教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

施工管理工程表・・・【感知しない】から【感じる】へ その27

2013年07月04日 | 哲学

 では、既存の文化に(教訓・教育に)盲目的に従い文化を(教訓・教育を)機械的に学習する「客観性」に注意をはらうとは、どういうことか。それには根本的なことに目を向ける必要があるということだ。根本的なこととは、読んで字のごとく「根元」「基礎」つまり、存在するが外見には見えない部分、足元よりもさらに下の部分をいう。言語でいえば、動詞の作用に当たる部分で注意力を喚起させる機能であり、ある意味、主語よりも影響を与える部分であり、名詞の名付け親となれるものである。つまり、活動の源となる部分である。

 その昔、金八先生(武田鉄矢さん)が「人」という文字を書いたことがあった。「人」という漢字は、「人と人とが支えあっている姿」だという名言を唱えた。「人」と言う名詞に「動的意味」を与えたのである。「動的意味」には、注意力を喚起させる機能があり、それが「人」という動的活動の源を示したのである。一般に私たちが口にして発する「人」には、「静的感覚」にとらわれやすいが、文字にすると「動的役割」が見られることがある。どちらにしてもある意味、動的作用は果たしている。が、私たちは本来、思考のカテゴリーや五感に届く(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)機会が多いほど深く理解できるものだ。つまり、動的作用は私たちの思考のカテゴリーや五感に多大な影響を与えなくてはいけない。そして、その影響は「耐力試験」を繰り返し、観察され、真実となり、活動の根源となるものである。

 大きな組織・国家(幹)となると、「主義・体制・制度」を利用し、諸部分を分割し活発に動かすための動力としての役割(枝)を与える。さらに部分の中では、「根本」に似た「ビジョン」を掲げ、その部分(組織・グループ)の「主義・体制・制度」を認識できる(文化を信頼できる)人格者の中だけに浸透してゆく(花や葉)。しかし、組織・国家全体の役割とはほど遠い諸部分だけでの文化の営みとなり、次の段階を動かすための認識できる(機械的な)信号を送る働きだけをする。我々は、その諸部分の役割が大切なのだと学習させられてきた(その文化・発信機・レールの中のでの学習の集大成を「エリート(花や葉)」と呼んでいる)。そして、その諸部分の働き(文化が)が組織・国家全体に影響を及ぼすものだと、信じて疑わない。

 しかし、その部分で習得した学習では限界がつき物であった(環境因子、時代の差による思考・地方・都市・学歴などによる)。それは、「エラー」に対応できても「イレギュラー」には対応できないものたちを生む手助けの一要因となった。なぜなら、その「イレギュラー」に対応するには、「イレギュラー」に対する知識が必要だからだ。しかし、環境により「イレギュラー」も変化し、ただたんに要因だけが増加してゆく。浸透している安定して妥当性のある「ビジョン」の中では、平らな面を弾む・転がる「データ」を拾い集めるだけのような生産となり、「エラー」には確立的想定内で予測し対応し、「主義・体制・制度」と共に衰退してゆくエネルギーを見ているだけのものとなってしまった。予測不可能な意味不明な不可解な不規則なもの(イレギュラー)は増え続けるが、それを扱う手段は知らない。そして、「そんな教育は受けていない」と、その発言の中では、「しかし、身や精神を守るための教育は受けてきた」と発言している。だから簡単に「想定外である」といってしまう。

 「イレギュラー」に対応できないのは、「平均化」という文化が対応している。「平均」を遥かに越えるもの、それを遥かに下回るものの「思考過程」を取り扱わなくなってきたからだ。その文化内での「思考内容」は一定の限られた領域内でしか身動きはとれず、文化の常識に従う内容になりがちだ。つまり、常識を真実としているのである。しかし、実際常識とは、様々な「耐力実験」を乗り越えた、ある文化での期限不明の真実である。だからこそ、そこに当てはまる安定した心理の中では、常識の中のほうが居心地がよいのである。まさに、「イレギュラー」に対応できなくなる手段を選んできたのである。教育とは別物であると考えても間違えはないだろう。

 その思考での「イレギュラー(予測不可能な意味不明な不可解な不規則なもの)」は、不愉快で攻撃されているような混乱する感覚を抱く。それは、そのようになるように選び、自学してきたからである。実際その部分での自学は、あらゆる「知性の看取活動」であるべきであった。そのため一定の限られた領域外では、真偽を問う行為となり、「強調性」「保守性」「固執」「自己欺瞞」が同時に押し寄せそれを同時に必要だと認識してしまい、不愉快で攻撃されているような混乱を抱くことになってしまうのである。そして、それが感情と結合してしまえばもはや、真偽すらも存在を失い、その感情を保つだけのエネルギーを必要とする思考に変わってゆく。それは平均化された、なじみある世界へと導くために・・・・・そして各分野・文化へと再びもどってゆくために・・・・・。

 自学が「看取活動」であったならば、スプーンやフォークや箸のように、流れの緩やかな「カリスマ性」のある文化となったであろう。我々に備わっている「五感」を最大限に利用し、注意力は職人のように鍛錬され、それを伝達する手段をも育てることができただろう。思考のカテゴリーや五感に触れる「動的感覚」と六感目にある「直感」を磨き「カリスマ性」のある「耐力試験」を乗り越えられる「根本」に近づけるのだと私は思っている。形而上学や宗教とはまったく違う!六感目の存在は誰もが気付いているはずだ。

 五感という「カテゴリー」の中で(六感目も含め)分離できるものなど実際にはありえないと信じたい。そして、「時間や空間」に「自由」であれと、願い、信じたいものである。



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