Flour of Life

煩悩のおもむくままな日々を、だらだらと綴っております。

映画「怒り」を見て。

2016-09-25 16:49:25 | 映画


渡辺謙、宮崎あおいら豪華キャストが出演する、映画「怒り」を見てきました。吉田修一の原作は既に読んでいたので、あらすじも結末もわかっていましたが、充分に見ごたえのある映画でした。上映時間が2時間半近くもあるのに、長さを感じなかったですし。

映画の公式サイトはこちら。リンク先に飛ぶと予告編が始まるのでご注意ください。最近の映画の公式サイトってみんなそうですね。重くなるから苦手なんだけど。


ある夏の暑い日、八王子の住宅街で、若い夫婦が何者かに惨殺される事件が起きる。現場には「怒」と血文字で残されていた。
犯人は山神一也という27歳の男だと判明するが、行方がつかめず捜査は難航する。
一年後の夏、千葉の港町に住む漁師の洋平と娘の愛子の前に、東京の中心部に住むゲイの優馬の前に、沖縄の離島で母と暮らす泉の前に、身元不詳の三人の男が現れた―


ここから先は映画の結末に触れるネタバレがあります。ご注意ください。











結論から言うと、とても良い映画でした。私が「良い映画」と思う映画にはいろいろ種類があって、「見ている間はたただひたすら楽しんで、見終わったらすこーんと忘れてしまう映画」も、「見終わってからあの場面はこういう意味があるんじゃないか、あのときのあの人物の心情はこうだったんじゃないかといつまでも考えてしまう映画」も、どちらも私にとっては「良い映画」です。

さて、この「怒り」はどういう意味で良い映画だったかというと、そこはやはり「見終わってからもいつまでもあれこれ考えてしまう」という意味で良い映画でした。登場人物が多く、複数の場所でストーリーが同時進行するので場面転換も多く、しかもそれが意図的に目まぐるしく紛らわしく起きるので、油断すると置いていかれそうになりましたが、見終わってから「あの場面転換にはやられたなー」なんて振り返る楽しみがあってよかったです。少女が窓辺でピアノを弾いている場面は、そこがどこなのかわかったとき愕然としましたけど。水面に投げ込んだ石が、じわじわと波紋を広げるように、あの少女にも心の傷が残ったかもしれないと思うと。

映画は千葉・東京・沖縄と3つの場所で進んでいくわけですが、長い小説を一本の映画にまとめるために、小説で詳しく描かれていたことが映画では結構端折られていました。大きく削られていたのは登場人物の背景、それと経過する時間の長さ、小説のエピローグの部分、警察のパート。映画で三浦貴大が演じていた刑事・北見のエピソードは削られても仕方ないと思いますが、山神を逮捕するために警察がしていたことがほとんど出てこないのは、ちょっとかわいそうな気がします。北見、上司の南條(ピエール瀧)に散々辛い目に遭わされたのにねぇ。「3日ぶりに出た!」って言われたときカレーを食べてなかったのは不幸中の幸いでした。

原作と違って、映画では3人の男が3つの場所に現れてから短期間で物語が終わるので、3人の男と登場人物たちの関係があまり深まらなくて、その分結末の悲劇性が薄まってしまいました。特に優馬(妻夫木聡)と直人(綾野剛)の関係は、2人の出会い方がいびつだっただけに、優馬と直人が対等な関係になるまで尺を取ってほしかったです。いや、別に2人がきゃっきゃうふふするのを見たいというわけではなくて(目そらし)。後で書きますが、そうしなかったのには監督の意図があったのだと思いますが。

同じようなことは千葉のパートでも言えるけれど、そこはさすがに洋平(渡辺謙)と愛子(宮崎あおい)、田代(松山ケンイチ)と大河の主役が3人も揃っているだけあって、絵面に有無を言わせぬ説得力がありました。セリフで説明しすぎだなとか、軽井沢のペンションまで軽トラであっさり往復するなよとか、ツッコむところはあったけど。一番ツッコんだのは、田代が引っ越しのために軽トラを運転するのを見た時ですが。「お前免許持ってるんかーい!」って。偽名バレるやん…。(あそこは公道でなくて、免許がなくても運転できる場所なのかもしれないけど)千葉のパートは一番時間を割いている、映画のメインパートなのだから、セリフが多くなくても役者の演技だけでも充分伝わったんじゃないかなと思います。愛子を演じる宮崎あおいが、時折見せる洞のような眼がすごかった。

沖縄パートは、広瀬すず演じる泉が米兵にレイプされる場面が強烈でしたが、それ以降泉が出てくる場面がほとんどないので、実質の主人公は泉の同級生の辰哉(佐久本宝)でした。佐久本宝君はオーディションで選ばれた新人ですが、この難しい役を見事に演じています。原作を読んだ時に、「この中で一番演じるのが難しい役」だと思った辰哉を、地元沖縄出身の高校生の彼が、等身大の演技で表現してくれました。クライマックスの無人島の場面、森山未來の狂気に満ちた演技に立ち向かうのは大変だったことでしょうに。

小説のエピローグにあたる場面が映画になかったのは、尻切れトンボのような気もしましたが、希望がモテそうな千葉パートには必要ないし、東京パートで直人が優馬の家の墓に入るとこまで描いちゃうのは優馬にとって都合がよすぎる気もするので、これでいいのだと納得できました。ただ、沖縄パートは…泉は無人島に残された文字を見て、辰哉がなぜ田中(森山未來)を刺したのか理解したでしょうが、これから先彼女がどうするのかが見えなくてもやもやしました。原作と違って、映画ではあの無人島が殺害現場なのですから、警察も捜査はしているでしょうけど。

沖縄で泉がレイプされる場面は、泉という人間の尊厳が踏みにじられる様に怒りとおぞましさが爆発しそうになりました。何より憤ったのが、彼女を襲った2人の男の動きに無駄がないこと。彼らにとって、通りすがりの女に目をつけて暗がりで犯すことは、自分を奮い立たせて決行しなくてはいけないほど罪深いことではないのでしょう。ほんの出来心で。ちょっと飲みすぎて。いいじゃないかこれくらい。1人で歩いている女が悪い(自分たちは悪くない)。彼らの言い訳と被害者を叩く無責任な周囲の声が容易に想像できて、今でも気分が悪いです。そして、このおぞましいレイプの構図が、東京パートで優馬が直人をねじ伏せて強引にセックスしたときの構図と重なったのにどきっとしました。優馬と直人のそれは、最初は「イケメン2人が演じる激しいラブシーン」のように見えたけれど、実はそうじゃなかったんだなと。あの出会いから始まった2人が、悲しい結末を迎えるのは必然だったのだな…と後から気づきました。2人の関係が深まるまで尺を取ってほしかったと上に書きましたが、そうしなかったのには優馬と直人の物語を、原作と違う形で描きたかったという、監督の意図があったのでしょう。

山神一也(どうしてもたつひことタイプミスしてしまう)という人物の生い立ち、経歴について映画ではほとんど出てこないのは説明不足のようにも思えますが、監督にしてみれば、山神は警察に逮捕される前に絶命してしまうのだから、それならいっそすべて伏せてしまう方が親切だと考えたのかもしれませんね。原作読んでも、山神がどういう人間だったのか想像の範囲を出ないし。

3人の男を演じた森山未來、綾野剛、松山ケンイチは、それぞれに異なる難しさのある役でしたが、さすがの演技でした。3人の中の誰が山神なのかは、原作読んでない人でもすぐわかりそうではありましたが、わかってても充分面白い映画だと思います。というか、最初から隠す気なさそうだったし。

最後に。千葉パートの田代は借金取りのヤクザから逃げるために、偽名を使っていたわけですが、原作にあった借金取りのヤクザが洋平たちのもとにやってくる場面はありませんでした。そのせいで田代の逃亡生活の深刻さが薄まった気がしましたが、よく考えたら田代は原作と違って洋平たちに本当に助けてもらえるかどうかわからなくても、純粋に、愛子が迎えに来たから、愛子と暮らしたいから帰ってくるのだから、むしろこの結末の方がよいんじゃないかと思うようになりました。愛子は普通じゃない(洋平談)けど、借金取りが来るかもしれないけど、それでも戻りたいんだ、と。

この映画について書きたいことは他にもたくさんあるし、これからまだ湧き上がってくるかもしれないけど、今日はこのへんで。
気になるから、また原作読み返そうかなぁ。


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