フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

『世界史の構造』(柄谷行人著)を読む(1) 

2010-07-31 13:04:11 | 日記
『世界史の構造』(柄谷行人著)を読む(1) [本] [編集]
 タイトルからして壮大な物語を予感させる。とはいえ、当方はこれまで柄谷の本をほとんど読んだことがなく、学識も乏しい。どこまでついていけるかもおぼつかない。おまけに病気をかかえたおいぼれときている。だから、以下は断片的な読書メモにすぎない。途中で挫折したら、あやまるほかない。
 序文の冒頭には、こう書かれている。
「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする試みである」
 著者の言うとおり、本書の内容は、これに尽きるにちがいない。それにしても、最初から堅苦しい造語が並ぶ。
 そこで、序文と序説を読んだかぎりでのざっくりした印象でしかないが、この本は古色蒼然としたマルクスの唯物史観を劇的リフォームし、現代でもりっぱに通用するように再構築しようとする試みといえるのではないか。その再構築にあたっては、土台や柱に最新の素材が用いられているのはいうまでもない。
 マルクスの唯物史観では、最後に見果てぬ夢として共産主義が語られるが、この本では世界共和国がめざすべき「世界システム」だと論じられる。
 いいぞ、と思う。著者の方向性はまちがっていない。へんなたとえだが、むかし坂本龍馬は土佐藩の意識を脱して、日本というまだ実在しないくにを構想した。それと同じように、いまは日本とかアメリカとか中国とかいう意識を脱して、世界共和国という視野と行動が求められているのである。
 問題は、現実を踏まえずに、頭のなかだけで(超越論的に)ホップ、ステップ、ジャンプしていないかという点だけだ。年寄りのくりごとかもしれないけれど、それはまたそれで新たな公式主義の登場となりかねない。悪しきロマン主義の末路はいやというほどみてきた。

 中身にも少し触れておくことにしよう。
 マルクスは歴史的な社会構成体を、生産様式をもとに原始的→アジア的→古代的→中世的→近代的と図式化した。著者はこの把握を否定していない。しかし、マルクスがこれをもっぱら生産様式によってとらえたことはあやまりだと考えている。
 そこからは下部構造をかたちづくる生産様式を変革さえすれば、社会主義革命が達成されるという安易な発想が生まれた。マルクスは国家について、あまりにも無自覚だった。実際に、そこから生まれたのは全体主義国家でしかなかった。
 これに対し、著者がもちだすのが交換様式というとらえ方である。
 その交換様式は(A)互酬(B)略取と再分配(C)商品交換(D)高次元での互酬の4つのパターンに分類される。これは歴史的な発生順に並べたものである。
 社会構成体は社会の主要な交換様式に対応して、次のような形態をとる。(A)ネーション(国家以前)─氏族社会(B)国家─世界=帝国(C)資本制社会─近代国家(D)未来社会─世界共和国。
 これは(A)原始的(B)アジア的─古代的─封建的(C)近代的というマルクスの社会構成体のとらえ方と基本的に変わらないが、マルクスの場合は生産様式の考え方が前面に出るのに対して、著者は交換様式にもとづく社会構成として全体的に把握するのである。
 著者はマルクスの図式を基本的に承認するものの、いくつかの保留をつけている。
 たとえば、アジア的といってもアジアに限定されるわけではなく、封建的といってもゲルマンに限定されるわけではない。
 もうひとつ、この分類は歴史的継起の順とみなされるべきではないということだ。たとえばアジア的国家(世界=帝国)は長期にわたって持続している。
 さらに、この分類にはひねりが加えられている。
 それはウォーラーステインの中心と周辺、亜周辺という考え方がとりいれられていることだ。アジア的国家においては、周辺が中心にのみこまれてしまうのに対して、亜周辺においては、世界=帝国の影響を受けながら、社会構成体が独自の発展を遂げる傾向がある。メソポタミア・エジプトに対するギリシアがそうだったし、ローマ帝国に対するゲルマン、中国に対する日本がそうだという。
 ところが、近代においては資本主義の発展によって西洋が中心となり、かつての世界=帝国が周辺においやられてしまうことになる。
 さらにコメントがある。
 社会構成体と交換様式との対応は、あくまでも主要な傾向を指すにすぎず、その社会にはその交換様式しかないということではない。アジア的社会構成体は交換様式AとCが存在しながら、Bが支配的な社会を意味する。近代国家もCを基本的な交換様式としながら、AやBも含んでいるという。しかし、Aすなわち贈与の力を高次元において実現するのが、Dを基本的な交換様式とする「世界共和国」だというのである。

 いくつかの疑問がわかないでもない。著者が生産様式ではなく交換様式をもちだしたのは、氏族社会の交換様式とされる「互酬」を、きたるべき「世界共和国」において実現される高次元の「互酬」へと転用することを最初から目的としていたためではないか。生産様式でとらえるなら、氏族社会は狩猟採集社会となってしまい、いくら高次元にするといっても、狩猟採集を世界共和国の生産様式にするわけにはいかないだろう。
 もうひとつは、社会構成体を総体としてとらえる場合、やはり交換様式だけを基準とするのは無理があるのではないかという疑問である。
 たしかに社会構成体を上部構造と下部構造に分け、生産関係を基本とする下部構造だけを問題とする発想はおかしいといわざるを得ない。それでも重要なのは、社会を底からとらえるという視点であり、それならば生産様式も交換様式も含め、社会的生活の総体をとらえ、そこに根茎のようにからまってくる政治(国家)の実相をみるのでなければならない。そうでなければ、「移行」への展望も見えてこないのではないか。
 さらにいえば、何のために歴史上の社会構成体を考察するのかということである。歴史から学ぶことは多い。その一方で、歴史はつくられているということも忘れてはならない。だれも実際に原始社会はおろか、100年前の世界すら経験することはできない。つまり、歴史はある程度確実な証拠にもとづいて構成され、しかも過去の像はいまもつくりなおされているのだ。マルクス的な世界観がどこまで有効かは、常に考えなければならない問題である。
 われわれが出発できるのは、いまここにある現在でしかない。ただし現在をとらえるには歴史の知識(や教訓)に頼るほかないということなのだ。そこには歴史的ロマン主義がはいりこむ恐れが常にともなう。年寄りは慎重すぎるといわれるかもしれない。それでも現実に有効な「移行」を見すえることは必要なのではあるまいか。
 本書の序文と序説を読みながら、そんなふうに思った。
 先に進むことにしよう。