コラム「ひびき」  ☆☆お堀端クリニック☆☆

小田原市お堀端通りにある神経内科クリニックです。
折に触れて、ちょっとした話題、雑感を発信いたします。

鉄砲水

2012年05月24日 | コラム
下手をすれば死んでいたかもしれない、という経験を少なくとも三度ほどしたことがあります。すべて、山登りでの出来事です。一度目は、谷川岳の笹穴沢を遡行していて、同僚がスラブ滝から滑落し、滝上でビバークを余儀なくされた時。二度目は、大台ヶ原の大杉谷で、思いがけない残雪に閉じ込められ、眠り込んでしまったところを巡視の営林署職員に発見され、揺り起こされて一命を取り留めた時。そして、三度目は白神山地の赤石川での出来事です。
青森・秋田県境に横たわる白神山地は、ほとんど手つかずのブナの原生林と複雑な地形を縫うように走る水量豊かな大渓谷の世界です。尺イワナを求めて、一週間かけて源流域まで遡行しました。数日間の雨降りの間も、ずぶ濡れになり、アブの猛攻撃を必死で耐えながら、ひたすら毛針を打ち込んで、想像を絶する釣果をあげました。もう釣ることにも飽きてきた何日目かの朝のことです。偽りの晴天にすっかりだまされて、早めの撤収のタイミングを失い、巨大な鉄砲水におそわれました。数日来の降雨をせき止めた土砂が、ゴーゴーと押し出されるすざまじい轟音とともに、渓相が一変しました。水位は十倍近くに達しました。必死に逃げ切ろうとしましたが、ついに両岸が垂直に切り立って、谷が漏斗のように狭まったゴルジュで進退窮まってしまいました。上へ上へと追い上げられ、かろうじて両足を置くことが出来る岸壁の岩棚に立ち、その日の午前五時から翌日の午前七時まで、丸一日以上踏ん張りました。
何もすることがなく、ただただ水位の下がるのを待つうちに、死や闇の恐怖、寒さも忘れて、岸壁から釣り糸を垂れていました。激流の中にわずかばかり残された、岩陰の淀みで魚信を待ちました。そして、こんな時にもイワナは釣れるのです。次の瞬間、濁流に翻弄されて一気に流されてしまうかも知れないイワナの、採餌本能は健在だったのです。翌朝、半分ほどに水位の下がった奔流に、ザックを浮き袋代わりにして飛び込みました。あとは流されるまま、渓谷の最狭部を突破し、帰還しました。
ずいぶん昔の話です。医者になり立ての頃の、やっともらえた一週間の夏休みの顛末です。その頃と比べると、二十キロほども体重が増えてしまいました。だから、今はどこに出かけなくても、自然の脅威にさらされなくても、やはり同じように、十分に生命の危険はあるのかも知れません。いろんな意味で、身軽さを取り戻したいものだと思います。



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