辛口KOJIの 「キリリ」 といこう!!

HIV陽性者の家族と友人の会1st.geocities.yahoo.co.jp/gl/base_kobe

私の中の2つの1.17神戸

2008年01月16日 | エイズの活動

今年もまた、まもなく1.17を迎えようとしている。

「BASE KOBE」のHPの冒頭に、「BASE KOBEとは、、、」を書いて、はや6年半になる。

http://www.basekobe.net

その中で、2つの1.17に触れた。一つは、95年の阪神淡路大震災。そして、87年の日本のエイズ史に残る神戸パニックだ。

87年当時、私は、公務員をしていた。そして、もちろんクローゼットの中にいた。そんな私に、おせっかい上司が、「お見合い」を薦めまくった。母子家庭の一人っ子に育った私に、親戚等まわりは容赦なく結婚を薦める。一人っ子の宿命だ。

「おかあちゃんをはよう楽にしてやれ」と。母は、気苦労が絶えず、左目を失明した。

父方、母方の2人の祖母は、繁内家の墓の心配をよく口にしていた。これは、アルツハイマーを患ってからも続いたことを思うと、本当に彼女にとっては、深刻な問題たったのであろう。つまり、家が断絶し、墓を守るものがいないのである。

結婚という大きなプレッシャーの中で、「ゲイ=エイズ」が大きく圧し掛かった。これは、グラクソ・ミスクライン社に寄稿を頼まれた際に書いたけれど、当時の私は、「不治の病」としての「エイズ」で死ぬことよりも、エイズになって「ゲイ」だと暴かれ、社会から抹殺される恐怖の方が大きかった。

その頃にHIVが広がっていたら、私は間違いなく感染していただろう。

「結婚できないという一人っ子最大の親不孝を露呈してしまうことは、何としても避けなければ」との思いが募るイライラを、セックスで解消する日々。コンドームなど一度も使ったことはなかった。

結果、淋菌感染症に2度、疥癬に2度、毛じらみに2度。そんな程度で済んだのは、奇跡的かもしれない。


「ゲイの奇病」として、第一報を伝えた毎日新聞の記事が、今でも忘れられない。

街に飲みに出ても、エイズの話題は、いつものこと。ゲイバーなどは、風前の灯。営業にならないのは言うまでもない。そんなところに近づいたら、社会から抹殺される恐怖。

ノンケ(ヘテロセクシュアル)の店で飲んでいても、「このビルに、ホモの店がある」「空気感染するらしいから、大家に言って早く出て行ってもらえ」と客とママが真剣に話をしていた。


神戸パニックのこんな状態で、ゲイだと言えるはずもない。


そんな経験が、私の活動のベースにある。だから、深く考えずただ、予防のためにコンドームを明るく楽しく配られても、苦い思いがあるのだと思う。


HIV陽性者のことを、日常的に仲間と呼んでいるから、私のことを陽性者と思っていらっしゃる方もいる。しかし、私は、今のところ陽性者ではない。ミクでもHIV陽性者の仲間と書いているので、新しくミクで繋がって下さった皆さんも陽性者だと思われているかもしれない。しかし、私にとっては、HIVのステータスなど、どちらでもいい。そんな程度にしか思えないのも事実なのである。



そして、95年の大震災。死んだかと思った。何せ激震震度7の活断層の真上の三宮の外れのボロ家に住んでいたから。軽いスレート屋根のボロ家が幸いした。

そして、私は生き延びた。

隣の6階建てのマンションは、瞬時に倒壊、20余名の命が奪われた。反対側の隣は、二階建てが一階建てに。一階で寝ていた2人の高校生が亡くなり、2階で寝ていた両親が生き延びた。

知人は、翌朝のゴルフで早いからと狭い自宅の部屋で奥に優しさから娘を寝かせた。早朝に起こさないようにと。いつもと、反対。娘は亡くなり、知人は生き残った。死んだ子の年を数えてはいけないと言うけれど、、、。無残に折れ曲がった、愛用のフルートが残った。

別の知人は、姉を亡くした。早朝の清掃の仕事に行く途中のバス停に、ビルが圧し掛かった。仕事熱心が災いした。今日は休みの人が多いから、一本早いバスでと。。。いつものバスに乗っていたら、、、

ご遺体を確認に、小学校に一緒に行った。講堂に整然と並べられたご遺体の列。


消防が来ない、水が出ない。倒壊した家屋の下敷きになり、励ます家族に父親は言った。

「もういいよ。火が近づいたから危ない。逃げなさい」と。父親は、生きながらに焼死した。形見に焼けた爛れた腕時計が残った。


私は泣いた。みんな泣いた。神戸が、泣いた。



私の中の2つの1.17。この辛い経験を何とか活かして、困難なHIVと向かい合いたいという、神戸からの小さな思いを胸に活動を始めた私がいた。

「HIVは、こんなに大変な問題。アフリカも大変。差別・偏見に苦しむ人たち、、、、」


私が、どんなに一生懸命訴えても、神戸の人たちからは、「私も大変やねん。ごめん。」という言葉が返ってきた。


震災の影響が、今でも深刻な神戸。当時、個人補償がなかったために、多くの市民がローンで買った自宅が倒壊。ローンは残り、新たにローンを組んで家を手配した。経済の崩壊は深刻で、失業した市民も多かった。

高齢者は、住み慣れた土地を後にした。今では、身寄りのない復興住宅(公的住宅)での孤独死が深刻だ。

神戸は、エイズ対策が遅れた街だ。しかし、責めることはできない。しっかりやらなければならないときに、震災の影響を受けて、復興重視の市政運営は理解しなければならない。


しかし、今、神戸市と私たちは、一体となってエイズの炙り出す様々な不条理に向き合っている。


去年、他の模範になれるような対策、措置を次々に実施することができた。これは、誇っていいと思う。


そんな神戸が、様々な困難を乗り越えて、第7回アジア・太平洋地域エイズ国際会議をお受けした。

私は、閉会式の司会として、155万人の神戸市民を代表して、最期にこんな言葉で締めさせていただいた。


「今、神戸から、エイズをよりよく理解するために、全ての違いを乗り越えよう」と。


そして、神戸市とBASE KOBEには、その成果を更に生かす責務が残る。


「1.17」神戸。今日は、心から6434人の尊い命を悼みたい。


初詣に行った生田神社に奉納した絵馬(左)に、今年もこう書いた。


「HIVとともに生きる社会になりますように」


「私の中の2つの1.17。神戸」

HIVであろうがなかろうが、ともに生きることのできる心優しい市民社会をめざしたいと心から誓う。


2008.1.16 繁内幸治 拝

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