1960年代生まれの、音楽のメモ。

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本当に必要なことをじっくり考えていない。

2017-04-15 12:06:04 | その他
日本にも欧州にも「真の指導者」が欠けている という見方。

「私には日本と欧州の状況が似ているように思える」
ⅰ)「EUの指導部では明確で現実的な政治思想についての議論が行われていないと私は見ている」「欧州にとって真に必要なことをじっくり考えてきていない」
  「これは、まるで日本のようだ」
ⅱ)「EU」と「日本」の「どちらにも優れた官僚機構があるが真の政治の指導者がいない。米国との関係が強い点も似ている」
ⅲ)「EU」と「日本」の「双方とも言論空間の幅が狭い」「言論空間がメディアによって支配され、その大部分が決まり切ったことを言っている」
  「人々が本当に何に心を奪われているかを反映しない、表向きの言論となっている」
  日本にとって、あるいは「欧州にとって真に必要なことをじっくり考えてきていない。ここ15年ほど、特にそうだ」
  「このため」「世界に向けた『顔』を持つことができないでいる。『自分はこういう人間だ』と言えない。中身がないのだ」


言論について。

社会として人々が 共存(※) していくためには、「正しさ」 は/が 必要だ。

問題は、いま問題を引き起こしているのは、 「かっこ付きの『政治的正しさ』」 か
社会のなかで、どんな属性の人がどんな欲望あるいは不満を持っているのか、どんな属性の人がどんな属性の人にどんな加害をしているのか(それがどんなに酷いのか)、どんな属性の人がどんな属性の人からどんな被害を受けているのか(それがどんなにきついあるいは迷惑なのか)、という現実現場事実を視ない、既存の(?)言説に引っかからない部分(不都合な真実)はスルーしたうえで/目をそらしたうえで 「正しさ」を押し通(そうと)す(る)言説言論(=政治的正しさ) が問題、と。

少し前に流行った言葉でいえば、「事件(事実)は会議室で起こっているんじゃない、現場で起きているんだ」ということ、違う言い方をすれば、「茶の間で思い浮かべることと、実際に生身の人間として受ける場合」ということか。

※ まさに、共存。異なる属性、違う思い、違う利害をそれぞれ持っている人たちが同じ空間を生きて生活していくための。

差別や不公平について、「既存の言説」は、それが出たときには意味があったし、当初意味があった意味合いでは今も意味を持ち続ける。でも同時に、それらの言説によってまたは他の要因で社会が変化し、それらが出た当初とは社会とそれらの言説の関係、言説が持つ意味合いが違ってきている部分がある。言説を振り回す(?)価値にも変化した部分がある。そのような変化のなかで生まれたあるいは取り残された、以前苦しんでいて「既存の言説」によって救われた属性の人々、苦しんでいる/苦しめられている属性の人たちを救わなきゃならん(←なぜならその状態/状況は「正しく」ないから)と生まれた「既存の言説」 に 匹敵する 苦しんでいるんだけど救われていない/捕捉されていない在り方、明るみに出かかってきているいま苦しめられている存在 が無視できない状況になっている、でもその現実 に向き合う/を捕捉する 思想や哲学が生まれていない、言語化されていない、それが今日の問題ではないか、ということか。

社会の方々で、世の中のいろいろな場面で、上記のような、言説と現実の間の解離が生まれている「今」 ということか。
「人々が本当に何に心を奪われているか」を捕捉すること、「自己申告のフォーカスグループのデータだけに頼ることから来る落とし穴を避けて、人々が言うことと実際にやることとを結びつけ(※※)」たうえで、その違いをも視野・把握に入れた、現実に向き合う 言説・哲学・思想 が必要とされている、ということか。

※※ 1 : 人々が本当は何を欲して行動するかは、今は、広告や売れているもの がもっとも捕捉している?欲した先が「前向きな面(たとえば、『売れるもの』)」である面/場合は、売れ筋をそのまま見ればいい?欲した先が「後ろ向きな面(たとえば、他者の人格の無視)」である面/場合は、捕捉するには、哲学や思想の出番か。あるいは 広告や売れているもの を見るなら、売れ筋の裏面を見ればいい?


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