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「万歳嶺(上ナチジナームイ)」と「官松嶺(下ナチジナームイ)」…首里、真和志の旧跡

2014-02-28 | 文化

 「首里観音堂」の場所は、琉球王国時代、松が生い茂り、『万歳嶺夕照(ばんざいれいせきしょう)』と詠(うた)われた首里八景の一つでした。その西方の丘には、数千本の松の苗を植え、「官松嶺」と名付けました。「万歳嶺」は「上ナチジナームイ」」、「松嶺」は「下ナチジナームイ」と呼ばれていました。

参照(那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/) 旧跡標示板案内<地区一覧<首里(首里支所管内)、真和志(真和志支所管内)

01-0228 観音寺

02-0228 万歳嶺慈眼院

03-0228 万歳嶺記

04-0228 万歳嶺記

05-0228 万歳嶺跡

06-0228 万歳嶺跡

「万歳嶺跡(バンザイレイアト)…万歳嶺(ばんざいれい、俗称『上ナチジナームイ』は首里台地の西端に位置する丘のことで、かつては松が生い茂り、頂上から美しい眺望が開けていたため、『万歳嶺夕照(ばんざいれいせきしょう)』と詠(うた)われた首里八景の一つであった。 時の国王尚真がこの地に遊覧した際、王の治世、国の繁栄を祝う万歳の声がわきおこったことから、1947年、丘の頂上に『万歳嶺記(ばんざいれいき)』の碑を建立し、この丘を『万歳嶺』と称した。 1617年、後に国王となる尚豊(しょうほう)が国質(くにじち)(人質)として薩摩(さつま)に赴いた際、父尚久(しょうきゅう)は息子の無事な帰国を祈願。同年尚豊が無事帰国したので、翌1618年、尚久は万歳嶺の南斜面に千手観音像(せんじゅかんのんぞう)を奉じ、観音堂(かんのんどう)と慈眼院(じげんいん)を建立した。 その後、観音堂は旅の航海安全を祈る場所として人々の信仰を集めていたが、1945年の沖縄戦で焼失、『万歳嶺記』の碑も破壊された。戦後、万歳嶺の頂上付近を削り、観音堂が新たに建てられ、『万歳嶺記』の碑も、残った一部を台座に組み込み、復元されている。 なお、万歳嶺に対し、その西方に連なる小高い丘は『官松嶺(かんしょうれい)』(ぞくしょう『下ナチジナームイ』)と呼ばれていた。設置2000年3月 那覇市経済文化部歴史資料室」

07-0228 観音竹の由来

「観音竹の由来…観音竹(かんのんちく)はシュロチクの一種で亜熱帯に広く分布しており、沖縄には中国より伝わり庭木として植栽されていた。当寺院にも古い時代から植えられカンノンチクと呼称されてきた。いつしかこの庭木を観音竹といい、全国に広まっていった。当寺院は観音竹の名称の由来地となっている。 首里観音堂」

08-0228 彼岸庭

09-0228 万歳嶺

10-0228 万歳嶺社務所

11-0228 長老樹

12-0228 官松嶺記

13-0228 官松嶺記

14-0228 官松嶺記

「官松嶺記(カンショウレイキ)…『官松嶺記』は琉球王国時代の1497年(弘治10)に建立された石碑である。 石碑が建立された丘は俗に『下ナチジナームイ』と呼ばれ、万歳嶺(ばんざいれい)(俗称『上ナチジナームイ』、現観音堂)の西方に続く均整のとれた小高い丘陵で景勝の地であった。時の国王尚真(しょうしん)はこの丘に数千本の数千本の松の苗を植えさせ、『官松嶺』と名付けた。碑文は円覚寺(えんかくじ)の僧種桂(しゅけい)の撰文で、名前の由来とともに松が生い茂る様を国王の長寿・人徳にたとえ、国の繁栄を讃えた内容となっている。官松嶺一帯は、1914年首里・那覇間に電車が開通したのに伴い、北斜面沿いに軌道が敷設された(1933年廃止)。昭和初期には名前の由来となった松の木々はすでになかったという。沖縄戦(1945年)の後、官松嶺の頂上付近は削られて民家となり、南側にはホテルが建設された。 沖縄戦で破壊された『官松嶺記』碑は残欠(上半分)が沖縄県立博物館に残されている。本碑は残欠や戦前の拓本をもとに、材質を中国福建省(ふっけんしょう)産の輝緑岩(きりょくがん)、碑身の高さを164cmとして元の建立地に近接する現在地に新たに復元したものである。」

15-0228 官松嶺記

16-0228 官松嶺記


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