ノーやん日記パート2

終戦

 きょうは終戦63年目。終戦の日のことは記憶にない。5歳だった。が、戦争中のことは、なぜか悪夢のように記憶に焼き付いている。大空襲の夜の不気味なB29の編隊、空襲警報の音、探照灯の空を走る光線、防空壕の中の灯り、 爆風で家の壁が倒れ、道路が燃えている炎、、、怖かったことの断片だ。疎開先でも飛行場が爆撃され燃えあがる光景、学校に通っていた兄が下校途中艦載機にねらわれ石橋の下に逃げたという話が記憶の底に残っている。地震も怖かった。集会所からみんな飛び出し瓦が飛ぶのを見た。
 後日、戦争が終わってみんな泣いたという話を聞いたが、なぜ泣いたのかわからなかった。「よかったのに」。怖さからの解放感が湧いて出たのだろう。疎開先で「ノーやん」とよばれたぼくは、近所の子らと川の魚とりの仕掛けや雑木林の昆虫とりなど自然を相手に野山を駆け回っていた。栄養失調すれすれのひ弱な貧乏人の子どもだったのに楽しい思い出として記憶に残った。
 名古屋に戻ったが都会は遊ぶところもなく面白くなかった。都会の子はませていた。「ノーやん」といってくれる子はだれもいない。都会の子は名前がないのか、みんな苗字でよびあう。ぼくは名古屋生まれの猿投育ちで、三河弁の転校生。三河弁がませた都会っ子の笑いの餌食になった。名古屋弁に反発するひねくれ根性・コンプレックスがこの頃から芽生えた。
 そんな反抗期に、市電通りの大学の柵に「再軍備反対」の伝単を見た。なぜか記憶に焼き付いた。「戦争はぜったいしたらあかん」。それは年月を経るにつれ、ぼくの生き方の心棒のようなものになっていった。日本国憲法がそれを裏打ちしてくれた。
若者に今も雲湧く終戦日 千枝子
流す汗今若からず終戦日 靖一
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