”スローライフ滋賀” 

近江・五個荘商人発祥の理由 (現東近江市)

 湖東の五個荘地区(東近江市)とその周辺の地域からは多くの近江商人が生まれた。なぜこの地域から多くの商人が輩出されたのか、その理由を考えてみた。
*近江八幡、近江日野そして五個荘地区周辺から多くの近江商人が生まれた。勿論、彦根や高島周辺からも大商人が輩出している。

 第1に、びわ湖の東部、湖東地区は、麻」の地場産業が盛んだったことがあげられる。
室町期より原料麻の栽培、製糸、染色、麻布の機織り等の手工業が行われていた。江戸の末期になって、地方の庶民にも貨幣経済が浸透したことにより、この地で生産された麻布を各地へ持ち下って商売することが可能になった。持ち下り商で成功した者が各地で店舗を開設し、やがて豪商となっていったのである。

 第2に、この地域は交通の要衝であった。
この地には中山道が通っており、京・大阪と東海、北陸、信州、関東を結ぶ交通の要衝であった。この地で生産された麻布を中山道、北国街道、東海道を通って地方へ持ち下ることができたのである。
また交通の要衝であったということは、同時に京・大阪、西国の情報と関東、東国の情報が集まりやすく、商売に有利に働いたと想像できる。

 第3に、地域の経済事情が影響したことが考えられる。
近江は農業生産高の高い国とされるが、この地区は東の繖山(きぬがさやま)と西の愛知川(えちがわ)に挟まれた土地で、耕地の面積が狭く、また必ずしも肥沃ではなかった
 農家は、麻布の機織り等を兼業して生計を立てていた。農家の二男三男は、江戸期には持ち下りに出かけ、明治以降は高等小学校を卒業すると京・大阪等の地元出身者が経営する店へ奉公に出た。彼らの中から店の経営者や幹部になり成功した者も少なくはない。

 第4に、企業家精神に富んでいたことがあげられる。
先人が進取の気性と才覚を持ち、果敢に峠を越えて他国へ持ち下り、財を稼いで帰郷した。これに触発されて多くの人々が後に続き、持ち下り商いに出たことであろう。成功して豪商となった後も、後継者の代々にわたって進取の気性は受け継がれていったものと思われる。

 第5は、商売の哲学にある。
伊藤忠兵衛は熱心な浄土真宗の門徒であった。「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買いに何れも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」と信じて店の経営と店員の養成に全精神を集中したという。
売り手によし、買い手によし、そして世間よし」の「三方よし」の精神で商売に勤しむことは、神仏の教えに適うものと信じることよって、様々な困難を克服して経営に専念できたものと考える。
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