結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

「瀬長グスク」「子宝岩」「平敷屋朝敏と組踊り『手水の縁』」…豊見城市瀬長島

2014-02-27 | 文化

 豊見城市「瀬長島」の「子宝岩」「平敷屋朝敏生誕三百年記念顕彰碑」などを訪ねました。豊見城市では「豊見城市発祥の地とされている瀬長島について、自然環境や歴史文化を活かした観光拠点の整備を実現するため、必要な施設並びに設備、サービスなど瀬長島の全体のあり方を瀬長島観光拠点整備検討委員会で検討し、『瀬長島観光拠点整備計画』としてとりまとめています。」

引用(瀬長島観光拠点整備計画【概要版】 http://www.city.tomigusuku.okinawa.jp/index.php?oid=58&dtype=1005&pid=176

01-0226 瀬長グスク

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03-0226 子宝岩

04-0226 子宝岩

「上ぬ穴いりば いきがんぐわなさい 下ぬ穴いりば いなぐなすさ」

05-0226 子宝岩

「子宝岩…戦前は、ここの波打ちぎわに石灰岩が隆起してできた高さ数メートルの岩があった。その岩には上下二つの穴が開いており何時のころからか村内外から人々がここを訪れ『子宝に恵まれますように』と祈り、男の子が欲しければ「上の穴」、女の子が欲しければ「下の穴」へ。小石を投げ入れて願かけをする習わしがあった。地元の人々は、その岩を親しみを込めて「イシイリー」または「子宝岩」と呼んだ。」

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07-0226 竜宮之神

08-0226 竜宮之神

09-0226 サンセットパーク

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12-0226 瀬長島(瀬長グスク)

13-0226 瀬長島(瀬長グスク)

「瀬長島(瀬長グスク)…潮長島は、豊見城(とみぐすく)市西岸から沖合約600mに浮かぶ周囲約1.5km、最標高約30m、面積約18haの島である。戦前まで約30戸が北側平野部(現・野球場一帯)に集落を構え、半農半漁の暮らしを営む有人島であった。 太古(たいこ)の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子南海大神加那志(なんかいうふがみかなし)が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥(はっしょう)伝説が残る。 島内にはかつて瀬長グスクカあり、瀬長按司(あじ)が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』の中で、『瀬長按司ハ王位ノ御婿(むこ)ニテ…(巻8)、『往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ…(巻12)』と記述ざれている。これまでに中国製青磁(せいじ)や陶器(とうき)・グスク系土器などが出土している。 地元では古くから島を別名「アンジナ」と呼んでおり、按司のいる砂島がアジシナシマへ転訛(てんか)し、それがアンジナになったとも伝えられている。 1719年(康熙58)に来琉した中国の冊封副使(さっぽうふくし)・徐葆光(じょほこう)は、瀬長島を訪れた際の様子について、『遊山南記』の中で、美しい砂浜の静けさと大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子などその変化に富んだ景観を讃えている(『驚球国使略』)。また、昭和11年には沖縄八景の一つに数えられるなど、豊見城を代表する風光明媚(ふうこうめいび)な景勝地であった。 1944年(昭和19)、沖縄戦に伴い住民らに島外退去が命ぜられ、引き続き戦後も島全体が米軍基地として接収されることとなった為、やむなく島民は対岸で集落を構えざるを得なかった。このときの基地建設工事で島は大きく削り取られ、また、島と本島および空港とをつなぐ2本の海中道路が取付けられるなど景観は激しく変貌(へんぼう)した。島は、長らく米海軍弾薬貯蔵(だんやくちょぞう)基地として使用され、1977年(昭和52)には返還された。 戦前まで島内には、瀬長グスクの遺構を始め、子宝祈願とともに誕生する新生児の性別を占った『子宝岩(イシイリー》」、さらに『琉球国由来記』にも記述のある瀬長ノ嶽(たき)など多くの遺跡や拝所(はいしょ)、井泉等が残り、信仰の対象として各地から参拝者が訪れていたが、戦後は立入禁止となり遺構の多くが基地建設と同時に破壊され往時の面影はほとんど残されてない。対岸のアカサチ森に遥拝所が建てられ、島内にあった拝所、井泉等が集合移設されている。アンジナムヌメーや浜下りは、瀬長島とゆかりのある行事であり、また、男女の恋愛を題材とした組踊『手水の縁』の一幕も、瀬長島が舞台設定であると言われている。」

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15-0226 手水の縁

16-0226 手水の縁

「手水の縁…主人公 波平山戸が登場して浜下りでにぎわう瀬長島の情景を述べる。自らは歌碑のように『咲き乱れる百合を眺めて遊ぼう』と語る。その後、玉津が登場し『手水』を介して二人は恋仲となる。 白浜にふちどられた美しい離れ小島・瀬長島は、平敷屋朝敏の時代からすでに景勝地として広く知られていたようである。」

17-0226 平敷屋朝敏生誕三百年記念顕彰碑

18-0226 平敷屋朝敏生誕三百年記念顕彰碑

19-0226 仲風節

20-0226 仲風節

21-0226 仲風節

「仲風節…歌意は『語ってくれ恋をしにわたろう この世で暁をしらせる鳥が鳴かない島があるならば』という。 平敷屋朝敏は、ここ瀬長島を恋を語る理想郷『鳥鳴かぬ島』に見立て、五・五・八・六調の仲風節に詠んだと伝えられている。」

22-0226 平敷屋朝敏と組踊り「手水の縁」

23-0226 平敷屋朝敏と組踊り「手水の縁」

「平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)と組踊(くみおどり)『手水の縁(てみずのえん)』…顕彰碑(けんしょうひ)は、和文学者であり、組踊「手水の縁」の作者として名高い、平敷屋朝敏(一七〇〇~繭七三四)が誕生して三百年にあたる、二〇〇〇年十一月二十三日に、「手水の縁」にゆかりのある瀬長島に建立した。平敷屋朝敏は、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)(一六八四~一七三四)と同時代に生き、十六年後輩として劇作の影響を受けて、組踊「手水の縁」を創作するとともに、『苔の下(こけのした)』『貧家記(ひんかき)』『若草物諾(わかくさものがたり)』『万歳(まんざい)』の擬古文物語(ぎこぶんものがたり)を書き、高く評価されている。また、琉歌の一形式である仲風形式(なかふうけいしき)を、考えだした人としてもよく知られている。建立した歌碑にある『語て呉れ恋ひ渡ら 浮世鳥鳴かぬ島のあらは』(誘ってくれ、恋をしに渡ろう。この世に暁を知らせる鳥の鳴かない島があるならば)は、平敷屋朝敏がこの瀬長島を理想郷として見立てて歌ったと伝えられている。 『手水の縁』は数多い組踊の中で、唯一の恋愛物語である。その物語の舞台が本村の瀬長島から始まり、糸満市の波平玉川、知念村の山口(現在は山里)、知念浜となっており、本島南部の海岸を結ぶ線上に、物識は展開する。 あらすじは、旧暦三月三日の浜下りの日に、瀬長山に山戸(ヤマトゥ)が花見にきたことから、この組踊は始まる。その帰りにのどがかわいていたので、波平玉川で髪を洗う玉津(タマチィ)に出会う。山戸は、玉津に『手水』を飲ませてくれと頼むが、見ず知らずの人だといい、かたくなにことわる。山戸の再三の申し入れに玉津は、『手水』をさしあげる。二人は、心を許しあう中になり、再会を約束する。その後、山戸は、玉津のもとに忍び、その帰りに門番にみつかる、志喜屋(しきや)の大屋子(ウフヤク)と山口の西捷(ニシンチ)は、『玉津と山戸との密会が世間の噂になっている』として、主人の命令により、玉津を処刑すべく知念浜にでかける。志喜屋は山口に、玉津を処刑するように言いつける。山口が太刀を振りかざして、きりつけようとしたところへ、山戸が駆け込み、命乞いをする。二人は、山戸と玉津の愛しあう心に強く打たれて、主人には、玉津を殺してきたと報告することにして、二人を逃がす。二人は礼を言って人知れずおちのびる。 沖縄の年中行事の旧暦三月三日の、浜下りという日を物語の発端(ほったん)として、見ず知らずの若い男女が『手水』をさしだし、もらい受けることで、急速に近づく。そして、名乗り、住居(すまい)を教えることで結ばれるという、わが国の古い民俗をとり入れて、組踊を展開させていく手法は、先輩の玉城朝薫にはない、朝敏独自の世界なのである。そして、約束、忍び(密会)、発覚、処刑、逃避行とつきすすむ内容は、愛しあう男女の常道として、多くの若者たちの共感を得たのである。

歌碑(右)…語て呉れ(カタティクィリ) 恋ひ渡ら(クイワタラ) 浮世鳥鳴かぬ(ウチユトゥイナカン) 島のあらは(シマヌアラバ) (仲風節 中敷屋朝敏作)

歌碑(左)…世間とよまれる(シキントゥユマリル) 瀬長山見れは(シナガヤマミりバ)花や咲き美さ(ハナヤサチジュラサ) 匂しほらしや(ニウイシュラシャ) (組踊『手水の縁』波平山戸の台詞より) 二〇〇一年三月 豊見城村教育委員会」

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