陽の当たる場所へ

日陰を歩く者は
陽の当たる場所に辿り着くことを夢見て
思考に耽る

相手を知り、己を知れば…

2005年10月17日 | 活動日記
 前に書いた通り要約筆記基礎講座は無事終わったわけだが、この時チョット印象に残った感想を書く。

 それは講座を終えた感想を受講生から聞いている時に出たものなのだが、この受講生はどうも“パソコン”に過大な期待を抱いているようだ。
 つまり、「“情報量”は多ければ多いほど良い」というものだ。

 このことに別に否定はしないけれど、それはあまりに手前勝手な言い分、あるいは解釈だと思う。

 確かに話の内容の全文を知りたい聴覚障害者はいる。
 手書きとパソコンの違いが伝えられる情報量にあるというのならば(勿論それで気ではないけれども)、手書きで1分間約60~70字の情報量を上回ればパソコンとしての面目躍如は保たれるといえるだろう。

 しかし、気をつけなければならないことは、情報量が必ずしも伝達量とは直結しないということだ。

 個人の意向を繁栄できるノートテイクと異なり、予め聞いておいた平均的な落とし所で情報量を設定する要約筆記では個人個人のの意向を完全に繁栄できるとはいえない。
 けれども、それを無視していいということでは絶対ない!!

 俺が“親指シフト”に転向したのは、確かに情報量の多さに惹かれたわけだが、それは1分間に多く打てれば打てるほど、心理的な余裕ができ、落ち着いてより聴覚障害者に伝わりやすい要約した文章ができると思ったからで、別に全文入力を目指したかったわけではない。
(勿論聴覚障害者が全文入力を望めば当然こちらとしてもそれに対応しなければならないわけだが)

 ローマ字入力より親指の方がたくさん打てると聞けば転向しそうな人だが、この受講生の真意を聞いていないのでなんとも判断し辛いが、もし単純に「情報量は多い方がいいんだ」と思っているのであれば、正直親指をして欲しいとは思わない。

 というより「もっと聴覚障害者と交流しろ」と言いたい。
 この点が金沢では手話よりチョット劣っているような気がする、残念!!

 「一体自分が誰のためにしているのか」ということをを見失ってしまうようでは、正直要約筆記の存在意義はないだろう。