映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

マノエル・ド・オリヴェイラ 語録

2011年12月17日 | 映画の覚書
●今日の映画を再考する (2003年12月、ポルト)
― 鳥を真似て空を飛びたいと願ったダ・ヴィンチは、潜在的な願望の力に突き動かされ、人間の条件を超越して空を飛ぶという至高の欲望に身を委ね、この成功なき試みを行いました。これと同様に、人類が大昔から持っている多くの願望の一つとして、静止している物であった画像に動きを導入しようという考えは生まれて来たのだと、私は言いたいのです。ある人はそれを進化と呼び、またある人は進歩ないし文明化と呼ぶでしょう。この願望に従って、ずっと後になって発明されたのが映画なのです。画家たちは、彼らの作品を動かそうとするのに、大きな困難を感じてはいなかったでしょうか。幾人かは、作品の一部あるいは全体で動きを示唆し、その表現を行動の瞬間のスナップ写真であるかのように定着させていたではありませんか。しかしながら、これは何世代も受け継がれて来た鉄のように強固な願望でしたから、多くの様々な試みを経た後、エジソンの発明と、リュミエール兄弟の、より決定的な影響力を持つ発明として実現する事になったのです。即ち、映画というものは、一つの執念の下に生まれて来たのです。それは、運動という執念です。その結果、運動という考えは、映画とは即ち運動であるという強迫観念を導き出してしまうのです。だからこそ、エジソンとディクソンが創造した初歩的な装置は、運動を意味するキネトグラフェ(Kinetographe)という呼称を冠されたのでした。そしてこれが映画の概念となり、今でも一部で受け継がれているのです。けれども、アートを愛する、新しもの好きだった初期の名匠たちのお蔭で、映画の進化プロセスは、運動という単純なアイディアを変容させ、映画を飛躍的に豊かにする事になる他のアイディアも付け加えられて、遂には映画を第七の芸術というカテゴリーにまで高める事になりました。
 科学や芸術、社会や人の人生は、時の流れと共に自然な進化を遂げて来ました。そして、30年代以降、映画はサウンドを得て、視覚の為だけの物から聴覚にも訴える物となりました。一部の純粋主義者たちにとっては、これは映画の元々持っていた形を不自然にしてしまう物に見えました。また実際に、そうであったのですが。そして最も優れた監督たちも、これを認めようとはしませんでした。沈黙の芸術として理想化されていた映画を裏切るものと考えたからです。サウンドの登場は、元々無音で生まれて来て、演劇や文学上の古い首かせを解き放った映画の純粋さを変質させてしまうように、彼らには思えたのです。そして私は、自ら見て、読んで、感じたものによって、サウンドに反対している者たちに共感していたのです。彼ら反対者たちは、無音の映像と、その組み立ての妙に何か特別なものを見ていました。私が最初に学び、映画についての教養の基礎を得たのも、この映画の初期段階の諸作品からでした。しかしながら、既に述べたように、30年代の初めからサイレント映画の全盛期に続いてサウンドが現われ、次いで言葉が現われる事になりました。これは、それまでの映画の概念を根本的に変容させるもので、その変容は、カラー映像の出現によって更に強められました。以前は、人の見る夢のように、無音で白黒であった訳ですから。このような夢にも似た一面を失った反面、映画が別の種類の幻影を得る、即ちリアルな外見を持ち得る物となった事が認識されるまで、さほど時間は掛かりませんでした。
 キネトグラフェのアイディアは、運動が映画の発明を後押ししたからでしょう、アメリカ人たちをして、彼らの作った最初のトーキー作品に「トーキー・ムーヴィー」と名付けさせました。この命名は、運動こそが映画の基礎となるものであるという考えを無意識に定着させるものでもありました。私は、それまでの考えを捨てて、サウンドと言葉とカラーの登場に立ち向かう事にしました。世界は既に変わっていたのであり、人々の考え方も変わっていたのです。それに従って映画も進化し、運動とその組み立てに基づいていていたシネマトグラフ[リュミエール兄弟が発明した撮影・映写機]の土台を変容させる新しいテクニックを自らに加え、以前のものを時代遅れとしたのでした。このように映画は、それまで以上に、例えば演劇と同じように、全てのアートの統合体として作られて行き、四つの要素―即ち映像(動いているもの、いないもの、カラーであるもの、そうでないものを含む)、サウンド、言葉、音楽―を内包するようになったのです。ジャン=フランソワ・リオタールは、この一方と他方との間にある差異を見付け、こう言いました。舞台装置や俳優が物理的に存在する演劇は、物理的(マテリアル)である。一方、映画は非物理的である。なぜなら、映写機や銀幕は物理的に存在するのであるが、映写された映像は非物理的だからである、と。従って、我々が実際に起こった出来事を撮影しようとする場合、銀幕に映写された事実は既に本当の出来事ではなく、過去の出来事の亡霊なのであって、それが出来事であれ、単なる物であれ、事実そのものでは決してありません。フィクションの映像の場合も同じ事で、撮影時には現実であったものは、銀幕やテレビ画面に映写される時には、人はその事実を前にしている訳ではなく、撮影されたものの亡霊を見ているに過ぎません。ですから、どのような現実ないし架空現実を撮影した映像であれ、それは常に、ある事実の亡霊である訳です。最初は映像-運動という概念で行われていたのを受け継ぎ、ジル・ドゥルーズは映像-時間という概念に沿って映画を分析しました。初めは運動と関連付けられていた映像が、第二段階では時間と関連付けられているのは興味深い事です。事実、運動を物理的は意味合いで捉えた場合、運動とは時間を消費するものであり、たとえそれが場所を変える事無く、例えば同じ場所で揺れる動きであっても、時間の消費無くして運動が存在する事はありません。人物や物体が一定の空間で動く場合、乃至、ある地点から別の地点へ移動する場合も同じです。ここまで我々は、運動と関連した映像、時間と関連した映像について話して来ました。しかし、話されたり読まれたりする言葉も時間を消費するものです。話す行為の長短によって、その長さは変わり、強制的にある一定の時間の経過に相当するものです。その唇の動きを聴覚障害者が見た場合は、サイレント映画の様相を呈する事でしょう。映画は今日、視覚的であると同じほど口述的、サウンド的であり、目に訴え掛けると同様に耳にも訴え掛けるものです。
 モリエールは今から三百年も前に、興味深い事を言いました。「言葉は思考を説明する為にあるが、同時に物事を描写するものでもあり、同様に思考の記述でもある」。即ち我々は、思考と言葉も映像なのだと言える訳です。物事の描写は言葉から生まれるものではないでしょうか? 椅子と言えば、椅子の概念に合った映像が脳裏に浮かぶでしょう。言葉はまた感情の表現にも使われ、感情を正確かつ明快に、或いは説明的に表します。この場合も、人の顔が何らかの感情を表現するのに消費する時間と、ほぼ同じだけの時間を費やすものです。運動と時間とは腕を組んで進み、言葉と映像は、双方が混同されるのでなければ、融合すると言っても良いでしょう。時間は運動でもあり、言葉は映像でもあると言えるのです。絵画や写真のように固定された映像には動きがありませんから、時間という観念を与えませんが、しかしある一瞬を常に占めるものです。この瞬間は絵画や写真によって示され得るものであるか、もしくは見られている間の時間という事になります。しかし映画に於いては、どの映像にもその時間的長さがあり、作品その物にも映写時間が存在します。ジル・ドゥルーズが映画についての二冊の著書に於いて、一冊目の『映像-運動』というタイトルにも、二冊目の『映像-時間』というタイトルに於いても聴覚的な面に触れていないのは興味深い事です。この事は、本稿で追って来た道筋に合致しているように思えます。また本稿の道筋自体、この二冊目の『映像-時間』というタイトルにぴったりと納まるのです。即ち、言葉は運動-時間であるだけでなく、映像でもあるという事。では、言葉は映画でもあるのでしょうか? この事を再考しつつ述べますと、フィルム作品に使われている四つの要素の内の映像を除く三つは、様式という面で異なるものであり、映像では無いにも拘らず、逆説的に映像として認める事が出来るものなのです。(1)映像(2)言葉(3)サウンド(4)音楽。この四つの要素こそが、ドゥルーズの時間-映像という概念に集約される、今日の映画を形作る基本的な特徴であり、そこでは四つの内のいずれもが、いつ何時に於いても、監督の扱い方次第で、最も強い支配的な要素―でなければ、作品を最も豊かにする要素となり得るのです。これまで見て来たように、視覚的な面に於いても聴覚的な面に於いても、全ては時間-映像に集約されます。また、ある意味で聴覚的な物には全て、視覚的な土台がある。或いは、音楽の場合などでは、個別の特有な感動の揺れがあります。だからこそ、逆説的ながらも、極限にまで高められたサウンドの複合体は、それ自体が映像でもあるのです。こうした全てを思う時、私は、運動に対する映像の固定性の問題、即ち古典的な絵画のように、固定映像を固定された平面上で用いる事に立ち戻ります。例えば、あのダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と、あの作品から来る、全ての要素の完全な固定性を思い起こすのです。彼の「受胎告知」を見れば、それが更に強く感じられます。あの作品では飛ぶ事を意味する天使の羽までが、聖処女や周囲の空間の全てと同様に停止の状態にあります。そこでは完璧な固定性が支配しており、これは映画-運動の考えとは反対のものです。しかも、この完璧な静止性にこそ、この作品の不思議な力の全てがあるのが分かります。つまり私は、時間と運動は等しなみであり、それぞれが適切な状況下で適用されているのだと言いたいのです。この見方は、我々から運動という考え、そして時間という考えすらをも奪うものです。映像を、永遠性という捉え方に等しい土台に据えるが故に。ジル・ドゥルーズは、その『映像-運動』の序文で、こう述べています。「これは決して私のテクストを説明しようとする複製ではない。なぜなら私は逆に、自分のテクストが、映画鑑賞者それぞれにとって多かれ少なかれ懐かしい思い出になり、感動や知覚を与えた優れた作品についての説明にならない事を願っているからだ」。
 結論を述べましょう。アリストテレスが言うように、「精神(魂)は決して映像なしに考える事はな」く、そこでは思考を映像と化しているのであり、モリエールが言うように「言葉は思考を説明する為にあるのであり、同時にそれは思考と物事の描写でもある」のであれば、強調されるべくは運動ではなく、映像です。思考と言葉が映像でもあるのなら、映像としての映画は思考と言葉の混合体なのです。しかしながら、今日、映画について私が抱く考え、或いは自分の作品のコンセプトに使用しており、他の監督たちもそれぞれの作品に用いている考えは、フィルム作品は四つの要素―即ち映像、言葉、サウンド、音楽から成立しているというものです。これらの要素は時間-運動に集約され、今日の映画の基本的な特徴となっているように私には思われます。そこでは言葉は、ある状態に於いては最も力強く、最も作品を豊かにし得るものであり、更に多くの状況下では、最も素早く効果的に、人々の考えや感情に到達したり、これを深めたり出来るものです。筆を置く前に、私にとってモニュメントである映画について、現在私が抱いているこの見方を象形的に表しておきたく思います。私自身の作品についてではなく、フィルム作品全体、つまり映画全体について。このモニュメントは、四つの要素を表す、それぞれ独立した四本の支柱と、この四本柱が支えるポルティコ[柱廊玄関]から成っています。ギリシアの神殿のように。既に記したように、最初の柱は映像、二本目は言葉、三番目はサウンド、四番目は音楽であり、その上に乗る前面のポルティコが、四本の柱に意味と統一性とを与える考えの源を表しているのです。 (蓮實重彦、山根貞男、吉田喜重編著「国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年「OZU 2003 」の記録」朝日新聞社より)


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