"もしも、あなたがあと三ヶ月の命だったら?"
・・・こんな文句は、似たようなものが今では数多く出回っています。
そして応えは、ほとんどが恋愛関係ばかり・・・悪くはないですが、私の好みではありません。
この映画では、余命が三ヶ月だと宣告された男が、別れた家族との絆をもう一度修復しようとします。
しかも、それを「家を建てること」を通してやろうというのだから、驚きです。
残された時間で、男が息子と妻との間に絆をもう一度結ぼうとするのが、ひとつの大きなテーマになっています。
父親のジョージ役に、ケヴィン・クライン。元妻役に、クリスティン・スコット・トーマス。息子役に、ヘイデン・クリステンセン。そして、脇を固めるのに、メアリー・スティーン・バーゲン。このキャストの顔ぶれを見ても、映画のシナリオの上質さは信頼できようものです。
映画『 Life as A House 』( 邦題:『海辺の家』)は2001年に全米公開、日本でも公開されました。
( 画像は、Movie, Life as A Houseより転載 )
私も公開当時、近所のワーナー・マイカルに観に行きました。そして、大泣きに泣きました。
あらすじですが、
昔気質の建築デザイナーのジョージは42歳。ある日、突然職場を解雇され、同日に倒れて、自分が癌に侵され余命が三ヶ月余だと宣告される。
彼は、残った時間で自分の失った家族との絆をもう一度取り戻したいと考えた。
別れた妻のロビンは再婚しているが、ジョージとの間にもうけた息子のサムはドラッグにおぼれる反抗期ただ中のティーンエイジャー。
ジョージはサムと一緒に車庫に住み、二人でいっしょに家を建てようとする。
家を建てることで、息子に伝えたい思いもあったのだ。
最初は喧嘩ばかりの二人だったが、次第に和解し始める。近所の母娘や住人、元妻のロビンも手伝いに来て、やがて「家」は形になりつつあった。だが、同時にジョージの癌も進行していった。
隠しきれなくなった病身。
サムは、好きになっていた父親がじきに死ぬとわかって、涙を流して怒る。
ジョージは言う、「 時に、物事は理由があって起こる。よくないことが、よい結果をもたらすことだってあるんだよ」と。
やりきれない思いを抱えて、サムは海に飛び込む。かつて、父親がしたように・・・。
ついに倒れこむジョージ。入院して、病室から、ライトアップされた組み立て途中の家をサムと一緒に見ながら、「お前が完成させるんだ」と、あとをサムに託す。
海で遊ぶジョージと幼い頃のサムを撮影していたテレビカメラの映像を、ロビンと一緒に見ながら、ジョージは眠るように逝った。
サムは家を完成させ、父との約束を果たし、家の処分についてあることを行う。
ラストは、家とその周りの風景を眺めながら、ジョージの手紙の言葉が流れて幕が降りるのです。
この映画の何が泣けるって、ジョージはもう時間がないのに、元妻ロビンやサムに、そんなことをおくびにも出さないところです。
家の柱を建てて、トンカンと槌を振るったり、木を運んでいるジョージやサム、それにお隣の娘アリッサたちを、ロビンがホームカメラで撮影してる場面があります。家族の記録を残すのが好きなアメリカでは珍しくもないところですが、それは期せずして、「最期の記録」になってしまうわけですよね。
ジョージはもう死ぬ。
二度と、こんな風に撮影などできない。
それを知らないサムやアリッサは、ジョージといっしょに家を建てることが楽しくて仕方がない、という様に笑っています。
ジョージも、これが最後なのだと知りつつ、「笑う」のです。家族に向かって、カメラに向かって、この時間が愛しいのだよと言わんばかりに・・・。
挿入曲のピアノの音色とともに、この場面は一番「泣けた」ところでした。映画館でも、私を含め、まわりの人たちから嗚咽があがったところでした。
家族、家族の絆というものが失われることが珍しくもなくなって久しいと思います。
私自身、「家族」がどれほど愛しいものなのか、身内を失くして初めて実感しました。あの人たちが生きている間に、もっと絆を結んでいればと、悔やんだものです。
この映画では、父と息子と母が、「家を建てる」ということをきっかけにして、絆をふたたび結ぼうとします。それは、今の状態を変えることを意味します。自分自身も変わっていく。人は、変われるからこそ、特別なのだと私は思うのです。
家を建てるとは、自分の手で築き上げること。それには多くの意味が込められていると思います。
自分の家を持つ、ということは、自分の人生の拠り所を具現化すること、人生そのものを表現するのかもしれません。だからこそ、家を持つということを、皆が大切にするのかもしれませんね。
・・・こんな文句は、似たようなものが今では数多く出回っています。
そして応えは、ほとんどが恋愛関係ばかり・・・悪くはないですが、私の好みではありません。
この映画では、余命が三ヶ月だと宣告された男が、別れた家族との絆をもう一度修復しようとします。
しかも、それを「家を建てること」を通してやろうというのだから、驚きです。
残された時間で、男が息子と妻との間に絆をもう一度結ぼうとするのが、ひとつの大きなテーマになっています。
父親のジョージ役に、ケヴィン・クライン。元妻役に、クリスティン・スコット・トーマス。息子役に、ヘイデン・クリステンセン。そして、脇を固めるのに、メアリー・スティーン・バーゲン。このキャストの顔ぶれを見ても、映画のシナリオの上質さは信頼できようものです。
映画『 Life as A House 』( 邦題:『海辺の家』)は2001年に全米公開、日本でも公開されました。
( 画像は、Movie, Life as A Houseより転載 )
私も公開当時、近所のワーナー・マイカルに観に行きました。そして、大泣きに泣きました。
あらすじですが、
昔気質の建築デザイナーのジョージは42歳。ある日、突然職場を解雇され、同日に倒れて、自分が癌に侵され余命が三ヶ月余だと宣告される。
彼は、残った時間で自分の失った家族との絆をもう一度取り戻したいと考えた。
別れた妻のロビンは再婚しているが、ジョージとの間にもうけた息子のサムはドラッグにおぼれる反抗期ただ中のティーンエイジャー。
ジョージはサムと一緒に車庫に住み、二人でいっしょに家を建てようとする。
家を建てることで、息子に伝えたい思いもあったのだ。
最初は喧嘩ばかりの二人だったが、次第に和解し始める。近所の母娘や住人、元妻のロビンも手伝いに来て、やがて「家」は形になりつつあった。だが、同時にジョージの癌も進行していった。
隠しきれなくなった病身。
サムは、好きになっていた父親がじきに死ぬとわかって、涙を流して怒る。
ジョージは言う、「 時に、物事は理由があって起こる。よくないことが、よい結果をもたらすことだってあるんだよ」と。
やりきれない思いを抱えて、サムは海に飛び込む。かつて、父親がしたように・・・。
ついに倒れこむジョージ。入院して、病室から、ライトアップされた組み立て途中の家をサムと一緒に見ながら、「お前が完成させるんだ」と、あとをサムに託す。
海で遊ぶジョージと幼い頃のサムを撮影していたテレビカメラの映像を、ロビンと一緒に見ながら、ジョージは眠るように逝った。
サムは家を完成させ、父との約束を果たし、家の処分についてあることを行う。
ラストは、家とその周りの風景を眺めながら、ジョージの手紙の言葉が流れて幕が降りるのです。
この映画の何が泣けるって、ジョージはもう時間がないのに、元妻ロビンやサムに、そんなことをおくびにも出さないところです。
家の柱を建てて、トンカンと槌を振るったり、木を運んでいるジョージやサム、それにお隣の娘アリッサたちを、ロビンがホームカメラで撮影してる場面があります。家族の記録を残すのが好きなアメリカでは珍しくもないところですが、それは期せずして、「最期の記録」になってしまうわけですよね。
ジョージはもう死ぬ。
二度と、こんな風に撮影などできない。
それを知らないサムやアリッサは、ジョージといっしょに家を建てることが楽しくて仕方がない、という様に笑っています。
ジョージも、これが最後なのだと知りつつ、「笑う」のです。家族に向かって、カメラに向かって、この時間が愛しいのだよと言わんばかりに・・・。
挿入曲のピアノの音色とともに、この場面は一番「泣けた」ところでした。映画館でも、私を含め、まわりの人たちから嗚咽があがったところでした。
家族、家族の絆というものが失われることが珍しくもなくなって久しいと思います。
私自身、「家族」がどれほど愛しいものなのか、身内を失くして初めて実感しました。あの人たちが生きている間に、もっと絆を結んでいればと、悔やんだものです。
この映画では、父と息子と母が、「家を建てる」ということをきっかけにして、絆をふたたび結ぼうとします。それは、今の状態を変えることを意味します。自分自身も変わっていく。人は、変われるからこそ、特別なのだと私は思うのです。
家を建てるとは、自分の手で築き上げること。それには多くの意味が込められていると思います。
自分の家を持つ、ということは、自分の人生の拠り所を具現化すること、人生そのものを表現するのかもしれません。だからこそ、家を持つということを、皆が大切にするのかもしれませんね。