かつて、私はケヴィン・クラインという俳優が出演した、映画『海辺の家』についてのレヴューを書きました。
今夜も、同じくケヴィン主演の映画についてです。
『The Emperor's Club』(邦題:『卒業の朝』)
2002年、全米公開。2003年、日本公開。
2004年12月、DVD日本リリース。
(画像は、Movie,The Emperor's Clubより転載)
舞台は、学校です。いや、学園といったほうがよいのだろうか。
アメリカ合衆国の名門校、聖ベネディクト男子校で世界史(作中では、むしろローマ史オンリー)を教えるウィリアム・ハンダード(K.クライン)。
彼は熱意を以って、生徒に歴史を教えている良い教師。その勤勉さと忍耐と情愛を以って、生徒からも尊敬されている。
ローマ史をとおして、生徒達に人間性を磨くように示唆し、生徒達は彼の授業をとおしてそれを実現しつつあった。
彼らの目の前に、カリスマ反逆生徒セジウィック・ベルが転校してくる。彼らの風景は一変する。
ハンダードを茶化すは、授業の邪魔はする。
寮内に、御禁制のポルノ雑誌を持ち込むわ、川を挟んでお隣の女学校に忍び込んで、女子の前で裸になるわ…。
ハンダードは、彼の父親である上院議員(下院だったか?)に直談判するが、その結果、セジウィックが『荒れた』のは、父親や家庭に原因があったからか・・・と悟り、彼への眼を改める。
聖ベネディクト男子学校で毎年開催される『ジュリアス・シーザー・コンテスト』への出場を、彼に勧めたのだ。ローマ史に関する知識を問う、このコンテストでの優勝は、エリートを輩出するこの学校でも最高の栄誉となる。このコンテストに出場できるように頑張り、優勝でもすれば、セジウィックは立ち直るだろう!
ハンダードの期待に応えるかのように、セジウィックは勉学に励み、コンテストの予選を次々とクリアできる学力を身につけ始めた。
しかし、最終予選では、彼の小論文は、及第点に及ばなかった。
ハンダードは、彼に芽生えたと思った、向上心・未来への熱意の灯火を、そこで消すことを躊躇い、彼の論文に「味をつけた」。
つまり、故意に過大な評価を与えるという不正を行ったのだ。
コンテスト当日、他の出場者二人と共に、ローマを模したコンテスト舞台に立つセジウィック。客席には、彼の父親もいた。息子の成長振りに、誇らしげな笑みを浮かべて・・・。
コンテストの問題は、次第に難易度を上げてくる。
ハンダードは気づいた。セジウィックの回答の様子がおかしいと。
彼は、カンニングを行っていたのだ。
なんたる裏切り。彼は、コンテスト出場者の他の二人を裏切ったばかりか、彼を目にかけていたハンダードまで裏切ったのだ。
しかし、ハンダード自身もまた、教師としての倫理を裏切っていたのではないのか・・・。
・・・さて、ストーリィを辿るのはこれくらいにしましょう。
この映画は多くのことを、観客に示唆してくれます。
教師とは何か。その熱意とは。熱意の先に、行うことも許される不正はあるのか。
若さとは何か。青春とは。若いうちに何を学ぶべきなのか。忍耐か、それとも自由気ままな放埓か。
コンテストでカンニングを行い、結果的に敗北したセジウィックは、大企業家となった25年後に再度コンテストを開催することを希望し、実現します。
ハンダードは、セジウィックが成長し、克己心ある人間になったと信じ、コンテストをふたたび開きます。あの当時の学友たちを全員招待し、盛大に。
しかし、そこでもセジウィックはカンニングを。
25年の時を経ても、なお彼は成長していなかった。変わっていなかった、と言うべきか。コンテストを開催したのも、歴史教育への関心が深いように見せかけて、教育改革を起す新進気鋭の新人として、上院議員への立候補への役に立てようとの打算に満ちた目的があったのだ。
ハンダードは『教育』の力の無さに失望し、肩を落とします。・・・が、映画の最後に、彼に勇気を与える、希望を取り戻させるエピソードがあったことを記しておきます。ここには書きませんが。
この映画は別段、激しいメッセージなどは感じません。
ですが、私も僅かの間なりと関係していた、教育機関に在籍していた時期。「あるあるこんな事」と思ったエピソードなどが多く含まれていました。
その意味で、この映画は実話を多くその素材に含む、一種ドキュメンタリーのような映画と言えるのかもしれません。
最後に一言、作中のローマ史は、なんだか奇妙なことが多いです。
間違いではないですが、学校での歴史教育の実態をさらけ出しているともいえますが・・・まぁ、それはまた別のお話、別の機会に述べることにしましょう。
今夜も、同じくケヴィン主演の映画についてです。
『The Emperor's Club』(邦題:『卒業の朝』)
2002年、全米公開。2003年、日本公開。
2004年12月、DVD日本リリース。
(画像は、Movie,The Emperor's Clubより転載)
舞台は、学校です。いや、学園といったほうがよいのだろうか。
アメリカ合衆国の名門校、聖ベネディクト男子校で世界史(作中では、むしろローマ史オンリー)を教えるウィリアム・ハンダード(K.クライン)。
彼は熱意を以って、生徒に歴史を教えている良い教師。その勤勉さと忍耐と情愛を以って、生徒からも尊敬されている。
ローマ史をとおして、生徒達に人間性を磨くように示唆し、生徒達は彼の授業をとおしてそれを実現しつつあった。
彼らの目の前に、カリスマ反逆生徒セジウィック・ベルが転校してくる。彼らの風景は一変する。
ハンダードを茶化すは、授業の邪魔はする。
寮内に、御禁制のポルノ雑誌を持ち込むわ、川を挟んでお隣の女学校に忍び込んで、女子の前で裸になるわ…。
ハンダードは、彼の父親である上院議員(下院だったか?)に直談判するが、その結果、セジウィックが『荒れた』のは、父親や家庭に原因があったからか・・・と悟り、彼への眼を改める。
聖ベネディクト男子学校で毎年開催される『ジュリアス・シーザー・コンテスト』への出場を、彼に勧めたのだ。ローマ史に関する知識を問う、このコンテストでの優勝は、エリートを輩出するこの学校でも最高の栄誉となる。このコンテストに出場できるように頑張り、優勝でもすれば、セジウィックは立ち直るだろう!
ハンダードの期待に応えるかのように、セジウィックは勉学に励み、コンテストの予選を次々とクリアできる学力を身につけ始めた。
しかし、最終予選では、彼の小論文は、及第点に及ばなかった。
ハンダードは、彼に芽生えたと思った、向上心・未来への熱意の灯火を、そこで消すことを躊躇い、彼の論文に「味をつけた」。
つまり、故意に過大な評価を与えるという不正を行ったのだ。
コンテスト当日、他の出場者二人と共に、ローマを模したコンテスト舞台に立つセジウィック。客席には、彼の父親もいた。息子の成長振りに、誇らしげな笑みを浮かべて・・・。
コンテストの問題は、次第に難易度を上げてくる。
ハンダードは気づいた。セジウィックの回答の様子がおかしいと。
彼は、カンニングを行っていたのだ。
なんたる裏切り。彼は、コンテスト出場者の他の二人を裏切ったばかりか、彼を目にかけていたハンダードまで裏切ったのだ。
しかし、ハンダード自身もまた、教師としての倫理を裏切っていたのではないのか・・・。
・・・さて、ストーリィを辿るのはこれくらいにしましょう。
この映画は多くのことを、観客に示唆してくれます。
教師とは何か。その熱意とは。熱意の先に、行うことも許される不正はあるのか。
若さとは何か。青春とは。若いうちに何を学ぶべきなのか。忍耐か、それとも自由気ままな放埓か。
コンテストでカンニングを行い、結果的に敗北したセジウィックは、大企業家となった25年後に再度コンテストを開催することを希望し、実現します。
ハンダードは、セジウィックが成長し、克己心ある人間になったと信じ、コンテストをふたたび開きます。あの当時の学友たちを全員招待し、盛大に。
しかし、そこでもセジウィックはカンニングを。
25年の時を経ても、なお彼は成長していなかった。変わっていなかった、と言うべきか。コンテストを開催したのも、歴史教育への関心が深いように見せかけて、教育改革を起す新進気鋭の新人として、上院議員への立候補への役に立てようとの打算に満ちた目的があったのだ。
ハンダードは『教育』の力の無さに失望し、肩を落とします。・・・が、映画の最後に、彼に勇気を与える、希望を取り戻させるエピソードがあったことを記しておきます。ここには書きませんが。
この映画は別段、激しいメッセージなどは感じません。
ですが、私も僅かの間なりと関係していた、教育機関に在籍していた時期。「あるあるこんな事」と思ったエピソードなどが多く含まれていました。
その意味で、この映画は実話を多くその素材に含む、一種ドキュメンタリーのような映画と言えるのかもしれません。
最後に一言、作中のローマ史は、なんだか奇妙なことが多いです。
間違いではないですが、学校での歴史教育の実態をさらけ出しているともいえますが・・・まぁ、それはまた別のお話、別の機会に述べることにしましょう。