語の乱発についてあらためて書きたくなりました。

  なぜかと言うと、近来における(?)カタカナ語の笑うに笑えない傑作(?)とも言える、表題の「オーナー様」を取り上げる機会を探していたからです。これは、ある不動産会社のテレビ広告で流されている宣伝文句の一節で、見聞きされた方も多いのではないかと思います。「オーナー様」とは、「家主様」であることは、自明でしょう。では、なぜ「家主」ではなく「オーナー」と、カタカナ語にしたのでしょうか。ほかに「オーナーさん」と言っているのもありました。「オーナー」は、英語の owner=(〈土地、財産などの〉所有者)と、ある英和辞典に出ています。

  なぜ、カタカナ語は、日本人にとってそんなに魅力があるのでしょう。例えば、元三重県知事で、現大学教授の北川氏が推進した 「マニフェストmanifesto)」 も、私から見ればカタカナ語に過ぎないのですが…。北川氏は、「選挙公約」という日本語表現があるにもかかわらず、どういう訳か「マニフェスト」の言葉にこだわりました。

  「manifesto」 という英単語は、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)によると、「主権者・政府・団体などが出す、宣言(書)、声明(書)」とあります。また、他のどの英和辞典もおおむね同様の訳が記載されています。ついでに、ちょっと長くなりますが、「manifesto」を、民主主義政治の本家であるイギリスの辞書『OXFORD現代英英辞典』にはどのように記載されているのか照会しておきましょう。
 
a written statement in which a group of people, especially a political party, explain their beliefs and say what they will do if they win an election
 
  実に、はっきりと定義しています。
 
   なぜ北川氏は、「マニフェスト」の言葉にこだわったのでしょうか。当時、衆議院選挙で政権交代を目指す民主党は、さっそく目新しい「マニフェスト」に飛びつきました。あくまで私の勝手な推測に過ぎませんが、北川氏は、日本人はカタカナ語が大好きなので、これまでめったに守られたことのない「選挙公約」より、「マニフェスト」を推すことによって、公約が守られるのではないか、と考えられたのではないでしょうか?しかし、彼の深慮遠望(?)にもかかわらず、「マニフェスト」は守られず、やぶ蛇に終わったようです。
 
  一方、この一文を書くにあたって、試しに最近の、はやりカタカナ語がどのくらい頻出するか、テレビをつけてみました。いやぁ、出るは出るは!virus(ウイルス)のように、量産・増殖され際限がありません!以前、『英語もどきの英語とは?』(2008年10月9日)でも触れたので、省略しますが、改めて、そのほんの一部(こんな数ではありません)を、あいうえお順に列記すると…
 
    アイテム(aitemu)...item (項目)     
    カテゴリー(kategorii)...category (範囲、部類)
    キャンペーン(kyanpehn)...campaign (宣伝活動)
    クオリティー(kuoritii)...quality (品質)
    グッズ(guzzu)...goods (品物、商品、製品)
    スキル(sukiru)...skill (技能、技術)
    スペシャル・プライス(supesharu puraisu)[和製英語]...special (特別)
                                                                              price (価格)
    ナビゲート(nabigehto)...navigate (操縦する、探索する)
    ニーズ(niizu)...need (必要度、必要性) 
    バランス(baransu)...balance (均衡)
    フリー・ダイヤル(hurii daiyaru)[和製英語)...free (無料)
                                   dial (電話の文字盤〈名詞〉)、
                                                  (電話をかける〈動詞〉)
    ベスト(besuto)...best (最上、最高、最善)
    ランチ・タイム(ranchi taimu)...lunch time (昼食時間)
 
  以上を見て分かることは、カタカナ語のほとんどは、カタカナ英語です。まれに、「プチ」等、フランス語のpetit(小、ちっちゃい)から取ったのも見聞きします。
 
  言葉あるいは言語というものは、音声が原点です。例えば、上記のカタカナ英語(ローマ字)と右に記した英語の発音を声を出して、ご自身で比較してみてください。似ても似つかないものになるはずです。もし、違いが分からなければ、英語を母国語とする人に聞いてもらえば分かるでしょう。つまり、カタカナ英語は、日本人だけに通じる言葉なのです。英語ではありません。「英語もどき」なのです。それにもかかわらず、なぜ、日本人はカタカナ英語にこだわるのでしょうか。私にとっては永遠の謎です。答は、カタカナ英語を増産するNHKを始めとするテレビ局に聞けば分かるかもしれません。
 
  各テレビ放送局の番組名には、「モーニングバード」「スクランブル」「サンデージャポン」「NHKスペシャル」等など…が見られるからです。これも歯止めが掛かりません。多分、すべてを漢字にすると堅苦しい、あるいはかっこ悪く(?)なるからでしょう。例えば、上記の番組を、「朝の鳥」「撹拌」「日曜日本」「NHK特番」(以上拙訳)のようにするとです。
 
 『英語と日本人なぜ英語ができない』(船田秀佳名城大学教授/折登洋共著)で、アルファベット文字とカタカナ英語に対する批判は言い尽しているので、ここで蒸し返すのは気が引けるのですが、日本で、英語が金もうけの道具化していることとカタカナ英語の乱発とは、相関関係にあると思います。英語教育の不備が「英語もどき」のカタカナ語につながっているのです。
 
                   
 
  「哲学」(英語でphilosophy)を、カタカナ語にしなかった先人(西周〈にし・あまね〉)の努力に敬服します。そこで、あえて北川氏のような賢人に苦言を呈したいのです。安易に「マニフェスト」のようなカタカナ語を導入する必要は全くなかったのです。しかも、政治家は、まるで金科玉条のように、「マニフェスト」を日本中にまん延させてしまいました。だれも「マニフェスト」という外来語に異議を唱えなかったのです。
 
  manifestoは、上記のように、英語には明確な意味がありますが、日本語にも、もともと「選挙公約」という明白な表現がある以上、日本語でもっと関心をもたれる表現を、北川氏には知恵を絞ってほしかったのです。好例ではありませんが、例えば「選挙公約宣言書」のように…。「英語もどき」のカタカナ語はもううんざりです。いいかげんにしたら!
 
  さて、前文に戻ります。「オーナー様」のような卑屈かつ愚劣な表現は排除されるべきです。「英語もどき」のカタカナ語と日本語の尊敬や敬意を表す語のコラボ(今はやりのコラボレーション〈collaboration:共同制作、合作〉の略)等と言わせません。「家主様」で十分です。
 
  蛇足ですが、女性が、何か気に入ったもの見つけた時、まず「かわいい!」と連発すること、肉などおいしい物を味わった時、まず「柔らかい!」と連発するのは何とかならないものでしょうか?同様に、テレビの料理番組のはんらんで、魚、肉、野菜等、料理の食材を、男性の料理の専門家が、「魚」「肉」「野菜」と、いくら視聴者が女性中心とは言え、おかしいと思いませんか?嗚呼、日本語での適正表現はどこに行ったのでしょう…。
 
  この一文を投稿した後で、以前、『日本語が消えていく』(2008年6月18日)で、同様のことを書いていたのを忘れていました。「オーナー様」の表現が頭に来て、カタカナ語に対する反感が爆発してしまったのです。
 
  次回は、前回の約束に戻る予定です。
 
 

「バイリンギャル」って、どんな「ギャル」(Gal)?

2012年05月03日 | Weblog

ちょっと気になることをテレビで視聴したので、またまた前回の約束を中断します。

  先先月(3月)、元ニュースキャスターでタレントの山口美江さんが亡くなられました。そのふ報を知らせるテレビ放送で、女子アナウンサーが、「バイリンギャルの草分け的存在だった山口美江さんが亡くなられました」と言ったのです。「ええっ!」と思わず声を上げました。彼女の認識不足がそのような表現をさせたのかと思ったら、画面の字幕も「バイリンギャル」と表示されました。

  「まあ、そういうこともあるか」と、その時は自らを納得させましたが、その後、他局であったと思いましたが、今度は男性アナウンサーが、やはり、「バイリンギャルの山口さん」と言い、字幕にも「バイリンギャル」と出ましたので、これは本物だと思い、ここに取り上げることにしたのです。

  ご存知の方には、別にここで説明しなくても間違いがお分かりでしょう。これは、「バイリンギャルbilingal」ではなく、「バイリンガル=bilingual」です。「bi」 は、「2とか二つ」を意味し、「lingual」は、「言語の(形容詞)」を意味します(ラテン語で lingua は、舌の意)。日本で、「バイリンガル(二ヶ国語を話す)」であることは、一時ブームとなったので、その事の功罪については、『英語と日本人 なぜ英語ができない』(船田秀佳/折登洋共著)で詳しく解説しました。「gal」は、現代米語(俗語的)では、「女の子」を意味し、日本でも、「ギャル」は同様の意味で使われているのではないでしょうか。

   つまり、「バイリンギャルbilingal)」と言うのは間違いで、カタカナ語がいくら世間にまん延していても、「バイリンガルbilingual)」と言ってください。そうでなければ、「バイリンガルの草分け的存在」と言われた、山口美江さんも浮かばれないでしょう。

  次回は、最近特に気になる日本の現状 "日本人全体にかかわる外国音痴" について書かせていただきます。このことは、日本の英語教育の「音痴」につながるからです。


スティーブ・ジョッブズ氏を悼む

2012年03月13日 | Weblog

怠けていたわけではないのですが、私の健康管理のために市の体育館通い(空手の練習を含む)をしたり、前回ちょっと触れた、英語学校を始めるにあたっての構想や準備を進めているうちに、あっというまに年が明けてしまいました。ブロッグに限らずツイッタ―とかフェイスブックとか、毎日のように携帯電話やパソコンを通じて交信・発信し合う現代の皆さんに、私はとてもついていけません。しかし、このささやかなブロッグで、私は私なりにのろのろと発信するつもりです。

  今回は、Apple社の会長であった Steve Jobs氏が亡くなったことで、予定を変えて一筆書かしていただきます。

  昨年、Jobs氏のふ報のあった後、新宿の紀伊国屋書店へ足を向けました。TIME誌を購入するためです。残念ながら、アジア版ではないTIMEUS国内版は、紀伊国屋書店にしか置いてないからです。以前は、洋書を扱う丸善とか三省堂書店などには置いてあったのですが、今は、私の知る限り紀伊国屋書店でしか購入できません。

  Steve Jobs氏の死去で、TIME誌は、当然特集を組むと見て紀伊国屋書店へ行ったのです。アジア版でも同様の扱いをしているでしょうが、US国内版を求めたかったのです。予想通りに、紀伊国屋書店の洋書部の雑誌の書棚に、最初のMacintoshと思われるパソコンを抱えた Jobs氏の若いころの写真が表紙を飾っていました。さっそく1部購入しましたが、ただ、円高なのに大枚1,300円払う羽目になりました。

  その後、Jobs氏について、マスメディアは連日のように彼の業績や人柄などを取り上げ、称賛の嵐が続いていましたから、私が彼について書くのは何かおこがましいような気がしていました。Jobs氏の存在はそれほどに偉大であったのか、と改めて驚いています。さらに、彼の伝記が早々と出版される(日本語の翻訳版も)に及んで、ただ驚嘆するしかありません。この伝記は、元 TIMEの編集長だった Walter Isaacson氏の執筆による、2巻に及ぶ長編のもので、TIMEの特集も彼による記事なので、TIMEを読めば触りが分かるということでしょうか。

  さて、Jobs氏についてですが、私は彼の生涯について、パートナーの Wozniak氏とパソコンのMacintoshを共同開発したことと、マスコミに報道されているようなこと以外詳しいことは知りません。では、なぜ彼のことを書く気になったのかと言うと、実は、パソコンのマックについて書きたくなったからです。マックの使い勝手が私にとって非常に良かったので、亡き Jobs氏に感謝の気持ちを表したかったのです。

マックは救世主?

   もう何年も前の話になりますが、当時、事務の効率化を図る上で、パソコンと経理ソフトの利用は不可欠となりました。同時に、日本語対応の編集ソフトが出回るにつれ、パソコンで出版物を編集することが一つの潮流になりつつありました。私のように、コンピュターの門外漢には、マックは、基本ソフトと編集(アプリケーション)ソフトとの相性がいいという同業者(出版社)からの話を聞いて、わが社(元英友社)でも導入することにしました。DOS/V に始まるパソコンの普及で、悪戦苦闘していた私には、マックは、使い勝手がいいというだけで、飛びつく価値がありました。特に心を動かされたのは、書体や画像を含め、編集ソフトで割り付けやレイアウトした頁が、ほとんどその通りにモニターに反映されるということでした。編集/レイアウトしたものをいちいち印刷して見なければ、結果を確認できないのでは、時間や費用の面から大きな違いが生じます。

  ともかく、わが社も Macintoshと編集ソフトを導入して、いわゆるDTP(desktop publishing)の体制を整えることができました。複雑な編集ソフトを使いこなすのには、時間がかかりましたが、コンピュターに詳しい私のいとこの助けを借り試行錯誤しながら、このブロッグ(2007年12月)でも紹介した『書く英語・基礎編』(第2次改訂版)『書く英語・実用編』(第2次改訂版)等、英友社の出版物の数々を世に送り出すことができました。当時、日本の非近代的な出版/印刷業界のコスト高に悩まされていた者にとって、マックはそれこそ「救世主」と言えるものでした。マックOSとその上で機能する優れた編集ソフト無しでは、上記の「基礎編」や「実用編」の「第2次改訂版」が日の目を見ることは到底不可能でした。そして最後に特記したいことは、マックOSの安定性でした。

  伝えられている、Jobs氏の利用者の利便性を重視した彼の哲学に、一出版人/編集者として、改めてただただ感謝する次第です。

  次回には、「日本のさまよえる英語教育」を改めて考察し、また、前述の開校を予定している、英友社ランゲージ・スクール(ELS) についても話すことができればと思います。