玖波 大歳神社

神社の豆知識

五 明治維新から終戦まで   二 神祇官の再興

2012-01-26 19:32:07 | 日記・エッセイ・コラム

 二 神祇官の再興
 明治二年(一八六九)に神祇官の再興・明治三年に宣布大教詔・明治四年に社家の世襲禁止・社寺領上知令・官国幣社指定の太政官布告など次々と神社を統制管理していく方向付けがなされていく。この頃から平田派から津和野派に政策内容が変貌し始め、「神社は国家の宗祀」と宣言し、祭祀と宣教が分離し、神の位置付けもキリスト教への対抗・天皇に国民の尊崇を集約し、臣民としての意識を植え付ける目的に変わっていった。そして、戸籍法の制定と郷社定則により戸籍の区域に即して個人は特定郷社の氏子としていった(機能としての異教監視・新生児把握は、戸籍法とのだぶりで意義を失った。宗門制度の考え方も頓挫している。)。
 神社を取り巻く制度が次々と変革され、特に①社家の世襲禁止によって、従来の社家の多くは追放され、長く続いてきた伝統的祭祀・神事も多く消滅していった。また、②社寺領上知令によって、境内地以外の全社領を没収され経済面でも大打撃を受けた。このように弱体化し「国家の宗祀」たりえなくなった神社に明治政府は切り捨て政策を実施する。明治十年代頃には、官国幣社以外の神社・神官を一寺院と同列に扱う措置をとり、明治十五年には官国幣社の神官と教導職の兼任が禁止され、維新以降普及していた神官が葬儀を行うことも禁止された。明治二十年には官国幣社保存金制度の導入(国庫支出の廃止)・官国幣社神官が廃止され神職になった。
 明治五年(一八七二)神祇省を廃止し教部省を設置し、教導職を設け(教導職には全ての神職に加え僧侶も参加し、地域に小教院・府県に中教院、東京に大教院をおいた。)、神道教義としての十七兼題文明国家の徳目としての十一兼題を説くべき題目とするようにした。その後、教導職に民間宗教者も参加するようになり、また、「教会大意」の通達により、民間宗教者の宗教行為を国家公認とする根拠を与えてしまい、「教会」「講社」を法的に認めることとなった。
 浄土真宗は、薩長藩閥間の対立を背景に、「治教」と「宗教」を区別し、教導職は「治教」に専心すべきとして大教院からの離脱運動をおこし、明治八年には神仏合同布教が中止された。神道側は神道事務局を設置し、大教院は解散となり、明治十年に教部省も廃止され、これを社寺局が継承し、明治十七年には教導職も廃止された。
 明治二十二年明治憲法が発布され、明治二十二年から二十三年にかけて、「神祇道」は宗教的な神道とは区別された「国家の宗祀」であり、複数の官庁で分掌されていた祭儀を統括すべきだとの主張により「神祇官設置運動」が展開されたが政府には動きがなかった。明治三十三年になると社寺局を宗教局と神社局に改組し、神社=非宗教論を制度的に裏付けることになった。
 神仏分離令によって、一見、仏教が弾圧され神道が保護されたように見えるが、神道も次々と手足をもがれ、厳しい規制を受け、国民精神の統合のために上手く利用されていったようにしか思えない。


五 明治維新から終戦まで 一 神仏分離

2012-01-26 19:20:38 | 日記・エッセイ・コラム

 一 神仏分離
 江戸末期の国学・水戸学の流れに沿い祭政一致と王政復古を掲げ、明治政府は、慶応四年(一八六八)祭政一致・神祇官再興の布告(いわゆる神仏分離令・神仏判然令)を行った。天皇家においても明治元年孝明天皇三年祭から神仏分離が行われ始める(江戸期まで天皇家では仏式の祖先祭祀を行っていた。)。
 一般の神社では、おおむね神仏分離が粛然と行われていたが、今日なお幾多の社殿に仏像や懸仏が奉安されていたり、大般若経をはじめとする経典類などが残されていて、分離が不徹底な一面も窺うこともできるが、仏教伝来以降長く続いてきた神仏習合は一瞬の内に崩壊させられたのである。
 明治維新の神仏分離は、神社境内から塔・経蔵・鐘楼・仏堂などの仏教建築を除去するだけにとどまらず、神社本殿自体の細部形式にまで波及した。すなわち、仏教建築に由来するという理由から、組物を用いること、彩色を施すこと、象などの彫刻を加えることも批判され、また、屋根には千木や堅魚木を乗せることが当然とされた。神社の各社殿の標準的な規模形式を図示した制限図が刊行され、その流布応用が促進された。そうした背景によって、厳島神社では、各社殿から平安以来の朱塗の彩色が掻き落とされ、本殿の屋根に千木・堅魚木が新たに置かれるという改造が加えられていた(後に復旧)。


四 近世における変化  四 神基習合

2012-01-26 19:18:10 | 日記・エッセイ・コラム

 四 神基習合
 神道とキリスト教は昔から相反する存在のように思われがちだが、一五四九年に来日したイエズス会のフランシスコ・ザビエルは改宗者ヤジロウの意見に従いデウスを大日と日本語訳していた。大日如来は、あらゆる現象を生む宇宙の根元とされ、伊勢神道などでは天照大神と同一視されていたが、ザビエルはデウスと類似した性質を感じていたと思われる。しかし、唯一絶対のキリスト教と汎神論的大日如来との相違からこの訳を止めた。次にビレラは、天道(道徳的に善い行いをすると善い報いを受け、悪い行いをすると悪い報いを受け、それは現報だけでなく子孫にも及ぶとするもの。)と訳した。その理由は、死生観の類似と吉田神道の大元尊神(国常立尊=天御中主神)の影響を受けたためである。ただこの訳も汎神論的性質のため取り止められ、原語のデウスで表されるようになった。これらのことからキリスト教は中世の神道と交わり、布教に大きな影響を受けていたことが窺える。
 しかし、徳川の幕藩体制にはいると、朱子学が中心的観念となり、キリスト教は都合の悪い存在になっていった。その理由は、キリスト教が神に対する戒律(断食・懺悔・ミサなど)と人に対する戒律(主君への忠義・親への孝・隣人愛など)との二重戒律を持っていたためである。例えば、幕藩体制に必要な主君への忠義に対して、ゼウスは絶対であってクリスチャン同士はたとえ敵になっても戦わなかったり、捕虜にしても逃がしたり、一緒にミサをしたりと、矛盾を至るところで生じたことなどである。
 幕藩体制は寺社を保護し統括していたが、神道はキリスト教と同様に都合の悪い存在になっていた。「日本は、天照大神の生まれた国で、天皇を中心に国家と民族が一体となる」という思想により、幕府が政権を委託されたものでのみあれば矛盾を生じないがそれ以上になろうとしたとき相反する存在になっていくからである(宣長の顕露事等)。
 宣長の「本教外篇」はキリスト教の教義書の敷き写しないしは転合書きと言われ、天御中主神をデウスになぞらえ現報の様なことを説いている。平田派も「アダムとイブはいざなぎのみことといざなみのみことだった。」と言うなどキリスト教の影響を受け、幕藩体制に都合の悪いもの同士が習合したことにより、神道は、キリスト教の「神の創造と支配・神への絶対服従」などの神観念を取り入れていき、討幕運動に進んでいく。


四 近世における変化  三 本居宣長と天照大神

2012-01-26 19:15:55 | 日記・エッセイ・コラム

 三 本居宣長と天照大神
 宣長は市川匡麻呂との論争で天照大神を「今まのあたり世を御照し坐す天津日(天日そのもの・太陽)」であるとし、外国で天照大神が知られていないのはその徳化の行き渡らないためではなく古伝説の有無によるとしている。しかし、太陽の昇らない国は無いし、太陽崇拝を行っている国は多かったはずであり、その国の王の中には太陽の子孫である古伝説を持つ者もあったはずで、そうであるならば彼らも皇孫と認めるべきであろうか。皇孫ではあるが三種神器を授けられていないから皇統とは言えないと言うことも出来るかも知れない。だとしたら、天照大神である太陽は空に変わらずおわし坐す以上、葦原中国を平定するために天孫を降らせたように世界の他の地域全てを平定するために幾度も天孫を降らせて当然であり、世界中が天孫に国譲りを行ってしかるべきである。
 また、天照大神が太陽であるならば毎日礼拝することが出来るのに、なぜ、内裏にお祀りし、後に笠縫邑を経由して伊勢にお祀りしなければならなかったのか。伊勢神宮内宮を礼拝するとき素直に天照大神に手を合わせているが太陽に対してのそれは太陽の恵みや有り難さに対するもので天照大神と同一に考える事が出来ないのは私だけであろうか。私は、当然自然物自体に霊や神は宿っていると考えているが、名前を持った神がその自然物と一体とは考えない。例えば、御年神は稲を司る神であり、水波能売神は水を司る神であり、神そのものが稲や水ではない。稲にも水にもそれぞれ名を持たない霊が宿り、それは尊い神の恵みによってコントロールされているのではないだろうか。そのことから、太陽は日神・月は月神と見るべきではないだろうか。天照大神が太陽であるならば伊勢神宮不要説に繋がる可能性があるように感じる。私にとって伊勢神宮は天照大神が御鎮座されている大切なお宮である。
 また、「皇位は不動であって、万代、皇位を窺い天皇に背く者はありうべからざること。」としていることについて、明治政府の地盤固めには、都合の良い理論で積極的に述べられてきていた。しかし、昭和二十年八月十五日の敗戦以降、顕露事・幽事のシステムは破壊され、占領軍が、占領軍独自の思考(当然国政委任ではない。)で、日本の国政を行い、新憲法施行後も、安保条約等で事実上の間接支配を続けていると言えるであろう。国会の開催などを見ていると顕露事・幽事のシステムが修復されているように感じられるが、実際には形式のみの修復であり、実質の修復が成されない限り、中国四千年の歴史と五十歩百歩になってしまう。出来る限り早期の実質修復が成されなければならない。


四 近世における変化  二 近世の国学(復古神道)

2012-01-26 19:12:59 | 日記・エッセイ・コラム

 二 近世の国学(復古神道)
 その国学の流れを見ていくと、中心的役割を担った人物として、契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤が挙げられる。
 契沖は寛永十七年(一六四〇)に生まれ、僧侶として難波今里妙法寺で和歌について学び「漫吟集」を作り、高野山時代には梵語を十分に習得したことが基礎となり、「古典和歌の研究」「古典の語学を中心として研究」「学問的随筆」「歌集」を学問の主題にしていた。いにしえを在るがままに受け入れる姿勢で(批判・取捨を避ける。)、和歌を知り作ることが古代に近づく最高の手段としている。また、三教融合説を説きながら神道を儒仏より優先させ、日本を「神国」と表現していた。
 荷田春満は伏見稲荷大社の神官の出で寛文九年(一六六九)に生まれた。春満の学問は神典歴史から制度に関するもの、万葉集その他の和歌に関するもの、国語に関するものと多岐にわたっているが、基本線は社家としての神道学者から次第に和学者へと進んだ人である。
日本書紀の研究中に「本朝の道は神代上下に尽してある也。」「正道の日本紀神代巻を学びて、教誡を神代の善悪の神の其行を見て、勧善懲悪の教誡を求むべし。」と言っており、これが神祇道徳説である。春満も国常立神を神々の根本に据え、八百万の神たちをその徳の分化した存在と考え、天神を善、国神を悪とし、天神が造化成した葦原中国を、国神が支配し善悪邪正や義理道徳の差別もない蒙昧な地にしてしまい、この葦原中国に道を開くため天孫を降臨させたという認識を基本にしている。神については、日本書紀神代巻箚記に「神は魂と伝ふること也。かの国の中より清潔なる葦牙の如くなるもの、何にかゝはらず、すふとぬけ出でたる所、此神となり給ふ也。然れば神は天地の魂と見る可し。形にしても窺へども、実は魂と窺う可きこと也。」「神明には生々無窮の義を神徳となされ、神慮の本となし給ふ。是神明の大徳也。」と有り、魂に重点を置いていた。神を玉(魂 吾身の主は魂也)・劔(気 生命力)・井(水 形作るもの)を受けて成るものと考えている。
 賀茂真淵は元禄十年(一六九七)に生まれ、壮年期に学に志し春満の門弟となる。真淵の万葉集を中心とした古学は古言と古意(「文意」「歌意」「国意」「語意」「書意」の五意に分析考察)の闡明に重点が置かれ、古道(神々の示し給うた秩序)の闡明を最終目的にしていた。
 万葉集を研究する中で古代人の「ますらおぶり」に憧れ、素戔嗚尊の暴挙とそれに対する天照大神の態度を例に男は荒魂・女は和魂を得て生まれたとしている。
 また、神道を「皇神の道(天皇の踏み行う道)」「天つかみろぎの道(万民の踏み行うべき道)」に分けて考えている。「皇神の道」を要約すれば①神祇を崇敬し給うこと②天皇の陵威を重んじ給うこと③万民を愛撫し給うこととし、「天つかみろぎの道」を①神祇を崇め敬うこと②清明の真心を以て天皇を畏み敬すること③義勇以て克く天皇に仕え奉ることとしており、神祇崇拝を大切に考え、元来の神を上としていた。真淵は、古事記の研究にも着手していたが道半ばで本居宣長に託すのであった。
 契沖・荷田春満・賀茂真淵の学問を統合し、組織的国学に大成したのが本居宣長であった。 中国は四千年の歴史と言ったりするが途中で北方の騎馬民族などによって支配する民族が替わってきている(禅譲・放伐)。宣長は、それに対し日本の国体について、天照大神の生まれた国で、三種神器・天地無窮の神勅により皇統は絶えることなく連綿と続いており、神代から在るがままに天皇にお仕えすること、天皇を中心に国家と民族が一体となっていること、皇統から別な者に替わることが無かった故に、道を論じたりと言うような言挙げをしないことが国柄であるとしている。
 仏教や儒教については、日本古来の良い習慣が、外国からの風潮に紛れたり、弊害を受けたりしている現状を非難し、世の中は全て合理的に解釈や説明が出来るものではなく、古伝説に基づき実利的に物事は考えるべきとしている。神には善きも悪しきもあって、人知では測りがたく、世の中の不条理なことは禍津日神の御心によるものとしている。即ち、神とは①凡そすぐれて霊異有る存在であり、②多種多様であり、③人知では測りがたいものとしている。
 また、幕藩体制を説明するのに、大国主神との幽契によって顕露事は皇孫、幽事は大国主神としたことを基本に、顕露事を「国勢の行い方」と「惣体の人の行うべき事業」に分け、天皇の親政は前述の通りだが、「惣体の人の行うべき事業」を国政委任という手法をとって行っていると考えている。
 神道に関しては、神授神伝の大道であり、上古からの大御手振りと位置づけている。そして、秘伝・秘技などを否定し、教誡を無用のものとし、神祇祭祀・祖先崇拝などひたすら神に仕える生活を求め、人の力で解決できない世の不条理に座視できないと、直毘魂にすがり直し清めたいと願っている。
 平田篤胤は宣長の継承者を自認し、神霊にはそれぞれの役割があるとして、多様化した宗教を統一していこうとした。特に関心を持ったことが死後の世界であった(宣長が霊魂の行方を黄泉の国としているのに対して、死後の霊魂は地上に存在しているとし、研究の中心になっていった。)。幽契によって幽事を主宰するのは大国主神であるとし(人が生前なした善悪は産土神を通じて大国主命神に報告され、死後の運命が決まるとしている。)、また、祖霊崇拝は仏教的ではなく神に関する儀礼であるとし、死後観について影響力の強かった仏教の言説を退けた。そして、世界のあらゆるものを神秩序から説明しようとし、本来の純粋な在り方の究明を図り、神仏習合以前の信仰を明らかにしようとする人々の共感を得た。晩年に白川家と接近して、平田派は勢力を拡げ、このことが国学者たちを神仏分離運動や教派神道に向かわせた。


四 近世における変化 一 江戸期の神道

2012-01-26 19:04:47 | 日記・エッセイ・コラム

 一 江戸期の神道
 江戸時代に入ると社会・経済が安定を取り戻し、国家的祭祀が復興されるようになってきた。そして、神道制度の復活・整備の基盤造りが行われ始めた。そのような中で神道説が諸説広まり、また、神道思想から仏教思想を取り除こうとする流れも確立してくる。この時代の代表的なものを簡略に示しておく。
 伯家神道 吉田神道によりその地位を脅かされた白川家は、花山天皇から出た家柄で神祇伯(神祇官の長官)を世襲した名門であった。宮中に伝わる各種の神事作法や独特の古伝や祭祀のやり方を広め、家伝の文書を整理して、「伯家部類」「神祇家学則」「神道通国弁義」などを発表した。これにより巷に広まっている他の神道との違いを明確にし、伯家神道を権威付けようとした。この神道を簡略に述べると、古今通じて変わらぬ根本原則で、どこの国にあっても通用する大道であり、また神道と武道は同じであるとし、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」を研鑚することにより身を修め、家を整え、国を治める要領を理解できるとしている。
 吉川神道 吉川惟足が吉田神道の影響を受け(萩原兼従から唯受一人の伝授である四重奥秘を授けられる。また、天地万物の根元を国常立神としている。)、儒教思想を取り入れて仏教の要素を取り除き吉田神道を再編成したものである。特徴としては、行法神道(祭事や日常の神明奉仕を行うこと。)と理学神道(世を治め政治を行うこと。)に分け、理学神道こそ本当の神道であるとした。また、陰陽五行説を取り入れ、土と金の調和を大事と考え、それは、人の心にあっては敬(つつしみ)と義に当たり倫理の大切さを強調し、国体の護持と君臣の道の遵守を神道の本質とした。
 垂下神道 吉川神道を継承(陰陽五行説を同じく説き、また、神道を天照大神の道と猿田彦神の教えとし、宇宙本体と道徳の根元を国常立神として「天神唯一の理」を説いた。)して山崎闇斎(元臨済宗の僧)が唱道した。闇斎は、神道は理論より信仰であるとし、「三種神宝伝」「神籬磐境伝」を伝え、儒教の大義名分の立場から天照大神への信仰とその子孫が統治する道を神道とし、天皇崇拝・皇室の絶対化を強調した。これを受け後に多くの尊皇家を育てることとなった(明治維新への伏線となった。)。
 土御門神道 日本古来の神道的行事と密接な関係を持っていた陰陽道を元にしており、阿倍晴明の末裔である土御門泰福が垂下神道に学び広めた説である。泰山府君祭・天曹地府祭と言った特殊神事を行い、天下太平、天皇安穏、人々の安楽の祈願を中心とした。
 この吉川神道・垂下神道の流れを受けて起こったのが復古神道(これら儒家神道を「漢意」として批判し、純粋な神道思想を求めた国学)である。


三 中世における変化  八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)

2012-01-25 21:17:35 | 日記・エッセイ・コラム

 八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)
 応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退していった。神宮・朝廷すら例外ではなかった。寛正五年(一四六四)に即位した後土御門天皇の頃からおよそ四代の間、式年遷宮は百二十四年、神嘗祭例幣が百八十年、大嘗祭に至っては二百二十一年途絶えてしまっている。この事は、式年遷宮を二十年ごとに行う理由として言われている技術等の継承・伝統の護持などの意味を失わせてしまう(天正十三年(一五八五)の復興から長い時間を掛けて本来の姿を求めて諸先輩方が努力し、現在に至っているが、その間本来の姿でなくても遷宮と認めてきているし、途絶えた間、儲殿や仮殿で凌いでおり、それで済むのであればそれで良いと考える者も少なくないだろう。また、完全な継承が出来ていないのであれば、一般の神社が、茅葺きや柿葺きや檜皮葺の屋根を銅板に張り替えざるを得ない状況になっているのと同様に神宮も銅板ではなぜだめなのかとの主張も出て来るであろう。どうしても二十年毎でなければならない理由をもっと説得力のあるものにしていかなければならないのではないか。尚、技術や伝統行事所作等に関してはデジタル機器で保存が可能である。)。また、大嘗祭を行わなくても正統な天皇として認められていたわけで、大嘗祭の存在意義についても疑義が生じる。この時代が現在の教学を更に複雑なものにしている。
 ただ、在地領主はそれぞれの氏神を始め地縁の神社を崇拝し、保護しようとしていた。そのおかげで持ち直すことの出来た神社も多々あったようである。しかし、慶長五年(一六○○)の関ケ原の戦いによって、旧来の在地領主の領地も収公となった。新しく入国した領主の有り様は様々で広島を例に見ると、安芸国においては福島家・浅野家であるが、どちらも村の氏神社との関係を持とうとしなかった。それどころか、一部の神社を除いて(広島東照宮と広島三の丸に稲荷神社を建立し、宮島の厳島神社と豊田郡豊町の宇津神社を保護し、江戸末期には浅野氏の始祖を祀る饒津神社を建立したのみ)社領も安堵せず、これにより中世の在地領主たちが護持してきた氏神社は、大檀那として造営、修理する者を失い、経済基盤が崩れていった。氏神社の祭祀経費も全く無くなり、十七世紀の神社の大荒廃期を迎えることになった。
 これとは逆に、備後国では福島氏改易後、水野氏の領国となり、浅野氏とは異なって十七世紀造営の本殿がかなり残っており、神社の造営をかなり援助したことが分かる。吉備津神社は中世末期にはかなり荒廃し、福島正則時代には大鳥居も奪取されて広島城大手門の門柱になるような状況であったが、水野氏によって完全な復興を見た。水野氏は、鞆ノ浦の祇園社(現、沼名前神社)や城下の福山八幡宮も復興しており、水野氏によって復興がなされた神社は数多い。
 このように領主により神社の盛衰はかなり異なるが、徳川政権が安定してくると、全体としては、経済状況も良くなり一般の人々の暮らしと共に回復の道を歩むこととなった。藩による護持と一般の人々による維持に分化していった時期と言えるであろう。一般の人々による維持は現代の神社の有り様に似通っている。


三 中世における変化  七 吉田神道(元本宗源神道)

2012-01-25 21:15:47 | 日記・エッセイ・コラム

 七 吉田神道(元本宗源神道)
 室町後期、吉田兼倶によって大成されたが、これは兼倶以前の吉田家の家学としての古典研究や慈遍等の業績の積み上げである。吉田家は卜部氏の末裔で亀卜を司る家柄であり、吉田神社の世襲神主であり、卜部兼方、卜部兼好、慈遍などの学者が出ている。吉田神社は、平安中期に藤原氏が春日大社の氏神を京都の神楽岡西麓の吉田山に勧請したのが始まりであり繁栄したが、兼倶の頃になるとすっかり荒廃していた(吉田神社だけでなく応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退し、重要な国家的祭祀も中絶していった。)。兼倶の宗教・政治の卓越した才能(戦火で外宮が焼け御神体紛失の噂が流れた時、戦乱を嫌って吉田神社に神器と共に移られたので調査して貰いたいと朝廷に願ったことなど)により一挙に総本山的地位の基礎を築きあげた。更に、兼倶は大元尊神(国常立尊=天御中主神)を祀るために大元宮を建てその周囲に日本国中の神々を祀り、神祇伯を世襲してきた白川家に対抗して、「神祇官領長上」を僭称し、それを幕府に承認させたのであった。
吉田家は中世末期から宗源宣旨・狩衣許状・継目許状(神道裁許状)などを出して支配力を拡大していたが、家元的地位は寛文五年(一六六五)の「諸社禰宜神主法度」第三条で吉田家の許可による装束の着用との明記により、確立し、幕末まで続く。
 思想面から見ていくと、神とはすべてを超越した存在であり、神は霊的存在にして万物(善悪、邪正を問わず)に宿り、物心すべての存在は神と共にあるとし、すべての現象は神明によるものと考え、その根元が神道であるとしている。また、辺土思想や本地垂迹説に対抗すべく、根本枝葉花実説(日本から種子を生じ、中国で枝葉を現し、印度にて花実を開く。仏教は万法の花実で、儒教は万法の枝葉で、神道は万法の根元であるとし、仏教も儒教も神道から分かれたもので、神道が根本であることを明らかにするために日本にやって来たものであるとする説)により神主仏従論を展開している。更に、元本宗源神道は顕露教と穏幽教に大別され、顕露教とは先代旧事本記・古事記・日本書紀の研究や各種祭祀を延喜式祝詞を持って行うもので、穏幽教とは顕露教に無い神秘的な奥義で万宗・諸源の両壇を設けて、神道三元三妙三行という加持を行った。

関連サイト http://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/kyoto/daigenkyu.html


三 中世における変化  六 正統

2012-01-25 21:04:04 | 日記・エッセイ・コラム

 六 正統
 「神皇正統記」は北畠親房によって皇位が神代からの正しい皇統、また道理によって受け伝えられてきたことを明らかにしようとするもので、北畠親房の国体論を表す一方で後村上天皇の参考に資する目的で著されている。度会家行と親交の深かった親房は、伊勢神道を基盤に(特に「類聚神祇本源」を参考に)して、「元元集」を表し、伊勢神道の「正直」という徳目を中心に神道説を述べ、同時期の「二十一社記」では神明奉仕の心得として「身正しく心明なれば我身即神也…」と述べている。南北朝時代は、後嵯峨天皇が二人の皇子(後深草天皇・亀山天皇)に対する愛情の違いで正統を逸脱したことから生じたといえる。後深草上皇に同情した幕府が間に入り、後深草上皇の子を亀山天皇の養子とし、次の天皇とする案を示し、両者これに合意した。そして、後深草上皇の系統を持明院統、亀山天皇の系統を大覚寺統と呼び、ほぼ交互に皇位を譲り合っていたが、誰にでも想像できるように問題が生じ、後醍醐天皇の頃が互いのフラストレーションを解消すべき時期にきていた様に思われる。後醍醐天皇は朱子学(宋学)に力を注ぎ正統意識と大義名分の依代にしていた。朱子学に基づくものなのか朱子学の理念を利用したのかは定かではないものの、天皇の地位が幕府によって決められることを認めず、ひいては幕府に従う必要はないとし、更に自分が正統であるから持明院統を否定する立場と信念を持っていた。また後醍醐天皇は、密教に傾倒し、「聖天供」を自ら行うほどで、倒幕の祈祷を別の祈願の名を借りて行っていた。加えて、比叡山や東大寺興福寺などを引き込むために大日如来修復など様々な画策を行っていた。寺社の力を後醍醐天皇が重く見ていた表れであろう。親房自体は、検非違使庁の別当に任ぜられ、正中の変・元弘の変の後長子顕家は後陸奥守に任ぜられた。元弘の変の後、北条の残党によって各地で反乱が起き、中先代の乱で北条時行が鎌倉を奪還した。足利尊氏は独断で鎌倉を奪回し、天皇の帰京命令にも従わなかった為に、天皇は新田義貞に尊氏征伐をさせた。尊氏は、義貞勢を破ったが、北畠顕家勢に追われて九州に逃げた。尊氏が志気を上げるために考えたのが「錦の御旗」である。備後の鞆に着いたとき醍醐寺三宝院賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を受けた。これにより尊氏勢は朝敵から正統になり、楠木勢は破れ、比叡山で抵抗を続けていた後醍醐天皇は光明天皇に三種神器を授けた。暦応元年・延元三年(一三三八)顕家・義貞が相次いで戦死し、翌年、後醍醐天皇が崩御された。親房はその訃報を常陸国の筑波山南禄の小田城で聞き、自らが南朝を支えなければならない覚悟をする。尊氏と弟直義は後醍醐天皇の怨霊を恐れ夢窓疎石の勧めに従い禅宗の天龍寺を建立した。親房は関城に移り結城一族に協力を求めたが、逆に陥落させられ吉野に戻ることになった。尊氏と直義の兄弟対決が表面化し親房は偽りの和議で直義の帰順を許し、兄弟対決となり尊氏勢は総崩れとなり直義との和議となったが、執事高兄弟が戦死し、天下三分の形成(京に尊氏・義詮、吉野に親房、越前に直義)になった。しかし、尊氏は直義を討つための大義名分を得るために親房と和睦し、直義追討の綸旨と「公家のことは南朝方の沙汰、武家のことは尊氏方の管領」との勅許を受け、北朝を見捨て、元号を正平に統一(正平一統)した。正平七年(一三五二)相模早河尻で尊氏が勝利し、直義と和睦したが間もなく直義は毒殺された。正平九年(一三五四)親房も世を去った。その頃(一三五五)南朝方は各地で蜂起し、南朝は尊氏の実子で直義の養子直冬を大将として京・鎌倉を制圧した。尊氏・義詮は勢力を立て直し奪還したが、京に天皇はなく、光厳院の第三皇子弥仁を擁立して、後光厳天皇とした。しかし、三種の神器が足らない践祚であったために権威は低下していった。八幡に落ちた直冬は更に戦うか否かに群議で決せず八幡の託宣を求めたが「垂乳根の親を護る神がこの願いに応えることは出来ない」とのことで直冬勢は分解してしまった。尊氏の死(一三五八)後、義詮は九州以外のほぼ全域を勢力圏とし、幕府は安定し始めた。
 この時代で見るべきものは、第一に、承久の変の時上皇等が流刑された状況と違い、後醍醐天皇が何度破れても立ち上がり信念を貫き通した姿勢である。多くの人は世間体や人の目を気にしてその場を取り繕い済ますであろうが、危機を迎えた時代こそその姿勢を見倣わなければならない。第二には、リーダーに現実的な力が無くても、「三種神器」・「錦の御旗(綸旨・院宣)」・「託宣」と言った「正統」を手に入れることにより実力以上の力を示すことが出来たことである。今の時代でも、伝統の中にある力を信じることが大切である。第三には、自分で望みを達成することが出来なくても、全身全霊をかけて努力をしていれば、後に続く誰かが成し遂げてくれるだろうという楠木正成の「七生報国」的な考え方である。自分一代で事を成就すると考えるのではなく長いスパンの上に立った行動が大切であることを示している。法治社会では法こそが正統であるが時代の歯車が少し歪めば法が絶対ではない。そうなった時に神代から繋がる正統が復活しなければならなくなるであろう。このような生き方・考え方を日々に生かしたいものである。
 その後、義満の時代になると武士の棟梁として武力で山名氏、大内氏を征伐したが、宗教を原理にしていた勢力には別の方法を採った。伊勢の北畠親能に対しては、伊勢神宮に参拝し、莫大な寄付を行った。大和では、春日大社・東大寺・興福寺に、比叡山では、延暦寺・日吉神社に、紀州では、高野山・粉河寺などに参拝巡礼し、同じく莫大な寄付をやってのけた。公家たちに対してはアメと鞭を使い分けることを毅然とやってのけた。このことで南朝方は義満に敬服し、幕府は安泰な状態になった。日本において、力によって相手を打ちのめすだけでは、安定を得ることが出来ない、相手の弱みを利用したり、相手の欲しているものを相手が感服するぐらいに与えることで初めてリーダーになれるのではないだろうか。


三 中世における変化  五 宮座

2012-01-25 21:01:35 | 日記・エッセイ・コラム

 五 宮座
 氏族(血縁的関係)の祖先神であった氏神は、水稲農業を背景にムラという共同体(地縁的関係)による生活を連綿と続けているうちに、産土の神・鎮守の神と合一化してきた。故に地域に即した神であっても氏神であり、地縁的集団であっても氏子集団と呼ばれるようになったのである。古くは、政治、財物、生産等々何事によらず氏神を中心に行われ強固な共同体であった。それは、鎌倉時代以降、その土地に新転入してきた者たちよりも特別な世襲的地位を持つようになり、神社祭祀組織の一形態として近畿地方を中心に全国に分布する。それは「宮座」と呼ばれ氏子全体を代表して氏神に奉仕すると共に、氏子全体に対する神の代行者としての地位を占めていった。村落の神社に於て見られる宮座の名称は、宮座の他に、頭屋、祷屋、塔屋などと書く他、宮講、氏神講などと云われ、土地によって違いがある。
 この祭祀組織は当屋制であり、一年交代の当番制をとるものである。宮座の座員の中から、年毎に頭屋とか頭人を選び出して祭祀を主宰せしむる場合が多い。頭屋・頭人は、厳しい物忌の生活を行い祭祀の厳修につとめ、祭のあと頭屋渡しの儀式が行われることにより、次の祭りの頭屋が決まり、神饌米も、頭人や座員が耕作していた。氏子の神社祭祀や維持への積極的な参加が見られるようになり、こういった組織が全国的に普及して、村祭の共同体が広く強く組織化され、今日に於ける神社と氏子との密接な関係の基盤が築かれていった。
 昨今の激しい社会変化により、信教の自由も伴い、氏子意識が薄れていく中、地方における過疎も加味され宮座の維持には大きな努力が必要とされている。僅か五十年そこそこの時代の変化で意識も形態も失うことがあってはならないと思う反面、日本のアイデンティティーは失われることなく、本来あるべき姿(正統)は何時の時代か復興されるとも思う。正統の中でも、天皇の正統や国体やリーダーの在り方について深く考えたのが北畠親房であろう。


三 中世における変化  四 和光同塵

2012-01-25 20:59:10 | 日記・エッセイ・コラム

 四 和光同塵
 和光同塵とは、仏が光を和らげて煩悩に満ちた俗世の塵にまみれた姿となって顕現し、衆生を救済するという思想で、日本では神の性格について説く際によく用いられた。果報が薄く、機根の劣っている辺土である日本の人間を救うために時処機相応の和光の方便として現れたのが神であるということであろう。更に進めて、仏が人として生前に苦労をし、死後神として祀られるという信仰をも形成していった。「愚管抄」の中の「観音が和光同塵して菅原道真になり、憤死後、天神として祀られる。」といったようなものである。
 弘安六年(一二八三)に成立した無住一円の『沙石集』には、「本地垂迹その意同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。わが国の利益は垂迹のおもて猶すぐれて御坐すをや。…中略…青き事は藍よりいでて藍よりも青きがごとく、尊き事は仏よりいでて仏よりもたふときは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。」とあり、一般の民衆にとって、神と仏のどちらが本であろうと従であろうとあまり関わりなく、自分達に直接関り、利益を与えてくれる神仏に興味を持つと同時に、それを本当の崇敬の対象として受け止めていたと言えよう。
 室町時代に入ると、仏が神の姿を借りて衆生救済に赴くという「本地物」と呼ばれる作品群(『神道集』、『群書類従』や『続群書類従』に収載されている諸社の縁起)が多く語られている。その縁起に重点を置いたのが縁起神道である。縁起神道は、各神社の御祭神の神徳の高揚をはかろうとしたものである。伊勢の御師や熊野比丘尼をはじめ、歩き巫女、勧進聖、先達、神人、説経聖、修験者、絵解法師などと称される回国遊行の宗教者や芸能者が、様々な縁起を語り歩き、あるいは、絵を見せながら縁起を語り、一般民衆の中に唱導していった。その縁起の例として次のものを揚げておく。
 『神道集』収載の「三島大明神の事」には、池溝を掘り、橋をかけ、渡し舟や湯屋を設けて、民衆の労をねぎらうとともに、生活を助ける神が語られ、「熊野本地」では、印度に於いて十一面観音が和光同塵した美女は、国王の千人の妃の一人となって殊の外寵愛を受けて身ごもったので九百九十九人の妃に妬まれて山中で首を切られた。しかし、首無き母は産まれた子に乳をふくませ育て、その子が大きくなったとき蘇生してその子と共に日本に飛来し、熊野山中に鎮まったとしている。
 律令時代に於いて、神職の務めは、極めて厳格な斎戒のもとに祭祀を奉仕することが第一であり、第二に神域を清浄に保ち、施設の管理を正しく行うことであった。しかし、世の中が不安定になっていったことと家の発達につれて共同体的社会を基盤にしていた神社は、より広い氏子、崇敬者等を獲得するため、神職や御師の活躍が要求されてきた。氏族や共同体の守護神である神々に対して、神と民衆を結びつける必要が生じた。如何なる形で一般大衆に根を下ろすことが出来るかが命題であったと言えよう。また、それはあくまで大衆の捉え方であり上から押しつけることの出来るものではなかったであろう。次に、根を下ろしていった一形態として、宮座について述べる。


三 中世における変化  三 神=心合一

2012-01-25 20:58:03 | 日記・エッセイ・コラム

 三 神=心合一
 権神・実神・本覚神という分類の中で実神こそ神の本質であり仏の利生を示すものであるという主張が現れる。一方で神を仏教における煩悩を生み出す三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)の象徴の蛇とし、他方で仏の化身としている。故に神は衆生の煩悩の形象化した姿で衆生の心中に常に内在しており、同時に仏が垂迹した姿とする説である。神が衆生の中に内在するという考え方は、仏教の「仏性」という考え方から出ていると言われている。これは、衆生が成仏可能なのは、本来的に誰にでも仏になるべき因子が内在しているというもので、これが発展して、すべての衆生は本来覚っている存在であり、必要なことはそれを自覚することであるという本覚思想になり、神=心合一となった。それが実神権神の区別の意味を失わせ、仏が神の姿を借りて衆生救済をするという和光同塵へと移っていく。


三 中世における変化  二 末法思想

2012-01-25 20:56:26 | 日記・エッセイ・コラム

 二 末法思想
 平氏が朝廷の中で藤原氏を手本にしたような政権作りを行ったのに対し、源氏は可能な限り朝廷の認可による権力の社会的正当性を認めさせていった。公権力二元化は社会的機能を分担することで成立し、時代は力の均衡状態で揺れ動く状態が中世を通して続いていった。伝統的な共同体維持制度と中国から採り入れた律令制度との二重構造社会に公権力の二元化がのしかかり精神的な救いを求める時代になってきたとも言える。末法辺土思想もこの頃から注目されてきた。
 釈迦が正法の時代、像法の時代、末法の時代の時機に応じて説いたという思想が時処機相応思想で、正法の時代とは釈迦の教法が世に行われ、大衆の機根も優れ、修行によって証果を得ることのできる時代、像法の時代とは教法が衰え相似の像法が代わりに現れ、大衆の機根も弱まり、修行をするもその証果を得ることのできない時代、末法の時代とは大衆の機根薄く濁悪な世相になり教法のみがむなしく残る時代と言われている。辺土思想とは、須弥山を中心に離れるにしたがい果報は薄く、機根は劣っているとし、南閻浮周辺の粟散辺土の片州日本は須弥世界の中で最も果報は薄く、機根は劣っている人間の生まれ住む所とし、最澄はこの日本に相応しい教えは法華経であるとした。
 ここで天台宗の僧侶である慈円の思想について考えてみる。慈円は藤原忠通の子で、平氏滅亡の際、新帝即位に三種の神器が必須条件であるとした九条兼実の弟である。九条兼実が日記「玉葉」で春日大明神の冥助・天照大神と春日大明神の冥約(幽契)を語っており、その影響を受けて、承久の乱の少し前に「愚管抄」の中で、祖神の冥助・冥約思想を説いている。そのおおよその内容は、正法の時代を神武天皇から成務天皇の間と位置付け、天照大神一神の働きで天皇の親政が行われ、像法の時代を仲哀天皇から後三条天皇の院政開始頃の間と位置づけ、天照大神と春日大明神の二神の冥約により臣下の助けを必要(摂関政治)とする時期とした。次に末法の時代をそれ以降の期間として、前の二神に八幡大菩薩が相談をして、王臣の器量が衰えて武士が現れるも、平氏を滅ぼし、源氏を三代で滅亡させ九条兼実の孫藤原頼経を源氏将軍家の跡継ぎにし、この流れに背けば百王を待たずに天皇家は断絶し、日本も滅びるだろうというものである。このことは、摂政は藤原氏の他に無いことを理とし、動揺する関東武士たちに藤原頼経の将軍継嗣としての正統性を主張している。また後の室町時代の庶民信仰としての三社託宣がある。この信仰は、天照大神を中心として、右に八幡神、左に春日神を配し、神儒仏の融合の立場をとりつつ、正直、清浄、慈悲を強調して、神道教化の展開をはかったものである。
 承久の乱の時幕府側には遠江・信濃以東の地頭御家人が応じ、後鳥羽院側には尾張美濃を含む畿内・近国が応じ、結果は幕府側の勝利に終わった。戦後処理として反幕府方(西国御家人)は所領を没収され、東国武士に恩賞として与えられた。本領を離れ西国の神領に移住した者を西遷御家人と言い、神領地では征服者として支配を行っていった。武家政権の確立であろう。引き続き北条泰時が貞永元年(一二三二)に制定した五十一条の御成敗式目の神社祭祀に関する第一条は有名である。『神は、人の敬に依って威を増し、人は神の徳に依って運を添う。然らば則ち恒例の祭祀、陵夷を致さず。如在の礼奠、怠慢せしむるなかれ。関東御分の国々並びに荘園に於いては、地頭神主等、各其の趣を存し、精誠を致すべきなり。兼ねてまた、封有る社に至っては、代々の符に任せ、小破の時は且つ修理を加え、若し、大破に及びては、子細言上すべし。其の左右の随に、其沙汰有るべし。』としている。また、僧浄光の勧進で長谷の地に大仏の建立を始めた。敬虔な神仏・伝統を守る姿勢が窺える。
 この頃から、有力武将等の積極的な力添えを得ることにより、大社の分霊を各地に奉斎し始めている。先づ、源頼朝の東国進出により、関東一円に数多くの八幡神社が奉斎されるようになる。そして、鎌倉時代末には北条氏の力添えにより、信州の諏訪信仰が関東を中心に、庶民の信仰を得ていた。また千葉氏や大内氏の管内での妙見社信仰、有力な寺院の寺領荘園の増大による守護神たる日吉社や春日社の奉斎、鎌倉時代以降の神明社創建が行われたのである。そして、これらの神々の信仰は、中世、近世を通じ、現代に至るまで、一般の人々の力強い信仰に支えられている。
 また、「平家物語」の「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」ではないが、時代が下るにつれて、世が衰えるという歴史観に基づいて、一、神武天皇から成務天皇まで、二、仲哀天皇から欽明天皇まで、三、敏達天皇から後一条天皇の御堂の関白まで、四、藤原頼通から鳥羽天皇まで、五、武家の世で源頼朝まで、六、後白河上皇の院政から後鳥羽天皇までに分けて、歴史観の道理を論じている。慈円は他に、和歌論・日本語論を展開している。その内容は、神が仏の垂迹ならば、神が詠い始めた和歌は印度における仏の説いた経と同じであり、印度で梵字で書かれたものを唱え、中国で漢文に翻訳された教典を誦む様に、日本語で和歌を作り神に奉るべきであるというものである。おそらくこの頃から、神前に和歌による歌舞を奉納するようになったのではないだろうか。
 この時処機相応思想と末法辺土思想が、新仏教を生み出すとともに、神国思想と結び付き、日本国に本朝意識を発芽させていった。
 鎌倉時代には曹洞宗(道元)臨済宗(栄西)浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)時宗(一遍)日蓮宗(日蓮)など多くの仏教が発生した。これらの大半は、発生時に神祇崇拝を否定していても教団の発展のためには本地垂迹を受容していった。その方が大衆に受け容れられ易かったため妥協していったのであろう。
 本朝意識の発芽は、元寇によって日本人の国家意識を更に進化させていった。このことは、日本の国体について天照大神の子孫である天皇家の正統性、神の加護、国土の神聖視を再認識させ護持すべきことを求めるに至る。この頃、伊勢神道の中心的な書「神道五部書」が成立している。
 白村江の戦い(六六三)から六百年以上も外国との戦争を忘れていた日本において、蒙古との外交を行うことは日本国の存亡をかけた緊張感の日々であったと想像される。十八歳で執権になった北条時宗の朝廷との駆け引きも全くの手探りであったろうし、戦い自体国内戦しか体験しておらず、文永の役では、暴風雨がなければ勝ち目は殆ど無かったであろう。ただ、幕府にとっては、文永の役が終わる直前に御家人以外の本所一円地の住人にも招集指令を発し、この事で支配権が拡張したとも言える。弘安の役の際には石築地や土塁を積んだり準備を整えていたが恐らくこの時も暴風雨がなければ日本は属国になっていたと思われる。この弘安の役の後、得宗家の専制が強まっていった。しかし、それに反発して様々な職種の者が「悪党」化していった。また、戦後処理の失政などで幕府の基盤は崩れ始めた。


三 中世における変化 一 鎌倉時代初期

2012-01-25 20:55:02 | 日記・エッセイ・コラム

三 中世における変化
 一 鎌倉時代初期
 源頼朝は、神祇祭祀、寺社の造営修理に特に留意していたことが「頼朝朝務条々」から窺える。幕府は、社寺・神官・僧侶・祭祀・法会のことを司る役職として、寺社奉行を置き、伊勢神宮及び鎌倉周辺の名社には奉幣使がたてられた。特に伊勢神宮に対しては、神宝奉行が副えられ、災害や流行病などのために祈祷を行う御祈奉行、様々な神事を奉行する神事奉行、寺社造営を行うとき臨時に設ける造営奉行などを置き、神祇尊重の姿勢をとっていた。
 公家・武家共に財政の苦しい時に経済支援を行うことは非常に難しいことであったと思われるが、少なくともその姿勢は社寺・神祇を第一としていたと推測される。


二 古代社会の変化  四 武士の台頭と伊勢神道の成立

2012-01-24 20:14:37 | 日記・エッセイ・コラム

 四 武士の台頭と伊勢神道の成立
 平安中期になると、私領たる荘園が増加し国家財政の基盤が崩壊していった。一方で地方の在地領主となった者は、自衛策を立て、武力を養っていった。このことは中央における朝儀・神事等をわずかに面目を保たせる程度にしてしまった。しかし、太政官符に「国の大事、祭祀より先はなし」として祭祀の厳修を戒め、延喜臨時祭式等に「凡そ諸国の神社は、破るるに随いて修理せよ」と規定し、神社を守らなければならないという気持ちが窺える。
 武士について言えば、平忠常の反乱(一〇二八)を平定した源頼信が晩年(一〇四六)誉田陵の八幡祠に「告文」を納め祈願をしたとき、武門の野望を吐露したと言われている。このことが清和源氏の氏神として八幡神を仰ぎ崇拝する伝統の始まりと言われている。この頃から武士の勢力が伸長していった。一方で、厳しい租税に苦しんでいた農民たちが自分たちで開墾した田畑を寺社に寄進し、その中から「夏衆」「神人」になる者も出るようになり、寺社は勢力を強めていった。その例として、石清水八幡宮別宮の提訴により国守源則理が流刑にされ、伊勢神宮では御託宣により斎宮寮頭相通夫婦を流刑にし、世俗においても摂関家と並ぶ権力を誇示したことがあげられる。また、摂関家や上層貴族もまた勢力を伸ばそうと荘園(私領)を増加させていった。これに対し、国司たちは荘園の乱立を阻止するために朝廷に荘園停止の法令発布を奏上した。これを受けて朝廷は次々に荘園整理令を発布し、更に農民を荘園に逃げ込まないようにするため租の率を国司の判断に任せず一率にする公田官物率法を制定した。
 院政の頃になると僧兵の対立抗争が繰り返され、朝廷はそれを押さえるため武士の力に頼らざるを得えなくなった。しかし、寺社の武力による行動が高まり、寺の鎮守社の神木や神輿を担いで強訴すること(神木動座・神輿動座)が行われた。このことは、寺の力によって神祇が再び力を盛り返してきたように感じられる。
 十二世紀に入ると法や秩序は力を失い、様々な事柄の解決に武士の力を頼らなければならなくなった。このことは、確実に武士の勢力が確固たるものとなり、保元平治の乱は平氏の時代を生み出した。更に中世になると頼朝は、「義経、行家探索」という名目の基に、平氏全盛の時に作られた国衙行政における軍事指揮官の守護、荘園・公領の検察力を認められた地頭をより強化し、武士による強力な政権作りを始めた。そのため、僧兵などの武力を持つ寺社は、力を維持できたが、そうでない寺社は次第に弱体化していった。その後、各神社は式に規定された公的祭祀を行っているだけでは運営が困難になり、私的祭祀も積極的に行わざるを得なくなってきた。
 伊勢神宮においては、皇祖神が祀ってあり、天皇のみが祭祀の主体者であり私的祭祀は禁止されていた(私幣禁断)のだが、原理原則だけでは維持が困難になり、平安末期には伊勢の下級神職も個人祈願を取り次ぐようになったり、権禰宜は在地領主の私的祈祷に応じるようになった。これが伊勢の御師の始まりであり、祓いを行うとき数取りに用いた祓串を箱に納めて願主に届けたのが御祓大麻であり神宮大麻の起源である。
 この頃まで私有財産としての「家」の継承は殆どなかった。貴族階級においては、国家役人には男女問わず公的「家」が設置されていた。この「家」は、役職に支給されるもので資格が無くなれば回収され、継承されるものではなかった。しかし、九世紀後半から十一世紀後半にかけ次第に父子継承が芽生え、強化され、家柄・家格が定着してくる。女性は出仕することが少なくなり夫の家に包摂されるようになる。これは女性社会から男性社会への変化を迎えたことを表す。豪族も在地領主として勢力拡大のために地域に根を下ろして、父子継承を成立させ、一般の人々も「在家」を単位とした新租税が始まっていることから「家」の成立が見えてきた。
 中央の動揺と混乱が下々にも反映し、厳しい経済関係が今までの共同体に依存した状態だけでは破綻してしまうような危機感を深めていった。そのために、どの階級も経済的に安定した生活と社会的地位の向上を目指して、夫婦関係・親子関係を強化した「家」を繁栄させる努力をしていたのであろう。また、この「家」の成立と個人祈願の広がりは需要と供給のバランスとその時代の経済推移とに相まっている。
 伊勢神宮においては、困難な局面を迎える度に、その時々の情勢を的確に判断をすることで、奉仕する神の神徳を高揚できるか考え努力しており、清浄・正直を旨に祭祀を厳修していたこと、国家的国民的自覚を失わなかったことに見習うべき点が大いにある。ただ、変わるべきでなかった点・変わって良かった点などを第二章の五で考えていきたい。
 伊勢神道は、前述の内容に加え、次のことを説いている。外宮祀官度会氏を中心として、神宮の古伝承に両部神道の胎金・太極図説的考え(天照皇大神を胎蔵界の大日如来・光明大梵天王・日天子【火】とし、豊受大神を金剛界の大日如来・尸棄大梵天王・月天子【水】)に基づいて内宮外宮が合体して大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成し(二宮一光の理)、一方で五行説によって、外宮を水徳、内宮を火徳に配し、五行相克説に基づけば、水克火であることから外宮の優越を説く。また、豊受大神を天御中主神と同体として、神統譜からも外宮の先行を強調している。また、「三角柏伝記」「中臣祓訓解」では、神を、本覚神、不覚神、始覚神に分類して、本覚神を「本来清浄の理性、常住不変の妙躰」と定義し、伊勢神宮のみがこれに当たるとし、不覚神を実神、始覚神を権神としている。