4月9日朝のフランシスコ教皇の話。(訳文はFacebookへの片柳弘史神父の投稿から)
「噂話をしたり、他人を批判したりしたくなる。そんなことが私も含めて誰にでも、日常的にあるでしょう。ですが、それは聖霊が私たちに下り、キリスト者の共同体に平和と柔和さをもたらすのを望まない邪悪な者の誘惑です。」

人のこころを蝕んでいく「邪悪さ」、いつも意識して退けるようにしたいです。復活祭の式で洗礼を受ける人とともに「はい、退けます!」とこたえるあの返事は、まさに「退ける」決意でいますという意思表示なんですから。
これはキリスト者のコミュニティを築き上げていくことに関して語られていますが、世の中でも教会でも人間が集まって住むところはどこも同じです。どうしても他人(ひと)のことが気になり、自分と同じように行動しない人に対して、背後から指をさしてしまいます。人間の業(ごう)ということでしょうか。

二心(ふたごころ)なく生きるというのは、成人して世の荒波の中でしばらく必死で頑張っていると、子供だましの考え方に見えることもあります。夢物語ではなく、そのような世界を築いていくことこそがイエスが命を賭けた「神の国」の実現です。
クリスチャンになったのは、あるいはキリスト教に心惹かれるのは、そういう途方もない夢を追いたいとこころのどこかで考えているからです。

よい一日を!
写真は井の頭自然文化園にて。
「噂話をしたり、他人を批判したりしたくなる。そんなことが私も含めて誰にでも、日常的にあるでしょう。ですが、それは聖霊が私たちに下り、キリスト者の共同体に平和と柔和さをもたらすのを望まない邪悪な者の誘惑です。」

人のこころを蝕んでいく「邪悪さ」、いつも意識して退けるようにしたいです。復活祭の式で洗礼を受ける人とともに「はい、退けます!」とこたえるあの返事は、まさに「退ける」決意でいますという意思表示なんですから。
これはキリスト者のコミュニティを築き上げていくことに関して語られていますが、世の中でも教会でも人間が集まって住むところはどこも同じです。どうしても他人(ひと)のことが気になり、自分と同じように行動しない人に対して、背後から指をさしてしまいます。人間の業(ごう)ということでしょうか。

二心(ふたごころ)なく生きるというのは、成人して世の荒波の中でしばらく必死で頑張っていると、子供だましの考え方に見えることもあります。夢物語ではなく、そのような世界を築いていくことこそがイエスが命を賭けた「神の国」の実現です。
クリスチャンになったのは、あるいはキリスト教に心惹かれるのは、そういう途方もない夢を追いたいとこころのどこかで考えているからです。

よい一日を!
写真は井の頭自然文化園にて。