A.N.A.L. Co., Ltd. Executive Office of the President

“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

file.no-132 『 君の名は。 』 

2016-10-13 19:11:26 | 映画
  
ある日の、NHKの夕方のニュースでしたか。
 
「興行収入100億円突破!!」
 

そう、報道されていたのが、アニメ映画 『 君の名は。 』 でした。
観に行こうと、思いました。
『シン・ゴジラ』 が興行収入60億円を突破との報道も、まだ耳に新しかったのですが、ゴジラでは、劇場まで足を運ぶのが どうにもおっくうでした。
自宅から、最寄り劇場まで、車で 一時間近くかかる 辺境に住んでいますとね。
ショッピングモールでの買い物なども絡めないと、なかなか 踏ん切りが付かない。


新海監督の前作、『 言の葉の庭 』 は、DVDレンタルで観てみて、かなり心揺さぶられ、ブルーレイ購入、それに監督の手による小説版も購入したほど。
では、その監督の新作なら、劇場まで観に行ってもいいじゃないか。
( 『 星を追う 』 は、ファンでも目を覆った イッタイ作品でしたが・・・。 )

思いついても、そう簡単には、「 劇場に行こう!」 とならないほどの、田舎在住な私です。
田舎での、車の一時間の距離 というのは、なっかなかのものです。


幸い (?) 転職した月でもあり、モチベの追求もあって、スタバを何店舗か回ろうとしていたこともあり、劇場にも行ってみることにしました。
かつて在籍していたスタバ。 出てから、もう10年以上にもなりますが。
かつてのスタバには、「仕事への情熱」 というものを教えてもらい、それは、今でも 燠火となって私の胸の奥に在ります。





観に行ったのは、9月26日(月) のことです。
レイトショーにて、観てきました。
泣いて、泣いて、泣きまくりました。


友人と二人で行ったのですが、彼が やや引くくらいに 泣いてしまいました。

エンドクレジット流れ初めても、ハンドタオルで目元を押さえ、口も覆っていたほど、

「ふわぁ・・・・・・、うぅっ」
そう、声も涙が、ぼろぼろっと出ていました。


100億円、その意味が納得できました。

***

過去への想い。

時間と空間の、越えられないはずの壁を越えて。
ひとりの少年と、一人の少女が出会った。
しかも、お互いの 『 心と体が入れ替わった 』 状態で。




映画を見に行く前、その映画についての情報は、どこまで仕入れていくものなのでしょうか。
わたしは、もう何年も前から、ほぼ 「予習なし」 の状態で行くようにしています。
「ダンジョンに行く前には、必ず予習をするべきだ 」 という風潮が横行している、某オンラインゲームの影響ではないですが・・・。
学校の勉強ではあるまいに、事前に だいたいのあらましを調べて、分かったうえで臨むことの、なんという空しいことか。


ゲームをプレイしていて、もとい、映画を観ていて、その一瞬一瞬が 眼にも鮮やかな光を放つのは、やはり「未知だから」 ということもあると思うのです。
すべてが 「 既知である 」 というのでは、はっきり言って、まことにつまらないもの。
予断無い展開こそ、やはりわくわくするもの。
その意味において、過去現在未来におわして、全知であるという 「神」 というものは、まこと退屈な仕事であるだろうと 思います。


横道に逸れました。


『 君の名は。 』
予告編こそ見ました。
シートに座る前に、パンフこそ買いました。しかし、開かず、読まず。


その状態で、本編を観たのです。


「君の名は。」予告





最初は―――、笑いました。
楽しくて、可笑しくて。


思春期、高校生の男女。
田舎に住んでいて、「東京に住みたい!」 そう思う女子高生・三葉。
東京に住んでいて、勉強に遊びにバイトに明け暮れる、男子高校生・瀧。
そんな二人が、お互いの心と体が入れ替わったら、どうなるのか?


朝目覚めて。
瀧は、自分の 「 胸を揉みしだいて 」
三葉の実妹に、キモがられる。


三葉は、自分の 「 股間にあるモノ 」 を意識する。
トイレ、どうしようと・・・。


二人は、繰り返される心と体の入れ替わりから、スマホやガラケー。
携帯を使った、意思疎通を図る。
お互いにやり取りする、日記、メッセージ。


瀧のバイト先では、「 女子力高いね 」 と驚かれる三葉。
三葉の学校で、こそこそ悪口を言うクラスメイトたちの前で、イーゼルスタンドを蹴飛ばす瀧。
体の性別と中身とが入れ替わった状態での、そんな行動。


青春ドラマっぽくて、気に入って、観ていて、クスッと笑いました。
楽しい展開だ。



けれど、物語のテンションは、その後 一変する。


「 入れ替わり 」 が、急に 無くなってしまう。


「 なぜだ? 」


そう考えた瀧は、記憶の中に残る、三葉の住んでいた町並み、周りの山。
自分眼で見た風景をデッサンして、絵に描く。
何枚も、何枚も。
その風景を求めて、彼は飛騨へと旅をする。
「 彼女 」 を、探して。


その探索の旅には、彼のバイト先の先輩の女性や、友人男子も同行する。
三人が辿り着いた、「 彼女の住んでいるはずの町 」 は。


「 彼女が、住んでいた町 」 になってしまっていた。


彼女の町が、その名前が分かったとき。
彼女のいた時間が、「 過去 」 であり。
彼らのいる 「 現在 」 から、
もう三年も前に、地上から消滅していたという事実。



三年前、地球に接近していた彗星。
その最接近時、彗星の一部が 地上に落下し、日本の飛騨の、三葉の住んでいた糸守町に直撃したという。
町は、隕石の衝突によって 大きくえぐられ、三百人以上が死亡。
三年経った現在も、町は放棄されたまま―――。



「 ・・・うそだろ? 」


呆然とする彼の手元の、スマホ。
彼の目の前で、彼女の綴った、スマホに残された文章は、文字化けしていき、消えていく。


彼が、「 現実を認識した 」 その瞬間に、その存在が 消えでもするように、文字が消えていった。
次の日には、彼は、彼が 飛騨までやって来た理由である、「 彼女の名前 」 そのものまで、記憶から消えていた。


ただ、「 名前を覚えていない、あの誰かに、会いたかった 」 という切ない思いだけが、彼の心に刻まれていた。



・・・・・・ここで、1回目の泣きが入りました!
ハンドタオルで口元押さえたのを覚えていますが、ものすごく、声を上げて泣きたくなりました。
すごく、切なかった。


「君の名は。」予告2





隕石衝突でクレーターとなった、糸守町。
そのそばにある、ある場所で、ある液体を口にすることで、彼は ふたたび、時間を越えて 彼女に会うことが出来ます。
彼が彼女のことを認識することで、彼女の名前も、また思い出すことが出来た・・・。



実のところ、この展開自体は、よく似たものを知っています。
パクリではない。 オマージュのようなものだと思いますけれどもね。


リチャード・マシスンという作家の、名作 『 ある日どこかで 』 という作品です。
かなり昔の作品ですが、映画化もされ、まずまずの興行だったのではなかったでしょうか。
( 創元社であったと思いますが、どの棚にしまったのか見つからなかったので、DVDだけ )



 



主人公の男が、たった一枚の、一人の女性の絵をきっかけに、
「 彼女に会いたい 」
ただそれだけのために、過去に行きたいと強く願い、彼女を想い、実際に 過去へと渡ってしまうという。
彼女の姿を、絵から、クリアに頭の中で描く。
彼女の生きていた時代を、クリアに頭の中で再現する。
過去に、自分は行けるのだと、ただひたすらに 自分に言い聞かせる。


それで、実際に、過去へと行ってしまう。
願いは、時間の壁をもぶち破れる! という、ある意味で ぶっ飛んだ 「幻想物語」


たいむ・まっすぃ~んを 使うでもなく、過去へと行ってしまう この男性。
初見のときは、荒唐無稽かなと思っていたのですが、年を重ねてから読み返すと、なんとも味わい深い。 ただ、愛だけのために、想いのためだけに、という 「 彼の力 」 に、感動を覚えるようになりました。
分厚い本ですが、文庫ですので、おすすめしたい本です。



その、マシスンの 『 ある日どこかで 』 を彷彿とさせる展開でした。
彼女に会いたいという一念で、
「 三年間 」 という 時間の壁を越える。
主人公の男子高校生。


再会した二人は、それぞれの時間軸を認識する。
そして、二人は、男子の 「 現在に対する過去」、
女子の 「 現在に対する未来 」 が分かっているのだから、
彗星のかけらが、糸守町を直撃する前に、住民を避難させて 死者三百名を出す大惨事を回避しようと思いつく。


確定している過去、あるいは 確定するはずの未来の改変。


住民避難を考えついても、いろいろ紆余曲折があって、映画の中で ドタバタする展開があるのですが・・・。
このあたり、二度目の波が、わたしの胸を直撃しましたねぇ・・・。
起こるべき事象を変えようとする行為。
それ自体は、まぁ、ラノベに限らず、例えばゲームですとか、人生ドラマものの映画では、わりと見かけます。 取り立てて、目新しいものではない。


けれど、隕石衝突による、大災害。
自然の災害。


思い出しますね・・・ 東日本大震災。


死者 1万5,000人以上、行方不明者 2,500人以上。
金額面では、内閣府による推計、約16兆9,000億円。
あの未曾有の災害から、もう五年ですか・・・。



人的被害の拡大は、沿岸へ到達した津波の予測の甘さ。
最初は、10メートル級が来るとまでは予測していなかった。
沿岸部の住人、都市部の人間の避難が、あまりにお粗末すぎた。
そういった、人的被害の拡大要因が、今では いろいろ分かっています。



はやく、もっとはやく、津波が来るのが分かっていれば。
どんな津波が来るのか、分かっていれば。
はやく、もっとはやく、避難できていれば。
避難計画、準備を、しっかりしていれば。


れば、れば、れば、れば・・・・・・。
被災者の悔やみきれない思いに、こういうのがあると思います。


私は、過去の研究。歴史を学んでいたこともありますが。
あまり、過去を悔やみません。


「あの時、こうしていれば・・・ 」


そう、過去を悔やんでも、もう現在の状態は変えれないのですから、悔やむだけムダというもの。
当時の記録を、余裕のある現在、精査して、
「 あの時は判断ミスだ 」、「 あの行為は失敗だ 」 などと、いまさらあげつらう人もいますが、それは無意味だ。
大事なのは、同じ過ちを繰り返さないこと。 未来への戒めとすること。



閑話休題。


映画の中で、隕石衝突の瞬間が、刻々と近づいていく。

大惨事を回避しようとする二人と、その仲間たちを観ていると、



「 ああ、監督は、大震災への祈りもテーマにしたのかな・・・ 」 と。


そう、思ったものです。


あの時、もっとはやくに、分かっていれば、
だれかが、みんなで逃げようと、
だれもが、いっしょに行動していれば、
もしかしたら、もっと・・・・・・。


あの時、もっと別の行動を取っていれば・・・。



多くの人がそうでしょうが、
わたしも、人生の中で、少なからぬ親しい人たちと 死別してきました。
病で死別した母ですとか、可愛がってくれていた 叔母の恋人、自身の良人など。
過去を、そう悔やむことのない私ですが、やはり お酒が過ぎた夜や、ごくまれに過去の夢を見たときなどは、目が覚めたときに涙していることはあります。


あの時、もっと病院をすすめるべきだったとか。
仕事に根を詰めすぎないよう声をかけるべきだったとか。
夜は、そうそう出歩くべきではないと、言うべきだったとか。
そう、思ってしまうときは、ごくごくまれにあります。


作中で、三葉の父が、妻に先立たれた際、その悲しみからか、あるいは怒りからか。
神職を捨てるシーンがあります。
私も、信仰を捨てるきっかけは、やはり最愛の人との死別にあります。
神よ、なぜなのか。 そう叫び、問い、そして憎んで信仰を捨てました。
いまの会社の社長は、クリスチャンであるというのは、皮肉と言わざるを得ない。



現実には、リアルでは、もちろん、作中のような 過去への干渉なんて起こりません。
そう、覚めた頭で分かっていても、あの映画には、涙が止まりませんでした。


その時、リアルタイムで映画を観ているときは、作中の 住民避難作戦が 「 成功するかどうか 」 、きわめて微妙な展開でした。
あのあたり、絶妙の作り方でしたね。
「過去の改変は、不可能 」
そういう展開になるかもしれないと思わせ、観るほうは、引きつけられます。


避難が失敗すれば、主人公の一人の、三葉は死ぬ。
一人の死。


それは当然ですが、加えて、「 住民300人以上 」 も、同じく死亡する。
多数の死。


たかが、お話しのなかでの、死。
ただの作り話、ではある。


けれども、ただの作り話、そう、割り切ることは出来ない。
自身が アニメヲタクだから、というわけではないのです。ヲタであることは否定しませんが。
海外の実写映画ですとか、あるいは 小説ですとか、そこで描かれる 「 多数の死 」。
そういったものを重く捉える、受け止めるのは、社会人ならではないかと思います。


「 死 」 をテーマで扱うものは、洋の東西、アニメであるかそうでないか。
それらの関係なく、共通して重いものです。 そうであってほしいと思います。



そういった意味で、映画 『 君の名は。』 後半部は、かなり大人向けではないか。
高校生以上でないと、この味わいは分からないのではないか。
トールキン教授の 『 指輪物語 』。
日本では、評論社から出版されていますが、その評論社で 「 ヤングアダルト向け作品 」 として、より現実に近い作中設定や物語のものが、刊行されていたと思います。
中、高校生以上推奨。
ファンタジーというよりは、ハイ・ファンタジー。


お話の結末が、必ずしも 全員が笑顔で終わるわけではない。
それは、夢物語ではない、「 現実 」 というものを、いい意味で予感させてくれる。
私にとって、映画 『 君の名は。 』 は、アニメではあるけれども、なんとも奥深く、「 観てよかった 」、「 レイトショー料金1,300円以上の価値があった 」
そう、思わさせてくれる作品でした。


観終わった後の、さわやかさ。
あの余韻は、ながいこと感じていなかった。
エンドロール中も、涙がなかなかおさまらず、ハンドタオルで目元押さえたり、口を覆ったりと、「 やべぇ、この顔で、シネマ出るんかい 」 と、少し焦ったほど。


興行100億というのも、納得でした。



パンフ読んでいると、出演していた市原悦子さんの、メッセージ欄に、映画のテーマとして 福島の悲劇に繋がるものを、心に刻む等の言及が。
私と同じモノを、映画から汲み取る 市原さん。 昔から好きな女優さんですが、なにか 同じ電波を感じる人です。






映画を観てみての感想を、つらつら綴ってみましたけれど。
ほぼ、劇場で観たときに感じたままを述べただけ。
細部は、違っているかもしれません。


円盤が、年内に発売されるかどうかは知りませんが、それが待ち遠しいほど。
自宅で、ゆっくりと見返してみたいものです。


だからというわけではありませんが、監督の筆による小説が 角川文庫版で発売されていますが、それを読んでいるところです。
文章で語られる、『 君の名は。 』
ゆっくりと読み進め、ゆっくりと味わいたいものです。
 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『 ヒストリアイ 』 と 『 ... | TOP | Sometime,Somewhere. »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 映画