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畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

過去の歴史の旅~其の3~

2011-08-23 04:44:00 | 旅行・観光

 長州藩と言えば言わずと知れた尊王攘夷派の牙城。その藩主は、毛利元就で有名な毛利氏。江戸時代の長州藩の居城となった萩城(山口県萩市)は1604(慶長9)年に毛利輝元が築いたと言われます。別名・指月城とも言われます。写真は、天守閣の石垣です。天守閣には山があるので、平山城でも山城的性格をもった城だと言えます。


 現在は、指月公園として整備されました。春には桜の名所と言われる公園です。城の構造をよく残しているのが特徴で、公園内を歩くときかなり広く感じられました。



 萩城から、萩城下に入ると城下町の面影がよく残っています。写真のような塀が江戸時代の雰囲気を感じさせます。ネットで調べると、このような路地のことを、鍵曲がり(かいまがり)と呼び、外敵の侵入や攻撃に備に入り組んだ道にしているそうです。



 訪れた2004年当時のことですが、市内ではいたるところで発掘調査を行っていました。写真のようにくっきりと石組みがでると、調査のしがいもあるだろうな…と思ったりします。しかし、発掘調査をする際は土地の所有者が行うことになっており、萩城下で住宅地を買う時は気を付けた方がいいかもしれませんね(笑)



 次に訪れたところは山口県山口市にある瑠璃光寺(るりこうじ)。この寺は、室町将軍の権力拡大政策を進める将軍・足利義満により「応永の乱」で征伐された大内義弘を弔うために、大内盛見がこの地に五重塔を建てたのが始まりと言う。



 同寺には大内氏との関係が深く、大内氏の礎を築いた「大内弘世」の銅像があります。



 この日の夜は下関で宿泊。下関と言えばやっぱりフグ。フグ刺しはとってもおいしかった。やっぱり触感がサイコー。テッサ(フグ鍋)は骨が結構あって食べづらかったなあ。


 この萩旅行は、会社の同僚と来たので、歴史ばかりの旅にはなりません。山口と言えばカルスト地形の秋吉台が有名ですね。草原にごつごつとした岩が見えた時にはビックリしました。鍾乳洞も素晴らしい絶景でした。


 この旅行では単独ではなかったので、残念ながら大内氏館があった龍福寺には行けませんでした。今は龍福寺は大内氏館の復元や本堂の改修に伴う発掘調査が進められているので、それらが終わった時に再び訪れたいなあ…と思います。

過去の歴史の旅~其の2~

2011-08-22 04:44:00 | 旅行・観光
 2006年8月15日に兵庫県姫路市にある姫路城に行ってきました。その写真が倉庫から発見されたので、ついでに公開します。現在は天守閣の修理中のようで、天守閣の外観を見ることができません。修理の様子を見学できるみたいですが。



 姫路城に行くために、駐車場に止めるとだだっぴろい空地がありました。説明版をみると、「家老屋敷跡公園」とありました。



 酒井藩時代の筆頭家老高須隼人が屋敷を構えていた所で、現在は往年の屋敷の姿を模したお土産物屋がありました。本城だけでなくこういうマイナーなところを味わうことができると嬉しいなあと思います。



 姫路城は日本の国宝であり、「世界遺産」に指定されています。室町時代は赤松領で、姫山(姫路)を治めたと言います。1580(天正8)年に秀吉が天守閣を築き近世姫路城の一歩となりました。公式サイト(http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/)によると、現在のお城の形に近くなったのは1601(慶長6)年の大改修によってと言われています。



 姫路城は、その外観の美しさから「白鷺城」とも言われます。姫路城を日本人が美しいと思うのは、やはりその白さ。そして戦火を免れ現存するという歴史からではないでしょうか。


 また天守閣だけではなく、その周りの櫓なども一体化された造形美とも言える美しさも日本人が好きと思える理由かもしれません。日本人は「城」というと、戦国時代の城より、天守閣のある江戸時代の城を思い浮かべる人がほとんどです。だから明治や戦災などで失われた城を、「せめて天守閣だけでも」と復興する場合は多いのが現状です。



 しかし、天守閣はあくまでも城の象徴や権威を示すだけで、防御性はほとんどありません。1615年の「大阪夏の陣」で、堀を埋められ天守閣だけになった大坂城は全く意味がなく、豊臣の滅亡になってしまったという例はあまりにも有名です。
 したがって、姫路城の魅力というのは、天守閣の素晴らしさもさることながら、それと付随した施設が当時のまま残っているという点ではないでしょうか。これは、ヨーロッパの現存する城とも同じような歴史性があると思います。



 近世城郭にそれほど興味がない私でも、「少なくとも一度は行きたい城」と思っていました。この大切な日本の遺産をいつまでも残していきたいです。

過去の歴史の旅~其の1~

2011-08-21 04:44:00 | 旅行・観光
 今日からは、過去の歴史旅行の写真を公開します。


まず最初に、2006年8月15日に行った兵庫県神戸市にある五色塚古墳です。

 五色塚古墳は、4世紀の終わりから5世紀のはじめにかけて造られたと言われる前方後円墳です。1921(大正10)年3月3日に国の史跡に指定され、1965(昭和40)年から整備事業が始まり、1975(昭和50)年に復元が完成しました。



 全長は194mもあり、高さも一番高いところで18mもあります。小さい古墳は復元されたり公開されたりしていますが、これほど大きな古墳が実際に復元され公開されているのは、日本でここだけです。というのも、ほとんどの大きな古墳は天皇家につながる古墳で、立ち入ることはおろか、研究調査すらできない状況なのです。そう考えると、この五色塚古墳は天皇陵とは無関係と想定されているんだなあって思います。あまりに大きな古墳のため、写真で全体像が捉えられません(笑)



 こんな大きな古墳に乗ることができたのは、古代なら作っている農民か、豪族とその重臣でしかありえません。現代に生まれてよかった!



 古墳上には埴輪も再現されています。意外とこの埴輪って大きいんだなって実感しました。古代を知るうえでとても貴重な復元史跡です。神戸の鳴門大橋のすぐ近く。


五色塚古墳
公開時間=9:00~17:00
定休=月曜日

愛知・新城市観光~其の4~

2011-08-20 04:44:00 | 旅行・観光
 愛知県新城市。長篠城のついでに同じ市内にある「川尻城」に行こうと思いました。長篠城は旧鳳来町。川尻城は旧作手町。違う町ですがそんなに距離はないかな?と思いカーナビで調べたら9kmほど。だったら近いかな?って思って出発したら、なぜか急に目的地まで22kmの表示。直線距離で9kmでも道のりでは22kmもある。その理由は山道だからでした。


 途中お腹も空いたので、目的地の近くにある「つくで手作り村」という道の駅で休憩&昼食。

かなり人がきてにぎわっています。

おからコロッケ定食。800円でした。なかなかのお味。


 さて、お目当ての川尻城へ…その前に「亀山城」発見!

 行こうかどうか迷いましたが、今日は家族連れ。あまり史跡で連れまわすと正室の目が冷たい…。


 川城城は応永年間(1394~1428)に奥平貞俊によって築城されたと伝えられています。当時は周囲に土塁を備える平山城だったと本丸跡の説明版にありました。しかし、貞俊が川城城が手狭だったことから、近くの山である清岳に亀山城を築いて移ったと言われています。

 
 川尻城は公園になっている…というんですが、それらしきものがない。しかも駐車場も大きいと言うのにそれらしきもものがない。やっとみつけたのがこの看板。

 この看板をよく見なかったのが、さらに迷ってしまった原因。実はこの看板の後ろが駐車場でした。案内板も出てないのでよくわからなかったですが、よくみると、現在位置の下に駐車場って書いてありますね…。



 この道が川尻城?狭いし、駐車場がその西の道路にあるからそっちに止めようと思ったら、そっちの道は途中で未舗装に…。しかも城跡にたどり着かないし…。途中で引き返す。歩いて登ると、そこには釣堀があった。戻ってもう一度最初の看板に戻り駐車場を発見。



 最初の看板のちょっと東にこの階段があります。この階段を登ると、上の細い舗装道路に出ます。ちょっと歩くといよいよ目的地へ。



 復元冠木門です。ここが王手門(表門)だったのでしょうか。中に木柵も再現されていますが、草が生い茂っていて近づけませんでした。もうちょっと手入れできないもんですかね…。


 さらに5分ほどで「城跡広場」にたどり着くというので、歩いていくことに。そこでこの狭い舗装道の末路を見た。

 狭いのに谷側は舗装が崩れている。しかも山側には石段がある。軽くらいしか通れないような道。ここまでに車が展開できるようなスペースもありません。ここまで来たらこの狭いスペースを覚悟して「城跡広場」まで登らざるを得ません。絶対に、私が最初に見つけた看板の後ろの駐車場に止めて登る方がおススメです。



 「城跡広場」には「川尻城址」の木碑、トイレ、休憩所があります。あまり見所はありません。本丸に冠木門とか作ればよかったのに…なぜあのような中途半端な位置に作るのか…。しかも、案内図不足は否めません。


 せっかくだから作手の資料館にも行きましょう。

「作手歴史民俗資料館」。見学料無料です。

 しかし、残念ながら「川城城」のことは展示では全く触れていませんでした。むしろ「亀山城」の方が載っていますね。亀山城は発掘調査なども行われているようで、出土品が展示されています。

亀山城の模型…というか、地形模型も展示されています。奥平氏は、川尻城→亀山城→長篠城と移っていたようで、今回回った史跡はすべて奥平氏の史跡を回ったことになります(笑)



 亀山城の発掘調査では、小石が敷き詰められている遺構が発見され、屋敷の玄関ではと推測されています。このような遺構もあるんですね。勉強になります。


 結局、亀山城は訪れることができませんでしたが、様々な城跡と資料館を回れて満足満足!

愛知・新城市観光~其の3~

2011-08-19 04:44:00 | 旅行・観光
 長篠城があり、長篠・設楽原の戦いがあった愛知県新城市(旧鳳来町)。だからなのか、「新城総合公園」では、こんな子どもの遊び場がありました。

 「城攻めルート」って公園を城攻めに見立てた遊具があります。早速我が嫡男と娘が攻略します。



 いざ!攻略。城の攻略には3ルートあります。急斜面を登って素早く攻めるなら「忍びルート」。真ん中を通って堂々と攻めるなら「将軍ルート」。1つ1つじっくり攻めるなら「武将ルート」。という説明版がありました。将軍ルートは堂々と攻めるって書いてありますが、どうみても真ん中の花道階段を通っているので、攻めると言うよりは登城している感じです(笑)
 私はやっぱり男児たるもの「武将ルート」!そっちから攻略するぞぉ~…と思いきや、我が嫡男は「わぁ~滑り台がいい~」と言いながら「忍びルート」にまっしぐら…(笑)



 「斜面城」って書いてあります(笑)。ここを登って攻略だ。



 やっと「斜面城」を攻略。高いところまで来たなあ。むぅ、我が一門以外攻略の士がいないぞ。仕方ない、こんな城我が一門だけで攻略してくれるわ。



 「忍びルート」から「武将ルート」に合流。城の防護柵が鉄壁じゃあ。しかし、我が能登畠山一門は精鋭ぞろい!行くぞ我が息子ぉ~!
息子「はぁ~い」



 城の防護柵を抜けたらいよいよ本陣へ突入じゃ。「かぶと広場」から、城門をくぐって本丸へ。



 城門を破って本陣へ突入。本丸は石垣でおおわれる堅い造りだ。



 城門の東には隅櫓がある。敵兵を追い落とし、我が軍が占拠したぞ。本丸攻略も近い。



 本丸郭はなかなか広いぞ。目標は左前方にある二の丸だ。



 本丸郭の板塀は窓も特徴的だ。攻略は近い!



「かちどき広場」を我が軍が占拠し、敵の本丸を落としたぞ!みな勝鬨を上げろ~!
うむ、それにしても、この庭石。なかなか雰囲気がよいな(笑)



 よし、我が城七尾城へ戻るぞ。帰りはこの城の二の丸に設置された脱出用滑り台で一っ跳び!


 ちなみに「将軍ルート」だとこんな感じです。

障害物は全くないので、本丸へすぐに登れます。



 これは「武将ルート」の合戦場遊具です。石垣が組まれています。

 石垣は粗雑なつくりですね。もうちょっとしっかり造ってほしかったなあ。



 これは「武将ルート」の出城遊具。出城っぽくないけど、石垣が何層もの郭になっているのはそれらしい点だなあ。



 これは「武将ルート」の城下町遊具。我が娘が、私が制圧した城下町で遊びたいと駆け出す(笑)

 城下町では、屋根に登って遊ぶこともできる。きっと地下倉庫の屋根なんだろうな。ちなみに、この遊んでいる人たちは私の一門ではありません。


 歴史的な雰囲気を残した遊具ってのは面白かったな。後はもうちょっとこだわって再現してくれればよかったかも。でも、それなりに面白かった。庭石の再現が歴史マニアにはニヤっ!


<おまけ>
新城総合公園には、とても高い展望台があります。

 基礎台で2階分ほどの高さ。展望台で6階分くらいの高さがあり、60mくらいの高さがあるでしょうか。この風景を見たら
「スガ少年のガンバッた後の姿があれやねんで!」
って言葉を思い出しました。この言葉だけで何の番組か当てられたらスゴイ(笑)


ちなみに、展望台からの景色がこちら。

高い分、遠くの景色が良く見えます。鳳来の街が一望できます。ただ、6階分の高さを階段だけで登らなきゃいけないので、ちょっとキツイ(笑)

 おもしろい公園でした。