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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

file,no-12 『 小説家を見つけたら 』

2005-04-02 17:34:13 | 書籍
しばらく間が開いてしまいました。
今回は小説『 小説家を見つけたら 』についてです。
( 画像は、movie BB,Finding Forrester より転載 )

これは、ショーン・コネリー氏が出演した映画『 Finding Forrester 』(邦題:小説家を見つけたら)のノヴェライズです。
映画の脚本から話を起したものなんて、おもしろい?
映画を観たあと( あるいは観る前 )で読んで、物語を楽しめるの?
そう、思われるかもしれません。
でも、時としてすばらしいノヴェライズも存在しているのです。
これは、そんな小説なのです。

では、物語について。
 合衆国NYのブロンクスに生まれ育った高校生ジャマール・ウォレス。
 友人とバスケのプレイをするのが好きな元気いっぱいの16歳の少年。
 そんな彼の密かな趣味は、『 文章を書くこと 』。
 ある日、友人とのバスケのプレイ中、ボールがコートのそばのアパートに飛び込む。
 それが縁で、一人の老人と出会う。
 彼の正体は、かつてピュリッツアー賞を受賞して、それから受賞作以外一本も作品を『書いていない』、そして世間から身を隠していた作家ウィリアム・フォレスター(ショーン・コネリー)だった。
 ウィリアムは、ジャマールの書いた文章を読み、その才能に興味を惹かれた。
 ジャマールは、ウィリアムが綴る美しい文章を読み、彼に学ぶことにする。
 老作家はこの若者に文章を書くことについて、教えることにする。条件はふたつ、『 ここで書いたものは、けして外へ持ち出さないこと 』、『 けしてウィリアムの事を他人に話さないこと 』。
 二人は『文章』を通して、やがて世代をこえて友人となっていった。
 語られる過去、なぜウィリアムは一本しか作品を発表していないのか。
 なぜ、世間から身を隠した生活を送っているのか。
 彼の、その孤独を・・・。

 ジャマールは、バスケの才能とその学力でもって名門メイラー校に特待生として編入する。
 やがて友人もでき、バスケの名プレイヤーとして活躍するジャマール。
 しかし、彼の出自から、その才能を疑うクロフォード教授は彼に辛辣な態度を取る。
 ジャマールが、老作家の部屋で書いた文章を作文コンテストに出品した事で事態は急変する。
 彼の文章は、ウィリアムが書いた文章にインスピレーションを得て、書かれたものだった。
 意地悪教授は、それを見抜き、「 これは剽窃だ! 」と断じる。
 ウィリアムの事を他人に話さないと約束したジャマールは、沈黙する。ウィリアムに助けを求めるが、彼もまた、書いたものを外に持ち出すなと約束したのにそれを破って窮地に陥ったのだから、ジャマールを助けることはできないと言う。

 コンテストの当日、ジャマールは作文朗読の聴衆の一人として出席した。
 朗読されていく作文。
 最後の一人が読み終わったとき、一人の老人が講堂に入ってきた。
 ウィリアムがジャマールのために、彼にかけられた嫌疑を晴らそうとやってきたのだ。
 ジャマールとウィリアムは和解し、ふたたび無二の友となった。

 一年後、ジャマールの処へ弁護士がやってくる。
 「 ウィリアムが癌で亡くなった。」と告げる。
 ジャマールは、ウィリアムからの手紙と木箱を渡される。
 手紙には、人生の最後に出会えたジャマールへの感謝と別れの言葉が綴られていた。
 木箱の中には、老作家が最後に書き上げた作品があった。
 序文をジャマールに頼み、作品の発表を彼に一任する、そう書かれていた。
 作品の名は『 日没 』とあった。

・・・とまぁ、こんな感じです。
映画では時間の制約でカットされた部分が、著者ジェームズ・W・エリソン氏の手によって文章で描かれているので、私はむしろ小説の方が私たちに強く訴えかけてくるものを感じます。
心情や風景の描写もそうですが、一番印象に残るのは、作中の人物達の語る言葉。
これが、私は心に残りました。
「第一稿はハートで書け。」
「先に逝きし者達の平安が、残された者達の悲しみを癒すことはない。」
これらは映画でも聞けた言葉ですが、ウィリアムがメイラー校の講堂で聴衆に語った言葉は惜しくも一部分だけだったようです。エリソン氏によって綴られた言葉、これを読んでみて下さい。

“人は家族を失ってはじめて家族の尊さに気づく。
 時として、血の繋がりのない者同士が同じ血の流れる者同士よりも深く理解しあう。
 そして人はまさに水は血よりも濃いことを知らされる。

 人生とは人が期待するようなものになる。顧みれば、人は人生の岐路となった出来事を気づきもせずにやり過ごし、歳月が流れてしまったあとでそれに思い至ることを知るだろう。
 だが時として、人はそれに気づきもしない。期待・・・人は他人の言葉に振り回され、自分にとっての真実を見失う。そして不安を抱えたまま最期の時を迎える、自分は残していく人々に思い出してもらえるだろうか? 自分が自分自身をどう思うかということには思い及ばぬまま。

 もし人生がゲームなら、それが勝敗のないゲームであることに気づいた時には、すでに取り返しのつかない歳月が流れ去っている。あまりに多くの人が、自分の人生というゲームの傍観者となる。人は人生というゲームに答えを探し求めはしても、人生そのもの自体を問い直すことはない。

 そして、人生の黄昏に近づき・・・最期の時を迎えるにあたって・・・口をつくのは・・・これが見たかった、あれがしたかったという後悔ばかり。
 望みとはかなうことのない希望にすぎない。
 しかし人はその望みを同じ願いを持つ人間に託して人生を終えることができる。
 それこそが希望なのだ。”

そして彼は言うのです。

“私は決して信仰心の厚い人間ではありませんでしたが、もし告白が人にとって福音であるなら・・・いま私はその福音を授かろうとしています。
 お集まりの皆様の中にはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、私は世を捨てた男と言われてまいりました。みなさんのほとんどはまだ若く、自分がどのような望みを持っているかにさえお気づきではないでしょう。
 ですが『・・・人生の黄昏に近づいて、望みとはかなえられない希望にすぎないのだ』という言葉を読んで、私は、人生の最期を目前にして、ひとつの望みがかなえられたことを知ったのです・・・友情という望みです。”

いかがです? なかなか心を打つ言葉だとは思いませんか?
私もかつては信仰を持っていました。福音は、人の心の中にこそあると思います。
言葉が人の悲しみを癒すという事ができるなら、それは上記のウィリアムの言葉がその可能性を示唆していると思います。
映画では老作家の悲しみと、それが癒された処はあまり表現されていなかったように感じましたが、小説ではそこにも充分紙面を割いてくれているのが嬉しいのです。
もちろん、他にもいろいろなポイントがあります。
私は、この小説を読んで、書くことの素晴らしさ。書いたものが、人の心を救えることもあるのだと感動したのです。
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