OLDMOLE1984のAAR

PARADOX社の作品のAAR(After Action Report)を掲載しております。

CK3AAR/シャルルマーニュなくして

2021-08-25 08:41:51 | AAR/CK3/シャルルマーニュなくして


(歴史家アンリ・ピレンヌ)

かつて歴史家のアンリ・ピレンヌは「ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし」という言葉で言い表せる歴史的事象の説明をしました(ピレンヌ・テーゼ)。

そのこころは、地中海がムハンマドの征服活動によって交易圏として分断されたことによりはじめて痩せた不毛の土地であった西ヨーロッパで封建制が発達してシャルルマーニュの事業がなった、ということでした。

その後の歴史が示すところでは、シャルルマーニュの西ヨーロッパ統一は大陸におけるキリスト教権力確立の母胎となり、その後の世界史の方向性をある程度規定した、ということであります。

それでは―当然、こういう疑問が思い浮かぶでしょう。シャルルマーニュがなければ、その後の世界史はどのように変化したでしょうか。

世界史はシャルルマーニュが家督を継いだ769年に巻き戻ります。

ムハンマドが征服を開始してから1世紀半が経過し、イスラム教は世界の半分を制覇しました。

ムスリムたちは北アフリカからイベリア半島をとおって西ヨーロッパに侵入しましたが、メロウィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルによってその野望は打ち砕かれました(トゥール・ポワティエ間のたたかい)。


(伯爵カール「鉄槌」)

カール・マルテルの息子ピピンは、ローマ教皇の忠実なしもべで、彼のクーデタによってメロウィング朝は廃止され、カロリング朝フランク王国が成立しました。


(大ピピン。)

ピピンのこの帝国は、彼の死後、2人の息子に分割相続されます。

2人の息子のうち、フランク王国を継いだ兄をカールと、ロタリンギア王国を継いだ弟をカールマンと言います。

兄のカールはフランス語読みではシャルルと言い、彼は史実におけるカール大帝(シャルルマーニュ)です。

父のピピンは、この2人が力を合わせて、カトリック世界をよりよき方向に導いてくれるよう願っていました。


(兄、カール。)


(弟、カールマン。)

このAARの主人公は、兄のカールではなく、弟カールマンからはじまります。

ちなみに、兄カールの能力値や性格はゲームデータにより定義されていますが、弟カールマンの能力値や性格は定義されていません。

したがってこのカールマンのトレイトやステータスはランダムに決定されたものだということを申し添えておきます。

#設定

GAME:Crusader Kings 3

Version:1.03.2beta

mod:
 Nameplates
 Extended Outliner
 769 Early Middle Ages Bookmark
 Early Medieval Eras

Start Date:769.1.1

Monarch:King Karloman of Lotharingia

#本編


「うわあ、やられた」

フランク王国の戴冠式をすませたカールは、従者とともに狩猟に出掛けたその日、夜盗に襲われ落命しました。

夜盗たちの素性はさだかではありません。彼らはカールのもつ豪奢な装飾品には目もくれず、カールそのひとの命を奪うと、闇にまぎれて消えていきました。

769年11月30日の出来事で、カールは27歳でした。子どもは私生児が2人いるだけで、彼らには継承権はなく、フランク王国の継承権をもつ者は弟カールマンでした。

カールマンは、兄の死を事前にわかっていたかのように手際よく行動を起こしました。

彼は男系継承権を主張してフランク王国を継承すると、居都を兄の死んだ土地であるヴェルマンドワに遷し、フランク貴族たちににらみを利かせます。

カールマンが継いだピピンの帝国は広大なものであったため、統治するにはいくつかの難点がありました。

一つは直轄領が膨大になりすぎたことで、もう一つは臣下の数が制限値を越し、強力なデバフをうけたことです。これらのデバフは徴募兵や財政の数値を直接悪化させます。

なんらかの対処が必要でした。カールマンは直轄領を反乱を起こしそうな貴族や、将来の公爵となりそうな貴族に分配して整理すると、つぎは臣下数の制限という問題にのりだします。

臣下数の制限の問題は一朝一夕には解決しません。伯爵が多すぎるのがいけないので、多数の伯爵を少数の公爵に編成し直すことが急務でしたが、公爵の称号の創設のためには大量の資金が必要です。このためカールマンは財政をやりくりして資金を貯蓄し、公爵を増やして財政を健全化させ、黒字分をまた公爵の創設に充てるという政策をとりました。

これによって、770年代の後半には臣下数の問題は解決され、カールマンは月10万ダカットの収入と6000の徴募兵をもつ、巨大王国に相応しい威容を備えるに至ったのです。

カールマンがつぎに目指したのはローマ帝国の再建でした(画像は「神聖ローマ帝国再建」の施政方針)。

これにはいくつかの条件があって、その条件の難易度はさまざまなのですが、「独立君主である」という易しい条件から、「領土数が140以上である」という難しい条件までいろいろありました。しかし領土数の問題や、東フランク王国建国といった条件は兄カールの死によるピピンの帝国の合同によって既に達成されていたか、あるいは潜在的に達成できるものでした。ネックとなっていたのが「威厳fameのレベルが一定以上」というもので、これをクリアするためには威信を大量に稼がなければなりませんでした。

しかし威信は資金さえあれば、公爵位の創設によってカールマンの場合、いくらでも稼ぐことができました。ここでもやはり問題となるのは資金でした。カールマンは陰謀パークを選んで管財パークを選ばなかったために資金を得るのには苦労しましたが、それでも改善された財政によって780年代半ば頃にはこの条件も達成されました。「ローマ教皇のOpinionが60以上かフックを持っている」という条件は、かなりはやくからローマ教皇と親交を深めていたカールマンには造作もないことでした。

このようにして、786年の1月24日に神聖ローマ帝国は建国されました。

大量の威信がカールマンにもたらされ、彼は「The Great」の二つ名を得ました。神聖ローマ帝国は選挙制の帝国級であったため、これにより、カールマンの男子が何人いようが帝国の分裂は避けられることになります。

この、フランク王国を中心とした神聖ローマ帝国の建国こそが、カールマンの遺した最大の業績です。史実ではカール大帝の帝国は分割相続制によって彼の死後四分五裂してしまいました。しかしカールマンの帝国は、選挙制を中心とした、王国より一段階高い帝国級の帝国であったため、分割相続制ではありましたが、分裂することはありませんでした。

ローマ帝国を復興させ、皇帝に即位し、「大帝The Great」という二つ名を得たカールマンでしたが、ローマ帝国の継承法は選挙制であったため、まだ一抹の不安がのこっていました。カールマンのような威信と信仰の溢れる君主ならよいが、もしも彼の子孫が暗愚であった場合、選帝侯たちは(大ピピンがメロウィング朝に対して行ったように、)カロリング朝に対して背信行為をとらないとも限らなかったからです。

神聖ローマ帝国の継承法を、選挙制から世襲制にするためには、大量の威信(その数、なんと10500!)が必要でした。カールマンのその後の人生はこの威信を稼ぐために捧げられたと言っても過言ではありません。彼は公爵領を創設し、狩猟と宴会を催し、十字軍に参加して、大量の威信を確保するために奮闘します。その甲斐あって、801年には威信10500を確保し、晴れて神聖ローマ帝国の継承法から選挙制を除き、世襲制をうちたてることに成功しました。

こうしてカールマンは自分のなすべきことをなし、808年の4月に没します。57歳でした。

#カールマンの貸借対照表。

それでは冒頭の問いをもう一度思い出してください。私は問いました。「シャルルマーニュがなければ、世界史はどのように変化したでしょうか?」

シャルルマーニュの史実の事績は有名ですので、ここで詳細に説明する必要はないでしょう。彼は軍事の天才で、ザクセン人たちを討伐し、バイエルン王国を打倒し、ランゴバルド王国を併合して、西ヨーロッパに巨大な帝国を築きました。

しかし史実において、その後の歴史はどうなったでしょうか? カロリング朝は分割相続制だったため、シャルルマーニュが建設した王国は彼の死後、四分五裂に分裂し、ヨーロッパには結局のところ、アジアのような巨大な統一王権は誕生しませんでした。

シャルルマーニュがなければ、世界史はどのように変化したでしょうか? この世界線においてもカールマン大帝は神聖ローマ帝国の建設に成功しました。軍事的才能にあまり恵まれなかったこのカールマンは、ザクセン人たちやバイエルン王国やランゴバルド王国を征服することはできませんでしたけれども、しかし、その代わりに彼は神聖ローマ帝国の建設によって(並び立つ複数の王国級称号ではなく、一つの帝国級称号を創設することによって)、カロリング朝の帝国の分裂を避けることに成功しました。しかもその帝国は、選挙制ではなく世襲制であったため、カロリング朝の王権は比類なきほどに高まり、ヨーロッパにアジアのような巨大な王権が誕生することになったのです。

ヨーロッパに誕生したアジアのような王権! これが世界史をどのように導くかは、プレイを続けていくことで明らかになるでしょう。

おわり


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2021-10-25 15:31:30
戦いをたたかいにする癖はどこから来たんやろな
返信する

コメントを投稿