コラム「ひびき」  ☆☆お堀端クリニック☆☆

小田原市お堀端通りにある神経内科クリニックです。
折に触れて、ちょっとした話題、雑感を発信いたします。

追悼 篠原寛休先生

2012年12月15日 | 診療
たいへんご恩のある、篠原寛休先生が、12月9日、くも膜下出血のため急逝されました。謹んでお悔やみ申し上げます。
松戸市立病院神経内科に在職中の2年半、院長を務めておられた篠原先生には、いろいろとご迷惑ばかりおかけしました。
ある年、千葉県下では、大学病院と松戸市立病院に、重点的に監査がはいりました。予め、指名された患者さんのリストに、私が救急外来で拝見した肝性脳症の方が含まれていました。担当医として、2人一組で訪れた監査の担当者に、治療内容を説明する役目を仰せつかりました。
会議室で、両脇を診療部長に挟まれて、救急室での処置について、一通り説明いたしました。それに対して、明らかに厚生省(厚労省)の若いキャリアとおぼしき方から質問がありました。
「血液検査についておたずねします。一般生化学検査で、肝機能をチェックすることは良いとして、同時にアンモニアも測定するのは、いかがなものでしょうか。まず、肝機能障害があることを確認した後、それにともなって高アンモニア血症が疑われる場合に、アンモニア測定のための採血を追加すべきではないでしょうか」
「救急室に来られた患者さんは、日常的にかなりの飲酒をされていることを同伴された家族から聴取しています。意識障害が明らかでした。診察では、羽ばたき振戦を認めました。代謝性脳症が強く疑われ、飲酒に関連する可能性が高いと判断いたしました。一刻も早くアミノレバンなどの点滴による治療が効果的と考え、アンモニア濃度も同時に知るべきと考えました」
「状況から、考えられる検査を同時になんでもかんでもやってしまうというのは、保険診療の考えになじみません、いかがですか」
何をいっているんだろう、このお役人は、と感じました。私は自分の説明が間違っているとは思いませんでしたし、役人もまた然り。平行線をたどり、同じような説明、意見を双方述べ合ううちに、このお役人のあまりの非常識さに、腹立たしさがこみ上げてきました。同時に、私たちが常日頃、松戸市立病院で行っている診療が、保健診療として不適切で、やってはならないことをやっているかのような口吻に聞こえました。ひどい、侮辱を受けたように感じました。それでも、両側の部長たちは、だまって憮然としていました。もうこれ以上、楯突いてはいけないのかと思いましたが、何度かの押し問答の末、ついに我慢の限界を超えてしまいました。大きな会議室全体に響き渡る位、大声で怒鳴ってしまいました。
「わかりました、ではひとつおたずねします、もしこの男性があなたの父親だったらどうします。やはり、そんな悠長に構えてひとつひとつ検査をしていきますか。その間、どんどん状態は悪くなるのですよ。もし、そうするというのなら、あなたの言に従います。そういう状況であなたならどうするかお答えください」
両脇の診療部長が心持ち体をすり寄せてくるのが分かりました。「よせ!」という合図の様でした。本当に、ずいぶん長い沈黙があったように感じました。次に口を開いたのは、厚生省の若い役人とペアで眼前に鎮座していた、学識経験者とおぼしき年配の委員でした。
「臨床の現場では、こういう状況もあると思いますよ、まあ許容範囲ではないでしょうか」
その後、キャリアは一言もコメントしませんでした。私は、目の前が真っ暗になるのを感じました。ああ、我慢できずにやってしまった。
長い病院監査の一日が終わり、夕刻、職員一同は、会議室に集められました。篠原院長から、講評をお聞きするためでした。私は、できれば逃げてしまいたいと思いました。私ひとりの我慢のなさで、病院全体の評価を落としてしまったのではないかと、鉛のように重く動かしづらい足を引きずって、もう一度会議室に、しかも目立たない、一番後ろの角に悄然と立っていました。篠原先生の講評は、極めて短いものでした。細かな注意点は、もうボーっとして頭に入りません。最後に、「おおむね、無事におわりました、一部元気な者もいましたが...」という言葉だけがかろうじて耳に届きました。
講評の後、私は、無礼な態度をとったことを謝るつもりで、一人、院長室に向かいました。篠原先生は、帰り支度をなさっていました。
「今日は、申し訳ありませんでした。何だか、一所懸命やっている、この病院の全員がダメなんだと非難されたようで、我慢の限界でした」
先生は、いつもの穏やかな笑顔をなさったように見えました。
「何のことだ、気にすることはありません、今日はご苦労様でした」
私は、もう100%泣き出したい気分でした。ああ、本当にまだまだ修行が足りない、「申し訳ありませんでした」、と言うだけが精一杯で、院長室を駆け出しました。
その日以降、院内で篠原院長にお会いする度、先生はいつも、「元気でやっているか?」と声をかけてくださいました。
その後、学位のための基礎研究を始めました。日中、病院勤務をし、夕方から白金の公衆衛生院で実験をするようになりました。実験を終えて夜遅く、病院脇の官舎に戻ると、病棟の患者さんが急変した知らせが届くこともありました。そんな日は、次の朝までおつきあいです。だんだん、体力の限界を感じるようになり、学位もきちんと取りたいと思い、市立病院を去る決意をしました。
市立病院での最後の日、院長室に挨拶に行きました。篠原先生は、いつもの笑顔で、最後にこんなことを話されました。
「若い頃は誰でも、未知のもの、遠い世界に、価値のあるものがある、と思いがちです。けれど、いろんなことを経験するうちに、だんだん分かってくるのですが、本当に意味のあること、かけがえのないものは、意外と身近に、それこそ足元にあるものです。まあ、体に気をつけて頑張ってください」
先生は、一所懸命に、もう少し続けなさい、と諭しているようでした。
いま、この時の先生のお言葉が少し分かる段階になったように思います。
先生のご冥福を心よりお祈りし、感謝申し上げます、ありがとうございました。






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