国際・国内政治経済とその文化を神道国学で読んで・・

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シュメール語は、神道国学甲骨亀甲因書で深化する。

2015-06-06 15:32:56 | 政治経済と憲法九条

シュメール語から、漢字象形文字、直接シュメール語から甲骨龜甲因書に深化する。

 

一  丶 丿 乀 乙   基本法則で、聖徳太子「法興六「乙个可句何元」」語部制度の辭氣

 

一  丶 丿 乀 乙 乚 亅 乁 ╱➚ 乂 二 亠 儿 八 冂 冖 冫 几 凵 刀 刂 匸 十 卜 卜 卩 厂 厶 匚 口 囗 土 士 宀 小 尸 屮 巛 工 已 己 巳 巾 干 幺 广 廴 弋  彐 彐 彡 彳 忄 扌 才 氵 犭 辶 阝 㣺 戸 手  ・助辞

カタカナ 全てが「甲骨龜甲因書」の構成である。

シュメール語から支那「夏時代ニ里頭」宮城でほぼ完成している。

アイウエオ カキクケコ サシスセソ タチツテト ナニヌネノ

ハヒフヘホ マミムメモ  ヤ ユ ヨ ラリルレロ  ワ ヲ

上記が甲骨龜甲因書の元型である。

 

この文字を読むのに、朝廷語部制度の語りが絶対的に必要になる。

その理由は神道国学「概論」で示します。

 ここに、この問題を提起したのは「古代シュメール語」に、完全に甲骨龜甲因書の前進的文字を、筆者として観て、確認が出来たのである。

その一部の「古代クメール語」と甲骨龜甲因書の類似の表現を「写真添付」します。

比較対象をして見たら、甲骨龜甲因書と古代クメール語の相関関係が理解されると思います。

 

        神祇官 朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫 幽斎嗣子

                     神道国学者 一条力治 印

 

詳細な読み方・漢字の書き方・音読の語部制度については「神祇官」朝廷語部制度で解説しています。

 

 

甲骨龜甲因書の因書解読の方法、法とは「漢字の書き順」により、甲骨龜甲因書を解読する。

 

 古代の「慧慈」が倭の国に居住を求めることをせず、当時の朝鮮半島の文化の低い「独島」野蛮国には国家の主体的な国語の必要性を、現在の韓国語の漸進であるクメール語から韓国語へと、変遷した言語となるクメール語が上記のクメール文字と推理できる。それほど慧慈は朝鮮半島の文化の高揚に心がけられたのである。其の身元は北方騎馬民族倭属の一族で純粋に天皇属族の慧慈であった。

 慧慈が用いて「ハングル語」を朝鮮半島の文化として定着させようとしたのが「オシテ文字」と想定できる。

即ち、ハングル語と、オシテ文字は二列二連伏字の法則による同意の文字体が確認できるからである。

 

ここに記載されている「オシテ文字」には整合性が認められない。それはオシテ文字に「あいうえお」仮名が付されている実態である。全く相いれない表示になっている。◎あ・・文字の同意性が認められますか。?

処が「あ・ア」同意性が有ると観えませんか。慧慈が日本を去る時に、日本に有る一部の文字を朝鮮半島へ持ち帰り、朝鮮半島で新たな文化を創氣すると言い残して日本を去ったのである。(平安時代)・現在の日本国には「慧慈」の本質を知らない人々が多いい。史実は「慧慈」は朝廷人であったのです。従って、「神祇官」学問の相伝として遺されているのである。その根底から「オシテ文字」と「ハングル語」の対比を国学的に検証お試みているのである。

 そして、誰がオシテ文字に「仮名」を伏したのか、非常に不自然である。それは「オシテ文字」と「梵字」が二列二連伏字の法則として整合性が認められるのである。

 そこで、この二つの書体。オシテ文字と梵字である。双方ともに「シュメール語」とはほど遠い現代に近い書体になっているのである。従って「シュメール語」の深化に非常に近い、間違いが無く「シュメール語」深化が認められるのは・カナ「アイウエオ」の書体である。

 即ち、梵字とオシテ文字は「シュメール語」から相当に変化しているとは考えられない。深化していると認められない「文字書体」である。

そうして「オシテ文字」と「梵字」を甲骨龜甲因書の「アイウエオ」を対比してみると、甲骨龜甲因書の方が古代の「シュメール語」より深化したと考えられる。従って「オシテ文字」と「梵字」は「アイウエオ」甲骨龜甲因書より相当の後年代であると、対比すれば言えると思うのである。

 

基本の形・・参照すると「オ」のカタカナ、と整合されます。「オ」・・甲骨龜甲因書・・「一 Ⅰ ノ・」同でしょう、「オ」が書けます。

カタカナ・が、シュメール語と一致して「オ」創氣創造しているのです。支那の「象形文字」とは完全に異なっています

 

                神祇官 朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫 幽斎嗣子

 神道国学者 一条力治 印

掲載 神代文字一覧  

1.アイヌ文字・アイノ文字(北海道異体文字)2.アジチ文字3.アソヤマ文字4.アナイチ文字5.アヒル文字

6.アヒル草文字7.阿波文字8.イスキリス文字9.出雲(岩窟)文字10.伊予文字(秀真(ほつま)文字)

11.イムベ文字12.カスガ文字13.カタカムナ図象(カミツ)文字14.越文字15.サンカ文字16.モリツネ文字

17.惟足(コレタリ)文字18.タネマキ文字19.桃木文字20.対馬文字

 

 現在まで、「神代文字」と称される文字。「古代文字」と称される文字。

これ等の「神代文字」一覧に観られる文字は、ほとんどが「神道国学甲骨龜甲因書」の因書解読できる「カナ」文字で整理されている。従って、「神代文字」で文書、論文が書けると思うけれども、支那漢字と同類で、漢字を言葉に代えて用いる方法と類似している。

 しかし、日本語の「神道国学甲骨龜甲因書」を用いれば、「カナ」が「発音性・言葉」をつかさどる。漢字の部分では支那「漢文」の読み書きができる。

 

 日本国に於いて、日本語の根幹が「シュメール語」に成っているが、と書くと、「日本書紀」は何だったのかと言う疑問が湧くのである。筆者は、その通りであると思っている。しかし、神道国学の甲骨龜甲因書を解読すると、古事記の「辭氣」が伝わってくる。古事記を「辞」とすれば、その氣は何処になるかと言う探索の興味が湧くのである。そこで「古事記」より前の日本国の歴史が有るのだらうか、思慮してしまうのである。そこで、「藤原系図」を観て見よう。書き出しの「筆頭名」が「房前」で有る。「房」一族の因書。その前と読んで・・・「房前」と言う。この文字と文書が付良く解らなかった時代が良く小学五年から現在まで続いたのである。

さして「房前房前房前」と頭の中が上下左右の精神状態。抜け出せることが容易ではない。

 

 

 

 

 

 


シュメール語は、神道国学甲骨亀甲因書で深化する。

2015-06-06 15:32:56 | 政治経済と憲法九条

シュメール語から、漢字象形文字、直接シュメール語から甲骨龜甲因書に深化する。

 

一  丶 丿 乀 乙   基本法則で、聖徳太子「法興六「乙个可句何元」」語部制度の辭氣

 

一  丶 丿 乀 乙 乚 亅 乁 ╱➚ 乂 二 亠 儿 八 冂 冖 冫 几 凵 刀 刂 匸 十 卜 卜 卩 厂 厶 匚 口 囗 土 士 宀 小 尸 屮 巛 工 已 己 巳 巾 干 幺 广 廴 弋  彐 彐 彡 彳 忄 扌 才 氵 犭 辶 阝 㣺 戸 手  ・助辞

カタカナ 全てが「甲骨龜甲因書」の構成である。

シュメール語から支那「夏時代ニ里頭」宮城でほぼ完成している。

アイウエオ カキクケコ サシスセソ タチツテト ナニヌネノ

ハヒフヘホ マミムメモ  ヤ ユ ヨ ラリルレロ  ワ ヲ

上記が甲骨龜甲因書の元型である。

 

この文字を読むのに、朝廷語部制度の語りが絶対的に必要になる。

その理由は神道国学「概論」で示します。

 ここに、この問題を提起したのは「古代シュメール語」に、完全に甲骨龜甲因書の前進的文字を、筆者として観て、確認が出来たのである。

その一部の「古代クメール語」と甲骨龜甲因書の類似の表現を「写真添付」します。

比較対象をして見たら、甲骨龜甲因書と古代クメール語の相関関係が理解されると思います。

 

        神祇官 朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫 幽斎嗣子

                     神道国学者 一条力治 印

 

詳細な読み方・漢字の書き方・音読の語部制度については「神祇官」朝廷語部制度で解説しています。

 

 

甲骨龜甲因書の因書解読の方法、法とは「漢字の書き順」により、甲骨龜甲因書を解読する。

 

 古代の「慧慈」が倭の国に居住を求めることをせず、当時の朝鮮半島の文化の低い「独島」野蛮国には国家の主体的な国語の必要性を、現在の韓国語の漸進であるクメール語から韓国語へと、変遷した言語となるクメール語が上記のクメール文字と推理できる。それほど慧慈は朝鮮半島の文化の高揚に心がけられたのである。其の身元は北方騎馬民族倭属の一族で純粋に天皇属族の慧慈であった。

 慧慈が用いて「ハングル語」を朝鮮半島の文化として定着させようとしたのが「オシテ文字」と想定できる。

即ち、ハングル語と、オシテ文字は二列二連伏字の法則による同意の文字体が確認できるからである。

 

ここに記載されている「オシテ文字」には整合性が認められない。それはオシテ文字に「あいうえお」仮名が付されている実態である。全く相いれない表示になっている。◎あ・・文字の同意性が認められますか。?

処が「あ・ア」同意性が有ると観えませんか。慧慈が日本を去る時に、日本に有る一部の文字を朝鮮半島へ持ち帰り、朝鮮半島で新たな文化を創氣すると言い残して日本を去ったのである。(平安時代)・現在の日本国には「慧慈」の本質を知らない人々が多いい。史実は「慧慈」は朝廷人であったのです。従って、「神祇官」学問の相伝として遺されているのである。その根底から「オシテ文字」と「ハングル語」の対比を国学的に検証お試みているのである。

 そして、誰がオシテ文字に「仮名」を伏したのか、非常に不自然である。それは「オシテ文字」と「梵字」が二列二連伏字の法則として整合性が認められるのである。

 そこで、この二つの書体。オシテ文字と梵字である。双方ともに「シュメール語」とはほど遠い現代に近い書体になっているのである。従って「シュメール語」の深化に非常に近い、間違いが無く「シュメール語」深化が認められるのは・カナ「アイウエオ」の書体である。

 即ち、梵字とオシテ文字は「シュメール語」から相当に変化しているとは考えられない。深化していると認められない「文字書体」である。

そうして「オシテ文字」と「梵字」を甲骨龜甲因書の「アイウエオ」を対比してみると、甲骨龜甲因書の方が古代の「シュメール語」より深化したと考えられる。従って「オシテ文字」と「梵字」は「アイウエオ」甲骨龜甲因書より相当の後年代であると、対比すれば言えると思うのである。

 

基本の形・・参照すると「オ」のカタカナ、と整合されます。「オ」・・甲骨龜甲因書・・「一 Ⅰ ノ・」同でしょう、「オ」が書けます。

カタカナ・が、シュメール語と一致して「オ」創氣創造しているのです。支那の「象形文字」とは完全に異なっています

 

                神祇官 朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫 幽斎嗣子

 神道国学者 一条力治 印

掲載 神代文字一覧  

1.アイヌ文字・アイノ文字(北海道異体文字)2.アジチ文字3.アソヤマ文字4.アナイチ文字5.アヒル文字

6.アヒル草文字7.阿波文字8.イスキリス文字9.出雲(岩窟)文字10.伊予文字(秀真(ほつま)文字)

11.イムベ文字12.カスガ文字13.カタカムナ図象(カミツ)文字14.越文字15.サンカ文字16.モリツネ文字

17.惟足(コレタリ)文字18.タネマキ文字19.桃木文字20.対馬文字

 

 現在まで、「神代文字」と称される文字。「古代文字」と称される文字。

これ等の「神代文字」一覧に観られる文字は、ほとんどが「神道国学甲骨龜甲因書」の因書解読できる「カナ」文字で整理されている。従って、「神代文字」で文書、論文が書けると思うけれども、支那漢字と同類で、漢字を言葉に代えて用いる方法と類似している。

 しかし、日本語の「神道国学甲骨龜甲因書」を用いれば、「カナ」が「発音性・言葉」をつかさどる。漢字の部分では支那「漢文」の読み書きができる。

 

 日本国に於いて、日本語の根幹が「シュメール語」に成っているが、と書くと、「日本書紀」は何だったのかと言う疑問が湧くのである。筆者は、その通りであると思っている。しかし、神道国学の甲骨龜甲因書を解読すると、古事記の「辭氣」が伝わってくる。古事記を「辞」とすれば、その氣は何処になるかと言う探索の興味が湧くのである。そこで「古事記」より前の日本国の歴史が有るのだらうか、思慮してしまうのである。そこで、「藤原系図」を観て見よう。書き出しの「筆頭名」が「房前」で有る。「房」一族の因書。その前と読んで・・・「房前」と言う。この文字と文書が付良く解らなかった時代が良く小学五年から現在まで続いたのである。

さして「房前房前房前」と頭の中が上下左右の精神状態。抜け出せることが容易ではない。

 

 

 

 

 

 


天皇命之日本史

2015-02-27 10:57:27 | 政治経済と憲法九条

天皇命 日本史”! 2012-10-22 10:34:29 | 神道国学

 西暦 201年 應神元年 辛巳 から 以前の天皇は一心神の万世一系の千代万の神々が其の天皇甲骨亀甲因書の因書で顕されている。現在支那・中国の最古の宮城は「夏・二里頭」と先日NHK・総合テレビで紹介された。「仲夏・中華・二里頭」は日本語の神道国学甲骨亀甲因書の因書で著書編纂されているのである。そして甲骨亀甲因書の創氣は中東方面で草稿されて要る。

 二里頭→「股」股は二里頭の因々因→周皇帝~倭国・倭寇・倭人・奴国~国造りの甲骨亀甲因書の神々~「天地創造の甲骨亀甲因書」へと続く。!

 

漢文読みでは、魏志倭人伝が「故事・日本語の甲骨亀甲因書」で有るから、解読は不可能である。

この神道国学甲骨亀甲因書の因書解読から吉野ヶ里が、日本国の国造り「大国主神」を示す。高千穂の天孫降臨は、常に現在「天之御中主神」は降臨されていない。天皇「礼拝神」と祭祀と対話を賜っている。

 天孫降臨は其の神を日本国に降臨されたと言う明らかな辞気神「天照大御神」である。

 

ここで、其の日本史は「神道国学甲骨亀甲因書」の因書は中国最古と言われる支那「夏・仲夏・中華」その国は「二里頭・宮城」である。この読み方は完全に日本語である。更に「竹島・独島」「尖閣諸島」等々は完全に日本語である。日本語の領海権・領土権は完全に日本国の全主権の及ぶ日本国である。

 古代の「倭国・倭寇」「倭人・奴国」等々は完全に神道国学甲骨亀甲因書の因書に因る顕かな「日本語である。竹島・独島・尖閣諸島も同様に神道国学甲骨亀甲因書の明確な日本語である。領海権領有権は言うまでもなく日本語の日本国の絶対主権領土領有権である。

 

これ等の史記を顕かに示しているのが・大斗乃弁神である。この神の・甲骨亀甲因書は顕かに支那大陸を民族大移動している甲骨亀甲因書の因書が顕かに示している。即ち、日本人は民族を大移動した高度の文化を内示する民族である。

その民族は千島列島~北米・南米・南極へ方面まで大移動している。その文献は神道国学甲骨亀甲因書で示されているので、その遺跡が顕かにされたら「因書」・理解される時代が訪れるであらう。

 現在、その民族大移動の経路は「万里の長城の「東側」を・ウラジオストック当たりへ移動している。それは吉野ヶ里の日本国創造の領海領土を神道易学方位図で顕かに示し続けているのである。

 神道国学甲骨亀甲因書の因書を解読すれば、支那「漢民族」より高度な文化を有する「倭寇」王の冠を頂いた民族である。その倭寇に委任された民族を「倭人」と神道国学甲骨亀甲因書の因書は顕かに示し続けてるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝廷中務省正四位 上卿神主祝詞太夫幽斉嗣子

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・神道国学者 一条力治 印

 

この古代史・甲骨亀甲因書の古代史・現在も調査研究中である。「朝廷中務省正四位 上卿神主祝詞太夫幽斉嗣子・神道国学者 一条力治印」参考資料が有れば情報提供の御願いをします。御協力のほど、宜しく御願いします。

http://www.k4.dion.ne.jp/~oribee29/newpage41.htm

 

 十九代の神々から~「天皇」

 

 『唐會要』

    宋  王溥 撰  (日本語である・朝鮮日本府の編纂)

 

卷九十九

 倭國

    古倭奴國也。古倭奴国は支那奥地の国で、在新羅東南・居大海之中。明確に民族移動を示している。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。椎髻、無冠帶。隋煬帝賜之衣冠。今以錦綵爲冠飾。衣服之制、頗類新羅。腰佩金花、長八寸、左右各數枚、以明貴賤等級。

 

">「賤」・甲骨亀甲因書である。因書解読。

 賤・・冂ケイガシラ ヲ 三心 二 封じ 乙別分 ハ 乙 二 シタガイ 戈 ト 戈 二 シタガウ。

 一般用語では、政治経済貨幣 ヲ 参尊参座 ハ 万物の生成 ヲ 更に 乙別分 ト 乙にシタガウ。乙別分 ト 乙とは経済の交流を示す因書である。

・・・以て明らかな貴方は、政治経済貨幣 ヲ 参尊参座 ハ 万物の生成 ヲ 更に 乙別分 ト 乙 二 シタガウ。乙別分 ト 乙とは経済の交流を示す。は 等級である。賤しい「銭」に振り替えて賤しい因書を造語にした。犯人は神道国学者の弟子であった藤井徳佐衛門である。   

 貞觀十五年十一月使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海數月方至。【自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。】表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。由是復絶。

    永徽五年十二月、遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之仍云「王國與新羅接近。新羅素爲高麗,百濟所侵。若有危急、王宜遣兵救之。」倭國東海嶼中野人、有耶古,波耶,多尼三國、皆附庸於倭。北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。頗有絲緜、出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者、云海中湧出。

    咸亨元年三月、遣使賀平高麗。爾後継來朝貢。則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。

    大歴十二年、遣大使朝楫寧,副使總達來朝貢。

    開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢。

 卷一百

 蝦夷國

    蝦夷海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭、插於首、令人戴瓢而立、數十歩射之無不中者。顯慶四年十月隨倭國使至入朝。

 哥羅舎分國

    哥羅舎分在南海之南、接墮和羅國。其王名蒲越摩伽。精兵二萬人。其使以顯慶五年發本國、至龍朔二年五月到京。

 日本國

    日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云「日本舊小國、呑併倭國之地。」其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

    長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物。朝臣眞人者、猶中國戸部尚書。冠進徳冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。好讀經史、解屬文、容止閑雅可人。宴之麟徳殿、授司膳卿而還。

    開元初、又遣使來朝、因請士授經、詔四門助教趙元黙就鴻臚教之、乃遣元黙闊幅布、以爲束脩之禮、題云「白龜元年調布」。人亦疑其僞爲題。所得錫賚、盡市史籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、歴仕左補闕、終右常侍,安南都護。

 

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 ________________________________________

http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/alex-x@ceres.dti.ne.jp

 

              錦織部。

 

 

 

 天皇命 之 日本史”!

 西暦 201年 應神元年 辛巳 から 聖武 20年 戊子 西暦 748年 までの 天皇命因書解読。”!この天皇名に、日本史が甲骨亀甲因書で編纂著書されて要るのである。”!

 天皇命 摂政  功>紀元 天皇命>應神・・覆仲・反正・・充恭・・安康・・雄略・清寧・顯宗・仁賢・・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・・用明・・崇峻・・推古・舒明・・以下省略皇極・孝徳・・斎明・天智・弘文・・天武・・持統・・文武・・元明・元正・・聖武・・孝謙・・淳仁・稱徳・光仁・・桓武・>

 「應神」西暦 201年 312年・

(應)あたる當 うく受 は 推定の辭 「まさに」とよみて返して「すべし」しよむ。こたふ こたへ答 は 天子おはします宮城 に したがふ順。

あたる敵 に たふ任 は とのいす直 に ならぶ偶 は かなふ適 は つかさどる主 は むかふ對 に あふ遭 は おほふ蔽 に あたひす値 を つたふ傳 を きく聴 に つぐ継 は いる容 に もる盛 先ず「まさに」と読みて「すべし」と反して読む。そこ底 に しちいれ ひきあて抵質 に 天子の宮城 は したがふ順。

かみ 天上の主催者 あまつかみ 宴冥 裏に存在して人間以上の霊力あるもの 又はいつきまつれるもの たましい精魂 精氣 こころ心 霊妙なること 測り知るべからざること 謚法の一 諡法の一。

 

 > 「つかさどる主 は むかふ對 に あふ遇 は おほふ蔽 に あたひす値」の因書は、筑紫耶馬台国の バウ月 の 因書に因々因が伏字で結合して要る。そしてとは、鳥居の創建されていた門前の関 闕 を有し、を祀れる因々が吉野里にある。更に奈良の吉野の地名は、筑紫の吉野里の吉野の因々である語部である。(因々因の結合因書より解読)と宮城の同居の地 吉野里と一致する。

  そして吉野里には敵はいない。其処で敵の因々因に結合する伏字とは、神々の因書解読書より、西暦 208年 應神八年の赤い壁の戦いに通じる。此の赤い壁事変が最大の敵の因々であり、因々因解読書より業督中空座氣の業で視ると、此の事変意外には因々が伏字で結合しない。したがって、應神は、赤い壁と筑紫吉野里の府歴を顕わす因書である。

  (因々因の因書の結合は甲骨亀甲因書の解読より生じる)

  しかし、西暦 200年 應神元年 前年頃 倭国大乱(後漢書倭伝)が敵の因書としてある。205年 應神5年 朝鮮に帯方郡を設置 一見日本から朝鮮出兵と思われるが、さにあらず 宮城は旧満州国のウスリークス辺りと神々の因書に編纂されて要る。

  220年 應神20年 三国時代となる(後漢滅ぶ)。 後漢より宮城を蔽う因書が、「つかさどる主 は かふ對 に あふ遇 は おほふ蔽」である。

  239年 應神39年 耶馬台国女王卑弥呼を共立。(魏志倭人伝)同年耶馬台国卑弥・・魏に・・・・遣使。”!

  243年 應神43年 卑弥呼魏王に物を贈る。(魏志倭人傳)

これらの因書は、「いる容 に もる盛 先ず「まさに」と読みて「すべし」と反して読む そこ底 に しちいれ ひきあて抵質 に 天子の宮城 は したがふ順」である。

                「仁徳天皇」へ 続く”!53.htm

この記録は「朝廷中務省正四位 上卿神主祝詞太夫」の記録で、応仁乱から安芸国佐伯庄毛保一条邸に中務省の公文書を疎開していた古文書である。

 特に「天皇命 摂政  功>紀元 天皇命>應神・・即ち、応神天皇の房前は「摂政 せっしょう) 功は神命から応神天皇と天皇名が史記として顕れるのである。

 以下・万世一系の神々が天皇名の前房である。以下 其の神々との神々 命 を 房前神々を甲骨亀甲因書として示す。

 

 天照大御神 の 由来”!「天皇名因書」

 

 天皇名は神道国学甲骨亀甲因書の因書に因って著書編纂されている。簡易に説明すれば甲骨亀甲因書の古代史記の文字を調査すると、顕かに中東当たりで甲骨亀甲因書が用いられている。

 最近の文字と言葉のルーツ・史記はイスラエルの文字に日本語のカタカナに似た神道国学甲骨亀甲因書と同類に観察される文字がインターネットで公開された。

その史記の歴代から創氣された神道国学甲骨亀甲因書の神々が「天之御中主神」以下の通りの倭国日本国の万世一系の神々である。

  天之御中主神(股・周皇帝以前の甲骨亀甲因書)  高御産巣日神 神産巣日神

 恩金神 宇摩志阿斯詞備比古遅神 少名田ヒ古邦神 天之常立神 国之常立神 豊雲野神 須比智迩神

 宇比地迩神  活找神  角找神  大斗乃弁神 意富斗能地神 阿夜詞志古泥神 於母陀流神 伊郁那美神

         天照大御神

 甲骨亀甲因書解読”!十九代 天照大御神・・・

大いなる一心  は  大いなる一体に従い

一心一体 の 流れ の 亂れ を  断切る  大いなる一体別分に従ふ。

       天照大御神は顕かに「応神天皇」に万世一系に為っている。因書

  神話の神様で、天之巌戸”! を開かれた天照大神です。この甲骨亀甲因書が応神天皇である。

 応神天皇とは何に対して「応じた」が、その名は「天照大御神」である。

 天照大御神を解り易く顕わされた神様で、神道の辭氣では天照大御神と同辭氣の神様です。”!

 

              朝廷中務省正四位 上卿神主祝詞太夫幽斉嗣子

                       神道国学者 一条力治 

 

 西暦 201年 應神元年 辛巳 から 魏志倭人傳

 

 倭人在り帯方の東南大海の中依別分一体の衣の山烏(烏巣)の山の為に国邑「甲骨亀甲因書・示は亶?百々食余アマル」

 国は水の方位は漢「歴の時・有「一心を断ち切る別分の舟月」に朝を見る者今の使い譯の所を通る参拾国を従え郡に到るは倭循海「取巻く海岸」水行歴韓国乍南東に到る其の北岸狗邪「いやしい」

 韓国より千「一心一体の流れ 大いなる乙 一心一体に従う」食余アマル里。

 邪馬壹国。「国家の因書」

 

 食料「稲作」も九州から食余る「稲作」が伝わる豊かな日本国から韓国へ伝える明確な因書が示されて要る。

 詳細に解読すると、邪馬壹国は喰う事には「余る」十分な食料があり、倭族の先導で邪馬壹国に民族が移動した。

 水の方位は「漢・歴の時とは?・大々的に倭族民族が移動した歴・と言う辞気である。

 「一心を断ち切る別分の舟月」・・・今の使い譯(韓国)の所を通る・・・・

 

神道国学の甲骨亀甲因書で「邪馬壹国」の解読書と完全に一致して要る。

 

 

 魏志倭人伝は神道易学者の祖が執事した文書である。従って全編に渉って神道易学の甲骨亀甲因書で著書編纂されて要る。

 特に注意して解読しなくては為らない場所は「十日」とか「二十日」「一月」の文書である。

この文書は日にち日数が書かれて要るのではない。明確に日数の認識は無く、甲骨亀甲因書に因る語部で伝える「語部因書」に為っている。

 更に「一月」は第二次長州征伐で藤井徳佐衛門に略奪されて偽造されたのである。従って正しくは「一バウ月」である。

 

 始め度(渡) 一海千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る里。至る

對海国 其の大官曰く・卑狗副曰く・卑奴母離れ所居・絶烏山

の方可・四方百々食余る里。土地山険しく・多くは森深く林の道路如何に・?鹿径(獣道)有り・千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る里は無し。良い田・食海物は自活・乗船南北市は雑日。

 

 決まった定期的な市は無く・自活した生活と言って要る。

  

 又南に渡る 一海千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る里の名曰く・満る海に至る・一大国の官・亦曰く・卑狗奴副曰く・卑狗母離れ方可へ参百々里。多くの竹木業林有り・参千「大いなる乙・一心一体に従う」許す家差有り・田地耕す田猶に不足・食亦南北市は雑。

 

 定まる定期的な市は開かれていない。

  

 又渡る一海千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る里に至る。末盧国有り・四方千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る里の戸は・濱山海に居・草木茂盛し行くは不・見る前の人・好きな捕魚鰒・水無し深い浅いは皆沈没して取る・之東南陸行く五「一心一体の冂は大いなる一体に従う」百々の里に到る。伊る都の国の官曰く爾・支える副曰く・シ丗漠魚爪柄は梁魚爪有り・千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る戸は丗有り・(魚は舟の因書)・王は皆を統属の女王の国の郡の使いが往来して常駐所である。

 海人「水軍」の伊の都の所在地の因書である。

 

 

 東南に到る・奴国は百々の里の官曰く・?馬(狗奴二国を包み込む心)魚爪の副曰く・卑奴(陸軍)母は離れて有り・弐萬食余る戸・東行くに至る。不「一心別分一体の乙」の弓は爾に従う国は百々の里の官曰く・多く模型副曰く・卑奴母離れて有り・千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る家は南に至るは投馬(投矢壷)邪馬壹国の水行(易学方位)廿は日く・(一心の二体を二心に伏字)の官曰く・(狗奴)二国の彌彌の副曰く・彌彌邦の禾二分に断ち切る可。五(一心一体の冂は一心に従う)萬食余る戸。

 

 狗奴(くな)二国は「狗」水軍・「奴」陸軍。萬食を別ち南の投馬(投矢の壷)邪馬壹国の吉野ヶ里。卑弥呼の御所を・・・!!?

 

 

南に至る邪馬壹国女王之所の都・水行十(易学方位)「一心一体」曰く・陸行(一月は藤井徳佐衛門の偽造・真実は→) 一月バウ官有り・伊支馬(十二支易学者)次曰く・彌馬升(易学に通じる者)次曰く・彌馬獲支(易学を獲る者)次曰く・奴佳?可(兵)七「一心一体の流れ」萬食余る戸。自ら女王国以って北其の戸屋敷の道の里。可得る略載(秘密)其の食余る傍の国は遠く絶。詳しく得るは不可。

 

 

 次に有る斯く馬国・・神道国学の甲骨亀甲因書の継承者を馬「丙午」と言う。

 左記の国々の名は神道易学に因り付せられて要る。従って其の因々の因書地名は現場で因々を発見しないと明確な国々と其の区域と地名の割り出しは困難である。

ただ・蘇奴国は筑紫盤井乱の蘇我氏の因書は明確に断定できる。即ち「蘇我」の甲骨亀甲因書の解読の因々が史実と一致する。

 

 

 其の南に有り・狗奴国男子為王・其の官有り・狗は古智の卑狗は不属・女王自ら郡に至る。女王の国は萬弐千「大いなる乙・一心一体に従う」食余る里。

 

 男子無・大小皆鯨(舟は京都に従う)面顔・丈身は自ら古以って来・其の使勅旨・中国皆自称太夫・夏皇后少康之子・對に於ける會・?断髪丈身以って避蛟龍之害・今倭の水人好んで沈没捕魚蛤・丈身亦以って大魚水?後稍以って為に飾り諸国丈身・各々異或る・左或る・右或る・大或る・小尊卑有り・差計其の道の里。當在會・稽古は東を治め之の東。

 狗の海人を沈没捕魚蛤の水泳術で以って治めた因書である。因って女王自らの捕魚蛤に私傷が無く安泰して海人を治。

 

 倭地温暖冬夏の食生活・野菜を皆徒足先に有り・屋室父母兄弟貝ト息異處以って朱丹塗り・其の身體の如く・中国用粉也。食歌用辺旦手食・其の死有り・棺無く・椰子對土作(壷塚)で死を停止喪「十」「一心一体に従う」食余る日まで・當時は不食肉・喪主哭泣く・他人就歌舞飲酒・己は葬儀挙げ詣・水中の梁。(禊)

 

 

 

 

其の行来・渡海詣で中国恒使う一人は不梳頭・不去虫幾蠹・衣服垢汚・不食肉・不近婦人・如く喪人名之為に持つ衰・若い行く者・吉善共に題す・其の生口(生は口構えに従う)財物若く有り・疾病遭暴害便欲殺之謂・其の持つ衰・不謹出・真珠斉王・其の山に有り・丹・其の木有り・棚杼豫・樟椽櫪・投橿烏號・楓香り・其の竹篠幹桃支え有り・薔薇橘椒衰の荷・不知を以って為すは滋味。

 

BC219 [中] 斉の方士だった徐福が秦の始皇帝に倭国行きを求める

 

其の俗挙げる事行き来有り・所為に椰灼骨・而してトを以って占い吉凶先告所ト其の辞気の如く會龜法視火圻占い・兆・其の會同坐起こす父子男女無く・別人嗜酒其の垂黽俗略は不・曰く・「春知り耕すは正に秋嵐収四方為節年但し紀計」見大人所敬う但し壊手以って當跪拝其の人壽考・或る百年或る八九年・其の俗国大人皆四五婦・下戸・或る二三婦婦人・不淫・不妬心・不盗竊少訴訟其の犯法軽者没・其の妻子童者没・真門戸及び宗族尊卑各々有り・差序足相臣服収租賦棄邸閣国々有り・市交易有り・無い使いは大倭監之。

 

 

 自ら女王国以って・北特に位置・一大率検察諸国・畏憚之常に治め伊都国於いて国中有るが如く刺史王遣使詣で京都帯方都諸韓国及び郡使倭国皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣で・女王不得・差錯・下戸・興す大人相逢う道路遂巡入り草傳辞気訟事・或る蹲・或る跪・両手據地為に之恭敬對應声曰く・噫比如く然諾。

 

 韓国はこの時代より日本国に対して刺史・歴史認識と言う誤った政治圧力を加え続けて要る。

 

 

 其の国本亦以って男子為に王住む七八十年倭国亂れ相攻伐歴年乃共立一女子為・王名曰く・卑弥呼事「鬼道」ノ無い「鬼」鬼道→政経道辞気と読む。能感衆己を長大無夫壻有り・男弟佐治国自らの為王・以来少有見者・以って婢「乙一心一体」人・自らの侍唯有り・男子一人給飲食傳辞気出入り・居処宮室楼・観城棚嚴設常有人・侍兵守衛

 

     後の「建速須佐之男命」である。!

 

 

女王国・東渡海千「大いなる一心一体に従う」食余る里・「彳亠ロ夊」(交ざる)有り・国皆倭種又有り・侏儒国在り・其の南人・長三四尺去る・女王四方千「大いなる一心一体に従う」食余る里又有り・裸国黒歯国(交ざる)在其の東南船行壱(輪廻比較)年可至る牙問倭地絶・在海中洲烏山之上・或る絶・或る連周旋可・五千「一心一体冂大いなる一心に従い・大いなる乙一心一体に従う」食余る里

 

    邪馬壹国の所在地を明らかにせず伏せて要る因書である。

 

 

 景初二年六月倭女王遺す太夫難升「乙一体別分は大いなる一心一体は乙に従う」米等詣!「言亠日」で郡求め詣で天子朝献太夫守劇夏遣使将送り詣で京都・其の年十二月詔書報じ倭女王曰く・制詔親魏倭王卑弥呼帯方太夫守劇夏遣使送る汝太夫難升米次ぐ使い都市牛利奉ず汝所献上男生口四人女生口六人班布二匹二丈以って到る汝在所踰遠乃遣使貢献是汝之忠孝我甚だ衰汝今以って汝の為親魏倭王假金印紫綬装封付す帯方太夫守假授・汝其の綬撫種人勉為す孝順。

 

   献上男生口四人女生口六人・は・人質の因書。

 

 

 汝来使難升「乙一体別分は大いなる一心一体は乙に従う」米牛利渉遠道路勤労今以って難升米為す薬善中郎将牛利を為す薬善校尉假銀印青綬引見労賜う遣還今以って降地交龍錦五匹・「以臣を為す松地之此應字為す不総體漢非丈魏帝朝著之白十衣則諸傳之写弋者授誤是也」降地?栗罰十張?降五十匹紺青五十匹草合汝所貢献直ちに又特に賜う汝紺地句丈錦三匹細班華罰五張白絹五十匹金八両五尺刀ニ口銅鏡百枚真珠丹各五十斤皆装封付き難升「乙一体別分は大いなる一心一体は乙に従う」米牛利還到る録受悉く可以って示す汝国中人・使知国家衰・汝故鄭重に賜う汝好物也。

 

   

            (ハ)ハ(丼に従うと簡易に解読・鳥居の因書)

       (丼・鳥居の因書)

 

  元始元年太夫守弓遵したがう遣建中校尉梯惟凹 等 奉詔書印綬詣!「言亠日」

 倭国拝假倭王「(ハ井書)ハ鳥居の甲骨亀甲因書である」

  齋(齋殿の因書)詔賜う金帛錦罰刀鏡釆物倭王因使上表草合謝

   詔恩其の四年倭王復遣使太夫伊聲老口掖邪拘等

   八人上献生口倭錦縫う青練緜衣帛布丹木附短弓

   矢掖わきはさむ邪拘等壹「壱且」拝楽善中郎将印

 綬其の六年詔賜う倭難升「乙一体別分 は 大いなる 一心一体は乙 に 従う」米黄憧付郡假授其の八年太夫守王順

   到る官倭・女王甼彌呼興す「ちょうてい・いよいよ・よび・おこす」狗奴(くな)国男王甼彌弓呼素不和・遺・倭載斯

   烏越え等詣で郡訟相攻撃状遺塞・曹掾史張等因 

   齋詔書(齋殿)・黄憧拝假難升、「乙 一体別分 は 大いなる 一心一体 は 乙 に 従う」米為す・?

きょう告喩さとす。

 「言亠日」:言は乙大いなる一心に従うは 日に従う。

 日本国の「日」の名称の初期日本の日の辞気が明確に甲骨亀甲因書解読に因る断定因々が明らかに視られる。

 

 卑彌呼以って死・大作家径百々食余る歩徇葬者はしため百々食余る人・更立男王国中不服更に相誅殺ちゅうさつ當時殺千「大いなる乙一心一体に従う」食余る人・

復立甼彌呼「ちょうてい・いよいよ・よび・おこす」宗女壹與年十三為り・王国中遂定政等以って?きょう告喩さとす・壹與遺倭太夫楽善中郎将掖邪狗等に十人送政等還因詣!「言亠日」壹献上男女生口三十人貢白数珠五千「一心一体 冂は 大いなる一心に従い・大いなる乙一心一体に従う」孔青大句数珠二枚異丈雑錦二十匹。

(生口は人質の因々)

 

「鬼」甲骨亀甲因書は・・以下

    「田」「ノ」「L」「ム」=「鬼」

 簡易解読・・・

「田」・・当時の「田」は資産財産の因書で喰う生活財。

 「ノ」・・上記とは「一体別分」の因書。

 「L」・・一体屈曲の流れの乱れ・因書

 「ム」・・某 の 因書

 

 簡易解読・・資産財産の生活財は・・?

      一体の別分「交換交際の因書」は・・

    其の屈曲の流れの一心の亂・・・・は・・

      某に従う。(神道易学)占い。

 一言で纏めると・・政経の資産財産土地海・統括権の因書。

 「鬼道」・・統括権の道(道とは神道の因書)

後の「鬼退治」の鬼の因書ではない。五島列島に遺る鬼は「良い鬼」で遺る

魏志倭人伝の鬼を現在の鬼・漢文読みの鬼ではない。

           神道国学者

 阿夜詞志古泥神アヤカシコネノカミ

卑弥呼・以って死す。大作家径・百々食余る歩殉葬者奴卑(陸護)百々

   死後の総称「阿夜詞志古泥神」

 

           卑弥呼・&・魏志倭人伝は日本語読みで

漢字の上から順番に読んで下さい。

 漢文読みでは魏志倭人伝は解読出来ません。

                        朝廷中務省正四位上卿神主祝師

                                 神道易学・末裔

      質問お問い合わせ

 

                               本文の終り・!!

 

             吉野ヶ里が「邪馬壹国」である。

 

  以下の記録は全てが神道国学の甲骨亀甲因書で著書編纂されている。

 従って甲骨亀甲因書の解読が真実の歴史の記録として顕れます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これまで調べた資料を総合すると(ひとつの考え方として)

 

  それどころか、例えば日本人は日本語を生み出すのに「中国から漢字を借りてきた」ような言われ方をしたりしますが、実はそれは「斉語」などのように「最初から倭族の言葉」であり「倭人の言葉の一部」なのです。

 

それが日本列島で話されていたツングース語・モンゴル語と出会って融合し、後に漢語や朝鮮語、さらにはポルトガル語や英語も混じって現在の日本語ができるわけです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

非常に大切で重要な言語の分析をされました。私は最初に仏教の経文が読めるはず。と思って取り組みました。

しかし読めませんでした。

 

 処がある日、私の遠縁で友人と話して居た時、其の学問の話が出ました。そしてどんな学問かを思い浮かべて其の学問を調べる事にしました。

そして因書は知って居ましたが其の奥に甲骨亀甲因書が存在する事を見つけたのです。とは言っても薄々は知って居た事ですが、明確に判断できる処までは達して居ませんでした。しかし達したのです。

 其の神道国学の甲骨亀甲因書で漢字を読むと、全ての漢字が甲骨亀甲因書に因り構成されて要る事実を熟知したのです。

 即ち、漢字は明確に「周」時代に倭人一門が創気した事実を甲骨亀甲因書の解読により熟知したのです。

 従って、漢字が偽造改竄されても甲骨亀甲因書の因書を解読すれば如何なる漢字の偽造も復元が出来るのです。

 即ち、甲骨亀甲因書で解読すれば偽造改竄する事は不可能であります。更に偽造改竄された漢字により歴史を偽っても其の因々の因書の継続性で解読すれば虚偽の漢字と言葉が顕れます。即ち、甲骨亀甲因書を用いれば改竄の文書は悉く顕れるのです。

その甲骨亀甲因書を歴史に適合すれば真実のみが明確に継続性として現れます。

 今日は此処までにして措きます。この神道国学の甲骨亀甲因書の話は際限が無く続きます。語部として話すと一年は継続して語る語部に為ります。

この語りを朝廷語部制度の「語部」と言います。

 今日はこれで失礼をします。又々気が向いた時には大切な因書を記録して置きます。

 

 

BC473 [中] 春秋時代 越が呉を滅ぼす

BC111 [中] 春秋時代 越が滅びる

BC256 [中] 楚が魯を滅ぼす

BC221 [中] 斉が滅び秦の始皇帝が全土を統一する

BC219 [中] 斉の方士だった徐福が秦の始皇帝に倭国行きを求める

BC206 [中] 奏が滅び前漢が興る

紀元前後[日]倭人は百余国に分かれてその中の何国かは前漢の楽浪郡に朝献

  8年 [中] 前漢が滅び新が興る

25年 [中] 漢(後漢)が再興する

57年 [日] 奴国王が後漢に入貢、「漢委奴國王」の蛇紐金印を授かる

107年 [日] 倭国王 師升、生口160人献上

    この時代・角木戈神の時代はムータンヤン・ウラジホ付近「倭族国」である。

 三公の臺(同属の因書)は・支那三国の因々で、 後漢の六臺 は 五組に続く倭国

    神道継承者の一組の因々である。此等は倭国亂の因々である。

178~184年[日] 倭国の大乱の辞気→  [夫余] [高句驪] [東沃沮] [韓] [倭]

「應神」西暦 201年 312年・倭国大乱は国外が明確である。

204年 [朝] 遼東の公孫康が帯方郡を置く

220年 [中] 後漢が滅び魏が興る

230年 [中] 呉の孫権が台湾・日本の探索艦隊を派遣する

238年 [朝] 魏が公孫氏を滅ぼし帯方郡を支配する

233年 [朝] 新羅に倭人が来攻

239年 [日] 卑弥呼、魏に遣使、銅鏡、「親魏倭王」金印を授かる

243年 [日] 倭王、魏に大夫を送り生口・倭錦などを献じ、魏の少帝の使者に印綬を授かる。

245年 [日] 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする

247年 [日] 倭の女王卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼と対立し、使者を帯方郡に派遣し狗奴国との交戦を告げる。魏は使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を難升米に与え檄をつくって告喩する。

248年 [日] 卑弥呼死ぬ。径100余歩の冢をつくり奴100余人を殉葬する。

 男王を立てるが国中服さず誅殺しあい1000余人が殺された。

 卑弥呼の宗女、壱与{いよ(又は台与・とよ)}が女王となり国中治まる。

262年 [日] 大倭が魏に遣使

 魏の使者は、檄をもって壱与に告喩する。

266年 [日] 台与が倭の大夫ら20人に魏の使者を送らせ、生口30人白珠5000孔などを            献じる。

280年 [中] 西普に呉が滅ぼされる

                 「應神」西暦 201年 312年・倭国大乱は国外。

313年 [中] 西普が滅ぶ

346年 [朝] 百済が近肖古王に統一される

356年 [朝] 新羅が奈物王に統一される

391年 [朝] 高句麗に広開土王が即位する

391~393年 [朝] 新羅・百済(・加羅)に倭軍が渡海して来攻する

399~400年 [朝] 高句麗が倭軍と交戦する

404年 [朝] 高句麗が倭軍を敗退させる

413年 [日] 倭王「賛」が東普に遣使朝貢する

475年 [朝] 高句麗に百済は一度滅ぼされ王族・有力豪族等数万人が倭国に亡命

477年 [朝] 雄略天皇が百済を再興させる

527年 [日] 磐井の乱によって加羅(任那)救出の渡海できず

562年 [朝] 加羅(任那)が新羅に併合され多くが倭族に逃れる

 

 

                                本文の終り・!!

 

 魏志倭人伝は朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫が当時「魏」との交わりで著書編纂され、応仁乱まで京都一条邸の蔵書であった。応仁乱で金印が消失し、遺された記録を安芸国佐伯庄毛保 一条邸 に疎開した。

  そして慶応二年第二次長州征伐により、勝海舟と西郷隆盛が嚴島大願時境内寺社奉行所一条邸中座敷で 西郷隆盛 勝海舟 朝廷中務省正四位細川義部立合い。和議が整う。其の後数日後に広島藩自称筆頭家老藤井徳佐衛門が毛保一条邸に細川義部殿を誘致。理由も無く切腹と虚偽惨殺する。計八名。そして・・・・・・・・

一条邸は藤井徳佐衛門により焼討ちに合う。

  疎開した朝廷中務省正四位の蔵庫品の全てが藤井徳佐衛門に因り略奪焼却遺棄された。その失った貴重な遺品が戦後各所から発見されたのである。その発見された遺品の一部が「魏志倭人伝」である。当時支邦「魏」で編纂と朝廷語部制度の語部で継承する。

  従って、魏志倭人伝は神道国学の甲骨亀甲因書で著書編纂されて要るので、一般的な「誤字」の漢字が純粋な神道国学の甲骨亀甲因書の漢字である。即ち、魏志倭人伝は神道国学の甲骨亀甲因書の解読でないと正確に解読する事は不可能である。

  其処で、本書に於いて、神道国学一子相伝(霊元天皇)一条力治殿・魏志倭人伝を解読著書編纂書を此処に「公開」する。

その貴重な解読書であるから皆々様は大切に保存されて熟読を切にお願いする。

 

2006年2月3日 0:52:30

               著書編纂者 朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫 幽斎 嗣

                                神道国学者 一条力治 

お問い合わせ

 

 現在までの魏志倭人伝の解読書は漢文読みで日本語で読んでいません。即ち、魏志倭人伝は虚偽文書として

日本国の歴史として普及してしまいました。

  その虚偽解読の魏志倭人伝のサンプルを公開します。真実の魏志倭人伝との解読の極端な差を熟知して下さい。

 

 

 漢文読みの一般的な「魏志倭人伝」の解読書を紹介します。全く其の歴史の真実は国益の命と歴史の命に通じるのです。

 

 漢文読みの魏志倭人伝が如何に日本史を曲解したかを熟知して下さい。

 

                               神道国学者

 

        甲骨亀甲因書の著書編纂と解読の古文書を紹介する。

 後醍醐天皇の「アヒル」文字・・此のアヒル文字が、神道国学甲骨亀甲因書である。

 嚴島神社舞楽は「四天王寺」から一条が応仁の乱で

 

舞楽の一部失い其の舞楽を復元す。

 

 其の継承者の絶対因として嚴島神社に「ミイケ御囲家」を遺す。!

                             

 

 縄文時代と神道国学の関連の辞気が「語部」で継承する。其の語部を以下に紹介する。

 其の語部の第一義は図柄の辞気の継承である。しんし、実に簡単明瞭であるから数千年の継承力を維持して現在に至るを信じているのである。

  其処で其の継承の語部の内容を公開する。即ち、「○文字・丸の渦巻き」これ等の図柄が古墳等に絵が書かれて要る。

  其の辞気は、神道国学の「輪廻」の法則の信教が示されて要るのである。従って「○文様・渦巻き文様」これ等の図柄が存在する古墳壁画・土器等の出土品に記されて要ると「倭族」属種の移動と認識せよとの「語部」である。

その語部が照合する考古学「縄文時代」の出土品・以下に付いて評価・参考にして下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

堂平遺跡 縄文中期王冠型土器(初期) 火焔型土器の面影が少し見られる。王冠型土器はどのように火焔型土器と使い分けられたのだろう?  

この土器の○渦巻き図である。神道国学の輪廻の継承は縄文時代の「倭族」の移動民の辞気が認められるのである。其の土器を紹介する。

 

 参照・リンク・火焔土器ギャラリー

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津南町で発掘された火焔土器をご覧ください。

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韓国への援助内容」ー「年月日」ー「援助金額」

2015-01-17 11:31:15 | 政治経済と憲法九条
韓国への援助内容」ー「年月日」ー「援助金額」
韓国鉄道設備改良事業1966-06-08 39.6億円
韓国漢江鉄橋復旧事業1966-06-17 3.6億円
韓国建設機械改良事業1966-07-20 23.4億円
韓国水利干拓および浚渫事業1966-07-20 11.88億円
韓国海運振興事業1966-07-27 32.43億円
韓国中小企業および機械工業育成事業?1966-07-27 54.0億円
韓国鉄道設備改良事業(2)1967-03-23 33.65億円
韓国輸送および荷役機械改良事業1967-06-27 9.35億円
韓国光州市上水道事業?1967-07-11 6.05億円
韓国市外電話拡張事業?1967-07-11 3.60億円
韓国大田市上水道事業1967-07-11 5.90億円
韓国産業機械工場拡張事業1967-07-31 10.80億円
韓国昭陽江ダム建設事業1967-08-07 3.96億円
韓国中小企業および機械工業育成事業1967-08-07 26.69億円
韓国高速道路建設事業1968-06-26 10.80億円
韓国市外電話拡張事業1968-10-30 6.48億円
韓国昭陽江ダム建設事業1968-12-28 46.98億円
韓国高速道路建設事業1969-04-14 18.00億円
韓国農水産振興事業1969-06-19 8.92億円
韓国嶺東火力発電所建設事業?1969-09-01 6.41億円
韓国清州市上水道事業1969-12-04 3.24億円
韓国南海橋建設事業 1969-12-04 7.88億円
韓国昭陽江ダム建設事業1970-02-04 27.01億円
韓国市外電話拡張事業 1970-06-25 5.17億円
韓国総合製鉄事業 1971-07-16 28.80億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国ソウル地下鉄建設および国鉄電化事業?1972-04-10 272.40億円
韓国総合製鉄事業?1972-05-01 107.49億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国商品借款商品借款等?1972-09-18 77.00億円 大韓民国政府
韓国総合製鉄事業 1973-01-16 10.87億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国通信施設拡張事業?1973-04-23 62.00億円
韓国漢江流域洪水予警報施設事業?1973-07-20 4.62億円
韓国商品借款?1974-05-13 77.00億円 大韓民国政府
韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1974-05-22 127.88億円
韓国大清多目的ダム建設事業?1974-12-26 118.80億円
韓国農業総合開発事業 1974-12-26 194.40億円
韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1975-07-30 2.25億円
韓国北坪港建設事業 ?1976-03-31 124.20億円
韓国忠北線復線化事業?1976-11-26 43.00億円
韓国通信施設拡張事業 ?1976-11-26 66.00億円
韓国農業振興計画 ?1977-06-10 126.00億円
韓国超高圧送電線建設事業 ?1977-11-28 40.00億円
韓国忠B多目的ダム建設事業?1978-01-20 140.00億円
韓国農業振興計画 1978-01-31 60.00億円
韓国医療施設拡充事業 ?1978-12-25 70.00億円
韓国農業総合開発事業? 1978-12-25 140.00億円 韓国電力(株)
韓国教育施設拡充事業 ?1980-01-18 100.00億円
韓国国公立医療及び保健研究機関近代化事業 ?1980-01-18 40.00億円
韓国都市下水処理施設建設事業 1980-01-18 50.00億円 建設部,大邱市,大田市,全州市
韓国教育施設(基礎科学分野)拡充事業?1981-02-27 60.00億円
韓国民間地域病院医療装備拡充事業 ?1981-02-27 130.00億円
韓国医療装備拡充事業(ソウル大学小児病院)1983-10-11 54.00億円
韓国下水処理場建設事業(ソウル炭川)?1983-10-11 115.00億円
韓国地方上水道拡張事業(釜山,ソウル,晋州)1983-10-11 78.00億円
韓国陜川多目的ダム建設事業?1983-10-11 204.00億円
韓国ソウル上水道施設近代化事業?1984-08-08 29.00億円
韓国下水処理場建設事業(ソウル中浪)?1984-08-08 167.00億円
韓国下水処理場建設事業(釜山)?1984-08-08 63.00億円
韓国気象関連設備近代化事業?1984-08-08 42.00億円
韓国国立保健院安全性研究センター事業?1984-08-08 24.00億円
韓国住岩多目的ダム建設事業?1984-08-08 111.00億円
韓国大田市上水道拡張事業社会的サービス?1984-08-08 22.00億円
韓国都市廃棄物処理施設建設事業1984-08-08 4.00億円大邱市、城南市
韓国農業水産試験研究設備近代化事業?1984-08-08 33.00億円
韓国医療施設拡充事業?1985-12-20 123.00億円
韓国下水処理場建設事業(釜山長林)?1985-12-20 92.60億円
韓国下水処理場建設事業(光州)?1985-12-20 75.60億円
韓国下水処理場建設事業(春川) ?1985-12-20 32.80億円
韓国化学研究用・計量標準研究用資機材補強事業 1985-12-20 27.00億円
韓国教育施設拡充事業?1985-12-20 152.00億円
韓国総合海洋調査船建造事業?1985-12-20 41.00億円
韓国昭陽江ダム建設事業1970-02-04 27.01億円
韓国市外電話拡張事業 1970-06-25 5.17億円
韓国総合製鉄事業 1971-07-16 28.80億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国ソウル地下鉄建設および国鉄電化事業?1972-04-10 272.40億円
韓国総合製鉄事業?1972-05-01 107.49億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国商品借款商品借款等?1972-09-18 77.00億円 大韓民国政府
韓国総合製鉄事業 1973-01-16 10.87億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国通信施設拡張事業?1973-04-23 62.00億円
韓国漢江流域洪水予警報施設事業?1973-07-20 4.62億円
韓国商品借款?1974-05-13 77.00億円 大韓民国政府
韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1974-05-22 127.88億円
韓国大清多目的ダム建設事業?1974-12-26 118.80億円
韓国農業総合開発事業 1974-12-26 194.40億円
韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1975-07-30 2.25億円
韓国北坪港建設事業 ?1976-03-31 124.20億円
韓国忠北線復線化事業?1976-11-26 43.00億円
韓国通信施設拡張事業 ?1976-11-26 66.00億円
韓国農業振興計画 ?1977-06-10 126.00億円
韓国超高圧送電線建設事業 ?1977-11-28 40.00億円
韓国忠州多目的ダム建設事業?1978-01-20 140.00億円
韓国農業振興計画 1978-01-31 60.00億円
韓国医療施設拡充事業 ?1978-12-25 70.00億円
韓国農業総合開発事業? 1978-12-25 140.00億円 韓国電力(株)
韓国教育施設拡充事業 ?1980-01-18 100.00億円
韓国国公立医療及び保健研究機関近代化事業 ?1980-01-18 40.00億円
韓国都市下水処理施設建設事業 1980-01-18 50.00億円 建設部,大邱市,大田市,全州市
韓国教育施設(基礎科学分野)拡充事業?1981-02-27 60.00億円
韓国民間地域病院医療装備拡充事業 ?1981-02-27 130.00億円
韓国医療装備拡充事業(ソウル大学小児病院)1983-10-11 54.00億円
韓国下水処理場建設事業(ソウル炭川)?1983-10-11 115.00億円
韓国地方上水道拡張事業(釜山,ソウル,晋州)1983-10-11 78.00億円
韓国陜川多目的ダム建設事業?1983-10-11 204.00億円
韓国ソウル上水道施設近代化事業?1984-08-08 29.00億円
韓国下水処理場建設事業(ソウル中浪)?1984-08-08 167.00億円
韓国下水処理場建設事業(釜山)?1984-08-08 63.00億円
韓国気象関連設備近代化事業?1984-08-08 42.00億円
韓国国立保健院安全性研究センター事業?1984-08-08 24.00億円
韓国住岩多目的ダム建設事業?1984-08-08 111.00億円
韓国大田市上水道拡張事業社会的サービス?1984-08-08 22.00億円
韓国都市廃棄物処理施設建設事業1984-08-08 4.00億円大邱市、城南市
韓国農業水産試験研究設備近代化事業?1984-08-08 33.00億円
韓国医療施設拡充事業?1985-12-20 123.00億円
韓国下水処理場建設事業(釜山長林)?1985-12-20 92.60億円
韓国下水処理場建設事業(光州)?1985-12-20 75.60億円
韓国下水処理場建設事業(春川) ?1985-12-20 32.80億円
韓国化学研究用・計量標準研究用資機材補強事業 1985-12-20 27.00億円
韓国教育施設拡充事業?1985-12-20 152.00億円
韓国総合海洋調査船建造事業?1985-12-20 41.00億円
韓国教育施設拡充事業?1987-08-18 129.11億円 文教部,国立科学館
韓国中小企業近代化事業?1987-08-18 77.50億円
韓国農業機械化事業?1987-08-18 77.50億円 全国農業協同組合中央会
韓国廃棄物処理施設建設事業 1987-08-18 53.72億円 大邱市、城南市
韓国酪農施設改善事業?1987-08-18 38.75億円 ソウル牛乳協同組合
韓国臨河多目的ダム建設事業 1987-08-18 69.75億円
韓国蔚山市都市開発事業(鉄道部門)?1988-06-22 44.40億円
韓国栄山江3-1地区防潮堤事業 ?1988-06-22 44.40億円
韓国下水処理場建設事業(済州・清州)?1988-06-22 41.59億円
韓国教育施設拡充事業 ? 1988-06-22 5920億円
韓国研究所施設拡充事業 1988-06-22 26.79億円 韓国遺伝工学,機械,電子通信,化学研究所
韓国私立大付属病院施設拡充事業 1988-06-22 56.24億円 梨ヤ女子大学,中央大学,漢陽大学,高麗大学,東亜大学
韓国大田上水道拡張事業 1989-08-22 14.34億円
韓国中小企業近代化事業?1989-08-22 62.00億円 国民銀行
韓国ソウル地下鉄建設事業 ?1990-10-31 720.00億円
韓国医療装備拡充事業(ソウル大学校病院)?1990-10-31 43.20億円
韓国水産・商船学校練習船装備拡充事業? 1990-10-31 21.60億円
韓国中小企業近代化事業 ?1990-10-31 115.20億円
韓国肉加工施設拡充事業 ?1990-10-31 17.28億円 畜産業協同組合中央会
韓国配合飼料工場建設事業 1990-10-31 54.14億円 畜産業協同組合中央会
韓国酪農施設改善事業 ?1990-10-31 24.48億円 畜産業協同組合中央会

追記資料1 韓国へのODA実績累計 (98年まで)
    
  贈与                     政府貸与         
 無償資金協力  技術協力       支出総額       

累計 233.84    913.72         3,601.54        

単位は、100万ドル(一億円)

※1965年の日韓基本条約にて日本から韓国へ支払った
 5億ドルは除く

※単位・金銭はすべて、日韓基本条約締結後援助が開始された
1966年当時のものそのまま。
現代の価値に換算すると総額は2~3兆円規模になる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


現代の価値に換算すると総額は2~3兆円規模になる。


条約交渉までの経緯[編集]

「対日戦勝国」としての請求[編集]

「日本国との平和条約」および「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照

1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた[1]。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。

日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。

1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した[1]。

また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国[注釈 1])としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された[2][3]。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた[1]。

1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐米韓国大使に対して「日本と戦争状態にり、かつ1942年1月の連合国共同宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国にはならない」と述べた[2]。梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前から日本と戦争状態にあった」と反論した[2]。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署名国からはずした理由とした[2]。

韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した[1]。兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界大戦中に韓国人で構成された組織的兵力が中国領域で日本軍と交戦した事実は韓国を連合国の中に置かねばならないという我々の主張の正当性を証明している。」と主張した[2]。

1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は許可されなかった[2]。

一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の朝鮮における日本の公共私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、対日賠償請求の準備をすすめていた[1]。

韓国の主張に対し日本側は、韓国を合法的に領有、統治しており、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル[4]、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル[5])の返還を請求する権利があると主張した。

しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」には、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とした点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた[6]。

アメリカ合衆国の仲介[編集]

日韓交渉の背後には1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から拒絶され、「当事国」になることができなかった[3]。

1951年9月の日本国との平和条約調印後、サンフランシスコ講話会議に参加することが許可されなかった李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、アメリカの斡旋で日韓は国交正常化交渉に向けて、1951年10月20日に予備会談を開始した[2][7][3]。会談は東京の連合軍最高司令部(SCAP)でシーボルド外交局長の立会いのもとに行われた[8][3]。

日韓会談[編集]

昭和26年(1951年)10月20日の交渉から1965年の日韓基本条約締結までの会談を日韓会談、日韓国交正常化交渉という[2]。交渉では、日韓併合により消滅していた国家間の外交交渉の回復方式[9]、「李承晩ライン」以降韓国が不法占拠を続けていた竹島(独島)をめぐる漁業権の問題、戦後補償(賠償)の問題、日本在留の韓国人の在留資格問題や北朝鮮への帰国支援事業の問題、歴史認識問題、 文化財返還問題など多くの問題を含んでおり、独立運動家として日本を敵視し続けていた李大統領の対日姿勢もあり予備交渉の段階から紛糾した[10]。しかし、最終的には冷戦での安全保障、アメリカの希望もあり、合意にいたった[1]。韓国は当時「戦場国家」であり、日本は「基地国家」であった[1]。

会談直前[編集]

予備会談[編集]

1952年1月9日、日韓会談直前の予備会談で日本側から「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された[11][12]。

李承晩ライン[編集]

「李承晩ライン」を参照

李承晩は対話の前提として、まず日本の謝罪、「過去の過ちに対する悔恨」を日本側が誠実に表明することが必要であり、そうすることで韓国の主張する請求権問題の解決にうつることができるとした[1]。しかし、日本側は逆に日本も韓国に対して請求権を要求できるとのべ、反発した李承晩は報復として、日韓会談直前の1952年(昭和27年)1月18日、韓国は一方的に日本海に軍事境界線の李承晩ラインを宣言する強硬政策に出た[1]。

第1次会談[編集]

第1次会談は1952年2月15日-4月25日に行われた[2]。請求権問題、日韓併合条約(旧条約無効問題)[2]、文化財返還などが議題となった。
1952年2月20日の第1回請求権委員会で韓国の林松本代表は「日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる」と述べ、日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、韓国は連合国と同等の権利を持ち、朝鮮半島に残された日本財産没収の正当性を主張した[2]。韓国は、日本国との平和条約第14条の「日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきこと」、また各連合国が日本の財産を差し押え、処分する権利を有することなどを請求権の根拠とし、自らを連合国の一員と位置づけることで日本から利益を得ようとしていた[2]。
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 これ等は「陸軍中野学校最高責任者某氏」の創氣した「ヤクザ戸乙」辭氣の「氣」を捜索する「ヤクザ戸乙」辭氣の国家である。
更に国家全体が「狂治外」と言う。治療しても完治しない精神分裂国家である。即・「狂治外」である。
従って、通常の国際法韓国には通じない。従って普通の国家「韓国」になるには相当の「狂治外」の治療と民主主義を教授する必要を研究し考慮しないと「日韓関係」は正常化は困難である。その裏社会に「韓国」の「諜報活動」が存在するからである。

・・・・・・・・「神道国学甲骨亀甲因書」の因書解読による解読文である。・・・・・・・・





敗戦と、終戦を直視する日本国の現代史は「如何に」?

2014-11-13 14:30:17 | 政治経済と憲法九条
敗戦と、終戦を直視する日本国の現代史は「如何に」?
敗戦と「終戦」が理解できる日本人は希薄になっている。例えば、太閤秀吉が鎌倉攻めの時「黒田官兵佐衛」が北条市と和議を働きかけている。そして和議が成立した後に太閤秀吉が「北条市に切腹」を申し渡す。これは敗戦でしょうか、終戦でしょうか。太平洋戦争で日本国はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏。しかし、東条英機等々は軍事裁判で処刑された。処が日本国の「元首」は明治憲法で最高責任者である。その天皇属はマッカーサー元帥と並んで写真に写す。      写真像である。


この事実は世界で唯一の出来事で、これを国家間で観ると、観察すると日本国は敗戦では無く、
国家的な改革である。
即ち、敗戦ではない。世界史の中で戦いに敗れて其の元首が処刑されない。即ち、「終戦」である。
世界史の中で日本国の?が「敗戦国」ではないと言う「辞気」を国家的に相伝して要る。伝承ではないのである。しかし、日本国憲法はGHQ・検閲した憲法に為っている。その為に、武力を軍事力と思わせて、左翼思想家は憲法は武力は「軍事力」想定する発言は完全に
左翼思想からは憲法に違反した行為を国会で言い続けている。     
左翼思想家は日本語を知らない。知っているのは「ハングル語」である。即ち、日本語が読めないのである。これらの行為を中野学校最高責任者は「ヤクザ戸乙」辭氣と言ってはばからない。日本人が読めないと言う裏世界に君臨しているので。それを中野学校最高責任者が伝授された朝鮮半島が、その裏世界の「ヤクザ戸乙」辭氣の行為を堂々と行使して「反日活動」教育を行っている。さぞかし朝鮮半島人は愉快に思っているのだらう。・・これに日本人は反応するでしょうかね。滅びゆく日本国。
平成26年11月10日・・・安倍総理大臣と中国の習近平国家主席は、10日、北京で初めての首脳会談を行い、双方は、戦略的互恵関係に立ち戻って両国関係の改善を目指すことなどで一致しました。
ここで中国 習主席は「歴史を直視」し、云々と「コメント」した。問題はここにある。その問題点は、支那の歴史と現在の中国は外道の一国一党の悪党国家の「歴史の直視」とは相当の錯誤ではなく、捏造と虚偽が有る。
南京事件の日本軍の虐殺と人数である。中国は外道の一国一党の悪党国家は「30万人約」と世界に公開する。
日本の場合は陸軍中野学校最高責任者は格々言う「蒋介石軍・八路軍」双方が別々の処刑場所・戦闘場所を変えて日本軍兵士の仮想で相手の「八路軍」を処刑虐殺し、その反撃で「蒋介石軍」を仮想の日本軍兵士の仮想で」蒋介石軍」を処刑虐殺する。日本軍は諜報部と共に「静観」した。
 この陸軍中野学校は「陸軍」と呼称する為に「日本陸軍中野学校」と人々は思い込む。処が、これが「ヤクザ戸乙」辭氣である。即ち、陸軍中野学校は「特別警察内」秘密部署に席を置いた。全く「陸軍」とは完全に間違い・虚偽である。これは戦後の「GHQ」筆者は間接に協力者であり、陸軍中野学校最高責任者を追跡していた「GHQ」関係者から聞く。その者が部署に記録を遺さない状態で「最高責任者」に小刀で暗殺された。何故、暗殺かと、? それは犯人が逃走し。仮想の犯人「陸軍中野学校最高責任者」であったことである。その操作方法は米国の「FBI」方式と言う操作方法の為に犯人の状況証拠の記録を失い、追跡逮捕に至らなかったのである。
この記録は、「GHQ」が陸軍の内に「陸軍中野学校」の登録が無かったので「内務省・特別警察」部署の記録に「偽名」として登録されていた。その偽名の登録名が「最高責任者」が甲骨龜甲因書による氏名を遺したので現在、その偽名が読めるのは筆者以外にはそんざいしない。
 これは一部の隠された歴史であるが、中国 習主席が言う「歴史の直視」と言う発言は、支那大陸での日本の歴史は、日本国が日本の歴史を「直視」するのが歴史である。
 現在の中国は外道の一国一党の悪党国家の言う「歴史認識」は認識ではなのである。即ち「ヤクザ戸乙」辭氣による歴史の直視であるから明確に「捏造偽造・改竄」の歴史の直視であり、直視観である。
 それでは歴史とは何か、真実を捉えられるか、疑問は延々と続くのである。そこで重要な歴史観とは「歴史の検証」を延々と続けることである。それほどに歴史とは「歴史と言う」辭氣は絶対と言う「歴史認識」は存在しないのである。
 日本の国学的「認識」は、自己より何々・云々・として認識するか、認識できるか、と言う実態が日本国学的な「認識」である。
その歴史を直視する。日本国の「歴史認識・直視」観である。
 「ヤクザ戸乙」辭氣は、中国 習主席が言う「歴史の直視」である。完全に「ヤクザ戸乙」辭氣を明確に示している。
 この「ヤクザ戸乙」辭氣を廃止して、日本の現代史を「直視」すると、終戦に因り、戦勝国の国連軍総司令が、マッカーサーが、昭和天皇と肩を並べての立像写真は、連合国に因る日本国の「改革」を世界に示した国際政治に対する重大な歴史である。その歴史を「直視」すれば、するほどに現代日本史は戦後「日本国改革」の現代史を遺す結果になっている。
 歴史とは細部までを詳細に記録に遺して「現代日本史」を考察すると、それは歴史の対局を失うと言う現代史に通じるのである。
 そして、今の現在から現代日本史として鳥瞰すれば、顕かに日本国は「国連軍・昭和天皇」肩を並べた写真像は顕かに日本国の民主国家への「改革国家」を象徴しているのである。
即ち、現代の日本国は敗戦ではなく、民主主義国家への「改革国家」を示し続けている。
神道国学の神道教義でも日本国は敗戦ではなく、終戦に因る民主主義国家への改革であった。
その民主主義国家への「改革」は、終戦を認めた支那の元首「蒋介石」が居たのである。

本土軍隊の降伏
本土防衛の軍隊は各地でGHQに対する降伏式を行うことになった。青森県の場合、宇垣完爾・海軍大湊警備府司令長官、星野利元・陸軍50軍司令官、金井元彦県知事らが、1945年(昭和20年)9月9日に大湊湾洋上のアメリカ軍艦パミナント上で占領命令書に署名している。アメリカ軍側は9月2日に日本と連合国の降伏文書調印を踏まえ、24時間以内に北海道と北東北を管轄する同警備府が武装解除することなどを命じている。
沖縄での降伏調印式
そして、今の現在から現代日本史として鳥瞰すれば、顕かに日本国は「国連軍・昭和天皇」肩を並べた写真像は顕かに日本国の民主国家への「改革国家」を象徴しているのである。
即ち、現代の日本国は敗戦ではなく、民主主義国家への「改革国家」を示し続けている。
神道国学の神道教義でも日本国は敗戦ではなく、終戦に因る民主主義国家への改革であった。 
日本以外
日本政府を代表して重光葵や梅津美治郎らが降伏文書に調印した昭和20年9月2日は、イギリスやアメリカを初めとする連合国各国では、「VJデー」と呼ばれている。

東京湾に停泊する戦艦ミズーリ上で降伏文書調印の様子。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣、左後方に侍しているのは加瀬俊一
日欧米の植民地にされたことのないタイ王国を除く東南アジア諸国は、戦勝国であるイギリス、アメリカ、オランダ、フランス、ソ連に再び占領され、その多くは植民地へと戻ったが、その後これらの植民地の民衆は独立戦争を起こし、戦勝国の疲弊も重なって、1950年代から1960年代にかけて「欧米からの解放」すなわち独立を勝ち取った。
この経緯から、日本を含めてアジアの歴史では、概ね日本の降伏による第二次世界大戦の終結を境にして、「近代」と「現代」に分けられている。なお日本の降伏後に朝鮮半島と台湾とベトナムでは、元号が廃止された。
ルソン島バギオ  ラバウル  南京  シンガポール  ソウル
朝鮮半島
朝鮮半島では、日本政府による統治が終わったが、北緯38度線から南をアメリカが、北をソ連が占領しそれぞれの国の統治下となった。
台湾
台湾島でも、日本政府による統治が終わったが、その後国共内戦に敗れ脱出して来た中国国民党「蒋介石」に占有された。この時点の時代では支那大陸「総統」である。国内は「八路軍」その内戦になっていた。その時代に日本国は終戦の後の
朝鮮戦争、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。
分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国と1949年10月1日に建国された成立間もない中華人民共和国が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化した後に荒廃させた。1953年7月27日に中朝連合軍と国連軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。
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敗戦と終戦を神道国学甲骨龜甲因書の因書解読で現代史を検証する。
昭和25年6月28日(1950年) - 朝鮮戦争:ソウルが陥落、北朝鮮の占領下に置かれる。
昭和20年「終戦」から25年までは、短波写真で支那大陸の内戦の無線通信を聞いていた。常に蒋介石軍が勝つか、八路軍が勝つか、そして共産主義が勝つか、米国の民主主義国家が勝つか、夏の世の置き座で涼んでいた、其の納涼談義で毎晩のように話が出ていた時代である。
 その時代は日本国中が「共産主義か社会主義か」と言う話が弾んでいた。マルクスレーニンとはどんな学問か、読まなければわからない。社会主義の専門書は有るのか、当時調べたが社会主義の基本は「共産主義」だと言う実態が解りかけていた。
それは、さておいて統括した共産党革命の談義に花が咲いていた。そして朝鮮戦争が勃発する。米軍の兵士が国鉄の列車で下関に送られる。その総数は万単位で有った。岩国航空部隊から毎日毎日グラマンが離陸していた。筆者は、その時代は嚴島であり、通称宮島と言っていたが、米軍の慰安ホテルが有り、米軍と豪州兵が多々来ていたのである。そしてキャバレーが数件あり、米国航空部隊の搭乗員がキャバレーでよく飲んでいた。個人的な慰安所としても華やかな時代であった。そして今日来た航空兵は明日は来なかった。同僚兵が戦死したと伝えて涙を流していたのである。そんな日が毎日続いていたのである。短いようで長かった朝鮮戦争である。
日本の現代史は、終戦の飢餓から生活が「所得倍増論」で終始していた時代。全学連の米国軍の撤兵を求めるデモが続く。全学連とは共産社義革命を主眼とした全学連闘争時代である。
これらの文書は「天皇」神祇官・甲骨龜甲因書の因書解読に因る現代史の鳥瞰論である。
甲骨龜甲因書の因々因を詳細に求めて、現在の書簡等々で観られる歴史観とは一致しない甲骨龜甲因書の現代史である。
 従て、戦後の現代史は「天皇」神祇官朝廷中務正四位 上郷神主祝詞太夫の現代史として考察されることを希望しているのである。
 その「因々因」は、現代史の中心となるのが「昭和天皇とマッカーサー元帥」の立像写真が因々因に於いての現代史の見方である。
 その日本国の現代史の創りは連合国司令官マッカーサーと昭和天皇から始まることになる。
ここに「敗戦」か「終戦」と言う現代史の理念が有るのである。
「昭和天皇とマッカーサー元帥」この立像写真は顕かに肩を並べて立つ立像写真は敗戦を示していないのである。両雄の元首と観ていたのが当時の日本人である。日本国の現代史を観ていたと言う実態である。
 そして日本国新憲法が発布された。天皇は「象徴天皇」に坐せられたが実質の元首はそのまま天皇属を相伝する。現代史における「天皇属」が新たな現代史を見詰めることになるのである。
大日本帝国憲法
第1章 天皇
第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第7条天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
第8条天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス 「超法規的」法の施行・よど号事件等々。
2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第9条天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 「天皇終戦の詔勅」
第14条天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第15条天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス
第16条天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス
第17条摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ
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大日本帝国憲法と終戦に因る「日本国憲法」は、天皇属が日本国の「改革」赤字記載部分」を行っている検証を求めたのである。この憲法は「神祇官・甲骨龜甲因書」による因々因を解読した結果が検証されたと言う実態である。
 「神祇官・甲骨龜甲因書」は、神祇官の神道国学甲骨龜甲因書である。
従って、甲骨龜甲因書の主体は「天皇」神祇官の見解になる。それを朝廷語部制度として相伝されているのである。
 その解読からは、万世一系の天皇属は終戦に因り日本国家を相伝していると甲骨龜甲因書の天皇因書を解読すると顕かに「終戦」であり、敗戦ではない実態が明確である。
 それでは国際連合が「東京裁判」が行われて「戦犯の判決」が出て処刑されたのは何だったのであらうか。日本国家が万世一系で日本国家が成立し「終戦」でありながら「戦争犯罪者」東京裁判は何の辭氣を日本国民に伝へたのか ?
 それでは大日本帝国憲法で「天皇属」を検証すると、第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
                          日本国憲法に改革された。
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス とあるが、現実には御前会議を示しているのであが、天皇の御言葉「勅旨」であるから殆ど、天皇の御言葉は無かったと伝えられている。
第13条天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 「天皇終戦の詔勅」
  天皇の権威は、「鶴の一声」詔勅が日本軍が従い武器を廃棄して終戦を迎える。これは世界史に遺される。
 諸外国では敗戦後に「テロ戦闘」が起こっている。日本国では戦闘は無く平和を求めた政治経済に改革されて要った。
 この実態が戦後の日本国の実態である。
処が「東京裁判」は、日本国主権の無い政治経済の政策でかろうじて国家体系を維持する。即ち、講和条約が終結されるまでは「国際連合」から独立国として認知されない日本国家である。国際法的には「瑕疵状態」である。昭和20年から1951年(昭和26年)9月 8日 調印
1952年(昭和27年)4月28日 発効 ・・・そして日本の独立が回復した。
第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)である。


 この間に・昭和21年から・・・昭和23年(12月23日 絞首刑執行)
1946年(昭和21年)1月19日   極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められる。
1946年(昭和21年)4月26日 条例の一部改正。
1946年(昭和21年)4月29日 起訴
1946年(昭和21年)5月3日 審理開始
1948年(昭和23年)11月4日 判決の言い渡し
1948年(昭和23年)11月12日 刑の宣告
1948年(昭和23年)12月23日 絞首刑執行 
この期間には、日本国の法的主張権は国際連合国家から、日本国で有ると認められない時代である。
 従って、年月が過ぎて、現在理論で「東京裁判」を論じて批判しても其の国際法に於いては無効である。
それでは「東京裁判」は何だったのだらうか。
神祇官・甲骨龜甲因書で解読すると、東京裁判は日本国の主権の無い判決であっても、裁判の無効は主張できないが、主権の無い裁判は、主権の有る日本国で戦争犯罪人の裁判は現在でも其の政策が有れば可能と甲骨龜甲因書の因書解読ではできるのである。
 その裁判の要点は、支那事変から太平洋戦争で戦闘に負けた日本軍の責任の追及を求めなければならない。
その戦闘に負けた責任者は日本国首相と各々の大臣に有る。将兵は命令に従ったまでである。戦闘に負けて国土が砂塵と焼け野が原にした責任である。民法でも其の債務の責任訴訟も可能な戦闘敗者の責任の追及である。
 その責任者は日本国の文化の因習では「国賊」と称された者らである。戦闘に負けたと言う国賊である。その主張権は天皇属の正論であり、終戦は敗戦に有らず。戦闘の敗戦で有る。その責任は日本人が勇気ある決断をして真の日本国の創氣を以て解決すべき戦闘敗者の責任追及である。武士道は自ら其の責任「切腹」。誰一人として日本文化の責任「切腹」した日本国の首相及び大臣は存在しなかった。
戦闘に敗れた者たちの悲哀である。終戦の詔勅で時に「切腹」した者は居ない。
「神祇官甲骨龜甲因書」は、天皇属の輪廻を司執った因書である。そこに万世1系の天皇属が相伝されている。この万世1系の世は改革により現在までも天皇属は相伝されているのである。
即ち、日本国は「万世1系」の国家体系が相伝されて行くのである。
 日本共産党と社会党が天皇属廃止論を唱えているが、日本国の文化を破壊する暴論である。日本国は万世1系の国家体系を維持する世界に稀な国家である。
従って、即ち、日本国は敗戦国に有らず。戦勝国にあらず。右傾化ではなく二列二連伏字の法則の国家体系を維持する世界に稀な天皇属の日本文化国家である。
 その歴史を甲骨龜甲因書で見つめると「支那古代・夏時代ニ里頭宮城」から史記として顕れているのが日本国家の基盤である。詳細に説明すると「シュメール語」から日本国家は創造されているのである。
 中国は外道の一国一党の悪党国家が言う「歴史の直視」とはこれ等の実態を言うのである。中国は外道の一国一党の悪党国家の主張は日本国の終戦時には中国と言う国家は無かったと言う実態が歴史の「直視」である。
ここに中国は外道の一国一党の悪党国家「ヤクザ戸乙」辭氣の国家が甲骨龜甲因書の因書解読で証明される。

筆者 「神祇官・朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫 幽斎」
神道国学者