明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

尾形俊太郎

2015-01-12 19:41:00 | 勝手に新選組
新選組は剣の腕が立つ人は多くいたが、頭がいい人はあまりいない。

学があった山南敬介や伊東甲子太郎も隊内での揉め事で殺されている。

そんな中教養があり、近藤勇の政治のブレーンと言われた、この人。

五番隊組長、尾形俊太郎。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
尾形俊太郎(おがた しゅんたろう)

生誕
1839年

死没
1913年

出身
肥後国熊本藩(現在の熊本)

流派
不明

役職
文学師範頭
五番隊組長(武田観柳斎が静粛されたもんで・・・)

性格
近藤に重宝された割に、あんまり名前が上がらないので、影が薄かったんじゃないかなと。

ニックネーム
イメージする為の画像が無い・・・。

頭がいいけど影が薄い(勝手に決めつけているだけ・・・)。

『記憶にも記録にも残らない男』

実際には出身国しかわからないぐらい、記録にも残ってないみたいだけど。

ちなみに、生まれた年とかは自分で書いたらしい漢詩書から最近、解析されたらしい。

自分で書いてたので、やっぱり誰も尾形の誕生日は知らないので、祝ってもらえなかったんだろう。

逸話
新選組に入隊したのは第一次隊士募集の頃だったようだ。

剣の腕よりも頭の良さを買われていたようだ。

八月十八日の政変の時は目立った活躍も出来ず、池田屋事件では出動すらしなかったみたいだ。

池田屋事件のときには屯所を守っていたという説と、病気で休んでいたと言う説があるが、屯所を守っていたなら一緒にいた人が気づくだろうに・・・。

もしかしたら、影がかなり薄かったから、めちゃくちゃ頑張ったけど誰にも気づいて貰えなかっただけかもしれない。

そんな尾形は近藤勇が広島に行くときなどことあるごとに「尾形くーん、ちょっと手伝ってよー」と重宝されたようだ。

持ち前の影の薄さを生かして長州藩の探索をしたこともあったそうだ。

鳥羽伏見の戦いでは怪我をしたようで一時行方不明になるが、会津でひょっこり現れる。

しかし、慶応4年8月22日に会津若松で宿泊してから、また行方不明。

その後、熊本に帰って剣道を教えたりとか、斎藤一とコンビを組んで、警察で大活躍したとか、いろいろな説がある。

ただ、いままで影が薄いあまりにほとんど記録が残されていないのが尾崎俊太郎である。

それなのに隊を抜けてからの情報がありすぎる。

隊を抜けてから、突然自己主張をするようになったかどうかはわからないが、きっと作り話だろう。

こんな、尾形だが新選組の頭いい人たち(山南、伊東、武田など・・・)が切腹や暗殺される中、尾崎が最後まで新選組として戦えたのは、きっとどこまでも真面目な人だったんだろう。

きっと、影が薄いから逃げ出したりしても、きっと誰も気づかないことだろう。

しかし、尾形は真面目だから近藤や土方を裏切ることは出来なかったんだろう。

だから、近藤や土方もこんな影の薄い人間を重宝したんだろうと、勝手に思うのである。

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