前回、あらかじめ決められた方程式。つまり、時間と構造と環境の支配力によって最低3通りの反射のうちのどれかに対応させる習慣があると述べた。「古くからの意志」「新しい者へ同意」「自己の変化」、どれかに偏った対応がストレスを感じさせると・・・・・。そして、力学的な方程式を応用のように損益に当てはめ、ストレスを解消しようと考える。それでもダメなら、別の次元(空間)に移動を試み、最終的には現実逃避という形で「ストレスに対して」構造と環境を変化させようとする。自分が苦痛に感じるストレスレベルが高いほど、構造と環境を変えようとするものだ。しかし、構造を変えようと、環境を変えようと、そのストレス解消を期待する視点から見ると、新たなる混乱が生まれる。それは、自分を観察しているもう一人の自分だ。そのもう一人の自分とは決して馬が合うことなく、うまくはいかないものだ。もう一人の自分とは、自分の行動(振舞)を観察するだけの(分類するだけの)現実には傷つくことのない、独立したしかたで(見えないが)確かに存在する。しかし、関与的な構造的歴史に対してアクセスできる幻影的存在だ。過去の観察結果(トラウマや思い出)など、過ぎ去ったものを収納しその収納部分へアクセスできる存在だ。観察対象のそのものの、癖や感情的表現、感覚的表現、すべてを知っているが、そのもう一人の自分に身を委ねることは、有効な期待をするだけの行動ではない時間に任せた解決をすることになり、他人の視点からすれば意志のない、自己主張のないものに見えるものだ・・・・・。
ストレス(不安定)とはある程度必要であり環境と構造を維持するための「豊かな」攪乱である。つまり、我々が進化し続けるための「エッセンス」なのである。
限界を感じ、ストレスに対応できなくなった生物はいく種も存在していた。それは時代(時間)の流れか?構造上の問題か?環境の問題か?それは私にはわからない・・・・・。しかし、それでも存在する我々は、最低その3つの対応を維持しているからである。そして、それが維持できなくなれば我々は確実に滅びるであろう。さらに、偏った対応の仕方もその限りではない。ストレスに「豊かさ」を感じてみよう。革新という「エッセンス」に見えるかもしれない。そうすれば一人の自分(観察者)、馬の合わないもう一人の自分(観察者)の観察部分(視点)が変わり、今までアクセスしたことのない部分から情報を読み取り、新しい自分に関与する進化が生まれるかもしれない。
しかしこれだけでは説明が不十分すぎるようだ。
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