
昨日、公開しております「売国の方法」も、参考に成ると思いますので、よろしくお願い致します。
本日も、”仮説・妄想”で考えてみます。
”常識と非常識”についてです。
先ず、AI による概要を見てみると
「常識」とは、社会生活を送る上で一般的に備わっている知識や判断力のことです。一方、「非常識」とは、常識から外れた行動や考え方を指します。両者の境界線は曖昧で、人によって、また時代や文化によって異なる場合があります。
と、定義されています。
人々が、日常に於いて物事を判断する、尺度の基準と成っています。
過去に得た知識や、経験が基本に成っています。人に依って、認識が異なるために相反する時も多々あります。
例えば、公共の空間にゴミを捨てるとか、排泄物を路上で行うか等で、各自の常識の認識に依って対応が異なります。
それも、文化の違いだから、容認しろと言われても、容認できるものではない事も存在します。
一定の文化水準を維持しようとした場合に、特定の区域では、特定のルールに従う必要が有ります。
誰でも何処でも、自由に何をしても良いことにしてしまった場合に、そのことを受け入れることが出来ない立場の人達に対してその事を受け入れろと強要する事は、他人の拒絶する自由を侵害する事に成るからです。
多文化共生や、他民族の受け入れの問題の場合に、いつも、受け入れ側が劣勢な立場に追いやられてしまう考えは、間違いなく間違っているでしょう。
不要な人は、来てほしくないのです。互いに互いを侵害しない事が大原則で、互いに、迷惑を及ぼさない様に注意すべき事では無いかと思います。これは、法律等よりも上位の、道徳に関する問題です。
巷で、”LGBT”や、夫婦別姓等について、話題が在りますが、もっと、道徳的な視線から考えるべきだと思います。末永く、多くの人が、平和な生活を維持するる事を考えると、必然的に答えは出てくるでしょう。
一部の、学者や知識人の見解は、あくまでも人為的に作られたものです。そんなものに振り回される必要は無いと思います。
人為的に、作られたものは、人為的に法律化され、将来の人々を拘束します。
その結果、特定の人達に有利な、社会をを目指されます。
むやみやたらに、立法化するのでは無く、必要最小限に留め、もっと上位の、道徳的な考えが適切にできる様に、訓練・教育するべきでは無いかと思います。
常識、非常識の感覚が余りにも異なる場合は、生活区域に制限を設け、外部に有害な影響を及ぼさない様にすれば、其々の地域で、自由に生活出来るでしょう。
交易や、交流については、双方が互いに相手に強要しない範囲で行えば良いのでは無いでしょうか?
妥協出来ない場合は、交易や、交流を停止すれば良いのです。
過去の様に武力を以ってとか。誰が決めたか判らない、国際法とかで世界を縛り付けようとしていましたが、
巨大な軍事力や、経済力を以って、国際常識を勝手に作られてきた事に依って、世界が不幸に成ってきたように思います。
世界各地での民族は、それらの、限られた地域に於いて、自由に生活や文化を維持する事を認められるべきでは無いかと思います。
また、互いに侵害し合わない事を遵守し。合意できる内容についてのみ、交流を行えばよいでしょう。
外部からの、悪影響がない限り、其々の地域では、平和な社会が成り立っていくものと思います。
過去の、グローバル化、国際化の傾向は、全てと言っていいほど、独占化を目指しています。結果、独裁主義を認めてしまう結果と成ります。これらは、かってな主要国の、極一部の人達に依って行われてきている事に気が付く必要が有ると思います。
現在、進められている、様々な、国際化や、グローバル化の事について、皆さんは、聞かれましたか?
この様な国際化を行う事に対して、賛否の判断はされていないでしょう。
いつも、国際会議で決まりました。という姿勢では有りませんでしたか?
本来、民主主義は、有るルールを決めようとした時に、民衆の前に、提案をハッキリ提示し、相談の結果の合意の下でルール化すべきでは無いでしょうか?
どこぞの、知識人だとか、何処どこの教授だとか、何処どこの、経済人だとかの意見は、全く不要です。
それらは、彼らにとって、”都合の良い社会にしますよ”と自白しているようなものです。
契約の基本は、相互主義です、互いの合意の下で、はじめて有効です。
勝手に選ばれた、人選で、勝手に決められたルールに従う事がおかしいのでは無いでしょうか?
基本が、しっかり、維持できれば、世界は平和な社会が実現出来るものと思っています。
基本は、法では無く、道徳だと思います。
今、新しく世界が目指している、恒久社会は、法よりも、道徳を重視する社会だと思っています。
何故なら、世界に共通する認識だからです。
また、恒久を目指すと何故言えるかというと、道徳は、過去の実績で多くの人達に、いつも重要と認識されてきたからだと思います。
繰り返し言いますが、知識人や学者とされる人たちの肩書は、どうでも良いのです。所詮、誰かの都合で人為的に設定したものだからです。
長らく、平和に、外部に危害を加えず、地道に、生活を営んできた人達の考えや経験が、重要なのでは無いでしょうか?
2025年8月05日
本日も、”仮説・妄想”で考えてみます。
”常識と非常識”についてです。
先ず、AI による概要を見てみると
「常識」とは、社会生活を送る上で一般的に備わっている知識や判断力のことです。一方、「非常識」とは、常識から外れた行動や考え方を指します。両者の境界線は曖昧で、人によって、また時代や文化によって異なる場合があります。
と、定義されています。
人々が、日常に於いて物事を判断する、尺度の基準と成っています。
過去に得た知識や、経験が基本に成っています。人に依って、認識が異なるために相反する時も多々あります。
例えば、公共の空間にゴミを捨てるとか、排泄物を路上で行うか等で、各自の常識の認識に依って対応が異なります。
それも、文化の違いだから、容認しろと言われても、容認できるものではない事も存在します。
一定の文化水準を維持しようとした場合に、特定の区域では、特定のルールに従う必要が有ります。
誰でも何処でも、自由に何をしても良いことにしてしまった場合に、そのことを受け入れることが出来ない立場の人達に対してその事を受け入れろと強要する事は、他人の拒絶する自由を侵害する事に成るからです。
多文化共生や、他民族の受け入れの問題の場合に、いつも、受け入れ側が劣勢な立場に追いやられてしまう考えは、間違いなく間違っているでしょう。
不要な人は、来てほしくないのです。互いに互いを侵害しない事が大原則で、互いに、迷惑を及ぼさない様に注意すべき事では無いかと思います。これは、法律等よりも上位の、道徳に関する問題です。
巷で、”LGBT”や、夫婦別姓等について、話題が在りますが、もっと、道徳的な視線から考えるべきだと思います。末永く、多くの人が、平和な生活を維持するる事を考えると、必然的に答えは出てくるでしょう。
一部の、学者や知識人の見解は、あくまでも人為的に作られたものです。そんなものに振り回される必要は無いと思います。
人為的に、作られたものは、人為的に法律化され、将来の人々を拘束します。
その結果、特定の人達に有利な、社会をを目指されます。
むやみやたらに、立法化するのでは無く、必要最小限に留め、もっと上位の、道徳的な考えが適切にできる様に、訓練・教育するべきでは無いかと思います。
常識、非常識の感覚が余りにも異なる場合は、生活区域に制限を設け、外部に有害な影響を及ぼさない様にすれば、其々の地域で、自由に生活出来るでしょう。
交易や、交流については、双方が互いに相手に強要しない範囲で行えば良いのでは無いでしょうか?
妥協出来ない場合は、交易や、交流を停止すれば良いのです。
過去の様に武力を以ってとか。誰が決めたか判らない、国際法とかで世界を縛り付けようとしていましたが、
巨大な軍事力や、経済力を以って、国際常識を勝手に作られてきた事に依って、世界が不幸に成ってきたように思います。
世界各地での民族は、それらの、限られた地域に於いて、自由に生活や文化を維持する事を認められるべきでは無いかと思います。
また、互いに侵害し合わない事を遵守し。合意できる内容についてのみ、交流を行えばよいでしょう。
外部からの、悪影響がない限り、其々の地域では、平和な社会が成り立っていくものと思います。
過去の、グローバル化、国際化の傾向は、全てと言っていいほど、独占化を目指しています。結果、独裁主義を認めてしまう結果と成ります。これらは、かってな主要国の、極一部の人達に依って行われてきている事に気が付く必要が有ると思います。
現在、進められている、様々な、国際化や、グローバル化の事について、皆さんは、聞かれましたか?
この様な国際化を行う事に対して、賛否の判断はされていないでしょう。
いつも、国際会議で決まりました。という姿勢では有りませんでしたか?
本来、民主主義は、有るルールを決めようとした時に、民衆の前に、提案をハッキリ提示し、相談の結果の合意の下でルール化すべきでは無いでしょうか?
どこぞの、知識人だとか、何処どこの教授だとか、何処どこの、経済人だとかの意見は、全く不要です。
それらは、彼らにとって、”都合の良い社会にしますよ”と自白しているようなものです。
契約の基本は、相互主義です、互いの合意の下で、はじめて有効です。
勝手に選ばれた、人選で、勝手に決められたルールに従う事がおかしいのでは無いでしょうか?
基本が、しっかり、維持できれば、世界は平和な社会が実現出来るものと思っています。
基本は、法では無く、道徳だと思います。
今、新しく世界が目指している、恒久社会は、法よりも、道徳を重視する社会だと思っています。
何故なら、世界に共通する認識だからです。
また、恒久を目指すと何故言えるかというと、道徳は、過去の実績で多くの人達に、いつも重要と認識されてきたからだと思います。
繰り返し言いますが、知識人や学者とされる人たちの肩書は、どうでも良いのです。所詮、誰かの都合で人為的に設定したものだからです。
長らく、平和に、外部に危害を加えず、地道に、生活を営んできた人達の考えや経験が、重要なのでは無いでしょうか?
2025年8月05日
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