観察者にとっての問題を無理矢理、認識の中にある構造の一部に対応させるという振舞が内的に起きるとき、色々な状況に置かれた差異を感じることができる。おおげさに言うと「知恵の樹」という書物にある、ずっと潜水艦の中で生きてきた人の話で例えることができる。
【彼はそこから出たことはなく潜水艦の操縦だけは教えられていた。君は岸辺に立ち、潜水艦が優美に浮上してくるのを見ている。それから君は無線を使って、操縦士に呼びかける。「凄いですね!暗礁を避けて、見事に浮上しましたね。あなたは潜水艦の操縦が、本当におじょうずだ。」潜水艦の中の操縦士は戸惑ってしまう。「何ですか、その暗礁とか浮上とかって?私がやったのはただいくつかの操作手順をこなし、いろんな計器のあいだにある、関係を作り出しただけのことなんですよ。それは全部、私がよく馴れている、あらかじめ決まった手続きに従っているんです。特別な操作は何もしていないし、それに何より、あなたは潜水艦とおっしゃてますね。なんのご冗談でしょうか?」】
この書物によれば、『潜水艦の中の人にとって存在するのは、さまざまな計器の示す数字と変化と、それらが相互に結んでいる特定の関係を読み出す方法だけだ。潜水艦と環境との間の諸関係がいかにに変化をするかを見ている外部にいる君にとってのみ、潜水艦の行動は存在し、そこから生じる結果のよって適切なものに見えたりそうでなかったりするわけだ。論理的判断を明確に維持しようとするのであれば、潜水操作そのもの外的視点と、運動および環境内での位置変化をともなう異なったさまざまな状態からなる内的視点とを混同してはならない。外部世界を知らない操縦士を持つ、潜水艦の異なった諸状態の内的視点は、外部にいる観察者が見ているような世界の表像とは、まったく関係のないところで生起している。それには「岸辺」も「暗礁」も「水面」も関係なくて、ただある限界内での計器類の相互関係だけがかかわっているのだ。岸辺、暗礁、水面といった実体はただ外部の観察者にとってのみ有効であるにすぎず、潜水艦にとっても、その構成要素のひとつとして機能する操縦士にとっても、有効なものではない。』と、言う。
無理矢理、認識の中にある構造の一部に対応させるという振舞は、時間と構造と環境によって支配される。時間と構造は常に新しいものじゃなく、古いもの(閉じ込められた記憶)にも対応し、時間と環境には新しいものを追及するものであり、構造と環境は関係に対して変化をするということになる。つまり、認識の中の構造は最低、3通りの反射のうちのどこかに対応させている。「古いもの・新しいもの・変化」のどれかに対応させる習慣があるということだ。それゆえに、流れの速いこの時代ではストレスを感じるほどの差異を覚える。
「今のままで良いのだろうか?」と思うとき、この3つの反射に混乱することになる。そしてそれは、感覚=行動という形で表面上に現れ、良くも悪くも我々は「プラス・マイナス(どの式を選べば正解か?)」という力学的な感覚=行動という考えをとることになる。ある者にとっては「古くからの意志」に対応させ、ある者にとっては「新しい者に同意」を対応させまた、ある者にとっては「自己を変化させること」に対応させる。つまり、偏った対応によりストレスを感じているのだ。あらかじめ決められた方程式を当てはめるような、習慣が身に付いているだけなのである。
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