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独楽の旅

元気で山野を歩き、心を癒してくれたものは立ちどまって気ままに写し、ブログに載せ、自分で存分に楽しむのが無上の喜びです。

606 -【 敗戦後の大学教育再開に際して、小泉信三慶応大学塾長の訓示 】(2020/09/10)

2020年09月10日 | [日記]

      

[小泉信三氏の訓示]
以下は戦後の大学再開(S20,09)に際し、慶応義塾大学へ入学された森口幸雄医学博士の手記から引用

『 東京帝大学長を筆頭に手の平を返したように戦場帰還学徒元士官に「戦争犠牲者」と断じた昭和20年秋にあって、小泉塾長だけは「君らを誇りに思う」「戦犯にかけられる学生がいれば私が処刑される」とこう発言されておられたのです。以下少し長くなりますが、森口医博の全文を紹介します(私のみが所蔵するのは勿体ないと思ったからです)。
「昭和20年9月から東大、京大、早稲田と各大学が再開、それぞれの学長のスピーチが新聞やラジオで紹介された。
何処の学長も手のひらを返したように生還復学した学生に、『諸君は気の毒だった。軍国主義の犠牲となった。早くそれを忘れて学業に精進するように』という趣旨だった。それならそうと何故あのとき(1943年10月21日、出陣学徒壮行会)そう言わなかったかと思った。
 そして慶応義塾が再開した。私は、小泉塾長も同様な発言をされるかと思いきや他の学長らとは真逆の話を始めた。以下3点である。
1.私は諸君に心から敬意を表します。2年前に私は『最高の価値は祖国のために命を捧げることだ』といった。その私の言葉に従って君たちは勇躍出征してくれた。これに対して賞賛し感謝する。
2.戦争に負けたことは問題ではない。ヨーロッパでは何度も戦争に勝ち負けしている。日本は負けた経験がないので大きなショックを受けているが(諸君らが)祖国の為に命を捧げる用意があったということを、一生の誇りとしてもらいたい。
こんな素晴らしい事実はない。
祖国とは何ですか、貴方たちの愛する両親、兄弟、友達が住んでいるところです。
それを守るために命を捧げることができた。この誇りは戦争に負けた事とは全然関係ない。
3.戦勝国はポツダム宣言に従って戦争犯罪者のための軍事裁判を開くだろう。そして君たちの部下の兵隊がやったことについて責任を取らされ終身刑になったり銃殺刑になるかも知れない。そのとき裁判官に次のように言ってもらいたい。「戦場に行けと小泉塾長に言われたので戦争にいった。責任は私たちにはない。責任は小泉塾長にあると言ってもらいたい。君たちの代わりに小泉は諸君のため諸君の代わりに銃殺刑のその場所に立つだろう。私は諸君の命の代わりになる準備がある」
その瞬間、みなわっと泣きました。私も声を出して泣きました。私的には戦争でひとり息子さんを24歳のわかさで亡くし(小泉信吉海軍大尉)、失意の下におありでしたが日本人としての誇りをうしなわず、私たちを抱き込んでくださったこの訓示を71年経た今も昨日のように思い出されます。この日以来、医師になるために慶応に入った私でしたが、慶応生である事に誇りを持ちました。』

 追記:私が昭和29年に防大(当時な保大)に入学した時は槙智雄校長でした
    戦後、時の吉田茂総理の発案で3軍統一の士官学校創立を創立することになり保安大学が久里浜に開校され、
    昭和28年3月、第1期生が迎え入れ、3期生から旧軍の首都防衛の要塞があった小原台に新校舎が建設され開校しましたん
    私は昭和29年に2期生として久里浜の保安隊通信学校の一部を校舎としていた保大に入校しました
    その間、新校舎の建設は小原台に進み昭和30年3月に移転して3期生を新校舎で迎え入れた訳です

    当初、初代学校長は吉田総理の意向で小泉信三氏に予定されましたが氏は当時「東宮御教育常時参与」として
    皇太子明仁親王(昭和天皇)関連の要職にあり、着任は不可能と判明、小泉博士の推薦で慶應義塾の法学部長の
    槙智雄氏が着任されたと聴きました
    昭和29年春入港間もない時、小泉信三氏が久里浜の学生食堂にご来場され学生一堂に訓示された時に聞いた話です

       

    そして、その時に頂いた訓示で
     『 男は40を過ぎると自分の顔に責任を 持たなければならない。』
    と話されたのです
    当時、壇上で訓示される氏は顔一面が火傷で酷いケロイド状になっておられたことが強い印章として残っています
    





605 -【 仁、義、礼、智、信 】(2020/08/14)

2020年08月17日 | [日記]
「仁、義、礼、智、信」とはどういう意味かをWikipediaから引くと
 仁 : 人を思い遣ること。
 義 : 利欲に囚われず、すべきことをすること。
 礼 : 仁を具体的な行動として、表したもの。
 智 : ただ学問に励むだけでなく、道徳的認識判断力であること。
 信 : 言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。



604 -【 終戦の日に思う 】 (2020/08/15)

2020年08月16日 | [日記]
日本が大東亜戦争に敗れて今年で早くも75年目を迎えました
昭和天皇の [終戦の詔勅] を石州・井原で傾聴したのは満9歳で国民小学校4年生の時でした
母親の生れ郷里の島根県邑智郡井原村天蔵寺原(現在の邑南町)の叔父母の家に戦争疎開して丁度2週間経ったばかりの事でした

井原に来るまでは郷里・山口県宇部市で連日、[警戒警報]、[空襲警報] のサイレンが街中に鳴り渡る日々の連続でした
そんな毎日でも警報が解除されるとランドセルを背負って小学校に向かうのです
私の通う学校は見初(ミゾメ)小学校と云い、自宅(宇部市の中通り6丁目)から1km余り離れた処にありました
校舎は[ヨ] の字に型どった木造総2階造りの広い校舎でした
今でも懐かしく想い出され懐かしい思い出です  でも決して現実には帰ってこない景色です

小学校の校庭にはその北端に [奉安殿] と [二宮尊徳像] がありました
今の世間には存在しない施設で、敗戦と同時に撤去されて [奉安殿] と云う小さな木造・校倉造りに似た建物はがありました
その建物の中には今上陛下(昭和天皇)ご一家のご真影(各家庭にも神間の上にあり)と[教育勅語]が安置奉納されていたいたのです
勿論、私など子供は目にすることはできず、内部を観たことなどありませんでした

昭和20年7月2日の夜、宇部市はB-29の大編隊の空襲で一夜にして市の全域が火の海になり、灰燼に帰してしまったのです
親父は当時住んでいた中通り6丁目の町内会長をしており、組員みんなの協力のお陰で1軒も消失することなく終わってくれました
これは町内会長で頑張っていた親父には戦中の空襲下での一つの自慢の種でした

この空襲は爆弾投下や機銃掃射は少なく多くは焼夷弾を投下しての木造住宅の消失を狙うものでした
 [焼夷弾は]:外形が六角形の直径ほぼ15cm、長さ約1mの鋼鉄板で作られた鉄の筒でその中に生ゴムをガソリンで溶した自転車チュウブの修理に遣うゴム糊と同じものです

市内の全てが木造住宅で火災を起こせば見る間に燃え広がり燃え尽きてしまうのです
1発の焼夷弾で一面が火の海になってしまうのを小学4年生の私は眼のあたりで観たのです  火災を消す人は誰一人おらず観るまに類焼してしまいその燃え広がり燃え尽きるまで燃え盛るのです
類焼の速さは驚くほどでその有様を目の前に観て機上の敵の搭乗員がほくそ笑んでいるだろう顔が想像できるのでした
1度燃え出すと風が強い風が起こり火は四方八方に広がっていき、誰も消す者があいないので、唯燃え広がるばかりで一面が火の海になり、あっという間に灰塵になるまで燃え尽きてしまうのです
機上の敵にしては全てが木造の家屋であり類焼の早い日本の家屋は意のままに成果を挙げて笑みして帰投していただろうと想像できます  今にしても残念で憎らしいことです

翌日、夜が明けてみると宇部市は見渡す限りの焼け野原になっておりました
そして、日が暮れて夜になる東の空が真っ赤に染まり近くにある見初炭鉱の山と積まれた貯炭場に火がついて燃え盛りその後何日も夜空を赤く染めて燃え続けたあのです
日本の戦力備蓄の石炭が燃え尽きてしまうまで燃え続けていたのを憶えています

空襲の翌日から我々学生は駐在の軍人や先生の指導の下、焼け跡の掃除(後片付け)に毎日精出す日々でした
焼け跡掃除で出てくるのは学生が習字に使っていた(鉄製の)文鎮が赤錆びて燃えかすとして集めたのを覚えております
この鉄製の文鎮と焼け錆びた五寸釘くらいでしたのを憶えています  これらは鉄物はアメリカを滅ぼすための戦車、弾丸など武器を造る材料として集め、
「兵隊さんの為に」と供出するのです
その他に目ぼしいものは何もなく基礎に残るコンクリート土台が残っているだけでした

1日の掃除が終わって帰る時に担任の先生からコッペパン1個が買える切符が貰えるのです
その切符を持って食料配給処に行くとコッペパン1個が買えるのです  いくらだったか記憶にありませんが最初の日はその切符で1個、買ってきてみたのですがとても食べられる味のパンではなかったことを子供心にも憶えています  両親は勿論私にも不味くて喉を通さず呑み込めないようなパンだったのです  贅沢に聞こえますが我が家の両親と私の3人の口には合わない不味い物で呑み込めなかったことを今も鮮明に憶えています  

焼け跡掃除の度に帰りにパン1個の購入券が貰えるのですがその切符は毎日貰って来ては斜め向かいの家のSさん家に持参すると喜ばれるので毎回譲ってあげていました  
それ程当時の内地はは食糧欠乏の時代だったのです (敗戦の半月前のことだったのです)

島根県・石見の国(石州)・井原で百姓をしている母方の叔父母からの食料の支援を受けてこんな欠食の時代でも満腹まで食べさせて貰い、人間らしい生活を送らせてもらいました
今でも叔父叔母ご両人のご恩を忘れることはできません

その後も日本各地への空襲は連日連夜続き、襲来するB-29の編隊に対し迎撃つ戦闘機はおらず地上から上空に向かって打ち上げる高射砲はなく
時に撃たれる弾は敵機のはるか下方で炸裂し敵機は悠々と攻撃を済ませて飛び去っていくのです  
歯がゆい限りですが何ともできないのです  戦力の大差によるものです
子供心にこんなに戦力差のある国を相手にして交戦すること自体が最初から間違いだったのです

明日の日の命も危ぶまれる当時の日本は、日本が全滅させられるまで空襲は続くことが予想されわれら国民は死なないこと殺されないことを祈るばかりの毎日でした
9歳の幼い少年だった私は当時の戦時中の親父にとっては足手まといで、母の妹の叔母が跡を継ぐ[新出屋]に疎開させることに決めたのです

7月2日の大空襲の戦禍で消失した母校の焼け跡掃除を終わってから、昭和20年7月30日の夜に母に連れられて宇部岬から国鉄の山口線、津和野、江津、三江線、因原を経て叔父母の住む石州井原に戦争疎開したのです  国民小学校4年の2学期、夏休み中だったのです

着いた処は母の故郷・生家の [新出屋(ニイデヤ)] は島根県邑智郡井原村天蔵寺原(現在:邑南町manaca)にあり、石州・石見の国で いつも [セキシュウ] と今も慣れ親しく呼んでいます
敗戦色の濃いい当時、叔母の家とは云え知らぬ土地への疎開ですから私にとってそれは心細い転地・転校の戦争疎開だったのです

直ぐに母と叔母に連れられて(村立井原)小学校への転校入学の手続きを済ませ心細い気持ちで夏休みを終わっての初登校日を不安な気持ちで待っていました
それから6日後の8月6日の朝、井原から北東の山越えにある広島市に世界初の [原子爆弾] が投下される
学校から帰ったらすぐに親の手伝いするのは当然であり、初めて体験する百姓です
予想もできないほどの肉体労働で、足腰の痛む日々でしたが負けず嫌いの私は最大限の努力で打ち込みましたる
遂には腰痛症が持病になり叔父や叔母に連れられて田所の鍼医者に月一くらいで歩いて通院したのを憶えかぎりっですがています
そして最初に迎えた夏、秋場には [ホビ] という蚊のようなノミのような小さな虫に素足をごりょうにんの
当時、学生疎開が大都市部を中心に流行っておりましたがそれは大集団での疎開で
私のように単独の疎開は友人から離れての単独の疎開なので寂しいものでした
言葉も風土も違う土地に単独で乗り込むのですから不安だらけです
私の疎開は叔母の家 [新出屋] への転居ですから別の意味で不安がありましたが
空襲が激しくなって生き延びるための疎開ですから異論を唱える余裕はなかったのです

空襲の隙間を縫って母に連れられ宇部岬駅から国鉄宇部線で小郡へ、
そして山口線、山陰線そして山江線を乗り継いでいる母の生家で妹夫婦の [新出屋] に向かったのです
話す言葉も違うし、四辺そこいらにホビと云う蚊より小さい刺す虫がいて最初の1年は膝から下は化膿して大変苦労しました

井原に着いて2週間目の8月15日に終戦を迎え、昭和天皇のあの
 『 耐え難きを耐え、忍び難きをしのび 』
の詔勅を拝聴した時の情景を昨日のようにありありと思い出し忘れる事が出来ません
空襲の体験をし、生き延びて84歳を元気に過ごし、日々を新型コロナ(こ)と戦いながら

603 -【 長兄が元気で満百歳 】(2020/07/14)

2020年07月14日 | [日記]
私の 実兄・賢策 は私と15歳違いで、1920年生れの兄です
そして今日、目出度く 満百歳の長寿

迎えたのです
[1920年(大正9年)07月14日が誕生日で、私より15歳年長です]

そうです
今日は実兄の満百歳の誕生日なのです

兄は私と15歳余り離れており、今日、実兄・賢策氏は故郷の長州・山口県宇部市で目出度くそれも驚くほどの健やかに『満百歳』を迎えたのです

 如何におめでたいことは云え、他人ごとなので忘れて通り過ぎないように
 日記帳に書き込んでおきました
 今日夕方、兄夫婦2人が夕膳を囲んでいるだろう時間を見計らって お祝いの電話 をしてみました
 電話の向こうから兄の元気な声が返ってきました

以前電話したときは、私の話す声が聴きとれず会話が連がらなかったのです
処が、今日は最初からスムーズに会話が連がり、百歳のお祝ひを伝えることができたのです

これからも元気に健やかに生活して更なる長寿を全うして欲しいとお祝いを交わしました
百歳の兄と85歳の私が元気で電話でお祝ひを交わせた事を喜び亡き両親に唯々感謝するばかりです

兄の連れ(妻)も昭和3年生まれで、満91歳の元気者なのです  先日白寿祝いに帰郷した時も
日々の買い物は、往路の片道約1km余のスーパーへの道も、健康の為に歩いて行き、
帰りは買った荷物もあり、タクシーを利用していると云っておりました  まさに元気そのものです

一昨年の暮れに兄の白寿を祝ってやろうと思い立ち1日泊りで宇部を訪ね、
私も高校まで過ごした両親が残した実家に何年振りかで訪ね一晩泊りで帰郷し
兄の次男らと一緒に祝って来たばかりです(参照:https://blog.goo.ne.jp/oldeeagle/583)

本当に理想的な老後の夫婦生活を実践し、エンジョイしている様子で、羨ましい限りです
 私は独り身の生活になってから既に8年が経ってしまいました

食事を終わって私が帰途につく時には二人して玄関前の道路まで出て見送ってくれました
夫婦揃ってこんなに元気で、病院通いをしている様子も全くなく
何不自由なく楽しく毎日を元気に過ごしている様を目の当たりにしてきたのです

私が最後に歩いた3回目の [四国歩きお遍路の納経帳『百八寺のお遍路(平成18年)』を
長兄に贈って手渡してきました
 尚
  最初に歩いた遍路『初めてのお遍路(平成12年)』の納経帳は 妻百合子(釈尼妙合)の旅立ち(平成24年)に
  2回目の歩き遍路『出会いのお遍路(平成14年)』の納経帳は次兄・懿雄の旅立ち(平成19年)(2007)の棺に納めました

私の慈母マツも平成5年(1993)に享年百歳で人生を全うするまで戦前戦中を通して苦労したでしょうが
達者で人生を過ごしてくれました 残念ながら満百歳を元気で迎えることはできませんでした
八十八歳を迎える時みんなで
 「母の米寿をお祝い しよう」と
末弟の私が提案したのですが、母と兄嫁さんとの間に日々の生活で生まれた些細ないざこざがあったのか
兄の一言で実現に至らず母の米寿の祝いをしてあげられなかったのが無念が今も心の中に消えずに残っております
亡き母に申し訳なかったと残念でならず、父母への謝罪の念が消えずに今も残っております

その母は満九十歳になってから独りで新幹線に乗り、郷里の宇部から私らが住む鳴海の三菱社宅を訪ねてくれ
ひと月を退屈しながらも過ごし、その後次兄の住む富山に送ったことが思い出され、母もそんな元気な過去でした

長寿社会になった今の日本では百歳以上の長生きできる人はこれからどんどん増えるでしょうが
目の前にいる兄夫婦のように日々を楽しく元気に過ごせる夫婦はそんなに多くはないと想像します
彼ら夫婦のように健康維持して楽しい余生を過ごせたら願うばかりです
私のように77歳から独り身で寂しく活きる人生はもうこりごりです
これも私に課せられた私の人生であり私の天命だと悟り、
塞翁が馬と念じ今日まで過ごし、またこれからの日々も過ごしていきます




601 -【 ひと際大きく見える満月:スーパームーン 】 2020,04,08

2020年04月09日 | [日記]
601 -【 ひと際大きく見える満月:スーパームーン 】 2020,04,08
日本では 4月7日夜から4月8日は 地球と月の距離 が1番近くなる日で、いつもより満月が大きく見える
「スーパームーン」が観測されました

全国的に好天にも恵まれ 地元小牧・篠岡でも丸く輝いた満月が
何時もより大きくきれいに観測できたので写真に収めました




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[自写のスーパームーン・満月の画像です]

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[webから引用したスーパームーンの画像]


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600 -【コロナウイルス警戒の中でコッソリお花見】 2020,04,04

2020年04月04日 | [日記]

   
     [新型コロネウイルス拡散警戒の中で静かに花見]

      今年もいつもどおり桜は枝いっぱいにきれいに咲き誇っています


    



                

               

    


            桜の基の野辺には可憐な花が咲き誇っていました

                   



      



                     








599 -【Tokyo 2020 の聖火採火式(オリンピア)】 2020,03,12 2020-03-13 15:13:49

2020年03月13日 | [日記]


 東京オリンピック2020(7月24日開幕)聖火の採火式がコロナウイルス厳戒の中、
 快晴で観衆なしのアテネのヘラクレス会場でバッハオリ会長臨席のもと実施され、
 凹面鏡を使って太陽光を集めて聖火をから成功裏に終わりました(日本時間3月12日夜)

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     クーベルタン男爵記念碑にランの無事を祈る

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 聖火の受け継ぎ

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     野口みずきさんが聖火を受け継いで第2走者として発走


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  [追記]:当初の計画では 3月18日までギリシャ国内をリレーランの予定でしたが観客が予想外に多く、
     コロナウイルスの関係で危険性が高く中止になったとの報せです

     国内への搬入は3月19日に松島基地(宮城県)まで空自機で搬ばれ福島の [Jビレッジ] を出発点として
     聖火リレーが進行計画に変更はないそうです

     3/20 午前 ANA機で空自松島基地に搬入されサンドウイッチマンの2人により東北の [Jビレッジ] に向けて移動

     
 (3/14追記)





597 -【 前田陽一郎ピアノリサイタルを視聴 】 1920,02,01

2020年02月05日 | [日記]

ピアノリサイタル開催を報せるパンフ


町内会の会報で事前に報されてた今日のピアノリサイタルに意気揚々と出かけてきました
全席指定席と知らされていたので未入手の私には時間ぎりぎりで出かけた私には切符を未入手の私には一寸した不安もありましたが空席が目立つことだろうと高をくくっていましたがさにあらず長蛇とと云っても良いほどの長い列です
事務員に云われてセンター事務所で入場券を現金を出して購入しました  
入手した座席の番号は [て列 23番] でした
既に開場時間を過ぎており、約500席の会場はほぼ満席の盛況でした
私の [て列] は最後列から二列目にあり、その席からみて客席は前方に約20列在り
左右には8列が3列並ぶ合計24列あるようでした
その席がほぼ全て占めらていれる盛況でした  1人500円として総計 ???円 の収入だなと詰まらぬ他人の懐勘定をしてみる馬鹿な人間でした

 ☆ 演奏された曲は下記の通りでした (案内のパンフレットより)
  14:00 ~ 14:40
   シューベルト
     即興曲 変ホ長調 作品90-2
   シューベルト
     即興曲 変イ長調 作品90-4
     コラール前奏曲 目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえる (BWV645)
     
 

 [演奏の合間に額や掌の汗を拭きながら演奏に熱中する奏者]

 
   バッハ
     カンタータ 「主よ、人の望みの喜びよ」(BWV147)
   リスト
     リゴレット(演奏会用パラフレーズ) (S434)
   リスト
     3つの演奏会用練習曲カンタータ 「主よ、人の望みの喜びよ」(S144.3.)

    (休憩15分)  14:55 ~ 15:35

   ベートーベン
     ピアノソナタ第23番 ヘ短調 「熱情」(OP57)
   リスト
     愛の夢 第3番

  満衆のアンコールでリストのピアノ協奏曲が追加演奏されました


 私には高尚過ぎる分野のクラシック曲の演奏でしたがこれから機会をとらえて
 傾聴したいと思います
 妻の26年に及ぶ長期闘病の末、逝ってしまってからの孤独生活になって直ぐに急いで [パスポート] を手に入れ、
 海外の世界遺産を目星にして世界地図を俯瞰して多くの地点をくまなく旅することができ、
 その間に国内の多くの観光地を息抜き的に旅をしてきました
 今日、振り返ってみると一昨年(2018)2月の南極クルーズの旅、7月のアフリカ喜望峰とビクトリアの滝の
 見学旅行を最後にして何となく気力の衰えを感じ、昨年は一度も旅をせずに終わってしまいました
 何故かと聞かれると好ましくないのですが気力と体力に衰えを感じ始めているのです
 これを自分を認めることは自分の敗北に自ら道を開くことになるので最大の抵抗をしたいのです
 基礎体力の維持には気配りして日々のウオーキングを続け、趣味の方向を変えて音楽に、即ち自分の過去から見ると
 高尚な方向へ転換することです
 先日の多治見にコンサート傾聴からの先般のこれから趣味を広げる努力をしてみる心算です
 その第一歩としての参加が
 
  2019(R01)/11/03 「 桃花台音楽まつり プレコンサート」
     会場: 東部市民センター 講堂
         開場:13:15 開演:14:00
            入場無料 先着順

  でした
  

595 -【 第35回 一人暮らし小牧高齢者交流会 】 (1919,11,29)

2019年11月29日 | [日記]

  
     恒例の一人暮らし老人慰労会が市の勤労センターで行われ迎えのバス(09:25)で
     会場に向かいました   我々は3号車でした(全部で5台)
     市長、会長の挨拶の後、市内の幼児の皆さん(陶保育園、大城幼稚園)の
     遊戯や合唱で迎えてくれ、


        
           園児らは各席に散会して
           われら老人さん等に手造りのカードや名札を配り首に掛けたりして
           「来てくれてありがとう」と歓迎してくれました

            
 
   
             楽しいひと時を過ごしながら 配布の弁当を食べ、


            
             午後は歌謡歌手水島さと子さんの歌謡ショウを14時過ぎまで楽しみました そして
             帰りに玄関で幼児園児の皆さんの見送りを受け、お土産に箱の飴を貰って帰途につきました(15:00)
 
 

593 -【 多治見市交響楽団第28回定期演奏会 】 (2019/11/24)

2019年11月24日 | [日記]
              
                  [オーケストラの全景]

知人の酒井さんの案内で多治見市の公民館[バローホール]で
多治見市交響楽団の「第28回定期演奏会」の聴講に行ってきました
往復の脚は酒井さんのクラウン新車に乗せてもらいました

    


              


                                  


               


     



   
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592 - 「中秋の名月」  2019/09/13

2019年09月14日 | [日記]

 [東の空は晴れ上がり大きく輝く中秋の名月]


久し振りのBLOG投稿になります  手順を忘れがちでうまく造れませんが手こずりながら以前の記事を参照して起案し投稿しようと思います
今夜の[中秋の名月]は2日前くらいから報道されていました  
日本海側の天気は心配なく満月が見られるとの予測でしたが一方太平洋岸の方は雲が多くて運が良ければ
雲間から名月が望まれるだろうと云うことで期待できないものでした
今夜の名月がうまく写真に収められれたら久しぶりにBLOGに投稿したいと期待していたのです

外も暗くなってきて南東向きの外に出てみると天気は殊の外よく特に東の空は全天透き通るような雲一つないと云える好天で観月は大いに期待できそうでした
暫くして外界がすっかり暗くなってきたのでカメラ片手にBlog向きのきれいな写真をと期待を込めて満月の鑑賞と写真の撮影に外に出てみました

バルコニーから左に目を向け、瀬戸高蔵寺方面をみると既にまん丸い大きな月が地平線からb大きく浮かんで輝いていました



 [東の空の中秋の名月の下に広がる高蔵寺から瀬戸市の夜景]

カメラをフェンスに載せてブレないようにしながら期待の写真を数枚写しました
満月の下には月の明かりに照らされて高蔵寺と瀬戸の街が遠く浮かんで見えました

今年は猛暑日続き蒸し暑い夏でしたが昨日くらいからオーツク海高気圧が南下してきて
今日から日中の蒸し暑さも少し和らぎ過ごしやすくなってきたところです

ベランダの椅子に腰かけて250ccの缶ビールを冷蔵庫から持ち出し満月を鑑賞しながら藤原道長の気分には遠く及ばない今の境遇ですが
願わくば今日より明日の改善を期待しながら先ず第一に健康維持のために無理をしてでも早朝のウオーキングを続けていきたいと念じています
道長の想う満月には到底及ばない事は明白ですが少しでも希望を維持できるように五体満足な日々を過ごしたいと天空の満月に祈念した処です
先程防大同期のH君の訃報(うっ血性心不全)が速報された処です  安らかにとご冥福をお祈りします
共に大空を羽ばたいたきた防大2期航空の同期生60名の内既に半分以上の方が天国に逝かれました
安らかなご冥福を祈ります  私等老人には同期生の訃報は本当に寂しいことです

590 - 「運転免許証を自主返納」  2019/07/05

2019年07月06日 | [日記]


 [運転経歴証明書]


自動車の性能が日々急速に向上し、それに着いていけない人が増えているのか、
最近目立って80歳を超える高齢者の大事故人身事故が頻発しています

先日(平成31年4月19日)東京・池袋で発生した自転車の母子(31歳と3歳の女の子)が死亡した事故は日本中に大きな衝撃を起こしました
事故者は褒賞を受けた経歴の87歳の男性だと報じられ、この事故で強調されたのが
 『高齢者の運転は危ない』
と云う事で、当時私も83歳でした
これまで表社会で恥ずかしくない生活を過ごしてきましたが明日の日はこの人と同じように罪人になり
手錠をかけれれることになりうると想うだけで身の縮む想いに悩まされ思いきることに決心したのです

半年前にこれまで乗っていた三菱SUVの [アウトランダー] から小型車の [三菱ekワゴン] に乗り換えたばかりでしたが
思い切ってこの車を手放し、運転免許証も自主的に返納しようと決心したのです  その後に
待ち受けている不便さを想像するだけで怖くなりましたが取り返しのつかない罪人になるよりは不便さを選択すべきときめたのです

手放すことを決心し、中古屋さんと商談するときは人生の終末準備をするようで寂しさを感じました
手放す日を1週間後の5月12日と決め、それまでの1週間、毎日潮見坂の墓所にお参りして癒しの時間を持ちました

5月12日夕方、車を業者に手渡し53年間の運転生活から寂しくお別れしました
また、借用していた利用料8,000円の駐車場の返却手続きも済ませました
そして最後の手続きとして運転免許証の自主返納手続きです

11月まで有効期限のある免許証を昨日(7月5日)小牧警察署まで出向いて返納の手続きを済ませてきました
簡単な申請書を記入し写真を撮ってから上記のような 「運転経歴証明書」 を貰ってきました
在来の免許証にはパンチで穴があけて使用不能にして返してくれました

本当に残念です 今日から車と断絶した生活が始まります 
今日も小牧駅で巡回バスを乗り継いで往復してきました
これからは市内近郷の移動は巡回バスを活用し、タクシーや電車・バスも有効に利用して
閉じ籠りにならないよう積極的に社会に出ていくようにして生活していきたいと思います



589 - 『 満開のナンジャモンジャ 』2019-05-08

2019年05月08日 | [日記]

 [純白の綿毛の帽子を被ったヒトツバタゴの大木]


昨日、大津市で琵琶湖に向かって朝の散歩中の幼い園児の列に軽乗用車が突っ込み、
2歳の幼児2人が死亡するという痛ましい交通事故が発生しました また
先日の4月19日には池袋駅前交叉点で自転車の若い親子が犠牲になる重大事故が発生しております
運転者は87歳の経歴のある男性の交通事故が発生し世間を騒然とさせました
83歳の私には余りにも身近な反証事例で安易に見過ごすことができなかったのです
明日は我が身と思われ、永年日頃の生活を支えてくれた車と免許証を思い切って手放す決心をしたのです
買ってまだ新しい軽(ekワゴン)を手放すのは耐えがたいことですが泣く泣くの決断をしたのです
手放した後の生活を想像することもできない苦しいものです
人生の最後に車でこんな事故をもし起こすとその瞬間から罪人になるのです
車を運転している限りその可能性は十分あるのです
私も重罪人の予備軍なのです  想像するだけで身が縮む思いです  然し
車を手放すとその瞬間から行動が制約されてしまう事は必定です

その予定日は間もない5月12日です
その前にと亡き家族を祀ってある潮見坂の墓地にお参りしてきたのです
その帰り路です 自宅に隣接する[小牧市東部市民センター]にある
ヒトツバタゴが今年も真っ白な綿毛を被せたように一面に花が咲き乱れているのが目に止まったのです
温かい快晴の日差しの下にそれはそれは純白の美しい光景です

          




      

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588 - 『 今年も桜が満開に 』(2019-04-04)

2019年04月04日 | [日記]


「路傍の大木を賑やか飾る日本の 花、はな、ハナ、HANA」

名古屋の桜の開花宣言は3月22日に出されました
普通ではその日から1週間前後で満開を迎えるのだそうです
処がこの日から寒さが足踏みして桜の開花が進まなくなったのです
今日(4/4)は日中の気温も20度超えになるだろうと予想されていました
朝から快晴に恵まれ気温も上昇してきたので、
今日こそは満開になるだろうと期待していました




「冷たい北風の中、落とされまいとこびりついて咲く桜花」

今年は1月、2月になってから温暖な日が続き、
名古屋地方の開花宣言は3月22日にありました
開花宣言から普通1週間くらいで満開になるのですが、
先月の終わり頃から寒気団の南下で冷たい北風の日が増えその後の開花の進捗も足踏みさせたのです


今日は予想最高気温が昨日の14度から上がって20度越えが予想されていたのです
天気も快晴の好天なので近くの桜も満開になっているだろうと期待し近くの桜の大木を観に行ってきました
木枯らしのような冷たい乾いた風の中で、しっかりと小枝にしがみつく様に今年もきれいな桜花がぎっしりと咲いていました
近くには親子らしい2人連れの女性が先客で桜にカメラを向けておりました
花見には冷たすぎる風が枝を揺らしておりましたがぎっしり着いた花弁は激しく揺れる小枝にしっかりとこびりついていました



586 - 『 イチロー 引退を決断 』』 (2019-03-22)

2019年03月22日 | [日記]


日米通算 4,367安打を記録した米大リーグ、マリナーズの
イチロー外野手(45 本名=鈴木一郎、小生の最終勤務地 三菱重工名航小牧南工場 が在る名古屋空港のある豊山町の出身) が
昨日2019年3月21日(春分の日)、アスレチックスとの開幕第二戦の後、都内のホテルで記者会見を開き、現役の引退を表明したのです
メジャー在籍19年目となるプロ28年目の今季、キャンプでの不振で最終の決断をしたとのことで、
この日の試合も無安打でも大歓声を受けたことに彼は

 『 あんなものを見せられたら後悔などあろうはずがありません 』
と感想を引退会見の場で語り、昨年5月には [マリナーズの会長付特別補佐 ] としてフロント入りした後も、
準備斧練習を続け今年のキャンプで選手復帰していたが、オープン戦から24連続のノーヒット不振が続き、
日本人観衆の期待に沿わなかったのです
 『 今日のゲームを最後に、日本で9年、アメリカで19年目に突入した処で
   現役生活に終止符を打ち、引退することになった 』
と宣言し引退を決断して今日の発表になったのだそうです


イチローの過去の記録を振り返ると次のような輝かしい成績です

 [イチローが28年間で達成した主な記録]:
   (プロ野球時代9年間(1994~2000)の記録):
    日本で7年連続首位打者 (1994~2000)
    最多安打  5度 (1994~1998)
    打点王  1度 (1995)
    盗塁王  1度 (1995)
    パ・リーグ最優秀選手   1度 (1995)
    オールスター戦出場  7年連続 (1994~2000)
    ゴールデングラブ賞  7年連続 (1994~2000) 


   (大リーグ時代19年間(2001~2019)の記録):
    3000安打 (2016)
    新人王  (2001)
    アリーグ最優秀選手  1度 (2001)
    首位打者  2度 (2001,2004)
    盗塁王  1度 (2001)
    シーズン最多安打記録樹立  262(2004)
    シーズン200本安打  10年連続 (2001~2010)
    シーズン最多安打  7度 (2001,2004,2006~2010)
    オールスター戦出場  10年連続 (2001~2010)
    ゴールドグラブ賞 10年連続 (2001~2010)
 

 いずれは訪れる事ですがこのような素晴らしい記録を残しての引退発表には
 各方面から限りない惜しむ言葉が贈られており、 イチロー自身の今後の身の振り方が注目されております
 2004年頃であったか日本政府から『国民栄誉賞』の授与が予定されたのですが本人から未だ早いと辞退された経緯があります
 
 イチロー君 そして父君の チトローさん
 貴方は日本の歴史に残る、そして同じ豊山町を地元にして過ごしてきた我々にも素晴らしい名誉な事で、誇りです

 貴方はまだ人生の半ばです  健康に細心の留意の上に長生きされ、
 野球の普及を通じて青少年の健全育成の為に更に末永く頑張って下さい