年川村に大変器量の良い娘がおり、名を「おそう」といった。家の馬の面倒をよく見ていたのだが、その馬はおそうに懐きすぎて、おそうのあげる飼葉でなければ食べないほどになった。馬はおそうに懸想してしまい、挙げ句の果てに猛って襲いかかってしまった。おそうは驚き逃げ、年川の淵へと落ちてしまう。そして馬もこれを追って淵へと飛び込んでしまった。このことから、淵を「おそうま淵」と呼ぶようになったのだそうな。 『修善寺の栞』より要約
実家の近くに伝わる「おそうま」伝説。
遠野のオシラサマ伝説によく似た「馬娘婚姻譚」なのだが、養蚕との関わりは伝えられていない。
『注釈遠野物語』によると、遠野に養蚕技術が広がったのは1864年。
しかし馬娘型オシラサマの遠野=岩手最古のものは1594年のものだそうです。
とのことなので、中国の「捜神記」までさかのぼる「馬娘婚姻譚」だけが伊豆の山奥にまで伝播したと考えるべきかも知れない。
「馬娘婚姻譚」は遠野物語が有名だが、新潟などにも似た伝説があるらしいので、遠野から直接伝わったとは言い切れないが、遠野と伊豆を結ぶものとして、遠野の伊豆神社と、江戸時代の金山が考えられるらしい。
神社の関連は複雑怪奇で手も足も出ないが、金山関係はひょっとしたらあり得るのではないか? などと妄想してしまう。
神社探訪の「龍学」というサイトによると、「おそうま(襲馬)」は、かつて山路などに多かった「馬の急死」の言い伝えが関わっているのではないかとあった。
十和田に「蒼前神」という馬の守護神があるのだそうだ。
面白い意見だが、馬と娘の恋に結びつかない。
「おそうま」の淵は、私の幼い頃は如何にもそんな伝説が似合いそうな不気味な場所だったが、狩野川台風で川の姿は大きく変わってしまい、今ではどこがあの伝説の場所だったのかも分からなくなってしまった。
修善寺駅から伊東へ通じる「伊東街道」の、人家が途切れ、片側は山の崖、反対側は深い川の淵という、真夏の真昼でもどこか底寒いような雰囲気の道だった。
子供には「おそうま」という言葉の響も、不条理な物語も不気味だった。
「おそう」も馬も死んでしまった、というだけで、何の結末らしいことも教訓らしい話も続かず、プツリと切れてあとには不気味な淵の淀みだけ………
以前、実家にあった1/25000の地図で見たのだが、私の記憶にある「おそうま」らしい場所は「襲熊」という地名だったような記憶がある。
あるいは「襲熊」が「おそうま」に転訛したのかも知れないが、そうなると今度は、あんな所に熊が!? という新たな疑問に悩まされそうだ。
実家の近くに伝わる「おそうま」伝説。
遠野のオシラサマ伝説によく似た「馬娘婚姻譚」なのだが、養蚕との関わりは伝えられていない。
『注釈遠野物語』によると、遠野に養蚕技術が広がったのは1864年。
しかし馬娘型オシラサマの遠野=岩手最古のものは1594年のものだそうです。
とのことなので、中国の「捜神記」までさかのぼる「馬娘婚姻譚」だけが伊豆の山奥にまで伝播したと考えるべきかも知れない。
「馬娘婚姻譚」は遠野物語が有名だが、新潟などにも似た伝説があるらしいので、遠野から直接伝わったとは言い切れないが、遠野と伊豆を結ぶものとして、遠野の伊豆神社と、江戸時代の金山が考えられるらしい。
神社の関連は複雑怪奇で手も足も出ないが、金山関係はひょっとしたらあり得るのではないか? などと妄想してしまう。
神社探訪の「龍学」というサイトによると、「おそうま(襲馬)」は、かつて山路などに多かった「馬の急死」の言い伝えが関わっているのではないかとあった。
十和田に「蒼前神」という馬の守護神があるのだそうだ。
面白い意見だが、馬と娘の恋に結びつかない。
「おそうま」の淵は、私の幼い頃は如何にもそんな伝説が似合いそうな不気味な場所だったが、狩野川台風で川の姿は大きく変わってしまい、今ではどこがあの伝説の場所だったのかも分からなくなってしまった。
修善寺駅から伊東へ通じる「伊東街道」の、人家が途切れ、片側は山の崖、反対側は深い川の淵という、真夏の真昼でもどこか底寒いような雰囲気の道だった。
子供には「おそうま」という言葉の響も、不条理な物語も不気味だった。
「おそう」も馬も死んでしまった、というだけで、何の結末らしいことも教訓らしい話も続かず、プツリと切れてあとには不気味な淵の淀みだけ………
以前、実家にあった1/25000の地図で見たのだが、私の記憶にある「おそうま」らしい場所は「襲熊」という地名だったような記憶がある。
あるいは「襲熊」が「おそうま」に転訛したのかも知れないが、そうなると今度は、あんな所に熊が!? という新たな疑問に悩まされそうだ。