教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

施工管理工程表・・・【感知しない】から【感じる】へ その28

2013年07月07日 | 哲学

 我々は、「平均・平等」の行為の中に、それを遥かに越えるもの、それを遥かに下回るものを「差別」する「切捨てる」という行為を同時に育ててきた。つまり、混乱する構造・内容・活動の発言を「不良」と呼び、ないがしろにしてきたのだ。そのれは、言語学による常識手段と、時間の流れと同等に習得しうる平均的な知識の教育の予測の成果と、機械的集中管理体制に(他にもあるが)依存しているとは考えられないだろうか。意味(答え)のわからないものは、正確性のないものとし「差別」し、正確性があると信じる時間の中で知識を計り、平均を取りそれ以外を「切捨て」、馴染みある意思疎通のできるものだけを取り入れ、真実にしているにすぎないのではなかろうか・・・。

 我々が言う、「六・三制」または「六・三・三・四制」には、平均値を出しやすく、平等に振舞える、時間的固定化観念を含んでいる。それは、決められた時間内に学び、決められた時間内で教えるという、過酷な囚労のようなものだ。そして、平均値を出しやすくした結果、「学力低下」という問題をかかえることとなった(その中には教育力低下も含意されている)。そしてその平均値を平等の値と勘違いしている。制度や規則の問題というのは、増え続けるのは一般的に当たり前の事である。しかし、この場合は「学力と精神」過程をまったく分離して考える、平均値思考の中に発生しているのではないかと思える。平均値思考の中には、だれもがそうだと納得できる、そのものの性質を表す「客観性」を必要とし、「自己の物差し」という実験装置の中で圏外にならないような「妥当性」を必要とする。ここでいう「妥当性」とは「的当性」とは違い、「適当性」を示すもめである。つまり、真なる自分の心とは違い、欺瞞の中に現れる「もう一人の自分(内面から見ている多方面の自分)」である。



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