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【滋賀・近江の先人第233回】明智光秀の娘・細川ガラシャ(大津市)

細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)/ 明智 (子)(明智 (子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年(1563年)- 慶長5年(1600年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

明智光秀と妻・煕子の間に三女として光秀が朝倉義景を頼り10年間仕えたときに越前国(福井県)で生まれた。細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い。
子に、於長(おちょう: 前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら: 稲葉一通室)などがいる。

ヒストリー
忠興に嫁ぐ
永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる。越前国で生まれる。
元亀3年(1573年)頃、父明智必秀の居城である近江坂本城(大津市)に移り、16歳で細川忠興に嫁ぐまでの6年、坂本で暮らした。
天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる。 天正6年8月、青龍寺城(長岡京市)に輿入れした(『細川家記』)。
天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。
青龍寺城で2年を過ごした後、天正8年8月、夫忠興が丹後宮津12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る。

本能寺の変
しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも山崎の戦い後に滅んだため、珠は「謀叛人の娘」となる。
忠興は天正12年(1584年)まで彼女を山深い丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘、佳代)らの侍女達だった。

当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通である。それをしなかったのは、明智家がすぐに滅んだという事情もあるが、明智家の「茶屋」があった味土野に送られたことから考えて、離婚はしなければならなかったが、忠興には珠への愛情が断ち切れなかったからではないかと指摘されている。その証拠として、幽閉時代に男子二人を含む何人もの子供を出産しており、珠を明智家の茶屋のある地に住まわせることで形式上は送り返したことになるからである。

キリシタンへ
天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視した。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。しかし改宗に至る内面的な動機については、はっきりとしたことは分からない。

天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。
天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。
細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。

再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。
バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった。

壮絶な最期
九州から帰ってきた忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。

慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。

この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。

ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉。

なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
彼女の死後、三男忠利が二男興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった。

この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集めることを、むやみに拡大することはなかった。

異説
一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害した、とある。

『言経卿記』慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが伺える。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても、『慶長見聞集』には「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである。

なお、細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男・忠隆(天正8年生)、次男・興秋(天正12年生、あるいは11年とも)、長女・長(生年不明、前野長重室)、三男・忠利(天正14年生)、三女・多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない。

人物
 キリシタンの宣教師が彼女の性格を評したものや『細川記』に採録されている逸話を見ると、気位が高く激しい性格の持ち主であったらしい。しかしキリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
一旦、事がある時は甲冑をつけ馬に乗り敵に向かっても、私は男にさまで劣るまいと語った。
夫の忠興が家臣を手討ちにして、その刀の血を彼女の小袖で拭っても動ずることなく、そのまま数日間も着替えないので、結局は忠興が詫びて着替えてもらった。
忠興がある夜彼女の部屋に入ってきて「小夜ふけて入たる物は何やらん」と戯れてうたいかけると、即座に「ともしび消えて閨の星かげ」と答えたとされる。

<Wikipedia引用>

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