第二次世界大戦中、アメリカ市民の大部分は、今のわれわれよりはるかに文化レベルの高い生活をしていました。
ウィリアム・ワイラーが終戦の翌年に作った、我等の生涯の最良の年、では空き地に無造作に並べられ解体の順番を待つB-29の光景がわずかに前年まで戦争をしていたことを思い起こさせるだけです。作中で、ジャップ、ジャップと連呼する帰還兵たちの社会復帰を描くこの映画の社会風景はその当時の日本の泥沼とはいかにかけ離れていたことかと嘆息します。内戦をのぞけば、アメリカ本土は空爆にさらされたことすらないし、外国の軍隊を交えた戦場になったこともありません。
太平洋のどこかで、戦争をしているらしい、だれだれさんの息子さんは運悪くその戦争で死んだらしい、新型爆弾が日本のどこかでうまく爆発したらしい、一般の市民の多くはそんな感覚につつまれて生活していたに違いありません。
どんなに大きな歴史上の出来事でも、渦中の人々はごくわずかで、全体から見れば非常に小さな部分で、何事かが起こって進行しているのです。そこから少しでも外れていれば、今まで通りの日常があるし、誰ひとりその異常な小さな部分にも気づきません。
しかし、ふとしたことでそのただならぬ状況、時代の変化に気づいたときには、脱することができない渦の中に放り込まれているのです。
今回のコロナ禍は、感染全体の歴史をのちに俯瞰して見れば、われわれはまだほんの初期段階にいるに違いありません。そして、感染拡大のスピードを容易にコントロールできないのは、人が誰でももっている慣性、いつまでも同じペースで物事は進行し、同じ明日が来るに違いないと信ずる根拠のない迷妄に拠っています。受け入れたくない大きな変化をとおくの出来事としてとらえようとするのです。
誰の裡にもある、恐怖に潰されることなく、しかも鋭敏に変化を感じ対処する能力がためされている刻に違いありません。