結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

琉球王朝時代の聖地巡礼-東御廻り(1)

2013-12-30 | 文化
  •  琉球王朝時代の聖地「東御廻り」のコースの一部、「御殿山」「親川」「佐敷上グスク」を訪ねました。園比屋武御嶽石門は、前に訪ねたときのものです。説明文(緑)は、教育委員会などの案内板に記載されたものです。説明を読みながら史跡を見ると、名称の由来がわかり、「そうだったのか」と思うことがあります。

園比屋武御嶽石門(那覇市)

011-1021-1705

「園比屋武御嶽石門、園比屋武御嶽…石門とその奥の森を園比屋武御嶽といい王府の祈願所であった。石門は、神社で言う拝殿にあたるが本殿に相当する建物はなく、石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。 石門の創建は尚真王時代の1519年。1933年には旧国定に指定されたが沖縄戦で大破、1956年に復元され後に解体修理し1986年に完成した。竹富島の西塘の作と伝えられる。石材は主に琉球石灰岩を用い板葺唐破風屋根を表わす。屋根の飾りなどに日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である。 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会」

 園比屋武御嶽は、「石門が拝殿にあたり、本殿にあたる建物はなく、背後の森そのものが本殿にあたる」というのが意外でした。沖縄の御嶽の特徴を表したものといえそうです。

012-1021-1705

「世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群園 園比屋武御嶽石門…2000年12月2日、園比屋武御嶽石門は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産条約に基づく世界遺産リストに登録されました。世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値があるものが、このリストに登録されます。」

013-1021-1706

014-1112-1345

015-1112-1344

御殿山(与那原町)

021-1228-1130

「御殿山(ウドゥンヤマ)…名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置場に指定されたことによる。オモロでは「よなははま きこゑ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又 あきりくち とよむ大きみ やちよ」とうたわれている。『球陽・遣老説伝』に『漂流の大君加那志(おおぎみかなし)』として由来がのっており、戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれる。聞得大君(きこえおおぎみ)の御新下(うあらう)りの際には最初の休息地となり御仮家が設けられた場所である。現在も町の行事や東御廻(アガリウマーイ)のコースにもなっている。与那原町教育委員会」

 御殿山は、海の近く平地にある祠なのに、なぜ「御殿・山」なのかがわかりました。「山原から首里の御殿に納める木材の置場」からきたのです。

022-1228-1130

親川(与那原町)

 

031-1228-1135

032-1228-1138

033-1228-1141

「親川…天地開闢の昔、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産湯を召したとの神話に発し、琉球王朝時代には国王の久高参詣(旧八月の神拝)の東御廻りや聞得大君の御新下りの際、「お水撫」の儀式を行うなど、首里出発後、最初の拝所として、休息の御用水を献じたところと伝えられています。澄みきって冷たい水が、こんこんと湧き出るこの古泉は人々の崇拝をあつめた霊所であります。与那原発祥の頃、この泉を中心に村を興し、町民の団結と憩いの場となっていました。今でも町民が一体となる与那原の大綱曳きはここから出発し、この地で終わります。」

 「親川」と「綱曳資料館」(与那原発祥の古泉に建てられた)との関わりが分かります。沖縄では、自然の湧泉を水源として利用することが多く、「浅い井戸になったものを『カー(川)』」「水脈から桶で水を引いて水溜を造ったものを『ヒージャー(樋川)』」と呼んでいました。「川」をあてていますが、…雨などの自然の水が集まり、陸上のくぼみを傾斜に沿って流れ下る水路。河川(かせん)。」(Yahoo!辞書)とは違うのです。

035-1228-1140

佐敷上グスク(南城市佐敷)

041-1228-1235

「佐敷ノロ殿内…ノロ(ヌル)は、琉球王府時代に村落のお祭りを行い、宗教的に村落を管理支配した女性神役です。ノロ殿内とは、ノロの火之神を祭ってある建物のことをいいます。初代佐敷ノロは苗代大親(尚思紹)の長女でした。佐敷ノロは代々、喜友名家の系統の女性が昭和初期まで継承していましたが、最後のノロが他界してからは後継者が途絶えています。南城市教育委員会」

042-1228-1238

「佐敷グスク(上ウィグスク)…佐敷グスクは、三山を統一した尚巴志とその父尚思紹の居城跡といわれています。1979年の発掘調査によって、青磁・白磁のお椀や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しました。また、柱のあとや土留めの石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクにみられるような石垣はまだまだ発見されていません。さかえる町 しぜんの町 きぼうの町 佐敷町教育委員会」

案内板は合併前の「佐敷町」のままでした。

043-1228-1239

「内原の殿(ウチバルヌトゥン)…内原の殿は、上城の殿ともよばれ、女官たちの働いていた場所といわれており、もともとはカマド跡付近にあったと考えられています。以前は粟石の柱で壁はありませんでしたが、昭和55年にコンクリートのほこらに建て替えられました。南城市教育委員会」

044-1228-1244

045-1228-1245

046-1228-1246

「上グスクのカマド跡…グスク時代のカマド跡といわれており、火の神(ヒヌカン)を
」祭ったところと考えられています。また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなことから、女官の詰所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。南城市教育委員会」

047-1228-1251

「上グスクのカマド跡…グスク時代のカマド跡といわれており、火の神(ヒヌカン)を
」祭ったところと考えられています。また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなことから、女官の詰所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。南城市教育委員会」

テダ御川(南城市知念

 

141-1228-1339

142-1228-1339

「テダ御川(テダうっかー)…『テダ』とは太陽を意味する言葉で、ここでは琉球国王を指します。その昔、国王が麦の初穂祭に久高島(くだかじま)を参拝する途中、この地で豊かに湧き出る水をいただき休息をとりました。そして海上の無事を祈ったのです。テダ御川は東廻りの聖地として、今でも人々から崇められています。南城市指定史跡。」

「東御廻り(あがりうまーい)の由来…『東御廻り』とは、沖縄民俗の祖先、《アマミキヨ》が住み着いたと伝えられる知念・玉城の霊地巡拝行事です。首里城を中心に、大里・佐敷・知念・玉城を『東方(あがりかた)』と呼んだことから、知念・玉城の聖地巡拝を『東御廻り』と称しました。久高島は麦の発祥地、玉城は稲の発祥地として国王自ら参詣しました。」

143-1228-1344

144-1228-1347

145-1228-1348

146-1228-1348

 以前、墓地の間を通り、しんどい思いをしながら、丘を越えて海岸に抜け、「テダ御川」までたどり着いたことがあります。今回は、案内表示にしたがい、海側から行きました。平坦な道が整備されていて、無理なく、訪ねることができました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿