1960年代生まれの、音楽のメモ。

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「しんどい生き方助長」という「見方」に?

2017-04-27 20:15:02 | その他
「しんどい生き方助長」というこの記事の「見方」に違和感を感じる、凄まれて求められる方がしんどい、というお話。

「しんどい生き方助長」
  “「なぜ(女性が)男の需要に応えなければいけないのか」「女性差別だ」”
  ↑この「捉え方」に、違和感を感じる。

なぜなら、「なぜ私(集団なら私たち)をちやほやしない?!」と女の子(たち)から凄まれる(? ← いや、でも本当に)、生活上やっかいと感じる(ほどの)アピールを受ける、(行動の)邪魔(を)される(行く道を遮られる)、粘着してつきまとわれる、というのが生活実感だから。男性である自分の方が望んでいない時場合でも(反対にこちらは嫌がっているときでさえ)求められる、迷惑だ/嫌だといっている時場合でも求めてくるというのが生活実感だから。※ △

挙げられているCMが削除になるか存続になるかは興味ないけど、挙げられているその理由に違和感を感じて、ひとくさり考えた。

自分はこう思う。これは「なぜ(女性が)男の需要に応えなければいけないのか」という「こと」ではなくて、「女性(たち)が自分(たち)の欲望で苦しんでいる」「こと」である。
同じような苦しみは他にもあります。点を取りたいんだけど勉強はきついとか、お金を得たいんだけど働くのはつらいとか。そういう苦しみを、生きているだけでなんでこんなにつらいんだ!?と神に問うみたいな風に問うことは出来るけど、生きている人間のせいにするのはお門違いです。とりわけ、個々の生身の人間に対して(責任を押し付けるor復讐)するのは。

と思う。



※いまこの話、コミュニケーションがあって、恋愛関係になったその後の話とか、人間関係があって、両方に、いい関係になるんじゃないかなという予感が漂う間柄でのやり取りの話をしているのではないです。仕事場で同じ働く人としてだけ関係している間柄なのに「女の子」を声高に主張してくる人や、公共の場ですれ違っているだけの赤の他人なのに無理強いしてまで「求めてくる」人についての話です。つまり、コミュニケーションのある部分が欠けていて、一方的な願望を押し付けてくる人の話。無関係の状態から関係を持ちたい場合、または、仕事場や何かの集まりなどで関係がある者同士の場合は、何かを受け入れて欲しいときは、「もっと近くなりたい」「うん、いいよ or そこから先は受け入れられない(踏み込んで来ないでくれ)」という普通のコミュニケーションを重ねてもらわなければならないし、無関係のまま同士の場合は、どの個人もどの個人のにも奴隷にならないし、互いに人格を尊重した譲り合いですれ違ってもらわなければならない (※2)。相手の意思なんか無視 or 願望が現実にならない、キー!! と無理強い or くどく粘り着かれても困るのです(ちゃんとコミュニケーションをはかれば、受け入れてくれるかもしれません。断られるかもしれませんが)。

※2 共存していくために。共存バイオが発生するなら、それを是とするなら、帰結するところは互いの殺し合いである。そこまで行き着かなくても、殺伐とした空間(敵意の応酬)の社会、または全員同士の殺し合いを避ける機能として何かの差別が生まれることになる。


△ TPOまたは求められる方の意思・意向を、求める者が無視するふるまい。男も女もその他も、ストーキングするのは、欲しいんだけど手に入らないものがあるとき

本当に必要なことをじっくり考えていない。

2017-04-15 12:06:04 | その他
日本にも欧州にも「真の指導者」が欠けている という見方。

「私には日本と欧州の状況が似ているように思える」
ⅰ)「EUの指導部では明確で現実的な政治思想についての議論が行われていないと私は見ている」「欧州にとって真に必要なことをじっくり考えてきていない」
  「これは、まるで日本のようだ」
ⅱ)「EU」と「日本」の「どちらにも優れた官僚機構があるが真の政治の指導者がいない。米国との関係が強い点も似ている」
ⅲ)「EU」と「日本」の「双方とも言論空間の幅が狭い」「言論空間がメディアによって支配され、その大部分が決まり切ったことを言っている」
  「人々が本当に何に心を奪われているかを反映しない、表向きの言論となっている」
  日本にとって、あるいは「欧州にとって真に必要なことをじっくり考えてきていない。ここ15年ほど、特にそうだ」
  「このため」「世界に向けた『顔』を持つことができないでいる。『自分はこういう人間だ』と言えない。中身がないのだ」


言論について。

社会として人々が 共存(※) していくためには、「正しさ」 は/が 必要だ。

問題は、いま問題を引き起こしているのは、 「かっこ付きの『政治的正しさ』」 か
社会のなかで、どんな属性の人がどんな欲望あるいは不満を持っているのか、どんな属性の人がどんな属性の人にどんな加害をしているのか(それがどんなに酷いのか)、どんな属性の人がどんな属性の人からどんな被害を受けているのか(それがどんなにきついあるいは迷惑なのか)、という現実現場事実を視ない、既存の(?)言説に引っかからない部分(不都合な真実)はスルーしたうえで/目をそらしたうえで 「正しさ」を押し通(そうと)す(る)言説言論(=政治的正しさ) が問題、と。

少し前に流行った言葉でいえば、「事件(事実)は会議室で起こっているんじゃない、現場で起きているんだ」ということ、違う言い方をすれば、「茶の間で思い浮かべることと、実際に生身の人間として受ける場合」ということか。

※ まさに、共存。異なる属性、違う思い、違う利害をそれぞれ持っている人たちが同じ空間を生きて生活していくための。

差別や不公平について、「既存の言説」は、それが出たときには意味があったし、当初意味があった意味合いでは今も意味を持ち続ける。でも同時に、それらの言説によってまたは他の要因で社会が変化し、それらが出た当初とは社会とそれらの言説の関係、言説が持つ意味合いが違ってきている部分がある。言説を振り回す(?)価値にも変化した部分がある。そのような変化のなかで生まれたあるいは取り残された、以前苦しんでいて「既存の言説」によって救われた属性の人々、苦しんでいる/苦しめられている属性の人たちを救わなきゃならん(←なぜならその状態/状況は「正しく」ないから)と生まれた「既存の言説」 に 匹敵する 苦しんでいるんだけど救われていない/捕捉されていない在り方、明るみに出かかってきているいま苦しめられている存在 が無視できない状況になっている、でもその現実 に向き合う/を捕捉する 思想や哲学が生まれていない、言語化されていない、それが今日の問題ではないか、ということか。

社会の方々で、世の中のいろいろな場面で、上記のような、言説と現実の間の解離が生まれている「今」 ということか。
「人々が本当に何に心を奪われているか」を捕捉すること、「自己申告のフォーカスグループのデータだけに頼ることから来る落とし穴を避けて、人々が言うことと実際にやることとを結びつけ(※※)」たうえで、その違いをも視野・把握に入れた、現実に向き合う 言説・哲学・思想 が必要とされている、ということか。

※※ 1 : 人々が本当は何を欲して行動するかは、今は、広告や売れているもの がもっとも捕捉している?欲した先が「前向きな面(たとえば、『売れるもの』)」である面/場合は、売れ筋をそのまま見ればいい?欲した先が「後ろ向きな面(たとえば、他者の人格の無視)」である面/場合は、捕捉するには、哲学や思想の出番か。あるいは 広告や売れているもの を見るなら、売れ筋の裏面を見ればいい?

加害者の責任、傍観者という悪。

2017-04-05 20:11:06 | その他
大学に、性的暴力の加害者・被害者を生み出さないことはできるのか? ー 千田有紀さんのご記事から考えた


この記事↑は、加害者を「男性・集団やグループ」、事柄を「性暴力」、場所を「学校・大学」としているけれど、「欲望(一次・二次欲求)や(願いを叶えてくれない、願いが現実のものにならない)恨みに基づく行為(暴力・ハラスメント)全般」について、「性別・年齢・人種・個人か集団か」を問わず、社会の全ての場所で、当てはまると思います。

引き出してみると、

「傍観者が加害サイドの行為を黙認したり助長したりすること自体が悪」
「被害者の自己責任が厳しく問われ、よほどのことがなければ加害者は責任を問われず、まして傍観者の対応の落ち度が指摘されることはない」

組織や体制は

「不祥事は発生しないでほしい」と動く
「加害者と被害者がはっきりした不祥事であり、場合によってはクラス担任などの教員や大学の責任が問われるような出来事は、発生しないでほしい」と動く
「『問題というほどの問題は発生していなかった』『苦しめられた1人の問題であった』こそ、組織として望まれがちな解決」
「残念ながら、これが日本の」「現状」

欲望の的、恨みの対象になった者からしてみれば

「『不利な状況の人(自ら陥ったかもしれない)の自己責任を問わず、加害者に対しては“その行動を選択した”という責任を厳しく問い、傍観者にも一定の責任を問う』」を原則とすること
「まず目指すところは」「暴力的行為を、『被害者の自己責任』としないこと」

です。

これは、閉じた集団のなかだけではなく、開かれた公共の場でも同じですよね。


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2017年5月12日追記。

原文を読んだ。
いろいろ思うところある一文でした。

ただ、

“加害者にならないためになによりも重要なことは、「同意をとること」です”
“いつどこで相手が、「イエス」といったのか。
それが証明できれば、加害者であるとはいわれないでしょう。
もちろん、イエスといった相手も、「それ以上は嫌だ」ということがあるでしょう。一度イエスといったからといって、ずっとイエスとは限りません。
ですからつねに、相手の意向を気にし続ける必要があります”
“それは「加害者」とされてしまう側が、身を守ることにもつながります”

↑上記の1点 について(は)、とても同意した。老若男女問わず、心に留める(べき)ことです、加害者にならないために。

人間として、

「相手の意思を無視して人に対して何かすること」が、人と人の関係における「悪の根源」だから。「相手の意思を無視して人に何かしていいと思うこと」が、「悪そのもの」「悪それ自体」だから。

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そう言うのなら