北欧の作曲家というと、フィンランドのシベリウス、ノルウェー、デンマークのニルセン(ニールセン)の名前があがるくらいでしょうか。
第1回演奏会で取り上げるステーンハンマルは、スウェーデンの出身で、
スウェーデンの歌心と独特の響きが、ロマン派の作風と相まって、耳馴染みよく心地よい音楽を書いた作曲家です。
1871年にスウェーデンのストックホルムで、建築家で作曲家でもある父と、スウェーデン独立の父グスタヴ・ヴァーサ王家の血を引く貴族の出身で音楽的素養のある母の間に、ヴィルヘルム・ステーンハンマルは生まれました。
9歳でピアノ・ソナタを作曲するなど神童ぶりを発揮、16歳で真剣に音楽に打ち込み始め、ピアノをクララ・シューマンの弟子のアンデルソンに、作曲をシェーグレン(*1)に学びました。
20歳代前半でベルリンへ留学した際、ワーグナーの「ニーベルングの指環」に魅了されています。この前後からピアニストとして活動を始め、自身のピアノ協奏曲第1番(1893年作曲)をR.シュトラウスやハンス・リヒターの指揮のもとで演奏もしています。
後には指揮者としても活動し、1907年イェーテボリ交響楽団の音楽監督兼指揮者に就任、同楽団の水準をを高めるとともに、同時代のシベリウスやニルセンを始め、R.シュトラウスやマーラー、ドビュッシー、ブルックナーなどの作品を積極的に紹介しました。
作曲家としては、初期はワーグナーやブラームスの影響が抜けないものでしたが、シベリウスの交響曲第2番に接して衝撃を受け(1902~3年頃)、作風を変えていきます。
ノルウェーがスウェーデンから完全に独立した1905年、ヘイデンスタムの愛国詩「ひとつの民族」に曲を付けてカンタータを作曲、これが国民の心に強く響き、第2曲「スヴァーリエ(スウェーデン)」と第3曲「市民の歌」は聴衆が起立する習慣まで生まれました。「スヴァーリエ」は第2の国歌とされています。この後、スウェーデン狂詩曲「冬至祭」やピアノ協奏曲第2番(1907年)、2つのセンチメンタル・ロマンス(1910年)、管弦楽のためのセレナード(1913年/1919年改訂)、ト短調の交響曲(1915年)と代表作を完成させていきます。
1923年、イェーテボリ響の職を辞してストックホルム歌劇場の音楽監督に就任。この年には、カヤヌス(*2)の指揮で自作のピアノ協奏曲第2番を共演するためにヘルシンキを訪問しています。
指揮者、ピアニスト、と多忙を極めたため健康を害し、1925年には歌劇場の職も辞任。闘病生活の末1927年に56歳で亡くなりました。
(*1) シェーグレン・・・スウェーデンの作曲家(1853-1918)。歌曲を中心に作曲。
(*2) カヤヌス・・・・・フィンランドの指揮者、作曲家(1956-1933)。シベリウスの擁護者。ヘルシンキ初の常設管弦楽団を創立。
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斉諧生音盤志~作曲世家「ステーンハンマル」