マイ・フェイバリット・ミュージック~気になる1曲

日々の生活の中で出会った音楽、ふと耳にしたメロディ・・・そんな気になる1曲。【現在更新を停止中!また再開の予定】

エルビス・プレスリー「この胸のときめきを」

2008年07月29日 | Weblog
ロックンロールの草創期に「ハートブレイクホテル」で鮮烈なデビューを果たしたプレスリーは、一時期なりを潜める時期があった。一説には肥満により音楽活動が出来なくなった、という話もあったが、1970年になって、ハワイでの「エルビス・オン・ステージ」が全世界に衛星中継され再び世に出ることとなった。その時に歌っていたのがこのバラードだ。「When I say I need you~」という歌いだしで、そこから伴奏がはじまり、そして美しいメロディへと続くバラードだ。名曲といってもよい。そして多くのボーカリストがカバーしている。

プレスリーのデビュー当時はリーゼント、皮ジャン、ロカビリー、といった言葉が似合う時代だったが、この「エルビス・オン・ステージ」からは、上下真っ白の飾り立てた衣装、オーバーアクション、エンターテイメントというイメージのプレスリーになった。僕はこのプレスリーがとてもかっこいい、と感じた。そしていつかプレスリーのような衣装を着て、ステージに立ってみたいと思った。

その夢は案外早くやってきた。1973年だったろう、高校3年のときの学園祭で、以前この日記に書いた、サックスと合わせたバンドでステージの出演が決まった。そして1曲、僕のパフォーマンスをすることとなった。迷わずプレスリーをしようと思った。歌う曲はもちろん「この胸のときめきを」のはずであったが、僕自身の歌唱力不足、英語力不足により、結局、同時期に流行していた「バーニング・ラブ」になった。こちらの曲の方はアップテンポで、歌詞も憶えやすかった。衣装は「トレパン」と呼ばれていた上下白のトレーニングウェア(今、こんなダサい体操着はないだろう)に、バンドメンバーでピアノ担当の女の子(美術部)が、金色の大きなボタンとか、腰に巻く鎖のようなものまでを作ってくれて飾りつけた。あとストレートのズボンを広げ、ややラッパズボンのような仕様にした。これでにわかプレスリーが出来上がった。そしてサングラスをかけた(が、僕はメガネをかけている関係で、サングラス着用中は周りがまったく見えなかった)。

当日はクラスの皆も応援に来てくれて、その時ばかりは、プレスリーのようなエンターテイナーの気分であった。懐かしい思い出であり、プレスリーの名前が出ると思い出すのである。


PPM「風に吹かれて」

2008年07月28日 | Weblog
ずいぶん以前に「金曜日の妻たちへ」というテレビドラマが何シリーズかあった。「金妻」と略称してブームになった。その何回目かのシリーズのテーマソングがPPMの「風に吹かれて」であった。ドラマは不倫、浮気、家庭崩壊、といったドロドロとしたテーマだったが、テーマソングが爽やかで軽い感じなので、見る者に明るく健全な印象を与えていたのではなかったかと思う。

PPMは、女性ボーカル(マリー)に、男性二人(ピーターとポール)のギターとウッドベースの3人編成のバンドだ。最小限の演奏楽器、コーラスアレンジで、ソロとは一味違う、リズミカルでハーモニー重視の演奏を聴かせてくれた。1960年代のフォークソングのブーム以降も、日本でも根強い人気があり、時折テレビの音楽番組(ミュージックフェア)などでも、その姿を見ることがあった。

この曲は言わずと知れたボブ・ディランの名曲だ。一見すると自然を歌った曲かと思うが、ディラン特有の風刺を利かせた反戦歌である。当時のフォークソングは、プロテストソングと呼ばれるのが普通で、ジョーン・バエズしかり、PPMしかり、曲調やタイトルにストレートな表現はないものの、ほとんどが反戦歌だった。ディランのオリジナルの個性的な歌い方と比べPPMの「風に吹かれて」は、メロディをしっかりとアップテンポで歌い上げている。「金妻」にディランのバージョンを使っていたら恐らくかなり重々しいドラマに仕上がっていたことと思う。


ビル・ウィザース「LEAN ON ME」

2008年07月24日 | Weblog
ビル・ウィザースは1971年にデビューした息の長いボーカリストである。1972年にこの「リーン・オン・ミー」がヒット後は、グローヴァー・ワシントンJr.、クルセダースなどのボーカリストをつとめていた。

この曲は、1987年にクラブ・ヌーボーの手により、カバー曲として全米1位のヒットになっている。僕としては、このリバイバルよりも、日本人歌手によるカバー曲として知ることとなった。それは、東京で「下北沢のジャニス(=ジャニス・ジョプリン)」と言われていた金子マリによるものだった。しかも日本語バージョンだった。

何年か前、BSのWOWOWで「ザ・レコーディング」という番組があった。キーボード&アレンジに井上鑑、ドラムスに村上ポンタ秀一、ギターに大村憲司、ベースに速水健二、ピアノに中西康晴、コーラスにチャカ(PYS)といったミュージシャンが、毎回、ゲストを呼び、主にカバー曲をレコーディングするという番組で、以前、「喜びの世界」の時にも話題にした番組である。金子マリがゲストのとき、この「リーン・オン・ミー」だった。

Lean on me
弱気な時、教えてよ、ここに居るよ
いつもさ、明日は来る、信じて傷ついても
道は、振り向いた時を越え続いている
今も、気がつけば、夕闇に落ちる夕日
誰でも同じさ、歩いてゆく
つまずき、笑い、悲しみ
私でよければ、真夜中でも
考えてばかり、いないで
Lean on me
弱気な時、話してよ、ここに居るよ
いつもさ、明日は来る、信じて傷ついても
誰でも同じさ、続けてゆく
苦しみ、悩み、悲しみ
私でよければ、真夜中でも
くよくよばかりしないで
Lean on me
弱気な時、話してよ、ここに居るよ
いつもさ、明日は来る、信じて笑顔みせて
Call me,Call me,・・・・・

この歌詞、歌の本に載っていたものではない。そのテレビ番組を録画して、必死で紙に書き写したものだ。そしてコードをつけて、自身のバンドで数年前に演奏した。もともとはビル・ウィザースの曲なので、またいつか演奏するときは、英語でも歌えるようにしたいものだ。

ドーン「ノックは3回」

2008年07月20日 | Weblog
ドーンというグループがどういう経歴を持っていたのか知らないが、この曲は結構ヒットした。曲中にノックをする表現として打楽器でブレイクするところが印象的(コン・コン・コン)。1971年のヒット曲。

高校時代、エレキ・ギターを弾くようになって、サックスを吹いている吹奏楽部の友人(女の子)と何か合わせよう、ということになった。何曲かギターを伴奏に吹いてもらった。その後、二人だけではおもしろくないので、ベースとドラムスを入れ、学園祭で演奏しようということになった。そのときに取り上げた1曲がこの曲だった。歌なしで、サックスだけのメロディなので、今から思うとダサい演奏だった。けれども、このとき、楽器にはキーというものがある(アルトサックスは確かB♭)ことが分かったり、出来るだけオリジナルな演奏となるよう、ベースだけは、ドーンの楽譜どおりに弾いてもらったり、いろいろ勉強になった。

ドーンはその後、「幸せの黄色いリボン」など何曲か出していたと思う。どれも、牧歌的というか、楽しい感じの曲ばかりであった。今の時代から見れば、パッとしないものだが、あらためて聴いたりすれば、懐かしい曲だ。サックスを吹いていた彼女は今どうしているんだろう。

ジョーン・バエズ「勝利を我らに」

2008年07月18日 | Weblog
ボブ・ディランが初めて大衆の前に姿をあらわしたコンサート、たぶんウッド・ストック・コンサートで彼を紹介したのがジョーン・バエズだったと記憶する。だからディランよりも先輩格になるのだが、彼女の名前は、今の人々からは忘れられているのではないだろうか。「風に吹かれて」「フォーチュン」「ドナドナ」などを歌って、1960年代のフォークといえば、この人、という存在であった。ちなみにその日本版シンガーが森山良子と言われていた。

ジョーン・バエズを知ったのは、中学生のときだった。教育実習の先生(大学生だったのだが僕らにとっては先生)が、英語の時間に持参したレコードを聴かせてくれたのがこの「勝利を我らに」だった。We Shall Over Come という歌詞が連呼される、とても力強い曲だった。いっぺんにこの曲が好きになり、何度も鼻歌で歌うほどほれ込んだ。そしてギターを弾くきっかけにもなった。

中学2年生か3年生の時だったのだろう、僕が赤白の2組に分かれた体育祭の応援団になったとき(どっちの組かはもう忘れた)、迷わずこの「We Shall Over Come 」を応援歌にして、みんなに歌唱指導をした恥ずかしい記憶がよみがえる。もともとは労働者の階級闘争の勝利を願った、まあいわば暗いテーマの歌だったのだろうが、そんなことは中学生の僕にはまだ理解するところではなかった。歌の題名とメロディの力強さが、応援歌に合っていると思ったのである。また英語の歌を使ったことで、ちょっといままでにはないだろう、という自己満足もあったのだろう。今考えるとやることがダサくてこっ恥ずかしい想い出ではあるが、初々しい純な心意気もあったのだと思う。

ボブ・ディラン「コーヒーもう一杯」

2008年07月17日 | Weblog
1978年2月26日(日)は、僕にとって忘れられない日となった。ウッドストックコンサートで衝撃的デビューを果たしたボブ・ディランをナマで見、その声をナマで聴いた日であるからだ。このときのコンサートチケットをなぜか今も持っている(学生時代、壁に貼り付けたりピンで止めたりした変遷を経て、今はこの時の東京公演の模様を収録した2枚組アルバムに入れている)。そのチケットには日付とともに「松下体育館」「主催・毎日放送」「3階N列91番」「S¥4500」というクレジットが記されている。ちょうど僕は大学3回生のころだった。

松下体育館へは京阪電車の枚方駅で下車して行った。詳しい道のりは憶えていないが、とにかくボブ・ディランである。ほとんどの人の波が、その方向へ向かっていた。そしてチケットにクレジットされた3階席は、途方も無くステージからは遠かった。いよいよディランが現れた。豆粒のような大きさであった。双眼鏡など持っていかなかったので、どんな表情をしているのか、まったく分かり様がなかった。それでも、あの偉大なるシンガー、ボブ・ディランがこの場に居て、歌を歌っている、という事実だけで、満足していた。1曲目は何だっただろう、「風に吹かれて」だったかもしれない。が、会場ではブーイングのような声が漏れ聞こえた。曲のアレンジがもとの曲からすれば、かなり大幅になされていて、ちょっと聴いただけでは、何の曲かわからなかった。いつものアレンジを期待していた客はそのギャップにブーイングしたのだと思う。

この「コーヒーもう一杯」は、日本公演の前に出されたアルバム「欲望」に収められていた曲で、公演の前にもヒットしていた曲である(この公演時にはこれまたかなりアレンジが変えてあった)。

この公演の前、京都駅の構内にディランの日本公演のでっかいポスターが貼られていた(通常のポスターの2枚分の大きさで「ディランに逢ったらよろしく」と書かれていた、ハッキリ憶えている)。それを見つけたとき、このポスターが欲しい、と思ったのだが、なにぶん根がまじめで、その足で駅長室へ行き、掲示期間終了後にもらう手続きをしたのである。ところが世の中そんなに甘くはなかった。その手続きをした翌日には、既に何者か(まあファンだろうが)によって持ち去られいた。昨日の時点で、自分も失敬しておけばよかったのに・・・。その時一緒にいた友人も同じことを言った。とてもくやしかった。

カーペンターズ「愛のプレリュード」

2008年07月16日 | Weblog
英語題「We've Only Just Begun」。一時、ウェディングソングの定番だったようだが、今はあまり使われないか(「愛と青春の旅立ち」・・これも古いか)。カーペンターズの3枚目のシングルヒット曲となる。

以前、職場にピアノおよびキーボードのすごく上手い女性がいた。僕がバンドを始めたころ、何度か一緒にやったことがある。ある年の年末に職員の忘年会があり、彼女のキーボード演奏というコーナーが余興としてあった。1曲は打ち込み伴奏入りのフュージョンぽいインストルメンタルナンバー、2曲目にこの「愛のプレリュード」だった。そしてボーカルとして、僕がシャシャリ出ることになった(なってしまった)。選曲は彼女の方からの申し出で、僕は初チャレンジの曲を必死で練習した。しかし、この曲はけっこう「ため」があり、難しかった。しかし、そこはボーカルといってもキーボード演奏のつまのようなもの、その演奏の方を際立たせる結果となったのは言うまでも無い。この曲にはそんな想い出がある。

ボ・ガンボス「さかなごっこ」

2008年07月15日 | Weblog
京都出身のロックンロールバンド、とでも言っておけばいいのか。ロックに限らずソウルやブルース、ファンクといったジャンルをこなす。残念なことに、メインボーカルでリーダーのどんとさんは、数年前に急逝した。本当に急だった。確かハワイかどこかで・・・。残念。

この「さかなごっこ」は正真正銘のロックンロールだ。どんとのファンキーなピアノが存分にフィーチャーされたノリノリの曲である。そして楽しい。ついからだが動く。文句なしに楽しい曲。

ボ・ガンボスは、アメリカのブルースシンガーのボ・ディドリーにちなんで付けられた名前だ(と何かで聞いた、で、先日ボ・ディドリーは亡くなったのであるが、きっとどんとと天国でブルースのセッションをしているんだろう)。そのボ・ディドリーが来日したとき、ボ・ガンボスが前座をつとめたはずだ。このバンドの前身は、ローザ・ルクセンブルクというサイケデリックなバンドだった。レコードも数枚出ているのでアンダーグラウンドなバンドに詳しい人なら知っている人も多いはず。僕は、ローザの時代、今から15年以上も前だろうか、京都市内のライブハウスで何回か見たことがある。北白川通りにあったCBGBというライブハウス。ここは昔サーカスサーカスという名で、御大、上田正樹とかウエストロードなんかがよく出演していた。今はどうなっているのかまったく知らない。そこで、ローザの演奏を聴いた。しかしあまり印象はない。やはりボ・ガンボスでメジャーデビューして、野外ライブなどに出てからの印象が強烈だったこともあるのだろう。

そんな彼らの代表曲がこの「さかなごっこ」だ。余談だが、ローザはみんな京都大学(天下の国立大学)の学生だったはずで、みんな頭いいはずなのに、ステージではそんな風にはぜんぜん見えなかった。あのころの京都の音楽シーンにはいろんな人が居たのである。まあ続きは後日ということで。

カーペンターズ「遥かなる影」

2008年07月14日 | Weblog
カーペンターズは1969年にビートルズのカバー「涙の乗車券」でデビューした兄妹デュオグループ。兄のリチャードはピアノ、妹のカレンはドラムスという楽器を担当しつつ、メインは二人のハーモニー。1970年代に多数のヒット曲を出している。

2ndシングルがこの「遥かなる影(They Long To Be Close To You)」である。1970年のヒット。このブログの記事にもたびたび登場する大阪万博のあった年である。「涙の乗車券」に比べると、かなり暗い曲調である。おそらくヒット当初、中学生の僕には、その良さを十分に理解出来なかったことと思う。しかしヒット曲は、ラジオを聴いていれば常に流れてくるものだ。自然とこの曲に慣らされていったのも事実で、今でもこのメロディは、何かの拍子で口をついて出てくるし、当時の懐かしい風景も同時によみがえる。切々と歌う、という形容がふさわしいかどうか分からないが、カーペンターズのたくさんのヒット曲の中でも名曲と言ってもいいのではないだろうか。

1983年、妹のカレンは帰らぬ人となる。当時、カレンは結婚をしていたと思うが、兄との関係とか、そのことから生じた拒食症という病、ビッグアーティストとしての負担、等々、何かと噂があったが、あの聴くものを魅了する美しい歌声はもう生では聴くことが出来ない。しかし、残された楽曲の数々は、20世紀を代表する曲として、これからも消えることはない。


イーグルス「ホテル・カリフォルニア」

2008年07月10日 | Weblog
アメリカ建国200年の年にあたる1976年のヒット曲。解説によると、このレコーディングに、合計11本のギターがオーバーダビングされていたとか。

当時、僕は大学2回生だった(関西では学年を「なん回生」と呼ぶ)。そしてこの曲をよくラジオで聴いていた。何度聴いても飽きのこない曲だ。ギターソロのところなんか、こんなん僕にも弾ければなぁ、などと思っていた。ある時、ヒットチャートの番組だったと思う、番組のパーソナリティの湯川れい子さんが、この曲を紹介するときに「アメリカはこれでいいのか、これからどうなるんだ」という内容の話をしたことを鮮明に覚えている。僕には、この曲は大ヒットしたし、陽気なアメリカのウェストコースト・サウンドというイメージがあった。しかし実はそうではなかったようだ。ただ、歌詞(日本語訳)を見ても、そのような感じはしなかったのも事実であった。

ホテル・カリフォルニアへようこそ
ここは素敵なところ
ホテル・カリフォルニアは
いつでもあなたの訪れを待っています

というのが最初の「さび」の部分だ。この曲の歌詞は、ハイウェイを旅する客がカリフォルニアホテルへ宿泊し、そこでのもてなしや、ホテルでの見聞きし、感じることを綴っている。しかしよく見てみると、後段部分の歌詞にちょっと気になる箇所があった。

天井には鏡を張り詰め
氷の上にはピンクのシャンペン
「ここにいるのは自分の企(たくら)みのために
囚(とら)われの身となっている人ばかり」
と彼女は語る
やがて大広間では祝宴の準備が整った
集まった人々は鋭いナイフで獣を突くが
誰も殺すことは出来なかった

最後に憶えていることは
僕が出口を求めて走りまわっていることだ
前の場所に戻る通路が
どこかにきっとあるはずだ
すると夜警が言った
「落ち着きなさい
我々はここに住み着く運命なのだ
いつでもチェックアウトできるが
ここを立ち去ることは出来ない」

1976年は、まだベトナム戦争の後遺症にアメリカ全土の若者が失望感を抱かされていた頃である。そんな病んだ国民をよそに、国の方では建国200年を祝っている。若者たちには、その祝宴になかなか共感できない気分があった。本当にこの国はこのままでいいんだろうか、というのが、この曲に込められたメッセージだったのだろう。つまりはカリフォルニアホテルは、アメリカ合衆国のことを言っていたのだった。湯川れい子さんの曲目説明は、そのことを言っていたのだ、ということが、ずっと後になってから分かったのである。

この曲のヒットも手伝って、同時期、日本人のアメリカ西海岸への渡航が飛躍的に伸びたらしい。しかしながらこの「ホテル・カリフォルニア」の歌詞の意味を何人の日本人が理解していたことだろう。