ふとしたご縁があって、超一流といわれるオーケストラの演奏を聴く機会があった。
その昔、知人の知人にわりと有名な指揮者の方がいらっしゃって、そこを訪ねた時の話なのですが、
丁度そのオーケストラの講演を聴きにいく矢先に急に行けなくなった方が出たようで、
「時間があったら、ご一緒にいかがですか?」と誘われた感じでした。
1枚うん万円のチケットを手渡されて会場に入り、その集団の一番隅で聞いていたのですが、
生まれて初めて…「本物、一流の感動って、これか~!」とそのレベルの高さ、大きさに驚かされました。
生半可な感情レベルの感動なんてもんじゃない、心が突き動かされると言うのはこういうことか!ぐらいの、
さしずめ『魂が揺さぶられた感じ?』と言うのが最もその時の心情を表わすのに近いのかも知れません。
その曲が終った瞬間というか余韻?に誰も楽器を奏でていないはずなのに音が聴こえるのだ。
共鳴や反射音らしいのだが、まるでその楽曲のイメージを思い描かせるような余韻、
悲壮な楽曲の時はその当時の情景と感情がフラッシュバックしたかのような、
あるいは晴れやかな楽曲の時は本当に晴れ晴れとした太陽の下をリズミカルに闊歩しているかのような
イメージをその音の余韻が感じさせるのだ。
その知人の指揮者の曰く、
『 作曲家は音と音の間、音の止んだ瞬間にこそ、曲に対して魂を込めるものだ。
それを指揮者は読み取り、更に演奏者たちは再現しようとする。
しかも、それは超一流のオーケストラや指揮者だけが表現している訳ではなくて、
どんな人達の演奏の合間や余韻にも必ず、それなりに顕れているものなんだよ。
それが稚拙なものであれば、成熟されていない段階の人達のそれであり、
聴く者は奏者達が譜面通りに奏でているか、旋律に耳を傾けるだけで演奏会は終了する。 』
… と言われていた。
や は り 人 は、 … どのような現状・職業・地位・立場にあっても、全員が目の前の仕事や人や物、
周囲や自分に対して懸命で誠実であるべきだと思うのは、… それを … 周囲の人達は、感じ取るからだし 、
… 何より … 自分自身が、最もそれを間近に、直に!感じているのだから、
それが当然、 …その人の言葉や行為の間や余韻に現れるのだろうか…。
改めて、私自身の二流、三流っぷりを痛切に自覚させられた出来事でした。
一流の人に出逢うと、本当に自分が恥ずかしく思えることがあります。
アナタは、 … 今!アナタの立場・役割りの中で、 何流のアナタを演じておられますか?
今日は、今まで出逢ってきた一流の方々に恥じないように、精一杯!でも力まずに、一流のワタシ…で居ようと思います。
… アナタは?