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楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

邪悪の力に呑み込まれるな

2013-04-10 12:19:00 | Sisterのねごと
4月9日朝のフランシスコ教皇の話。(訳文はFacebookへの片柳弘史神父の投稿から)

「噂話をしたり、他人を批判したりしたくなる。そんなことが私も含めて誰にでも、日常的にあるでしょう。ですが、それは聖霊が私たちに下り、キリスト者の共同体に平和と柔和さをもたらすのを望まない邪悪な者の誘惑です。」



人のこころを蝕んでいく「邪悪さ」、いつも意識して退けるようにしたいです。復活祭の式で洗礼を受ける人とともに「はい、退けます!」とこたえるあの返事は、まさに「退ける」決意でいますという意思表示なんですから。

これはキリスト者のコミュニティを築き上げていくことに関して語られていますが、世の中でも教会でも人間が集まって住むところはどこも同じです。どうしても他人(ひと)のことが気になり、自分と同じように行動しない人に対して、背後から指をさしてしまいます。人間の業(ごう)ということでしょうか。



二心(ふたごころ)なく生きるというのは、成人して世の荒波の中でしばらく必死で頑張っていると、子供だましの考え方に見えることもあります。夢物語ではなく、そのような世界を築いていくことこそがイエスが命を賭けた「神の国」の実現です。

クリスチャンになったのは、あるいはキリスト教に心惹かれるのは、そういう途方もない夢を追いたいとこころのどこかで考えているからです。



よい一日を!


写真は井の頭自然文化園にて。

神の思い、人の思い

2013-04-08 19:06:00 | Sisterのねごと


神さまの思いは人の思いとは異なり、神さまが事を進める速度も方法も、人の予測を遙かに超えるもの…

わたしの思いは神さまの思い、わたしの道は神さまも邪魔できない…なんて勝手に信じ込んでいることもあるようなわたしたちの毎日。神さまの思いは、人の小さな思いや価値観を遙かに超えています。

それなら何も努力する意味はなく、いつか落ちてくる救いや恵みというものをただ口を開けて待っていればよいのかといえば、そうではありません。人は人なりに考え、悩み、祈り、努力して前進するけれど、その結果どのような展開があるのかは偉大なる御方の手に「委ね」るということなのでしょう。

こんなことを考えると、いつもあの無名の兵士の祈りを思い出します。2月後半に紹介しました古木シスターの『クレド 貧しい者の信仰宣言』の歌詞を再度ここに紹介させていただきます。

成功を収めるために 神に力を願ったのに
弱くなってしまった 謙遜を学ぶように
偉大なことをするために 神に健康を願ったのに
病気になってしまった 神の心に叶うように
わたしの願いは何一つ 叶えられなかったけれど
希望した全てのことを わたしは受けた

幸せになるために 神に富を願ったのに
貧しくなってしまった 生きる厳しさ知るように
弱い人を助けるために 神に権威を願ったのに
無力になってしまった 神に頼ることを学ぶように
神はわたしに必要なこと 何もかも知っておられる
希望した全てのことを わたしは受けた

人に尊敬されるため 神に手柄を願ったのに
ただ失敗に終わった 思い上がらないように
聖なる人になるために 神に徳を願ったのに
罪の醜さに泣いた 神の愛の深さ悟るために
わたしの姿は変わらない 弱く何もできないけれど
喜びに満ちあふれて わたしは歌う

春眠暁を覚えず…

2013-04-03 14:29:00 | Sisterのねごと
今日は関東では雨風が強く肌寒いですが、桜満開の4月の初め、晴天だとうららかな気候に人も動物もついうとうと。日中睡魔に襲われてしまいがちです。夜は夜で熟睡が過ぎて、春眠暁を覚えずなどということば通りになってしまうこともあるのでは? 眠れるというのは健康な証拠ではあります。

動物の「つい、うとうと」気分、見ていてなぜかほのぼのしますね。

こちらは“うとうと”などというものではありません。熟睡状態。しかも木の上で。よくぞ落下せず、上手くバランスを保っていられるものです。体を完全に木に預けています。レッサーパンダ君、お見事!






ウサギさんも、アンテナである耳を片方倒してしまって、いい気持ち。


あくびが出たり、


思考停止の子も。




こちらはハクビシン君です。寝る角度を模索中?


コウモリさんも折りたたみ傘状になってお休みモードに。


アルパカさんもうとうと。


こういう平和な世界が、地球上のすべての国や地域で、人々のあいだに実現してほしいと祈ります。

ケンカさせられるようでは…

2013-04-02 13:53:00 | Sisterのねごと




ヨーロッパによる数百年に及ぶ植民地支配で、現代にまで及ぶフツ族とツチ族との根強い対立がアフリカに生まれました。それまでは彼らなりの文化や人間関係で上手く共存していたのに。

似たようなことは今もあるような気がします。現地(必ずしも国など地理的な話ではありませんが)の社会、文化、風習、人間関係、言語などに配慮せず、二人あるいはそれ以上がいたら、その中の誰かを気まぐれ的に特別に推してしまう。

その結果、地元では、関係する当事者同士で争いが始まる。外から来た価値観、選択、原因がもとで喧嘩させられる、これほど馬鹿げたことはないと、一般論としては思えますが、実際に巻き添えを食らったら、きっと呑み込まれていくのでしょうね。

自主性を持って生きましょう!? そんな簡単なことではなさそうです。「争いのあるところに、平和を!」 それぞれが復活された主に自身を委ねることからしか、争いから逃れるための視点はありません。

人間の権力や支配への欲望から解放されて、神の愛の「のぞみ」を実現させることへと、まずは一人ひとりが、自分に都合のよい小さな望みを神の手に委ねてしまうことでしょうね。こうして言うのは簡単ですが、実際には、もっともらしく見えるいろいろな口実に足を取られて、なかなか困難です。

…とFacebookには書きましたが、他にもこんなことありませんか。
プロテスタントとカトリック。もともと西洋のずいぶん古い歴史のせいで、同じキリストを信じる現代人同士がにらみ合う必要などまったくありません。

また、欧米と非欧米の対立だけではありません。ちょっとした陰口や告げ口、ささやかな利害に関することなどで、人は簡単に自分の自主性を失って、結果、第三者の意図の通りに「ケンカさせられてる」ということに。別の表現を使えば「操られている」とも。

何を自分の中心に据えて生きるのか、普段からハッキリ見据えておかなければですね。