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中学校の制服、小学校とPTA、タダ乗り(フリーライダー)について。

2023-04-03 07:06:00 | 教育
もうすぐ入学式。
公立中学には、入学前にテストするところもある。

私のいた地域は、中学受験か、転校がない限り、ほぼ地元の公立中学に進学していた。
進学する公立中学で入学前にテストを受けた記憶はない。
構成員が大幅に変化しないから、小学校からの申し送りで問題ないなら、テストの必要はなかったのかもしれない。
中学受験する同級生は学年に数人。
転校生も1年に1人か2人。

私立中学は入学前に宿題が出たりする。
入学前に、生徒間の学習面での差を埋めておくためなのだろうか。

大人になって、私立中学の制服の可愛さを知ったとき、毎日可愛い制服着て学校に行けるだけでも、学校生活に意味を見いだせると思った。

私は中学の制服、体操服、諸々、好みじゃなく、毎日仕方なく着ていた。
着れば誰でも学生に見える。
中学生に見えることの利点も、
優れた機能が期待できるわけでもない制服が必要とされる理由も全くわからず、
登校準備に毎日気が進まないまま、中学生活が終了した。

高校は受験して入った。
制服が可愛いかったかというと、可愛いとは言えないが、似合わない人がいないようなデザインだった。
可愛い人や美人が着たら、長所を引き立てるが、平凡な人間が着ても浮かない。
高校の制服に忌避感はない。
受験して進学した分、選んだ気分になれるからだろうか。


子どもが小学校に通い出すと、小学校に対する大人の貢献度にびっくりした。

子どもの登下校時の見守りに、地域住民がボランティアで交差点に毎日立ってくださったり、親が交代で立ったりする。

私が小学校のとき、そんな大人は見なかった。子どもは三々五々に散らばりながらも、自分たちで登下校していた。

通学時間を外さなければ、子ども自身の目がある。
それだけでは問題になるほど、日本の治安は悪化してきたのか。

治安が悪化しているなら、通学路に監視カメラを導入したりは、治安維持のための人員を投入してもよいのではと思うが、そういう話は今まで聞いていない。

ボランティアの地域住民にも、交代で交差点に立つ保護者にも、子どもに迫りくる危険を回避する力はない。

運動会などの学校行事、校内清掃など、私自身が子どもの時分、子ども自身の働きと業者への委託で不足はなかったように見えた。
それとも、子どもに見えないところで、保護者が貢献していた?

保護者が学校に貢献する機会は、自身が子どもだった頃より増加したように感じてしまうが、何が原因なのだろう?

子ども一人あたりの能力の低下により、全体的にできることが減ったのか?

保護者の貢献を讃える風潮が、貢献度を競う土壌になった?

学校に配分される予算が、学校の運営に十分な額に満たないので、無償、もしくは低価格な労働力として保護者の貢献が組み込まれているのか?

集まったベルマークを学校で子どもたちの使う何かを買ったという報告が、毎年年度末ある。
運動会の道具や、学校の備品や、遊具に使われているのを見ると、ベルマーク分がなくなったら、小学校の運営は問題なく行えるのかな?と考えてしまう。

余裕があって、有意義に使われているというより、必要にせまられていたのでベルマークがあって助かった、ように感じる。

いつから現状なのだろう?

小学校を作ると決まったときから、ベルマークは学校予算として組み込むと決まっていたのだろうか?
PTAが発足したときから続いている?
それとも、何かが起きて、小学校の運営に支障をきたしたため、今に至るのだろうか?

公立の小学校の運営において、ベルマークは予算の一柱になっていたりするのだろうか?

ベルマークの集まる点数で、小学校の運営を補うには、厳しくないのだろうか?
各家庭の自主的な協力で集めていたので、最低額の保証などは難しいと思う。

ベルマークの回収は、いつまで続けられる?
今よりどのぐらい回収したベルマークが減っても、小学校が小学校として機能していられる?

破綻してからでは遅いが、回収したベルマークを毎年度の学校運営に見込んでいるなら、ベルマーク回収にかかる保護者の貢献も折り込まれてくるだろう。

PTAの役員になった保護者のうち、広報紙を発行する担当があるのは、なぜなんだろう?

PTAが広報紙を発行する理由はなんだろう?

学校から提供される情報では、保護者には足りていないと考えた保護者が、過去何代にもわたり、複数いたのだろうか。


小学校にかかる保護者の貢献を外注でまかなえたら、時間と労力、成果がお金に換算できて、PTA役員という大役のやることは減るのだろうか?

減るかもしれない。

ただし、支払い義務が発生する取り決めに対し、タダ乗りする人間が一人も出ないことはないと思う。
タダ乗りを容認するか、突っぱねるか。


私自身が子どものとき、
お世話になった担任の先生へ、最後に子どもたちからお花を1輪ずつ渡すため、
クラス役員をしている保護者が集金したが、
お花を渡す必要はないので払いませんと断った保護者がいた。

必要がないので支払わない、のは不思議ではない。

ただ、支払わない保護者の存在にクラス役員の保護者は悩んだ。
保護者が不要と切り捨てても、クラスメイトやその保護者もいる中で、渡す花がを持たない子どもがいる状況を良しとするか、である。

支払った側の子どもである私は、当事者の1人として、意見を述べた。

親が要らないというなら、その子どもに花は不要、親は我が子が、自分だけ花がないと嘆く前に、なぜそうなったかを理解させれば、問題になることはない。

支払わない人間の分も数に含めて、人数で割れば、1人あたりの花にかけられる金額が集めた金額よりも少なくなる。
支払った側は、支払う目的に納得して、支払っている。

先生に渡す花が貧相になるのは嫌だ。

支払わない人間のために、支払った側が負担する必要はない。

支払わなかった保護者の子どもには、
あなたの保護者は支払わない選択をしたが、
支払わないことで花を持たないか、
花を持ちたいなら、
自分の保護者を説得することを選択させたらよい。

自分の保護者を説得出来なくても花を持ちたいなら、クラスメイトの保護者が花の代金を負担することに前もって、礼を述べる機会を作って、ありがとうくらい言わせるとよい。

保護者の立場から見ると、
支払わない保護者の子どもに対し、
皆が持っているのに、1人だけ花を持てなくて可哀想と思うのだろう。

子ども同士の立場としては、逆だ。

可哀想なのは、支払わない人間の分を捻出するため、1人あたりにの金額を減らされ、本来よりも見栄えの劣る花を渡す支払った側の子どもだ。

支払わない人間の意思を尊重するために、支払った側に配慮を要求するのはおかしい。

それぞれの保護者が支払う、支払わないという判断ができる時点で、クラスメイトである子ども同士は対等だから。

保護者が判断を下した時点で、花を持つ対象になるかどうかは決まっている。


保護者が支払わない判断をしたのなら、その子どもが対価である花を持たないでいることに、なんの不都合があるのか。

担任や他の人から、あれ、あの子は花を渡さないの?と疑問に思っても、当該保護者自身の判断です、で終わる話だ。

他の子どもの意見は知らないが、私の意見は少数派か、賛同者がいなかったのだろう。

結果として、
子どもの1人である私の意見は採用されなかった。クラスメイト全員が1輪ずつ先生に花を渡した。

全員分の花を1輪ずつ揃える前に、クラス役員の保護者が、支払わない保護者も含めたクラスメイトの保護者に全員が花を持つか確認したが、全員が1人1輪花を持つことに賛成し、子どもを辞退させたい保護者はいなかったそうだ。

先生は全員から花をもらって喜んでいた。渡した子ども達も見守った保護者も嬉しそうにしている。


支払いをせずに対価を受け取り、その配慮に感謝もしない図々しい親子がクラスメイトにいる。
、全員が花を渡すという状況は、心から望まれて出来たのではなく、そうあるように仕上げられたものだ。

私は一歩ひいてまわりを見ていた。

花の贈呈が済んで、解散したが、礼を言うクラスメイトも保護者もいなかった。

日を改めても、いなかった。

支払わない保護者にすれば、我が子だけ花を持たないのは可哀想だから、全員が持つように手配されたことは、余計なお世話だったのか、当然の配慮だったのか、瑣末事すぎて気にかける必要がなかったのか。
考えても分からなかった。

クラス役員の保護者は良かれと思って、
1人あたりの花の代金を支払わない保護者の子どもの分も数に含めて均等割りを提案し、賛同を得て、実行したのだろう。

先生は喜んでいたので、クラスメイト全員から1輪ずつ花を贈呈することで、先生に感謝の気持ちを伝わったと思う。

目的は果たしている。

ただ、その過程に対して、私は子ども心に納得がいかなかった。
そして、大人になっても、しこりとして残っている。

解散後、支払った側の子どもだけ自主的に残り、有志として、先生ありがとうと1輪ずつ花を渡しても、先生は喜んだのでは、と考える。

担任の先生と良好な間柄であったために、かえって集団の1人としてのお礼には興味がなかったとか?
例えば、個別に感謝を伝えることを重視して、支払わない判断をしたとか。
親子が先生へ個別に礼をしたかは知らない。
親子ともに先生と良好な関係を築いているのは、周囲に知られていたそう。

その保護者にとって、クラス全員が1輪ずつ花を持つと決まったとき、
賛同した後も、
1輪の花を我が子に用意するための代金を支払うと言い出さず、
我が子を辞退もさせなかったのは、
内心をおしころして、
感動的な演出に協力する姿勢を見せただけなのか、
タダ乗りを喜んだのか、
関心がなかったのか。
大人になった今もわからない。

ただ、子どもと向き合うと、自分の人生をなぞるように振り返る機会が増えた。


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