本日は池田屋事件からたった5日後に起きた事件。
明保野亭事件。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
明保野亭事件(あけぼのていじけん)
勃発
1864年6月10日
場所
京都東山
概要
この事件が起こる5日前、新選組は池田屋事件という京都に血の雨を降らせたと言ってもいい、事件を起こしている。
そんな新選組は幕府と会津藩から「池田屋事件の残党が京都にまだいるかもしれないから探してね」と命令されたのである。
そうゆうわけで新選組は市中見廻をいつもより厳しくすることにしたそうだ。
すると、洛東にある聖護院という所の境内で不審な雑掌2人を捕縛したそうだ。
この2人を尋問した結果、「明保野亭って茶屋に長州藩士が20人ぐらいいます」と白状したのである。
そうゆうわけで、その日の昼の12時頃に新選組五番隊組長武田観柳斎が隊士15人と会津藩からの援軍5人を率いて、明保野亭へ向かったのである。
そして、明保野亭に到着するなり長州藩士たちに逃げ出されないよう、出口を閉じたのだ。
しかし、長州藩士20人なんてどこにも居やしない。
そうゆうわけで、明保野亭内を探索するのだけど、やっぱり怪しい人は一人もいなかったそうだ。
結局2階も全部探したけど、なんにもなかったもんだから「なんもないじゃないか!」と怒って1階に降りて庭に出ようとしたとき、なにやら2階が騒がしくなったそうだ。
「おやおや何事かね?」と思っていたら帯刀した不審者2人が逃げ出して出てきたのだった。
そんなわけで武田観柳斎が「その不審者2人を逃がすんじゃない!」と言うもんだから、会津藩の援軍の1人、柴司(しば つかさ)が必死でこの2人を追いかけたのだ。
不審者の1人は上手く竹垣を越えて逃げたそうだが、もう1人はこの竹垣を上手く越えることが出来ず、逃げ出せなかったようだ。
そうゆうわけで、柴司は不審者を追いつめたわけである。
すると、この不審者は柴司に向かって抜刀したのである。
柴司はびっくりして慌てて槍でこの不審者の腹をついたそうだ。
そうしてこの不審者が倒れた所を、新選組が尋問したようだ。
そうしたらこの不審者はなんと土佐藩の麻田時太郎だと名乗ったのだ。
そしてこの麻田時太郎はただご飯を食べに来てただけだったのだ。
ということで、土佐藩は怒って抗議を始めたのだ。
しかしこの時はまだ、会津藩と土佐藩は公武合体派で友好関係にあったそうだ。
そんなわけで、麻田時太郎が「本当は逃げるつもりじゃなかったんだけどさ、取り乱しちゃって・・・。ごめんよー」と言うと、柴司も「こっちこそごめんよ。本当は槍で突くなんて、そんな馬鹿なことする気なかったんだ」みたいなことを言ったそうだ。
それで会津藩は医者と謝罪の使者を土佐藩に送ったそうだ。
ということもあって、槍で突かれた麻田時太郎も生きてたし、柴司としては正当防衛(当時は切捨て御免という権利が認められている)だったので、これでこの問題は解決。
と思ったのだけど、後日この麻田時太郎は土佐藩が、士道不覚悟で切腹させてしまったのだ。
そうすると土佐藩との関係が悪化するのを防ぐために「ただ、ご飯食べにきてた人が切腹してて、ただご飯を食べに来た人を槍で突いた自分が生きてるなんておかしい」と、柴司が兄の介錯で自発的に切腹してしまったのだ。
新選組も柴司の正当防衛を主張していたもんで、この切腹には凄く驚いたそうで、土方歳三とかが葬儀に出席したそうだ。
享年21歳だったそうだ。
お互い間違えただけだったのに、なんかスッキリしない終わり方だなと、勝手に思うのである。
明保野亭事件。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
明保野亭事件(あけぼのていじけん)
勃発
1864年6月10日
場所
京都東山
概要
この事件が起こる5日前、新選組は池田屋事件という京都に血の雨を降らせたと言ってもいい、事件を起こしている。
そんな新選組は幕府と会津藩から「池田屋事件の残党が京都にまだいるかもしれないから探してね」と命令されたのである。
そうゆうわけで新選組は市中見廻をいつもより厳しくすることにしたそうだ。
すると、洛東にある聖護院という所の境内で不審な雑掌2人を捕縛したそうだ。
この2人を尋問した結果、「明保野亭って茶屋に長州藩士が20人ぐらいいます」と白状したのである。
そうゆうわけで、その日の昼の12時頃に新選組五番隊組長武田観柳斎が隊士15人と会津藩からの援軍5人を率いて、明保野亭へ向かったのである。
そして、明保野亭に到着するなり長州藩士たちに逃げ出されないよう、出口を閉じたのだ。
しかし、長州藩士20人なんてどこにも居やしない。
そうゆうわけで、明保野亭内を探索するのだけど、やっぱり怪しい人は一人もいなかったそうだ。
結局2階も全部探したけど、なんにもなかったもんだから「なんもないじゃないか!」と怒って1階に降りて庭に出ようとしたとき、なにやら2階が騒がしくなったそうだ。
「おやおや何事かね?」と思っていたら帯刀した不審者2人が逃げ出して出てきたのだった。
そんなわけで武田観柳斎が「その不審者2人を逃がすんじゃない!」と言うもんだから、会津藩の援軍の1人、柴司(しば つかさ)が必死でこの2人を追いかけたのだ。
不審者の1人は上手く竹垣を越えて逃げたそうだが、もう1人はこの竹垣を上手く越えることが出来ず、逃げ出せなかったようだ。
そうゆうわけで、柴司は不審者を追いつめたわけである。
すると、この不審者は柴司に向かって抜刀したのである。
柴司はびっくりして慌てて槍でこの不審者の腹をついたそうだ。
そうしてこの不審者が倒れた所を、新選組が尋問したようだ。
そうしたらこの不審者はなんと土佐藩の麻田時太郎だと名乗ったのだ。
そしてこの麻田時太郎はただご飯を食べに来てただけだったのだ。
ということで、土佐藩は怒って抗議を始めたのだ。
しかしこの時はまだ、会津藩と土佐藩は公武合体派で友好関係にあったそうだ。
そんなわけで、麻田時太郎が「本当は逃げるつもりじゃなかったんだけどさ、取り乱しちゃって・・・。ごめんよー」と言うと、柴司も「こっちこそごめんよ。本当は槍で突くなんて、そんな馬鹿なことする気なかったんだ」みたいなことを言ったそうだ。
それで会津藩は医者と謝罪の使者を土佐藩に送ったそうだ。
ということもあって、槍で突かれた麻田時太郎も生きてたし、柴司としては正当防衛(当時は切捨て御免という権利が認められている)だったので、これでこの問題は解決。
と思ったのだけど、後日この麻田時太郎は土佐藩が、士道不覚悟で切腹させてしまったのだ。
そうすると土佐藩との関係が悪化するのを防ぐために「ただ、ご飯食べにきてた人が切腹してて、ただご飯を食べに来た人を槍で突いた自分が生きてるなんておかしい」と、柴司が兄の介錯で自発的に切腹してしまったのだ。
新選組も柴司の正当防衛を主張していたもんで、この切腹には凄く驚いたそうで、土方歳三とかが葬儀に出席したそうだ。
享年21歳だったそうだ。
お互い間違えただけだったのに、なんかスッキリしない終わり方だなと、勝手に思うのである。
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