結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

「浦添間切番所跡」「仲間火ヌ神」「根殿内」「龍福寺跡」…仲間の拝所群

2014-02-15 | 文化

 浦添市仲間にある、「浦添間切番所跡」「仲間火ヌ神」「根殿内」「龍福寺跡」を訪ねました。浦添中学校校門前左側に、「浦添間切番所跡」の表示がありました。門の前は、色とりどりの花で一杯です。

01-0214 浦添中学校

参照(浦添中学校ホームページ http://www.urasoe.ed.jp/j01/

02-0214 浦添間切番所跡

03-0214 浦添間切番所跡

「浦添間切番所跡(うらそえまぎりばんじょあと)…浦添郵便局北側(うらそえゆうびんきょくきたがわ)からこの辺(あた)りにかけては、かつて浦添間切の番所(ばんじょ)がありました。『間切』とは現在(げんざい)の市町村(しちょうそん)に相当(そうとう)する琉球王国時代(りゅうきゅうおうこくじだい)の行政区画(ぎょうせいくかく)のことで、『番所』は今日(こんにち)の役所(やくしょ)にあたります。番所には地頭代(ジトゥディー)をはじめとする地方役人(じかたやくにん)が置(お)かれ、首里王府(しゅりおうふ)の命(めい)を受(う)け、間切内(ない)の行政を担(にな)いました。また、国王の普天満宮参詣(ふてんまぐうさんけい)の際(さい)には休憩所(きゅうけいじょ)に利用(りよう)されました。1881年(明治14)に訪(おとず)れた上杉茂憲県令(うえすぎもちのりけんれい、今でいう県知事)の記録(きろく)によると、番所は門(もん)を南西(なんせい)に構(かま)え、老松(おいまつ)が枝(えだ)を広(ひろ)げ、フクギ、ソテツが植(う)え連(つら)ねられているとあり、植裁(しょくさい)のゆき届(とど)いた美(うつく)しい施設(しせつ)であったことがわかります。番所は、1897年(明治30)に間切役場(まぎりやくば)、1908年(明治41)には村役場と改(あらた)められ、沖縄戦(おきなわせん)で損壊(そんかい)するまで浦添の行政の中心施設(ちゅうしんしせつ)でした。なお、1882年(明治15)には浦添小学校(うらそえしょうがっこう)が敷地内(しきちない)に開校(かいこう)し、浦添の学校発祥(がっこうはっしょう)の地(ち)としても重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)です。」

04-0214仲間の拝所群

05-0214仲間の拝所群

06-0214仲間火ヌ神に向かう

07-0214仲間火ヌ神に向かう

08-0214 仲間火ヌ神

09-0214 仲間火ヌ神

「浦添市指定文化財 仲間火(ひ)ヌ神(かん)(仲間の拝所群)…沖縄の火ヌ神には、各家庭で祀(まつ)る火ヌ神のほかに、ムラの火ヌ神があります。この石の祠(ほこら)は、近世の仲間村の『地頭(じとう)火ヌ神』といわれています。地頭は琉球王国時代に間切(まぎり)や村(今の字)を領地にした士族で、その就任や選任の時に拝んだのが地頭火ヌ神です。また、王府の公的祭祀として、浦添ノロ(神女)がとりおこなう稲二祭(ウマチー)などでも、他の拝所とともに地頭火ヌ神がおがまれたようです。現在は、旧暦五月・六月の稲二祭や十二月の御願解き(うがんぶとぅち)などの年中行事に、仲間自治会の代表者数人で、ムラ拝みをおこなっています。以前より敷地はせまくなりましたが、祠(ほこら)の石組みなどは戦前の姿をとどめています。平成1十四年三月一日指定 浦添市教育委員会」

10-0214 仲間火ヌ神

11-0214 根殿内

12-0214 根殿内

「根殿内(ニードゥンチ)…仲間村(なかまむら)の草分(くさわ)けの家(いえ)『根殿内ニードゥンチ』がここである。浦添(うらそえ)の歴史(れきし)の中心(ちゅうしん)は仲間村であったとも伝(つた)わっており、根屋(ニーヤー)も仲間では殿内(ドゥンチ)という言葉(ことば)で敬称(けいしょう)され『根殿内(ニードゥンチ)』と呼(よ)ばれた。初拝(ハチウガ)み・御願解き(ウガンブトゥチ)・五月・六月のウマチーに拝(おが)まれ、与那覇門中(ユナハムンチュウ)によって維持(いじ)、継承(けいしょう)されている。」

 「根殿内」の跡から、浦添中学校前に戻り、グラウンド側の「龍福寺跡」に向かいました。

13-0214 浦添中学校門前

14-0214 浦添中学校門前

15-0214 浦添中学校グラウンド側

16-0214 龍福寺跡

17-0214 龍福寺跡

「龍福寺跡(りゅうふくじあと)…浦添中学校(うらそえちゅうがっこう)グラウンド西側(にしがわ)には、かつて龍福寺という首里王府(しゅりおうふ)の官寺(かんじ)があり、第一尚氏以前(だいいちしょうしいぜん)の歴代国王(れきだいこくおう)が祀(まつ)られていました。『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』(1713年)などによると、龍福寺はその昔(むかし)は極楽寺(ごくらくじ)と呼(よ)ばれ、英祖王(えいそおう)の時に浦添グスクの『西』に建(た)てられました。しかし、往来(おうらい)に不便(ふべん)で、年月(としつき)がたち荒(あ)れ廃(すた)れていたため、『前谷』へ移(うつ)されました。その後(のち)、火災(かさい)にあい、この場所(ばしょ)に移され、龍福寺に改名(かいめい)されました。万歴年間(ばんれきねんかん)の兵火(へいか)(1609年の薩摩侵入さつましんにゅう)の際(さい)に焼(や)き払(はら)われ、のちに尚寧王(しょうねいおう)によって再建(さいけん)されました。なお、『琉球藩雑記(はんざっき)』(1873年)には、『境内地五百坪余(けいだいちこひゃくつぼあまり)』とあり、龍福寺の敷地面積(しきちめんせき)は約1650m2であったことがわかります。その後の龍福寺は、大正初期に(たいしょうしょき)に兼城村(かねぐすくそん、現糸満市)座波(ざは)へ移転(いてん)し、大正末(たいしょうすえ)には美里村(みさとそん、現沖縄市)泡瀬(あわせ)に移転しました。

浦添原遺跡(うらそえばるいせき)…浦添中学校一帯(いったい)の地中(ちちゅう)には、浦添原遺跡が眠(ねむ)っています。発掘調査(はっくつちょうさ)の結果(けっか)、14世紀頃(せいきごろ)の畑(はたけ)の跡(あと)がみつかりました。ヘラを使(つか)って丸(まる)い穴(あな)を掘(ほ)り、種(たね)と肥料(ひりょう)を入(い)れて作物(さくもつ)を育(そだ)てたと考(かんが)えられています。」


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