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畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

愛知・新城市観光~其の2~

2011-08-18 04:44:00 | 旅行・観光
 愛知県・新城市にやってきました。続きです。「長篠城」と「長篠城址史跡保存館」「馬場美濃守信房の墓」に行ったついでに行きたい場所を紹介します。



「長篠城址保存館」から車で15分ほどの「設楽原歴史資料館」です。ちょうど企画展「山縣昌景と竹広火おんどり」をやっていました。


 この資料館では、「長篠・設楽原の戦い」関連や火縄銃関連の展示物が多かったです。

 野田城の模型がありました。三方原の合戦で、徳川軍を破った武田軍が1573(元亀4)年にさらに進軍してきて菅沼定盛が守る野田城を攻撃したと言われます。結局は武田軍が勝ち、その後の長篠・設楽原の戦いに繋がります。

 長篠の戦いの位置関係などを把握できて、学習になります。ぜひ長篠城址保存館とセットで来たいですね。



 そんな中で今川氏真の古文書がありました。1561(永禄4)年に、冨賀寺寺領の安堵状で、三河国の領国安定化に努力した氏真の痕跡が見えました。やはり氏真は凡庸な武将ではなく、努力したけれど時代にあらがえなかっただけのようですね。氏真の花押が見れたのがラッキー!



長篠の合戦で大量に鉄砲が使われたことから、この資料館でも火縄銃の展示が多いです。

これは「サーペンタイン」という火縄銃の原始的な構造の銃や、火縄銃作るまでの苦労、火矢筒、信玄砲、日野筒など様々な火縄銃の歴史が学べます。


 また、火縄銃のレプリカがあり、訪問者が持てるコーナーがあります。といっても私も火縄銃のレプリカ持っているんですけどね(笑)



 そしてこれまた武田氏ファンにはたまらない「家督遺言之事」(複製)が展示されていました。企画展で「山縣昌景」を取り上げるあたり、この資料館でも好意的に武田氏を取り上げています。このあたりの地は、今川・松平(徳川)・武田としょっちゅう領主が変わったからあまりひとつの家に思い入れはないんでしょうかもしれませんね。



 受付では図録が売っています。「長篠城址史跡保存館」と共通の資料も多いですが、独自の資料も売っています。私は2006(平成18)年の企画展の図録「戦国の夢を追いかけた武田信玄・勝頼展」を買いました。また福井市立郷土歴史博物館「越前山縣家と武田信玄」の図録も売っていたので、それも購入!


 さて、次はこの資料館から徒歩で5分ほど、車で2分ほどの「馬防柵」を見に行きましょう。

 説明版をみると、織田軍と徳川軍の馬防柵の組み方を区別して表現してあると書いてあります。差は「攻口」(出入り口)の設け方にあるといいますが…詳しい説明があればよかったなあ。

 写真を見返してもう一度見てみよう。この上の写真のタイプの「攻口」は木柵をずらして「攻口」を作っています。

 上の写真は、木柵をずらしただけでなく、冠木門のような「攻口」を設けています。「攻口」としても出入り口が大きいですね。これが答えなのかいささか不安はありますが。


 明日は、家族旅行で行った「新城総合公園」が一風変わっていたので、それを取り上げたいと思います。

愛知・新城市観光~其の1~

2011-08-17 04:44:00 | 旅行・観光
 家族旅行で来た愛知県新城市鳳来(旧鳳来町)。遊びに来たのは「新城総合公園」だけど、近くに「長篠城跡」の看板が見え結局家族を連れまわして行くことに(苦笑)


 長篠城は1508(永正5)年に、今川家の武将・菅沼元成が築城したと言われます。桶狭間の戦い以後、今川家が力を失ってからは徳川家に属し、さらに武田家が影響力を持つと、他家だと徳川の間でさいなまれることになります。



 長篠城跡にあるのが、「長篠城址史跡保存館」。こちらでは、現地の出土品のほか、武具や長篠合戦に関する資料を展示してあります。



 これは「床机」(しょうぎ)といい、合戦時の簡易用イスです。座ることができたのは指揮官のみと説明文にありました。今川義元や武田信玄が座ってそうなイメージのイスですね。他にも、「陣中水呑み」「軍配団扇」「携帯用食器」など戦国合戦にちなんだ展示があります。



 また長篠の合戦にちなんで火縄銃の展示も多かったです。「早合」(はやごう)などの展示もあります。他にも「長篠の合戦屏風」「長篠の合戦模型」などがあり、長篠の合戦について学習できます。結構意外だったのは、資料館が徳川ヒイキで武田は侵略者という観点でなく、合戦で負けた武田氏側の方がむしろ積極的に取り上げられています。武田氏ファンにとっては意外に穴場かもしれません。(まあ、負けた戦場に来るのは嫌かもしれませんが…)



 また、発掘調査の出土品なども紹介しています。瀬戸物の陶器や常滑の陶器など国産の陶器ほか、青磁・白磁などの輸入陶器も出土していて、その品が展示してあります。



 保存館では書籍も販売しています。私が買ったのは「ガイド長篠の戦い」「戦国の礎となった仙丸たちの物語」と、長篠の合戦のクリアファイルを購入。


 さて、今度は長篠城本丸に行きましょう。



 駐車場や保存館がある場所は「帯廓」といって、本丸に付帯する郭です。本丸との間には結構な空堀があります。



 かなりの深さですね。写真左が帯廓で、右が本丸。右の本丸はさらに土塁があり高くなっています。



 「長篠城縄張概図」です。これをみると「長篠城」は、宇連川・寒狭川に囲まれた天然の要害であることがわかります。本丸の奥に「野牛郭」というのがありますね。そちらが搦手門(裏門)でしょうか。



 本丸の土塁です。空堀で掘った分だけ土塁を積み上げたのでしょう。結果、かなりの高低差になっています。



 本丸郭はかなり広いです。

 本丸入口には、「史蹟長篠城址」の石碑が、本丸内には「長篠城本丸跡」の木碑があります。



 「野牛郭址」は本丸からはうかがい知ることができません。しかしわかることは、本丸跡と野牛郭跡は段差がありますね。きっと川が削ったのかもしれません。



 本丸跡にはJR飯田線が走っています。本丸跡だけでなくもっと長篠城を一体的に見れる公園になれるといいのですが。また、長篠城址保存館にも長篠城の模型もなく、どのような形の城であったのか、地図だけでは全体像がつかめませんね。


 長篠城の近く(歩いて10分ほど)に馬、さすが長篠の合戦の場になったところというか、場美濃守信房の墓がありました。

 説明版によると、馬場美濃守信房は長篠の合戦で、退却する武田勢の殿(しんがり=後方隊)を務めて戦死したので、その首を埋めた場所と言われているそうです。


 さらに、この近くの戦国見どころとして、「設楽原歴史資料館」と「長篠の合戦馬防柵」があります。それは後日。

日帰り埼玉旅行~川越編其の2~

2011-08-12 04:44:00 | 旅行・観光
 さて、川越にはもう一つ博物館がある。「川越歴史博物館」。市立の博物館には載っていないかったがカーナビ―に載ってる。行ってみよう。



 あっ…ヤバイヤバイ。一人旅には欠かせないもの。それは家族へのお土産。こうしてお土産を買うことで「あなたばっかりどっか行けていいわね…」という批判をかわす狙いがある(笑)

「くらづくり本舗」というお菓子屋でお洒落な和菓子を買った。



 川越市内にある大きな寺の喜多院の近くにある「川越歴史博物館」。ここは私設の博物館で館主が集めたコレクションを展示してある。
館主「展示してあるのは全部本物だからね。レプリカじゃないよ。館内写真OKですのでどんどん撮っていって!」



 おお!これは古代の銅剣。さび具合からして本物だろコレ。古墳時代の展示というが、古代の銅剣と言えば、国宝級じゃないのか?古代の銅剣なんてレプリカしかみれないのが普通だから、本物を見れるのは貴重だな。ってどうやって館主は集めたんだろ。元古物商?



 これは朝倉家伝来の兜。「伝朝倉義景所用」と言われる。この博物館にはほかにも「伝織田信長所用」の兜や、「伝最上義光所用」の鎧なども展示されている。「伝」というあたりで本来の人物の所用のものではないかもしれないが、室町使用の兜や鎧であることは見てとれる。一度、国立歴史民俗博物館に鑑定に出してもらいたいなあ…。本人のものでなくても、本物の室町物ならばかなり価値があるんだけどなあ。


 さて、次は4館共通セットの最後「川越市蔵造り資料館」へ。この資料館だけ他の3館と違って、川越一番街と呼ばれるところにある。本丸御殿から1km以上離れたところにある。

 おお~!レトロな蔵造りの町並み。キレイだな。「川越市蔵造り資料館」は併設の併設の駐車場がないので、近くのコインパーキングに駐車。相場は15分100円。



 このレトロな明治期の建物は博物館?と思いきや「埼玉りそな銀行」だった。こんな趣のある建物に囲まれて暮らせるなんていいなあ~。



 こちらが「蔵造り資料館」。なぜこのような街並みになったのか資料館の説明版に書いてありました。「重厚な蔵造りは、明治26年(1893)の大火を契機に築かれました。」なるほど、防火性を考えての蔵造りなんですね。この地域は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているそうです。


 この「蔵造り資料館」はその町並みのなかから一つの建物を保存し公開しているものです。中は展示室になっています。

 これは日本で一番狭い階段だそうです。幅が45cmしかないって言ってたっけ?写真がブレててごめんなさい。



 このような街並みにとっても似合う人力車は、30分3000円。1時間で5000円。家族連れなら乗りたかったな…。



 これは一番街から少し側道に入った「鐘つき通り」にある「時の鐘」です。



 「時の鐘」は、江戸初期の頃、川越城主・酒井忠勝の建立と伝えられています。1893(明治26)年の大火で焼失し、翌年に再建され高さは16mもあります。この川越の蔵造り町並みを彩る絶景です。



 暑かったので涼を取りたい…と思っていたらソフトクリーム屋。このソフト何とコーンポタージュ味。うまかった!


あ~こんなにお店のいっぱいの街を歩いていると…

やっぱり買っちゃいました。「玉ねぎ醤油漬け」。



 こちらは川越市初のデパートだった「山吉ビル」。1936(昭和11)年に建てられたものだそうです。1936年と言えば2・26事件。きな臭い時代ですね。現在は貸しビルでした。



 川越一番街(蔵造りの町並みの通り)は、現在川越市によって「一方通行にする」という案があるようです。これはテレビ番組でも取り上げられていました。市民と議会が対立しています。一観光客の支店だと、一番街は人通りが多いのに車通りが結構あります。広く歩くためには一方通行化をしてもいいと思います。一方で、川越市内は渋滞が多くさらなる渋滞を招くと住民としては困りものだとも思います。どーなんでしょーね。


 さて、富士見市と川越市と回ってきました。なかでも川越の蔵造り町並みは本当に一見の価値があります。平日にも関わらず人が多くいるのもうなづけます。

日帰り埼玉旅行~川越編其の1~

2011-08-11 04:44:00 | 旅行・観光
埼玉県富士見市の難波田城公園から30分。早くも川越市に到着。



 川越城だった範囲には公共施設がそこっています。川越市立博物館、川越市立美術館、川越城本丸御殿の他にも学校などがあります。公有地だったという特性から城跡に学校があるのは珍しくないですが、このような市立博物館などの公共施設がそろっていると人が訪れる施設になりますね。むろん本来はすべて史跡として保存整備されるのが望ましいのは言うまでもないですが。三館共通の結構大きな無料駐車場(施設に入場するとただ)があるので、車での訪問も安心。


 では早速博物館へ。博物館、美術館、本丸御殿と蔵造り資料館の4館セットで450円という共通券があり、まだ時間もあるので4館全部回ることにしました。

 川越市立博物館は、申請すれば企画展以外、写真を撮ることが可能です。しかし、ホームページに載せるのは不可という事なので掲載できず残念。
 展示としては、やはり近世の川越藩の資料がおおいですね。城主は、酒井忠勝や松平信綱、柳沢吉保と老中など幕閣でも重要な地位の人物が多くいますから、それらの展示が多いのも納得。中世的には太田道灌の展示が多いです。私的にはなぜ北条VS古河公方・扇谷・山内両上杉連合軍との「川越夜戦」の展示があってもいいんじゃないかと思ったんですが…。



 受付で図録が売っていたので購入。企画展で戦国系のものも結構あったんですね。



 次に博物館のすぐ隣にある美術館へ。「共通券では企画展は入れませんが…」と言われたけれど、あまり美術に通じているわけではないので常設展だけを見る。


 抽象画………うちの娘が描いている絵の方がよっぽどうまいのに…って思う私の感性が美術的センスを阻んでいる。私の両親は絵が好きだが、さすがに抽象画は見ない。それを受け継いでしまったようだ。きっと私の子どもたちも…(笑)常設展示は2つあって、もう一つは油絵の風景画。近くで見ると荒っぽく描いているように見えて、遠くで見るとそれが景色として融合される…。これは素晴らしいし、見応えがあった。


 美術館を見終わった時点で11時。どこでご飯を食べよっかな。適当に店を見つけるのも面倒なので、博物館にあったティーラウンジで食べよっか。

 和風パスタ(650円)、サラダ(100円)、アイスコーヒー(有料で施設を見学した人のみ食事とセットで120円)。お客が誰もいないのでちょっと味を心配したが、平日の11時じゃ客入りもこんなもんか…と思った。結構ボリュームもあるし、味もいい。じゃあ、本丸御殿行ってみよっか。(駐車場隣の県立川越高校がソフトテニスの練習中。メッチャ大きな声出してたし、いい球が決まってた。いいなあ。)



 室町時代の川越城は扇谷上杉の領内で、上杉持朝が家臣の太田道灌(資清)に築城させました。当時関東は上野(栃木)に山内上杉、武蔵(埼玉・東京・神奈川の一部)に扇谷上杉、常陸(茨城)、下総・上総(千葉)に古河公方と激しく関東の覇権を争っていたため、扇谷上杉が領内の北端の城として築かせたと言われています。
 しかし戦国時代になると、後北条氏が台頭してきて川越城を奪われます。その奪還のために古河公方・扇谷上杉・山内上杉が連合して川越城を攻めたのが「川越夜戦」です。結果は兵数が少ない北条軍が夜襲をかけて圧勝。結果的に北条の武勇を上げて終わってしまいました。

 

 川越城には江戸期にも天守閣は無かったみたいです。そういう意味では室町系の面影を残しているとも言えそうです。明治になって廃藩置県が置かれると、城内の多くの建物は解体されてしまいます。本丸御殿は県庁、煙草工場、学校の武道館と用途を変え存続してきました。



そして、1967(昭和42)年に大規模補修が行われ、文化財として公開施設になりました。しかし、雨漏りや壁の日々が目立つようになったことから2008(平成20)年に再び大規模補修が行われ、工事が完了したのは2011(平成23)年3月26日だそうです。あまりつい最近補修したとは思えない造りだったのでびっくり。でもそれもそのはず。床板などは古い板をそのまま使うなど、見えないところを補修しているので、往年の姿をしっかりと再現しているそうな。



 平成の大規模補修の様子が展示されていました。ちなみにこの本丸御殿は広間以外は写真撮影も可能だそうです。(なのに他の客がバシバシ撮っていたのに、館員が注意してなかったな…)。



 本丸御殿らしい立派な庭があちこちにあります。見応え有。



 ドラマ「JIN-仁-」でも川越城本丸御殿が撮影舞台に使われたようで、JINのポスターや台本が置いてありました。



 この建物は本丸御殿に隣接する「家老詰所」です。明治期に解体移築されて商家になっていたものを、1987(昭和62)年に調査したところ川越城の遺構であることが確認できたので、再び解体移築して展示してあるとのこと。その商家が1987年まで残っていてよかったの運が良かったですが、解体移築される展示されているのも素晴らしいことだなあ…と感じました。



 こんなように家老が話し合っていたんですね。ちなみに本来あった家老詰所は現在では学校の敷地になっているので、若干ずれた位置に移築されました。



 家老詰所の縁側です。こう見ると室町時代の屋敷と共通点がありますね。…もしかしたら、室町時代の復元屋敷が江戸時代のを参考にして復元しているだけかもしれないケド。



 家老詰所の窓です。古代や中世だと開き戸になっていますが、江戸時代になるとこのようなすり戸になっているんでしょうか。開き戸とすり戸のメリットデメリットってなんだろうな…なんて建築学的なことを考えても、思い浮かばない…。


 さて、今回はまだまだ時間に余裕があったので、「川越歴史博物館」と「蔵造り資料館」にも行きます。その様子はまた次回。


後日談…
 家に帰ってから川越の観光マップをみたら、2010年4月に「川越城中ノ門堀跡」の復元整備が終わっていたらしい。
http://www.koedo.or.jp/cn17/pg143.html
見に行けばよかった。場所は本丸御殿そば駐車場から県立川越高校を越えたあたり徒歩7分くらいでしょうか。住宅地の中に堀と門を復元した川越市はさすが!中世の復元もお願いね。



日帰り埼玉旅行~富士見市編~

2011-08-10 04:44:00 | 旅行・観光
 昨日、無性に史跡に行きたくなったので近場の史跡を検索。そうしたら、難波田城跡に復元された水堀や門があると言うので早速行きました。



 途中西所沢駅を通りましたが、いつのまにやら高層マンションがたくさん…。所沢ももはや都会。



 愛車スターレット「能登号」はまだまだ現役。平成5年度登録だからもう18年目。今回も能登号でお出かけです。難波田城公園は無料の駐車場があります。まわりは畑が多い所でした。


 難波田城(なんばだじょう)は、扇谷上杉氏の被官であった難波田氏の居城で戦国期には珍しい平城です。城の規模は5万km2ほどもある巨大なものですが、宅地化されてしまっているところもあるので、公有化された一部の地区が「難波田城公園」として1997(平成9)年から3年かけて整備され一般公開された史跡です。ちなみに難波田氏の名前の由来は「南畑」(なんばた)だと言います。


 公園の入口は、復元された冠木門がお出迎え。ここは東門にあたるそうです。公園の周りの柵は、一応それらしく木柵になっています。



 公園の入口には、「難波田城氏の歴史と難波田城」の紹介と難波田城公園の案内図の看板があります。

ここでまず難波田城のことを頭に入れてから公園を散策しましょう。


おっと…

先ほどの復元冠木門の横にパンフレットが置いてありました。これを持って歩くと、先ほどの看板を暗記しなくてもOKですね。



 もうちょっと雰囲気ある木柵にしてくれればよかったのに…と思います。石垣もそれらしいつくりではありますが、一見して後世のものとわかるもの…。そもそも石垣なんてあった?関東では土塁が基本ですよね…。



 これは難波田城の曲輪3と曲輪2をつなぐ復元木橋です。これは1996(平成8)年に発掘された場所に復元したものです。このような形だったとは思いませんが…。



 難波田城内の曲輪3と曲輪2には水堀があり、侵入者を防ぐようになっていました。これはキレイに復元されています。それにしてもミズバショウが咲きすぎですが(笑)



 曲輪3の幅はこんなものです。大きな道を作ると建物を作るスペースはあまりありません。それほど広い曲輪ではありませんね。



 難波田城は水堀と土塁で曲輪が構成されています。堀を掘ったのを土塁にしたんでしょうね。近くにはなぜか菖蒲田がありました。どうしてこんなところに?



 これは城の南にあたる場所にある追手門です。こちらは冠木門ではないですね。この写真は一度城外にでてから撮ってみました。どうしてここの復元は冠木門にしなかったのかな?



 さて難波田城資料館の入口にきました。まだ城内の北半分を周ってませんが、まあいっか。先に展示物を見た方が理解が早いかも。



 館内は無料で見学できます。無料にしては結構充実した施設です。中世から現代までの展示物があります。写真は城門の模型です。そうですコレコレ。こういう門や塀がが復元されていれば雰囲気でたのに…。木橋は当時手すりなんかないですよね…。



 難波田城の全体模型です。中央に見える大きな建物が曲輪1の本城と言われるところです。その南(下)にある櫓があるところが曲輪2。それを取り囲むC次が裏返しになっている形の曲輪3です。難波田城は荒川低地に築かれていたので、城の西は川になっていますね。だから水堀にすることが可能だったのですね。荒川の氾濫時などはどうしたのでしょうか?洪水を恐れてあまり規模を大きくしなかったのでしょうか。



 無料の資料館なのに有料の図録が売っています!図ばらしい。しかも企画展の図録も売っており大満足。「難波田城施設案内」「常設展示図録」と「平成21年春季企画展図録 戦国の集落と領主-水子・鶴馬-」を購入しました。3冊で1000円とは安い。



 資料館の裏口を出ると、今までの「城跡ゾーン」から「古民家ゾーン」と呼ばれるところへ。富士見市内に残されていた古い民家を移築しし、再現したスポットらしい。写真は地域交流施設「ちょっ蔵」。難波田城のキャラクター「なんばった」もいます(笑)



 市指定文化財になっているみたいですが、江戸時代はあまり専門的ではないので、そんなに写真に収めていません。



 難波田城公園内にはなぜか水田が…。写真は水田横の古代蓮の畑。なんと1400年前の地層で見つかった蓮の実から栽培したものだそうです。富士見市で見つかったものかと思いきや「行田市から分けてもらった」らしい。近くに井戸があったから喉を潤そうと思ったら…「この水飲むべからず」って…チェッ…。



 「古民家ゾーン」から回ってきたらまた「城跡ゾーン」にでました。先ほど行けなかった「曲輪2」につきました。ここから曲輪3を望んだ写真です。水堀の面積が大きいなあと思ったんですが、これは荒川にごく近いからこのような形になったのだと納得。曲輪が小さいのも納得。



 西側から曲輪2を見ている写真です。資料館でみた模型からわかる通り、本城(曲輪1)から直接通じる「馬出曲輪」になっています。曲輪内が見えないようにそこそこ高い土塁が覆っています。



 いよいよ本城=曲輪1です。難波田城内の最重要地点ですが、ほとんどの地点が宅地化されており、公園外になっています。なので、狭い面積に「難波田氏館址」の石碑があるのみです。江戸期に成立した古絵図によると、東西45m、南北30mとなかなか大きな曲輪でした。


 全体的にみると、「城跡ゾーン」の復元は中途半端な感じがします。門や木橋、木柵(あるいは板壁)などをもっと室町時代の様式で復元できると良質な史跡公園になると思います。水堀や土塁などもしっかり再現していると思うのですが、現在は近くに荒川がないので、その雰囲気を感じ取ることができないのが残念です。
 とはいえ、無料ながら資料館が充実していてよかったなあと思います。扇谷上杉などはあまり資料館がなく研究も盛んではないと思うので、こういった史跡があると身近に感じられます。私自身も、逆井城、八王子城、鉢形城、難波田城、古河城と北条氏やそれに関連する諸氏の城郭を見ていくうちに、今まで興味がなかった北条氏に、ちょっとずつ関心がでてきました。


 朝早くから出てきたので、まだ9時45分。じゃあ、同じ扇谷上杉関連の史跡で川越城にでも行きますか。ここから車で約30分ほどです。その様子は次回のブログで。