本年4月26日に見つけた長野市立川田小学校の金次郎像の寄贈者に「ブラジル日報」誌の丹念な調査でたどり着けました。Web版でご欄になった方もおありでしょうが情報共有させていただきます。
「金次郎像の南米寄贈者を探して・・・」ブラジルに広がる報徳思想 を掲載の「ブラジル日報(7月11日版)」紙のヤフーニュースのリンクです。https://news.yahoo.co.jp/articles/b125e0416e9424de24bfb277379273f796a49313
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ブラジル記者コラム》「金次郎像の南米寄贈者を探して」ブラジルに広がる報徳思想
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7/11(火) 7:00配信
長野県の小学校の金次郎像寄贈者が在南米
長野市立川田小学校の校庭に建立された二宮金次郎像(沼田さん提供)
「義家友之助ご本人か関係者の方がいらっしゃったら、この金次郎さんを見ていただき、その心境をお聞きしたい」――長野県北佐久郡に住む沼田清さん(77歳)から5月にメールが届き、そこには長野市立川田小学校の校庭に建立された二宮金次郎像の写真が掲載されたブログのリンク(https://blog.goo.ne.jp/numatakiyoshi/e/543d24d1d87c68b9208b51fe4eeec102)が張ってあった。銅製の立派な像の足元には、寄贈者名として「在南米ブラジル 義家友之助 昭和29(1954)年9月15日」とあり、さっそく探してみた。 ブログの作者、沼田さんは長野県北佐久郡御代田町在住。40年前に埼玉県日高市の開拓地だった場所に住んでいた頃、戦前戦後に苦労した入植者が建立した報徳神社(二宮尊徳)があった。そこで「境内に二宮金次郎像を立ててはどうか」という声が若者から沸き、秋の例大祭に合わせて建立。その経験から金次郎像研究が始まった。 少子化の波もあって小学校が統合・併合され、新設校には金次郎像がない。「廃校になった校庭にひっそりとたつ金次郎像がいつの間にか消えていくのを寂しく見ておりますが、どうしようもありません。しかし、薪を背負った金次郎像には必ず寄贈者がいらっしゃいます。寄贈者のお心を想うと黙って消えていくのを見てるわけには行けません」と思い立ち調査を始めた。 これまで10年ぐらいで長野、群馬、埼玉、新潟、北海道、広島、静岡、台湾などで200体以上見つけた。「いずれは全数調査したい」と考えている。その途中、4月末に義家さん寄贈の金次郎像を見つけ、ブラジルの邦字紙に問い合わせてみたという経緯だ。
義家友之助さんを探して
寄贈者名が記された金属板(沼田さん提供)
さっそく本紙が「義家友之助」名でネット検索すると、国際日本文化研究センターサイト内の『日本新聞』PDF版が引っ掛かった。戦前にサンパウロ市で発行されていたこの新聞は1932年1月に翁長(おなが)助成によって創刊され、最盛期には7500部程度の発行部数で、当時4番目の邦字紙だった。 その1935年9月27日付6面の「東北地方凶作義援金寄附者芳名第11回」のパラナ州コルネリオ・プロコピオ駅のところに《六ミル義家友之助》と書かれている。最高額が10ミル、最低額が2ミルなので多めの金額だ。 さらに同紙1936年12月16日付4面の広告欄にも「西村組」という土建会社の運搬部門の責任者3人の中にも義家友之助と書かれており、住所はやはりコルネリオ・プロコピオになっている。これは北パラナのトレス・バラス移住地(アサイ移住地)の造成に関わった会社で2段ぶち抜きの大きな広告だ。 つまり、戦前にコルネリオ・プロコピオに住んでいた「義家友之助」がいることは間違いない。珍しい苗字なので多くはないはずだ。そこで、ブラジル日本移民史料館の移住者データベース「ASHIATO」で調べると、一人だけ該当した。1919年3月25日サントス着の博多丸で渡伯した人物に「義家友之助」がいた。しかも出身地が長野県。カナン耕地に入植したようだ。 同データベースで長野県出身の戦前移住者の「義家友之助」は一人しかない。おそらく彼に間違いないだろう。もしかして子孫が今もコルネリオ・プロコピオに在住していないかと考え、同地文化体育協会のコダイト・マコト会長に相談したところ、孫の義家マサコさんを探し出してくれた。
・・・つづく・・・