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精神は自由だ!

2009-10-31 22:11:01 | 日記
今日から今年に入って第何弾だかの新しい作品を始める。毎回ある程度の数がたまると、さあやるぞ!と塗りに入る。そしてまた、さあやるぞ!と彫刻に入る。
一つの作品にかかりきりになることは今はない。
舞台を目指していたときは状況に応じてはその様な事もあったけど。
今は気まま。頼まれ仕事はしない。好きな作りたい面を作りたいように打つ。
本当の意味で 自由業 です。
自由と云うのも大変なもので生半可なことでは成り立たない!
まず、「どうやって食べていくか」という生物としての根本を抑えなければならない。この3日間お米ばかり食べている。
安曇野の知人が自家用に作った美味しいお米を送ってくれているのでおいしい!おいしい!と。お米が美味しいとおかずはいらないと、世間で言うのを実践している。
当分の間の食べ物は確保してあるので生物として安心。
自由業の大変その2 生活時間がだらしなくなる。そうです気が向くと朝8時から夜中の2,3時まで仕事をしている。でも頼まれたのでもない作品を作るのだから考えようによっては何もしなくてもいいことになる。展覧会をして作品を発表するのだって別段しなくてもいい。


大変其の3を考えたんだけど 無い!
ちっとも大変なことなんか無い!
毎日楽しんでる。幸せだとおもってる。

自由業は自由ではないけど精神は自由だ!


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見せたくて見せたくて/創作能面[黒と白、白と黒,又は善~

2009-10-30 17:45:12 | 創作面作品集
以前より彫刻した面が沢山たまって「よしっ、塗りだ~」とばかりに10面の色付け(彩色、さいしき)に入ったら見せたくて仕方がない。昔から見せたがり屋なのです。展覧会までとっておけない。
題名は[黒と白、白と黒、または善と悪]と云う長い名前をつけました。
そんなに深く考えている訳ではありませんが、何が正しく何が悪いのかと考え始めるとこれと決めることなどできないことばかりで成り立っているのが人間社会でありまして、私の能面の未来へ拓く、開くなどと云うことも人によっては意見様々です。
ただ其の様々な意見を云えない人たちがいるという現状があります。
本年2月の私の展覧会にマスク、帽子、サングラスの人に話しかけられどうも能楽関係者らしいので「お名前をうかがっいたいし、サングラスなどもお取りになって話しませんか」と云うと「名前を名乗ることはできないし、顔を見せることもできませんが、私は柏木さんのしている事に賛成です」
昨年9月の展覧会では顔は出されていましたが「名前は教えられないと」の方もいらしゃいました。この様なことから思うに
今の現状では伝来の能面を打つ方が、善であり私が馬鹿なことをしている、悪者,すなわち 悪であるという図式でしょうか。

この様な反応にこたえる面、としてこの作品を打った意味があります。

まだ新聞紙の上で誕生したばかりですがこの子にどのような衣装(額のことです)を用意しましょうか、とても楽しみです。

今回この話を書いてしまうとせっかく「支持表明」を内緒でしてくださった方の怒りを買うかも知れないと心配してます。
でも能楽に何らの関係のない通りすがりで見て行ってくださる方達は「面白い、柏木さんにこれらの面を作らせてしまった能面をもっと見てみたい」と。









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「IPHIGENEIA」は国立国会図書館で読めます。

2009-10-29 15:06:55 | 私にとっての能面
2009年 創刊号 <ISC・21>版 「IPHIGENEIA」 といいます。
「イフィゲネイア」は 21世紀スポーツ文化研究所 の紀要です。

以前は某大学の研究室の紀要でしたが 21世紀スポーツ文化研究所 が立ち上がりそちらに移行しました。
2009年6月20日 発行です。
半年近くたってしまいましたが私もやっと自身のブログに慣れてきましたので遅ればせながらご紹介させていただきます。
巻頭の鼎談には私の2月に開きました能面展

「飛天/天人・天女が舞う」のテーマで

稲垣正浩氏 「ISC・21」主幹研究員
西谷 修氏 東京外国語大学 大学院教授
今福龍太氏 東京外国語大学 大学院教授

上記三氏による展示作品についてお話していただいた内容が収録されています。

この展覧会で私は 「無表情と云われる能面は多くの感情を含んでおり、沢山の表情が隠されていますので其の隠された表情、感情を取り出してお見せします。それとともに能面を美術品としてみていく一つの展望として<現代人を能面にする>という試みをしました。」

この様な試みに対して三氏はどのように反応してくださったのか?
お読みになられたい方は国立国会図書館にてお読みいただくか、もしくは当ブログ又は,21世紀スポーツ文化研究所までお知らせください。

小面から取り出した面達の題名の一部

[ギョエッー][午前様][そうなの~][大きな世界を見たい][酔ったかしら][休日だから][ドキドキ]

現代人は

[能面としてのオバマ][ヒラリー・クリントン][ライス元長官]

新作50点の会でした。

2010年1月1・2・3日に予定してます安曇野市・穂高神社での能面展にこれらは展示いたしますし、新作も7,8面は準備しております。

初詣においでの節には是非お立ち寄りください。









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カズヲ・イシグロ、ははきぎ・蓬生/碌山美術館です

2009-10-27 12:42:06 | 日記
最近読んだ本の作者名です。
カズオ・イシグロ 「日の名残り」「わたしを離さないで」
ははきぎ・蓬生 「インターセックス」
宮永三知代 「美女の骨格」
このほかに10冊近く読みました。
「インターセックス」,「わたしを離さないで」はこれから世界中の人が真剣に考えていかなければいけない課題です。
「日の名残り」は静かな文章の中から仕事への自負と自分を取り巻く狭く広い世界がえがかれていました。
「美女の骨格」には能面を打つうえでの知識を沢山いただきました。
沢山の本を読んだところで本から受け取れるものは私の器の大きさによります。
多くの本の中から得たもので 器 を大きくしていけたらと願っています。

信じられないかもしれませんが私は少女から娘への時期大変おとなしく自意識過剰で自分の内面ばかり覗いている子でした。
本が好きで好きで将来は物書になるか編集者になることが夢でしたが、努力もせず、(努力をしないということは才能もないということで)本を読んでは知らない世界に憧れる女の子でした。
本は知らなかった世界、考えようとしなかったことがら、知っていれば得する(特に仕事に関して)ことなど、本から自分の置かれた位置、状況を確認することもある。
世界は広く人の住むところは無限にあることも教えてくれる。
沢山の本は「自分がこうありたいと考える自分になるためのテキスト」だとおもいます。
自分がこうありたいと思える自分になる努力をすることが人生だとおもいます。


長野県安曇野市の碌山美術館です。
秋の観光シーズンが始まり安曇野も賑わっています。

11月1・2・3・日安曇野市の穂高神社では
  
 [秘めたる・穂高の工芸作家20人展」の美術工芸展を開きます。

安曇野・能面塾を開いてますので私も参加させていただいてます。

[創作能面・愛ゆえに][能面・小姫][狂言面・福の神]

の3面を出品いたします。紅葉を楽しみながらお出かけくださいましたら幸せです。

ははきぎの漢字が出せませんので失礼します。












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消えてしまった・奈落の底に

2009-10-22 11:01:21 | 日記
やはり私には神も仏もいないのか。

後1行で終わるはずの文章が!消えてしまった。
奈落の底に、の題名で凄く良いブログでみんなに褒められるはずだったのに。

神も仏もいるはず、とこの2週間を過ごしてきたのに、やはり見捨てられていたのかと。

2週間前の事、ある事件?が起きたが私は泣くことも怒ることもなくただ呆然、唖然とした。
不思議なことに私は周りの人たちに,怒つてよいのか、泣いてよいのか?と訊いたのだ。人は余りにも信じられないというか起こりえることがおこってしまうと大きな感情の渦に巻き込まれないでいるものだとわかった。
不自然なほど自然なのだ。友人は私が自制心の強い人で感情を必死に抑えているとおもったようだが本当に鈍感なのだった。
神様は人間に「鈍感」という贈り物を下さっているのだと思う。
一つ一つに過敏に反応していたら本来気の小さい私はこうやって生きて来られなかったと思う。神様は私に素晴らしい才能と言い換えることもできるかもしれない贈り物をくださっている。

実は今日は「柏木裕美さんを慰める会」があります。

参加者・本当なら今日私と新幹線に乗って居るはずの方達
会 場・友人の事務所
料 理・仕出しを頼みました(ケータリング)
時 間・仕事を早めに切り上げて明日の仕事に差しさわりがあるまで

きっときっと楽しいよ!
本来持てた筈の楽しい時間と同じ位に!

何があってもめげない強さをくれた運命に感謝!

本当は其の運命って・不幸・なのかしら


でもいいや、今が幸せだから。

サン、です。










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秋の季節は寂しく楽しい/市民タイムスに

2009-10-20 15:46:31 | 日記
まだ夏だと思って日盛りの中を歩いている時、耳元で風の囁きが聞こえる。
秋のはじまり。
秋は夏に始まった恋が発展するか終わるのかと昔?は雑誌のテーマによく使われた。
先日出た会合の3次会で・2次会で久しぶりに会った知人と話が弾み2人でばかり話していた・「柏木さんが?さんを好きなのはみんな知ってる。」と向かい側の女性・以前からの知り合い・にいわれる。
凄いですね~、楽しいですね~、この年になっても好きだ愛だなどといわれるのは。愛だとは云われてないけど好きが進めば愛、恋になる。
この話を身近の若い人たちに話すと「ええ~ まだその年になっても男の人と長く話しているとそんなこと言われるんだ!」とびっくりされる。
驚かれるのもさみしい?
知り合いに奥さまを亡くされて「寂しい死んだ方がましだ」とおしゃる方が何人もいる。その方達に奥さまととっても仲良しで大事にしてきた?と尋ねると空気のように「居てあたりまえでした」と。
寂しがられて亡き奥さまは大満足でしょう。

当分の間さみしがっておれ!

くらい思ってこの世の夫を眺めていることでしょう。
私もまあ彼らに口に出してそんなことはいわないけど。
きっと奥さまたちは思っている。
双方が元気でいるうちにせいぜい仲よくしてしてくださいね、みなさま!

このような広告を安曇野で出しています。












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映画「ヒヤシンスブルーの少女」

2009-10-18 23:57:01 | 日記
昨日は表参道での勉強会に出かけ今日は塾の日でちょっと疲れて仕事をしたいのに気持ちばかりで体が「疲れてるよー」と言うので久しぶりにテレビで映画を2時間しっかり座り込んでみていた。
題名どうりの絵が描かれたいきさつに遡って行く内容で其処に描かれた少女がフェルメールの娘であることが明らかにされる。と言ってもあくまでも映画の話で私がこの映画に付いて書こうということではなく其処に出てくるフェルメールの娘(今見たばかりでもう名前をわすれている)が
城壁にのぼり空の雲を絵筆でなぞるシーンが忘れられない。
絵が描けたらと何度思ったことか。眠れない夜を過ごした朝焼けの美しさ、夕方の沈む前の大きな大きなまた明日もあるぞ、という太陽の強い輝き。
若い日の思い出に残る海の白波。傷心の旅の前に立ちはだかる見えない思い、日常の中のふとした瞬間に見えたと思う影、そうした時絵に残したい、これを絵に留めたいと思う。夕方散歩に出て空を見上げこの雲に出会うため歩いて良かった。この雲を画家だったらこんな風に描いて,こんな色を加えてと思いながら立ち止まって空を眺める。この美しさをこの喜びを画布の上に残せる人がうらやましい、と。
人を羨ましいと思うことはほとんどないが絵を描ける人だけは羨ましく才能を持たないことを残念に思う。
風が描けたらと思う。風を描きたい。雲を描きたい。昔から常に描きたいと変わらぬ思いの場面は、夕焼けの空から地上に向かってとりどりの色に囲まれた雲から
一条の光が射している状況の絵が描けたらいいなあ~、割とありふれて出現する形だけどこの空の状態に出会うと人間の善と悪,神の存在、怒りと悲しみについて考える。
人の精神は本来善であるが何かの拍子に自分が持ってはいないはずのしかし心の奥に確実に持っている悪に向かって扉を開いてしまう、開いてしまった後どのように閉めるか、閉める勇気を持てる人でありたいと空を見て思う。
















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能面[般若、はんにゃ]/これも寄贈してます

2009-10-16 21:29:04 | 能面作品集
今年の夏「第3回安曇野・能面塾展」の際寄贈しました。
2006年8月安曇野で1ヵ月間の個展をしました。その際会場においでくださった方々にお声掛けしました。「教室を開きますから一緒に能面を打ちましょう」と。5人の生徒さんが決まりお部屋を提供してくださるとの話も2,3ありましたが一番の問題は「音」でした。最初に面になる木を叩きノミを木槌で叩くのが響くためどこでも大丈夫なわけではないので穂高神社が場所を提供してくださいました。
常設に置いておく道具類もありますがそれらの置き場所も神社なら広いので置かせていただけます。
そして塾が始まり丸3年がたちました。今年の展覧会場においでくださった地元の方数名に「だいぶ前から塾の事をしっていました。いつか見に行ってみようと思ってましたよ。」と言われたのがとってもうれしかったです。
安曇野に通うようになってから、私の父の出身地が安曇族の移住したといわれる場所であると解り、「先祖が私を安曇野に呼んだのだ」と確信しています。
それ以前から勝手に[安曇野を「私が選んだ私の故郷」]と言っていましたのでとっても嬉しく毎月塾のために通うことは大きな喜びです。
でも塾の時間元気でみなさんと過ごすためには塾以外の時間に出歩いていては万全の体調で臨めません。なので安曇野に居てもホテルと穂高神社の往復ばかりです。
朝ホテルで目覚めるとき此処は 安曇野 と思うだけでうれしいです。そして私を温かく迎えてくださるいろいろの場所の知人たち、塾生、穂高神社の皆さんに至っては「ご苦労様です、よろしくお願いします」とおしゃってくださいます。
なんと幸せなのでしょう!
自分の好きな場所に受け入れられる幸せ!
能面も600年続く日本の文化です。日本人の顔の原点であるとおもいます。
多くの皆さんに能面の魅力を知っていただき、無表情な顔の代名詞として雑誌などに「だれそれが能面のように~~]とかの使い方をされないように受け入れられるのが願いです。

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創作能面[稚児大師]/寄贈しました

2009-10-15 22:13:27 | 創作面作品集
善通寺創建1200年・記念能[善通寺]のために打ちました。
まず江戸時代頃に描かれたらしい母御前・玉寄姫のお顔を打ち次にお母様に似せて[稚児大師]を打ちました。そのうちに玉寄姫の写真をお見せします。
結構似ているといわれます。男の子は母親に似るといいますからその言葉に従った作り方をしたわけです。
作品としての価値は自分で云うのもおかしいのですがかなり良い線にあると思います。全体像を考えた時奈良・春日大社の宝物殿で展示されていた雅楽・舞楽?面に強烈な印象を持って家に其の写真を貼って始終見ていましたのでそれを参考にしました。
この作品は母御前の玉寄姫と一つの額に納めて某学校へ寄贈しました。
今までにも幾つもの学校に寄贈しています。能面をまじかで見る機会のないうちに何とはなしに悪い、怖い、無表情のイメージが植えつけられてしまいます。私の小さい力では何とも頼りないが何かの力で引き合わせていただいたのだから学生さん子供たちへこちらから出向いて行こう、という考えです。

子供がどのような人間になるかは誰も解らない。
玉寄姫も自分が生んだ子供がまさか、まさか弘法大師になるとは思ってもいなかったであろう。ただただかわいがったのだろう。
多くの人の中には悪いことをして歴史に名前が残ってしまう人もいるし犯罪に巻き込まれて母親に血の涙を流させる運命の人もいる。

赤子から独り立ちするまで親はかわいがるだけだ、その子が将来どのような人間になるのかが判らないことは幸せである。

千里眼に生まれなくて、霊力がなくて良かった。先の先まで見えてしまう力を持た
ないことは幸せである。子供の将来に明るい未来だけを見ていられるある一時期母親であるというだけで世界を手にしていると女には思える。























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能面[小面,こおもて]の彩色に入ります

2009-10-13 17:58:25 | 能面作品集
真っ白に見えるかもしれませんが
下塗り(カキがらの粉である胡粉を塗りつるつるしたきれいな肌になるまでサンドペーパーで磨く)が終わり
上塗り(上等な胡粉に水干絵の具を入れ象牙色に似せた色にして下塗りの終わった面に塗る)が済んだ状態の[小面,こおもて]です。
年の若い、15、16歳位の女性の面です。
今回この小面は明るい雰囲気にしたいと彫刻の時から・あかるさ・に気を付けて打ちました。
彩色とは女性が顔を洗いクリームやら化粧水やらをやたらめたら肌の美しさを保つためにと、塗った後の次の段階の本当の意味で化けるためのファンデーションを塗り終えた状態(上塗りが済んだ)に赤,青、茶色、その他もろもろの色を付けることをいいます。
小面に髪を描き入れ口に紅を入れ能面として一番大事な古く見せること、ふるび(古美?この言葉に付いて深く考えて来なかった。不覚である)をかける。
要するに今作られた面ではなく古ーい古ーい面に見えるようにすることをfurubiokakeruという
これは偽物を作るとかではなく能楽という幽玄の世界を表現するための技法です。

ということでこの子がどのような小面に変身するかお楽しみに待っててください。


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何があっても作品は産まれる。/能面の絵[若女]アートに

2009-10-11 18:29:05 | 能面の絵 作品集
どうも落ち込んでブログも書けないのかと心配してくださるようなので今の私を絵にしてみました。能面の[若女、わかおんな]をアートぽくこの5日間のイメージにしてみました。
題名は「渦にのまれて」「悪意の世界」「生きる」などと浮かぶけど、この作品の他に[黒式尉][乙][翁][小面]と描きました。木と違って和紙だから書き損じても楽です。また新たな発見も!
絵の具は、岩絵の具を使っていますがはみ出したりしてもすぐなら綿棒に水を付けてとることができる。当たり前何のかもしれないが、すべてに独学の私には何もかもが発見と新しい展開になり{絵}を描くのも楽しくて楽しくて仕方がない。
自分で出来ることは全てやりあとは運を天に任せ、自分が大切に思っている自分の仕事に全力投球するのみ!

東京都の防犯のシールに書かれている合言葉は「誰かみてるぞ」
きちんと物事を判断できる人はたくさんいる。

神様も仏様もおいでになるのだ。

昔からの諺に「天知る、地知る、己が知る」とある。

自分のしている事にどんなに正当性を主張しても心の底まで自分を誤魔化すことはできないのだ。神様はその様に人間を作ったと信じている。
だから何事が起きようとも私は平常心で仕事をする。大事な、大好きな、面を打つために産まれてきたと信じてる仕事をする。
自分がした仕事が自分を表しているのだから。
動揺して作品が出来ないなどということはない。

墨の濃淡と赤墨だけで描きました。






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能面の絵[翁]/昨日は台風、私の人生も台風

2009-10-08 12:27:41 | 能面の絵 作品集
昨夜描きました(おきな)の絵です。

[翁]は神様です。そして私は人間として産まれてきました。でも面打師の職業を選んだ時からある一部の人間たちにとって、どれほど踏みつけても、平手打ちを食らわしても(これは比喩です)かまわない存在になりました。もっとはっきり彼らの心の内を云えば自分たちの力で私と云う存在を消してしまいたいようです。
そして一部の人が其の抹殺に彼らの[伝統]という形式に価値を見て協力する。
昨日あることがおこり先日夢が実現しある「招待状」が届けられたと書きましたが其の招待状が取り消されました。
其の連絡を受けた時、まさか、まさかと思いながらも心のどこかでは予期していた様な気がします。招待状も面打師でなく、一般の客としてくるならどうぞ、とのことでした。能面を作る柏木裕美であって自らの職業を放棄すらなら参列に意義も意味もない。
今回の件については1年前からお願いし・遡れば3年前に起因する・沢山の方の手を経たことである。招待状にしてもそれにまつわるある事に5人もの人たち(彼らにとっては人、人間に疑問府をつけるのだろう)が仕事の都合を付け休暇をとってまで私に同行してくれることなっていて電車のチケット、ホテルの手配も済でいる。
伝統の言葉に守られている彼らにそんなことはお構いなしだ。
私といる以上人間ではないのだから。単なる面打師の仲間にすぎない。
私は余りにも自虐的だろうか!
私は自分を悲劇のヒロインにして世間の同情を引こうとしているのだろうか?
否!である。今ここではまだ書く気持ちがしないがいつか遠い将来か、またはすぐ明日の事なのかわからないがどうしても一連の事を実名を挙げて書きたいとの衝動が抑えきれなくなった時、実名を詳細に挙げて事の顛末を書く。



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春日大社に奉納しました/能面[十六](じゅうろく)

2009-10-06 20:08:18 | 能面作品集
2003年8月1日春日大社で奉納式が行われました。
この[十六]の他に[小面](こおもて)も奉納しました。凄いことです。信じられないことでした。
十六の意味は平家の敦盛さんが十六歳で討ち死にした事に由来します。

私たちは舞台で面が使用されることばかり考えてきました。能面は舞台で使われることに意味があると、何の予備知識もないままただ能面を作ってみたいと習いに行くのにいつの間にか 「舞台で使っていただけないことには作る資格もない」「壁掛け面」だね、{壁に掛けるしかない下手な作品だという意味の言葉です。}と舞台至上主義に洗脳されていきます。
かなり以前私が能面に初めて出会ったころ、「うちの教室からプロはださない」と云った先生がいた。なんといっても能楽では現在作られている面、もしくは100年くらい前の面は「新面」とよばれるくらい価値がないのだ。
そのような世界を生き抜いて演者の元に選ばれていくのだから、この地位は誰にもわたさぬぞ!の気持ちになるのだろう。
その頃の私は離婚して子供を連れて実家に戻ってきたばかりではあったが親元だし子供たちのことも心配のない暮らしで、結構気楽な出戻りのお嬢さんであったので考えが足りずすぐに舞台至上主義に感化されて行った。
今になって私が能面に出会った意味について考えるようになったとは恥ずかしことではあるがまあ仕方がない。物にも人にも出会う時期というのがあるのだ。
もちろん舞台で通用することは素晴らしいことであるし、それだけの技術を身に付けたことは大したことである。
しかし面は残るが技術は伝承されなければ、意識して伝えなければ勿体ないことである。研究者や物書きが多くの本を書いて自らの頭の中を書き残すから文化も技術も伝わりのちの人の役に立ってまた新たな世界が開けていき人間がよりよい世界を作ろうとの努力に寄与できるのではないだろうか。
そうした意味で意味ある能面との出会いとは、私に託された使命とはと大層な言葉を並べているのですが、33歳で能面教えます、の看板に出あった後の私の運命は誰にも、自分自身にもほんとの事とは思えないほどの展開をみせているのです。
これまた以前能楽関係者からあなたは運のない人、と言われたが能面=舞台の考えから離れた私は[ものすごく運と出会いの良い人]です。
様々な人との出会いと経験とを経た今、能面文化交流館を建て能面と能面を作る人たちを世界に知らせ日本の誇る伝統文化を広く伝えて将来の能面師、面打師、能面作家、(呼び方はどれでも)を育てよう!

と考えるに至りました。交流館に関する考えは後日に。



























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[福の神・幸せの三重奏]のハガキです。

2009-10-05 00:21:21 | 私にとっての能面
きちんとカメラマンに写していただいた写真があるのにアップ出来ないかなしさ!

ハガキを持ちだしました。このほうがより表情が見ていただけるかと思いました。
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能面[福の神・幸せの三重奏]

2009-10-04 22:10:55 | 創作面作品集
昨年9月二子玉川高島屋ルーフギャラリーにて2週間の展覧会をしました。その時の案内状のハガキにした作品です。厳密にいえば狂言面です。三面の色を変えてあります。普通の狂言面の福の神では茶色ぽいのが一般的な面の色ですが、ここでは副題に「幸せの三重奏」と付けましたので三色に塗り分けてみました。塗り分けの意味は三兄弟を表します。彫刻も兄弟のそれぞれの性格を表すように彫りました。

普通にある茶色はのんびりとして世間に順応する長男、銀色に見える真中はプラチナを塗っています。しっかり者の次男をプラチナに古く見せるための化粧をほどこすことによって燻銀の深み表現できたらとおもいます。金色に見えるのは24金の金です、お兄ちゃん2人を上手くあしらいちゃっかりと自分の位置をキープする要領の良い末っ子のイメージです。

この作品の面のモデルにしている狂言面には下にも歯ありますがあえて今回の三人には上の歯はだけにしました。

福の神がニ重三重に重なるお目出度さと誰もが好きな、そしてあらゆる良いことのイメ-ジの金銀を使うことでより・幸せや目出度さ・を強調出来たとおもいます。なぜなら想像してみてください。周りの額縁の縁や顔の背景にどのような色を持ってきたとしても能面として決まった茶系の顔が3面、三人並んでいても面白さと華やかさに欠けると思うのですがいかがでしょうか?

能面に興味がなかったり先入観として無表情だ、怖い、なんか日本の伝統っていわれても関係ないし、とか思われる方が沢山おられる現実の前にはインテリア?として、もしかしたらつかえる?というところから出発していっても良いのではないでしょうか?

そしてそれにはやはり「目出度い」がキーワードではないでしょうか。

写真が縦向きで申し訳ありません、横向きに直すことができませんでご容赦ください。




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