gooブログはじめました!

初心者による不定期更新の文字ブログです。オシャレ、本や雑誌、音楽、やりくり、グルメ、ダイエット、教育が主な題材です。

中学受験を決めたのは、本人の資質にあった教育環境を求めて

2023-04-16 21:22:00 | 教育
中学受験を検討している親御さんは、いつから動き始めるのだろう?


私は、子どもが小学3年生になった春くらいから、動いた。
合同説明会や、オープンキャンパス、個別説明会に行った。

合同説明会の主催は色々なので、主催者によって、参加する学校もしない学校もある。
何回か足を運んだ。


私自身には中学受験の経験がないので、合同説明会はとても助かった。
1つの会場に行けば、時間を区切って、色んな学校の担当がする学校紹介をまとめて聞くことができ、気になった学校は、個別相談ブースに並んで話を聞いた。

各校の説明会資料も配布されるので、説明会で見ておきたいと思った学校を選び、オープンキャンパスや学祭に子どもを連れていくようにした。

オープンキャンパスや学祭に行くときは、通学路と環境を確認した。

人通りのない暗い通りや、ゴミ溜まりになって放置されているような場所が通学路にあるのは、犯罪に巻き込まれる危険がある。

電車を乗り換えるなら、最寄り駅と乗換る駅に駅員さんがいるかどうか、駅のトイレの清潔さ、電車を利用する客層をざっと見る。

電車通学する子どもが困ったとき、スマホで親や学校と連絡をとれば、助言を与えることはできる。

困ったことが起きても、親や学校と連絡がとれたら、子どもも幾分安心して落ち着くだろう。
しかし、周りが混乱を助長する環境だと、落ち着けない。

学校内は、清潔さや設備を見る。
日常使う場所は便利で綺麗に保たれていてほしい。

生徒さんや先生と交流できる場面があれば、授業体験、部活体験に積極的に申し込んだ。

中学受験の醍醐味は、子どもの環境を選べることだと思う。

バス酔いするから、バスに乗るのは嫌だと本人が言うので、バス通学の学校は候補から外した。

授業体験や部活体験を予約し、私立中学の教室や設備を見て、先生や生徒さんの雰囲気を確認した。

子どもが、興味を持たなかった学校は候補から外した。

飼育されている動物が可愛かったと言うので、
その動物が寿命でいなくなっていたら、その学校は行きたい学校かと確認すると、
その動物がいるから楽しかったが、いないなら興味はないという答えが返ってきた学校とか。

優秀な学生さんが多く、中学校から大学まである学校の説明会に行った。
説明会も学校見学も子どもを連れていって、一緒に話を聞いた。
親としては、この学校に入って、やっていけたならば、大学まで安心と考えた。
しかし、ここじゃない、と本人の感性により候補から外した。



子どもの中学受験については、小学校の低学年のうちから、なんとなく考えていた。

理由、
その1、学区の中学校が遠いから。
通学路がほぼ車道。
通行量は人より車の方が多い。
交通事故も怖いし、誘拐も怖い。事件が起きても目撃情報なし、があり得る。

理由、
その2、子どもの性格や資質が、高校受験向きじゃないと思ったから。

小学校から英語教育が始まった。
授業では、英語の歌を歌ったり、ゲームしたり、クイズしたり、発表したりするようだ。
英語の意味がわからないので、授業中、何をしていいのかわからない。
英語の時間は、何もかもよくわからないまま終わると本人から申告されて、かえるの子はかえるだと思った。

私も英語が苦手で苦しんだので、わからない授業は終わるまで石になったつもりで待つ心について、覚えがある。

受験の試験科目に英語が加わる前に手厚く指導してくれそうな学校に入って、
丁寧に教えてもらって苦手意識を無くし、
ルーティンとして取り組む習慣を身に付けないと、
英語が足を引っ張り続ける。



公立中学校から、高校受験をして高校に進学するライフプランには、向き不向きがあると思う。

私は、公立中学校に進んで、高校受験をするライフプランは、うちの子どもに向いていないと感じた。

私の子ども時代、
学校に通っているなら、
宿題は期限内に提出するもので、
提出しないと怒られるものだったが、
今は違うようなのだ。

自宅学習や宿題などの学習は、子どもの自主性に任せるものらしい。
自学自習ノートに自分で学習した内容を書く宿題というものも、書く内容の指定はない。
子どもの通った学校独自の方針かもしれないが。

書き取りを練習するのも、
落書きでページを埋めるのも、
どちらも指定ページ数が埋まっていれば、課題を達成した、となるらしい。

水は低きに、人は易きに流れる。

自助努力が出来る子や、親に勉強しなさいと言われて従う子と、怒られないから大丈夫と言って楽を覚える子との格差はひらく世の中。

学習範囲が狭いうちに勉強しないと、将来苦労するよと子どもに言っても、目先の楽さに流される。

学校で勉強の出来をひけらかさなくても、
学校以外で勉強に励んでいる人もいる。
能ある鷹は爪を隠すんだよ。

勉強している姿を見ていないし、
勉強の出来を気にしないで楽しそうにしている人がいるから、
勉強しなくても大丈夫なんだと安心してはいけないよ。

それぞれ、人生の目標が違うからね。

諭しても、子どもには一向に伝わらない。

環境に適応して、楽な方へ楽な方へと進む。

うちの子どもは、面倒見の良い学校に行かないと、まともな学力が身に付かないタイプだと思った。


子どもが社会に出て困らない人間に育つには、

面倒見のよさが学校のスタイルとして確立している学校で、
根気よく指導してくれる先生と
わかりやすく切磋琢磨しあえる同級生
が必要だ。


中学受験しよう。
環境を買おう。




ネット発のファンタジーはタグがついていて選びやすい。古本屋では、過去の名作推理小説探しが楽しかった。

2023-04-13 15:14:00 | 
最近のファンタジーが好きだ。

異世界転生とか異世界転移のファンタジーものが増えて、選び放題。

玉石混交だけど、金字塔とかがないから気軽に読める。

この分野を語るなら、この作品をおさえておかなくちゃ、みたいな圧がない。

読み手と書き手が入り混じるネット小説ならでは、だからかな?

ファンタジーを選ぶのは、ドキドキ、わくわくする時間がほしいから。

日常とは違う世界を楽しみたい。

ネットにある小説はタグ付けで分類されているので、とても有り難い。

安心して読める。

最近、何度も読み返しているのは、

人質生活からはじまるスローライフ
転生幼女はあきらめない
神様は異世界にお引越ししました

の3作品。

3作品とも漫画にもなっていて、どっちも楽しい。

人質生活からはじまるスローライフは、大国に留学生の名目だけど、実質は人質として滞在している姫が、前世の反省を活かして今生はスローライフを送ろうと、知恵を絞り頑張る話。
本人の思惑から外れてスローじゃないライフが迫ってくるなか、奮闘するのが楽しい。
主役の姫だけでなく、登場人物が個性豊かで楽しい。

料理や食材の描写が、料理を実際に作っているみたい。
陛下と宰相のやり取りは、裏話っぽくて面白い。隊長と姫のやり取りは微笑ましい気持ちになる。


転生幼女はあきらめないは、赤ちゃん時代から始まる。
こじれた家族の再生と陰謀に、主役のご令嬢の奮闘と家族や仲間の協力で、生き抜いていく。
責任あるお家に生まれたお子さん達とその親が奮闘し、策略を巡らすものの暗躍があり、と続きが気になって仕方ない。


神様は異世界にお引越ししましたは、日本で、消滅間近だった、元人間の神様が異世界にリクルートされて、異世界の神様になるお話。

主役は、お勉強が苦手だけど、やっていいこと、だめなことだけはきっちり学んできた神様。
新しい赴任先に、偉い立場で入るなら、大事だなーと思った。
天使や眷属、ドラゴン、精霊、他の神様とのやりとりが色々あるけども、高僧のコウガクとのやりとりが面白かった。



ネット小説がない時代、読んでいるうちに、だんだんと自分の求めているものじゃなくなり、読まなくなることがよくあったなー。

誰かが面白いと言っていても、その誰かの感性が自分と似ているかわからない。


通学、通勤で電車に乗るようになり、古本屋が本選びの選択肢に入ってから、とても便利になった。

新刊で本棚が埋まっている本屋は、流行りものを買うには困らない。


ちょっと前に発売されたものの、流行の波に乗りそこねたりして、注文して取り寄せないと手に入らないとなると、その本が存在することさえ気づかない。

古本屋を利用するようになって気付いた。

自分のための隠れた名作を探しに古本屋に行くのはとても楽しかった。

1冊ずつ、題名、作者、あらすじを見て、流し読みをして自分に合いそうなら買う。

手探りで、自分の世界を広げる。

黒後家蜘蛛の会、ブラウン神父、ヴァン・ダインの探偵ヴァンス、弁護士マローン、メグレ警視。

黒後家蜘蛛の会の楽しい会話、ブラウン神父の頑張り、ヴァンスの格好良さ、マローンと仲間たちの気ままな奮闘、メグレ警視の目立たない人情。

ヴァンスとマローンは特に気に入って、持ち歩き、何回も読み返した。

黒後家蜘蛛の会には、連続殺人のような血塗れの描写じゃなく、推理を楽しむウィットな会話が読んでいて楽しい。まるで、その場にいる気分を味わえる。

ブラウン神父は孤軍奮闘している。ブラウン神父の頑張りを称賛するのは、なんの助けにもならない読者だけ。読みながら応援する。

ヴァンスは、アメリカの上流階級の人間なので、文中が華やかで楽しい。
最後の方に発売された2冊は、作者のやる気が減退したか、何かしらの働きかけがあったのか、面白さに欠けたけど、僧正殺人事件とカナリヤ殺人事件は、結末に驚いた。
グリーン家の犯人には納得した。

弁護士のマローンシリーズは、突拍子のない友達に振り回されながら、踏ん張ったり、女性への心遣いをみせたり、登場人物がそれぞれ生きる力に溢れており、スピーディーな展開が楽しい。

メグレ警視は学校の図書館に揃っていることに気づいて、コツコツと読んだ。
メグレ警視の夫婦仲は、一緒に歳を重ねた男女の距離なんだなあ、と思った。

フランスの小説は、小学生のとき、アンセーヌ・ルパンの児童書のシリーズを読んで、冒険活劇に胸をおどらせた。
メグレ警視は警視として上手に部下を使い、犠牲者や犯人に穏やかに向き合いながら、事件の核心に迫っていく。

小説を読むのに困らない現代日本に生まれて良かったなあ。

毎日、小説を読む楽しみがある人生。



配信されていた音楽が配信されなくなることもあるんだね

2023-04-12 01:21:00 | 音楽
音楽を配信サービスで聞いていたら、登録していた曲が配信サービス対象から外れてしまった。
突然聞けなくなるんだね。

音楽が配信で聞けるようになって、自分で趣味に合う音楽を手軽にお手頃価格で探せるようになった。

世間で頻繁に流されている音楽が、必ずしも趣味に合うわけではないので嬉しい。

提供された音楽は、気候ネタと同じ、万人に無難な世間話のネタとして、流行りの音楽を把握しておく必要があったけど、
CDだけじゃなく、配信でも提供されるようになったから、聞く側が探して選べるようになり、好みの多様化が進んだなあと思う。

お陰で音楽鑑賞が充実する。

その歌手のある曲が好きだからといって、他の曲も好きになるとは限らない。

音楽の間口がCDオンリーの時代は、音楽を自分の側に置くのに、ハードルが高かった。
10曲くらい収録されているCDを買っても、趣味に合うのが一曲だけだと、その一曲のためにかけるCD代金が勿体ないと感じるし、そのCDから一曲を聞くための作業が手間だと思う。
ベストアルバムがお得だと感じていたのは、好みから外れない曲が複数収録されていたからかな。

提供されている音楽の中から趣味に合うのが見つかったらラッキーなのは、今も昔も変わらない。

配信という音楽の提供手段が増えてくれたお陰で、音楽鑑賞がとても楽しい。

配信が始まる前は、
ライブやコンサートに行けないなら、CDを聞いて、ミュージックビデオを見て楽しんでね、でも生演奏を見にいくのがファンの真髄だよね、という時代だったように思う。

私の音楽鑑賞は、時間とお金をかけてライブやコンサートに行きたい、と切実に願うことはなく、流れてくる音楽を聞いて、たまにCDを買うくらいでよかった

ライブやコンサートに重きをおかない音楽鑑賞スタイルは、
配信サービスによって、画期的に充実している。

趣味に合う音楽を自分自身の時間配分で探せる。
曲だけでなく、ミュージックビデオを配信している場合は、気に入った音楽を手許で視覚を使って何度も楽しめる。


桃色理論が聞けなくなって悲しい。利用している配信サービスに復活してくれないかなー。

歌詞と曲と声が一致していると何度も繰り返し聞きたくなる。

配信サービスで、子どもの頃に流れていた曲も配信されるようになった。

懐かしいので、聴いてみるが、夢中になって何度も聞いた頃みたいには、ハマらない。

環境が変わって、求めるものが変化したのかな。

音楽は、その時の気分を表しているんだなあ。

色んな人がカバーする曲は、お気に入りを探すのも面白い。

天月−あまつき−さんの歌うシャルルや、おさむらいさん演奏でそらるさんが歌うメーベルは、ボカロとは趣きが違って楽しい。

アスノヨゾラ哨戒班はめありーさんの歌うバージョンが今は気に入っている。

激!帝国華撃団とMASKは、あさまっくさんのカバーがしっくりきている。

サクラ大戦の激!帝国華撃団とアニメの歌だったMASKの原曲は、どちらも女声で、聴いたらカラオケで熱唱したくなる歌だった。

あさまっくさんが歌うのを聴くと、自分が熱唱するより、聴きたくなる。

この2曲を選んでカバーするセンスが好きだ。

原曲が良いと、カバーしがいがあるだろうなあ。

慶應義塾ラグネル・ソサィエティー男声合唱団が歌う、ダンシング・ヒーローとロマンスの神様は、どちらもノリノリで体を動かしたくなる。
掃除したり食器洗いするときに流すのに向いている。

お気に入りの音楽が見つけられたときの達成感は、大きい。

セーラームーンの主題歌だったムーンライト伝説や、SPEEDの楽曲ラブリーフレンドシップを男声でカバーしたりしないだろうか?

カバーされたら聴いてみたいな。


イマドキの子どもの必須スキルは、英語とリスク管理

2023-04-05 12:02:00 | 教育
桜が散り始め、葉桜になった。

イマドキの子どもは、英語とリスク管理が必須らしい。


私の学生時代、英語の学習は、読み書きが定番で、リスニングが新顔だった。
会話、英語を使ったコミュニケーションは英文科や外大を希望しなければ、避けることもできた。

英語が物凄く苦手だった。読み書きだけでも苦労した。
単語の綴りや慣用句を覚えるのが楽しくなさすぎた。
日本から一生出ない、日本語があれば十分生きていけると思っていた。

英語の曲で気に入ったものは、歌詞カード見ながら口ずさんでいた。歌詞カードの対訳読んで、失恋とか、片思いとか、曲のテーマが分かったら、満足。

音楽CDは買ったり、レンタルしたり。

親に言われて聞き始めたラジオの英語講座は、ついていけなくてすぐに脱落。

英単語を覚えないと、聞きとれても、意味がわからない。
英単語に興味がわかないので、覚える気にならず、覚えられない。

日常会話に英単語は使わないし、使われても意味がわからないから、ふーんとスルーしちゃう。
古典の古語を会話に挟むとなんだかかっこいい気がして、使いたい古語は少し覚えたなー。

今は、もう覚えていない。見覚えあるなあ、と思っても、意味や用法は思い出せなくなった。

大人になったら、使う機会がない。使わなくなったら、忘れてしまった。

学生のときに話をする相手とは、互いの知識量や常識に大きなひらきがない。
打てば響く会話ができる。
ノリ!とか、勢い!とか、言葉遊びとかで会話が弾んだりする。

根底の部分が違う大人同士では、万人受けしないと会話が成り立たない。
互いが使う言葉や概念への理解が乏しいと、互いに苦労する。

英語じゃなければ、覚える気になるか、というと全くならなかった。
気楽に手を出したフランス語もスペイン語も、単語を覚えるのに嫌気がさした。
中国語は、発音の違いがわからない。
あまりにも分からなすぎて、わかる努力をする気にもならなかった。

特技があると就職に強いということで、英検やTOEICを受けている人を見て、
日本語しか使わない場所で働きたいと就職先を探した。
最初のうちは、日本語だけで安心していたのに、コンプライアンスとか英語はカタカナになって日常にぐいぐい押し込まれてくる。
別の会社では、働くまでは国際色を匂わせもしなかったのに、働き始めたら、中国のどうたらこうたら、が仕事に流れ込んできた。

外国語とか、外国的なものは、無関係な場所からときどき見ているくらいが楽しい。がっつり生活に侵食してほしくない。

外国要素は、たまに洋楽を楽しんだり、小説読んだりするくらいで、私の人生には十分間に合っている。

日々、日本語に囲まれて、安心感を覚えたい。

公立小学校でもiPadを授業で使うとかで、在籍中は、子どもたちへ貸し出される。
家庭科の宿題で、家で作った料理の写真をiPadで撮って、提出先のファイルにアップしたりとか、調べ物をするのに使う。
小学生の子どもたちは既にスマホに使い慣れていて、LINEとか、TikTokとか、身近な遊びとして扱う者もいる。

LINEやTikTokの楽しさが、私には全くわからない。
LINEはPTAの役員をするときや、子どもが付き合いがある親御さんとの連絡手段として必要になった。

LINEのお友達登録はお済みですか?
とお店にいくとお友達登録を勧められるようになった。
気に入ったお店であっても、お友達登録は断っている。
お店自身に情報を提供して登録するのは納得がいくが、関係のない第三者のLINEにも情報を提供する利点が私にはない。
情報が金になる世の中で、消費傾向や趣味を第三者に握られるのは、警戒する。

元々、流行り物は把握くらいしておかないと、会話に困るなくらいの生き方をしてきたけど、
大人になると、流行りものに食指が動かない。

流行り物は、日常生活に困らない程度の知識量で問題なく過ごせる。
自分にとって、お金と時間を費やす価値のあるものに集中したい。

自分の感覚で動けるネットは見る。新聞もちらっと読む。
しかし、子どもの頃に親しんだテレビやラジオのような媒体に、今は興味がわかない。
テレビやラジオに合わせて生活しなくなった。
何時からみたい番組があるから、という生活をしない。


FacebookもTwitterも必要になったら覚えようと思ったが、必要にならなかった。
スマホはメールと電話とインターネットが出来れば、今まで十分。
連絡手段以外なら、調べ物、読書、音楽鑑賞に困らなければよい。
いつでも連絡とれる、とか、写真をはじめとする情報を発信したり、共有できると知っても、やる気が起きない。


イマドキの子どもはリスク管理が出来ないと危険。

クラスLINEとか、部活の連絡網とか、LINEありきの流れになっているので、学校生活を送る上で、ないと不便なよう。

友達に制服の写真送って、と言われて送ったらスクリーンショットで拡散されたり。
iPadやノートパソコンのパスワードを聞かれて、友達に話したら、友達がパスワードを悪用して問題が起きたり。

友達自身のリスク管理能力や常識が、自分と同じレベルだと信用すると、簡単に痛い目にあうようだ。

常識のない人間や悪用した側を叱って、ごめんなさいと謝罪させるだけでは、終わらない。

子どもが、加害者にならないのは勿論だけど、被害者にならないように教育しないといけない。

不特定多数の無関係な第三者が気兼ねなく加害者に加わってくるから、
被害者になった場合の損失は、発端の友達が賠償してどうにかできるレベルじゃなくなる。

不注意とか善意に付け込むのは、明白な悪意を持った分かりやすく警戒したくなる人間よりも、友好的な振る舞いをしてくる誰かの方が、対処が難しい。

被害者にならないように、セキュリティレベルは常に強にしていても、それを友好的な関係の中で維持するのは、
自分を守るのは己自身であるという確固たる意志を持ち、友好的な関係が上下関係に移行しないように振る舞える必要がある。

今、大人で助かった。
今、子どもだったら、私は生きるのが面倒で仕方ない。
人生を投げ出したりはしなくても、日常生活を守るために、興味がない事象に取り囲まれ、子どもとしての時間をすり減らしただろうなあ。


中学校の制服、小学校とPTA、タダ乗り(フリーライダー)について。

2023-04-03 07:06:00 | 教育
もうすぐ入学式。
公立中学には、入学前にテストするところもある。

私のいた地域は、中学受験か、転校がない限り、ほぼ地元の公立中学に進学していた。
進学する公立中学で入学前にテストを受けた記憶はない。
構成員が大幅に変化しないから、小学校からの申し送りで問題ないなら、テストの必要はなかったのかもしれない。
中学受験する同級生は学年に数人。
転校生も1年に1人か2人。

私立中学は入学前に宿題が出たりする。
入学前に、生徒間の学習面での差を埋めておくためなのだろうか。

大人になって、私立中学の制服の可愛さを知ったとき、毎日可愛い制服着て学校に行けるだけでも、学校生活に意味を見いだせると思った。

私は中学の制服、体操服、諸々、好みじゃなく、毎日仕方なく着ていた。
着れば誰でも学生に見える。
中学生に見えることの利点も、
優れた機能が期待できるわけでもない制服が必要とされる理由も全くわからず、
登校準備に毎日気が進まないまま、中学生活が終了した。

高校は受験して入った。
制服が可愛いかったかというと、可愛いとは言えないが、似合わない人がいないようなデザインだった。
可愛い人や美人が着たら、長所を引き立てるが、平凡な人間が着ても浮かない。
高校の制服に忌避感はない。
受験して進学した分、選んだ気分になれるからだろうか。


子どもが小学校に通い出すと、小学校に対する大人の貢献度にびっくりした。

子どもの登下校時の見守りに、地域住民がボランティアで交差点に毎日立ってくださったり、親が交代で立ったりする。

私が小学校のとき、そんな大人は見なかった。子どもは三々五々に散らばりながらも、自分たちで登下校していた。

通学時間を外さなければ、子ども自身の目がある。
それだけでは問題になるほど、日本の治安は悪化してきたのか。

治安が悪化しているなら、通学路に監視カメラを導入したりは、治安維持のための人員を投入してもよいのではと思うが、そういう話は今まで聞いていない。

ボランティアの地域住民にも、交代で交差点に立つ保護者にも、子どもに迫りくる危険を回避する力はない。

運動会などの学校行事、校内清掃など、私自身が子どもの時分、子ども自身の働きと業者への委託で不足はなかったように見えた。
それとも、子どもに見えないところで、保護者が貢献していた?

保護者が学校に貢献する機会は、自身が子どもだった頃より増加したように感じてしまうが、何が原因なのだろう?

子ども一人あたりの能力の低下により、全体的にできることが減ったのか?

保護者の貢献を讃える風潮が、貢献度を競う土壌になった?

学校に配分される予算が、学校の運営に十分な額に満たないので、無償、もしくは低価格な労働力として保護者の貢献が組み込まれているのか?

集まったベルマークを学校で子どもたちの使う何かを買ったという報告が、毎年年度末ある。
運動会の道具や、学校の備品や、遊具に使われているのを見ると、ベルマーク分がなくなったら、小学校の運営は問題なく行えるのかな?と考えてしまう。

余裕があって、有意義に使われているというより、必要にせまられていたのでベルマークがあって助かった、ように感じる。

いつから現状なのだろう?

小学校を作ると決まったときから、ベルマークは学校予算として組み込むと決まっていたのだろうか?
PTAが発足したときから続いている?
それとも、何かが起きて、小学校の運営に支障をきたしたため、今に至るのだろうか?

公立の小学校の運営において、ベルマークは予算の一柱になっていたりするのだろうか?

ベルマークの集まる点数で、小学校の運営を補うには、厳しくないのだろうか?
各家庭の自主的な協力で集めていたので、最低額の保証などは難しいと思う。

ベルマークの回収は、いつまで続けられる?
今よりどのぐらい回収したベルマークが減っても、小学校が小学校として機能していられる?

破綻してからでは遅いが、回収したベルマークを毎年度の学校運営に見込んでいるなら、ベルマーク回収にかかる保護者の貢献も折り込まれてくるだろう。

PTAの役員になった保護者のうち、広報紙を発行する担当があるのは、なぜなんだろう?

PTAが広報紙を発行する理由はなんだろう?

学校から提供される情報では、保護者には足りていないと考えた保護者が、過去何代にもわたり、複数いたのだろうか。


小学校にかかる保護者の貢献を外注でまかなえたら、時間と労力、成果がお金に換算できて、PTA役員という大役のやることは減るのだろうか?

減るかもしれない。

ただし、支払い義務が発生する取り決めに対し、タダ乗りする人間が一人も出ないことはないと思う。
タダ乗りを容認するか、突っぱねるか。


私自身が子どものとき、
お世話になった担任の先生へ、最後に子どもたちからお花を1輪ずつ渡すため、
クラス役員をしている保護者が集金したが、
お花を渡す必要はないので払いませんと断った保護者がいた。

必要がないので支払わない、のは不思議ではない。

ただ、支払わない保護者の存在にクラス役員の保護者は悩んだ。
保護者が不要と切り捨てても、クラスメイトやその保護者もいる中で、渡す花がを持たない子どもがいる状況を良しとするか、である。

支払った側の子どもである私は、当事者の1人として、意見を述べた。

親が要らないというなら、その子どもに花は不要、親は我が子が、自分だけ花がないと嘆く前に、なぜそうなったかを理解させれば、問題になることはない。

支払わない人間の分も数に含めて、人数で割れば、1人あたりの花にかけられる金額が集めた金額よりも少なくなる。
支払った側は、支払う目的に納得して、支払っている。

先生に渡す花が貧相になるのは嫌だ。

支払わない人間のために、支払った側が負担する必要はない。

支払わなかった保護者の子どもには、
あなたの保護者は支払わない選択をしたが、
支払わないことで花を持たないか、
花を持ちたいなら、
自分の保護者を説得することを選択させたらよい。

自分の保護者を説得出来なくても花を持ちたいなら、クラスメイトの保護者が花の代金を負担することに前もって、礼を述べる機会を作って、ありがとうくらい言わせるとよい。

保護者の立場から見ると、
支払わない保護者の子どもに対し、
皆が持っているのに、1人だけ花を持てなくて可哀想と思うのだろう。

子ども同士の立場としては、逆だ。

可哀想なのは、支払わない人間の分を捻出するため、1人あたりにの金額を減らされ、本来よりも見栄えの劣る花を渡す支払った側の子どもだ。

支払わない人間の意思を尊重するために、支払った側に配慮を要求するのはおかしい。

それぞれの保護者が支払う、支払わないという判断ができる時点で、クラスメイトである子ども同士は対等だから。

保護者が判断を下した時点で、花を持つ対象になるかどうかは決まっている。


保護者が支払わない判断をしたのなら、その子どもが対価である花を持たないでいることに、なんの不都合があるのか。

担任や他の人から、あれ、あの子は花を渡さないの?と疑問に思っても、当該保護者自身の判断です、で終わる話だ。

他の子どもの意見は知らないが、私の意見は少数派か、賛同者がいなかったのだろう。

結果として、
子どもの1人である私の意見は採用されなかった。クラスメイト全員が1輪ずつ先生に花を渡した。

全員分の花を1輪ずつ揃える前に、クラス役員の保護者が、支払わない保護者も含めたクラスメイトの保護者に全員が花を持つか確認したが、全員が1人1輪花を持つことに賛成し、子どもを辞退させたい保護者はいなかったそうだ。

先生は全員から花をもらって喜んでいた。渡した子ども達も見守った保護者も嬉しそうにしている。


支払いをせずに対価を受け取り、その配慮に感謝もしない図々しい親子がクラスメイトにいる。
、全員が花を渡すという状況は、心から望まれて出来たのではなく、そうあるように仕上げられたものだ。

私は一歩ひいてまわりを見ていた。

花の贈呈が済んで、解散したが、礼を言うクラスメイトも保護者もいなかった。

日を改めても、いなかった。

支払わない保護者にすれば、我が子だけ花を持たないのは可哀想だから、全員が持つように手配されたことは、余計なお世話だったのか、当然の配慮だったのか、瑣末事すぎて気にかける必要がなかったのか。
考えても分からなかった。

クラス役員の保護者は良かれと思って、
1人あたりの花の代金を支払わない保護者の子どもの分も数に含めて均等割りを提案し、賛同を得て、実行したのだろう。

先生は喜んでいたので、クラスメイト全員から1輪ずつ花を贈呈することで、先生に感謝の気持ちを伝わったと思う。

目的は果たしている。

ただ、その過程に対して、私は子ども心に納得がいかなかった。
そして、大人になっても、しこりとして残っている。

解散後、支払った側の子どもだけ自主的に残り、有志として、先生ありがとうと1輪ずつ花を渡しても、先生は喜んだのでは、と考える。

担任の先生と良好な間柄であったために、かえって集団の1人としてのお礼には興味がなかったとか?
例えば、個別に感謝を伝えることを重視して、支払わない判断をしたとか。
親子が先生へ個別に礼をしたかは知らない。
親子ともに先生と良好な関係を築いているのは、周囲に知られていたそう。

その保護者にとって、クラス全員が1輪ずつ花を持つと決まったとき、
賛同した後も、
1輪の花を我が子に用意するための代金を支払うと言い出さず、
我が子を辞退もさせなかったのは、
内心をおしころして、
感動的な演出に協力する姿勢を見せただけなのか、
タダ乗りを喜んだのか、
関心がなかったのか。
大人になった今もわからない。

ただ、子どもと向き合うと、自分の人生をなぞるように振り返る機会が増えた。