畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

「鶴丸城」訪問記

2024-08-18 17:20:50 | 歴史

 今回は、鹿児島城(別名:鶴丸城)の訪問記を書きます。鹿児島城は、2023(令和5)年に国の史跡に指定されました。その歴史は、関ヶ原の合戦の直後に1601(慶長6)年に築城を始め、1615(慶長20)年頃に完成したと言われています。背後の城山の形が鶴が舞っているように見え、鶴丸山と呼ばれたことで「鶴丸城」と言われます。

 写真は鶴丸城内側から見た大手門の御楼門です。

 この門は、1873(明治6)年の火災で焼失し、2015(平成27)年から鹿児島県が官民一体となって復元に取り組んだ結果、2020(令和2)年3月に完成したものです。それまで鹿児島城には江戸時代の雰囲気を残すものが石垣だけだったようで、この御楼門が鹿児島のシンボルとなると思います。

 御楼門の内側の枡形です。大きな石で組まれています。この石垣にある窪みは1877(明治10)年の「西南戦争」による砲弾や銃弾を受けた痕跡で、くぼみの中には弾丸の破片(鉛のようなもの)が残っている箇所もありました。「鹿児島城石垣ガイド」というパンフレットによると「第二次世界大戦の銃撃の痕跡が一部含まれている」とあります。1901(明治34)年には第七高等学校の造士館がここに設立していたようなので、大戦中に米軍の航空機による銃撃の跡なのでしょう。

 鹿児島城もVRアプリで往年の城の様子が見られるようです。復元に比べて予算も抑えられるし、最近は色々な城で活用されていますね。

 鶴丸城は、城から山にかけて城を構成される平山城。ほぼ城山部分と麓の部分の面積が半々です。築城された頃は軍事機能の中核を担う城山部分に本丸・二ノ丸があったらしいですが、行政部分は麓の居館で行われていたようで、江戸時代後半になると、本丸・二ノ丸は麓の居館を指すようになります。如何に外様の島津氏が江戸時代前半に幕府からの攻撃を防ぐ努力をしていたかが感じられます。

 この時は来月に行われる「松方正義」の企画展の案内がされていました。薩摩藩は多くの明治政府の官吏を排出しており、これらの企画展もきっと充実しているのでしょう。経済専門の私としては彼がやった「松方財政」は国の財政基盤を支える立派な方法でしたが、激しいデフレが起って国民からはだいぶ冷めた目で見られていました。国の政策とはいつの時代も難しいものです。さて城の中に入っていきましょう。

 御楼門から入ると枡形はS字カーブになっています。ここの石垣もかなり大きいものが使われています。さらにここにも西南戦争の被弾の痕跡があります。この鶴丸城には築城された頃から天守閣などはありませんでした。

 この城を築城した島津家久は「薩摩は人をもって城となす」という考えの下、城の外郭に兵農一致の郷士団が守る外城を構えて防御の要としていました。薩摩77万石の本拠地としては質素な作りであったと言えるでしょう(防御が薄いという意味の簡素ではなく、豪華ではないと言う意味の質素)。この考えは、武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」(『甲陽軍鑑』より)の考え方と似ています。さすが島津家も戦国時代を生き抜いた大名だからこその視点なのでしょう。

 枡形を抜けると、奥に「黎明館」という施設が見えてきます。この建物の後ろに見えるのが、城山(鶴丸山)です。

 鶴丸城の麓部分の現在は「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」と「鹿児島県立図書館」に分かれています。黎明館は1983(昭和58)年に開館した「人文系の総合博物館」で企画展なども催されています。鹿児島の観光パンフレットなどにはあまり紹介されることが少なくて、この施設はあまり個人的に注目していませんでした。

 この日の企画展は中世ではなかったので、私は常設展だけを見ました。しかし、訪問したのが17時。受付で「18時で閉館ですよ。」と言われ、館内でも念を押されたほど。入って分かったのは、結構展示が充実していて見るのは時間がかかる・・・。「受付で言われた通りだ・・・」と思いました。

 中世的な展示の見どころはこの志布志城の模型です。志布志城は1562(永禄5)年には肝付氏が大隅計略の拠点としていました。この模型は肝付氏がもっともこの城で勢いがあった頃の1575(天正2)年頃の様子を再現しているそうです。

ただし、居館などは想像復元と書いてあったので発掘調査などはされていないのだろうと思いました。また県立の施設だけあって、県内の色々な箇所から発掘調査で出土した青磁などの陶器も展示してあり、中世の展示も見どころがあります。この辺を見ていて「もっとゆっくりと見学できる時間に入っておけば良かった・・・」と後悔しました。「あとで博物館の図録を買えばいいや・・・」と思っていましたが、常設展の図録はなく、あったのは1990(平成2)年の『西鄕隆盛と大久保利通』の図録だけ・・・。県立の博物館も最近は予算に困っていると聞きます。ぜひ文化予算を拡充して欲しいです。

 この模型は江戸時代の鶴丸城本丸の模型です。やはり天守は見えません。「人は城」ですね。御殿の後ろにあるのが城山です。かなり山の規模が大きいことがわかります。鹿児島は山が多い地形。江戸時代という平和な時代でも、常に幕府を警戒していた島津氏らしい気もします。このコーナーには、模造紙で大奥部分の発掘調査の内容なども取り上げていました。そういう部分こそ常設展示にしたり、図録にしてほしいです。

 こちらがCG復元された鶴丸城です。こういのって私は時間がないと意外とやらないのですが、みなさんはどうですか?見学の時にCG復元ってスマホで見ますか?

 さて黎明館の展示は「近世」や「近代」の展示が充実していました。その中で私は「征韓論」を主張していた西鄕隆盛が政府向けに自分の主張をアピールしている文書がありました。時間がなくて原文を終えなかったのですが、この政争は、「征韓論」を主張した西鄕の意見が却下されて、西鄕は野に下る。しかし政府は朝鮮を「江華島事件」において武力で開国させる、という一種矛盾した行動を取っています。その一部始終を西鄕の文書で確認したかったのですが・・・残念。では黎明館を出ます。

 黎明館の南西のこの辺りは説明の看板によると「庭園跡」だったり「能舞台跡」があったようです。または、能舞台を復元して、ここで能のイベントや、子ども向けイベントなんかをやるといいのでは・・・と思いました。

写真奥が御隅櫓の場所です。1872(明治5)年の御隅櫓の現存の写真もあることなので復元も可能です。築地塀や御隅櫓の復元をして江戸時代の雰囲気を楽しめればいいのになぁ・・・と思います。現代の鶴丸城はちょっとアピールが足りないような気もします。せっかく御楼門を復元したので、それに続いて機運が高まるといいなあと思います。

 鹿児島まで足を伸ばしたら、こんなところにも行ってみませんか?

国内で唯一の甲冑を作る工房「丸武」さんです。鹿児島に来てちょっと寄る・・・とは言いつつも、こちらは「薩摩川内市」という場所。鹿児島から車で高速道路を使っても1時間以上はかかります。新幹線でも鹿児島中央駅←→薩摩川内駅は40分程かかります。最も丸武さんは駅から遠いので車でないと厳しいでしょう。

 1958(昭和33)年に釣り竿メーカー「丸竹産業」として設立。しかし、1973(昭和48)年釣竿製造不況のため、創業者田ノ上さんの趣味で「鎧兜」の製造をする「甲冑工房」を始め、歴史ドラマなどで一大産業に転身。現在ではこのような城構えの作業場になっていました。

 入場料無料で甲冑製造を見学することができます。行程の写真撮影はダメだったので写真ありませんが・・・。

 このような戦国の城をのような建物を作るのは雰囲気づくりなのかなと思っていたら、甲冑を気付け体験ができるので、その背景としてふさわしいものになるようにしたようです。

甲冑展示館にはGACKTさんが上杉謙信役で来ていた甲冑もありました。

真田丸などの有名な武将もここで手がけているようです。もちろん個人での購入もできますが、100万円から300万円とやはり個人の趣味で購入するのは厳しそうです。

 鹿児島に来てここまで遠くに来るのが大変な方、せめておいしいお食事場所を紹介します。

 鹿児島市の天文館と呼ばれる繁華街の中にある「和総」さんです。居酒屋さんですが料理もとてもおいしい。鹿児島の地酒の芋焼酎のお湯割りを飲むには、アテはさっぱりとした和総自家製のらっきょう漬けがとても合います。最近の鹿児島の若者は芋焼酎を炭酸割りをします。あっさりとした芋焼酎には、味が濃い味のなめろうが合います。ちなみに味のなめろうはお通しで出てきてあまりにもおいしいので、単品追加しました。


大宰府政庁跡

2024-08-16 11:27:47 | 歴史

 今回訪れたのは「大宰府政庁跡」です。こちらも水城跡と同様、国が指定する「特別史跡・大宰府跡」となっている。

 大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、奈良や京都にある大和朝廷が九州に設置した出先機関である。九州は日本では朝鮮や中国にもっとも近く、対外交渉窓口となる。そのため、外交や軍事を担う役所として「大宰府」が置かれた。大宰府は西海道という現在の九州の9ヶ国と3つの島を管轄する施設であり、その政庁がこの福岡県太宰府市に置かれた。

 この政庁は、平城宮のように築地塀(屋根のついた壁)と回廊で囲まれていた。その政庁の南門の礎石も非常に大きく、そのことから門の規模もかなり大きなものだと想定されている。

 この政庁は7世紀後半に建てられ、8世紀初めに礎石建物の政庁が建立されたと言われる。写真でみた礎石は、10世紀後半以降の立て直しによる建物らしい。

 上記写真は、政庁跡の史跡に内にある「大宰府展示館」にある「大宰府政庁跡復元模型」である。手前にあるのが南門でさらに奥へ中門を抜けると玉砂利が敷かれた区画に脇殿が4つある。その奥にあるのが「正殿」でここで政務や儀式が行われた。

 模型で言うと脇殿がある玉砂利の地から正殿を見る北向きの方向である。かなりの広さの敷地であったと思われる。

 脇殿の礎石もかなり大きい。模型にあるようにかなり大きな建物であったと思われる。地方であると行っても、九州全てを束ねる国の直轄機関であり、外国の使節を迎えるためにはかなりの規模の政庁が必要だったのであろう。

 この建物が「大宰府展示館」である。

 大宰府政庁側から南方面に向かってみている視点で模型の写真を撮った。南門の前にも政庁の施設が見られ、その南にあるのが朱雀門。そしてそこから伸びる大きな道路が朱雀大路である。政庁のや諸官司の周りに平城京などの都のように碁盤の目のように整備された条坊制の町区画である。

 大宰府には、歴史書に「天下之一都会」と記されるように、九州・都・海外から人や人物の往来が盛んだった。上記写真は、727(神亀3)年に大友旅人が大宰府長官の「大宰師(だざいのそち)」として赴任された後、730(天平2)年正月13日に自身の邸宅に九州諸国の役人を招いた宴を行った「令和」という元号の由来ともなった「梅花の宴」で読まれた『万葉集』の詩を再現したジオラマだそうだ。

「初春の令月、気淑しく風和ぐ」(あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ の意)

 その宴で振る舞われた食事を再現したのが上記写真である。かなり華やかな大宰府の生活が見て取れるが、663年の白村江の戦いの日本の敗北の後、唐・新羅連合軍に攻め込まれる危険性を考えて大野城や水城やが作られたり、律令制下では、防人(さきもり)と言う九州を守る兵役の義務が行われ、一般の庶民の暮らしはとても悲惨なものだった。その奈良時代の暮らしぶりは「貧窮問答歌」などに枚挙に暇が無いほどである。

 また、1019(寛仁3)年には女真族が壱岐島や九州を襲撃する「刀伊の入寇」があった。対馬と壱岐に50余隻の船団に乗って武装した賊が島に押し寄せ老人や子供は殺し成人を捕らえて拉致し、家を焼き家畜を食べたと言う。当時の大宰師だった藤原隆家は刀伊軍迎撃の総指揮官となり、 九州の豪族らを指揮し、賊を撃退したという。大宰府の報告によれば2週間で364名が殺害され、1300名近くが拉致され、牛馬の被害は380頭に及んだ大きな被害がでた。拉致された日本人は高麗が帰還の斡旋をしたが、その数300名余りだったという。このような対外最前線に至る場所ではかなりの心労が多かったと思われる。そんな数々の悲哀がこの場所であったと思いながら鑑賞していた。

そんな大宰府展示館には、平城宮の遺構展示館にもあったような、大宰府政庁跡の発掘調査遺構をそのままの姿で展示している箇所があった。

官衙(役所)の施設を区切るための溝だと思われているという。このような実際に見られる遺構はとても貴重だ。

さて大宰府政庁を後にして、ここまで来たら是非寄りたいのがこちら。

学問の神様として知られる「大宰府天満宮」である。

この天満宮は、左遷され大宰師として赴任し大宰府で亡くなった菅原道真の廟もあり、現在では学問の神様として祭られている。待たしも学業の御守を購入した。

 この時の本殿は改装中だった。2027(令和9)年が菅原道真公逝去1125年という年であることから、本殿は124年振りの大改修を行っており、写真のような現代的な仮殿が設置されていた。お盆の期間に行ったので非常に人が多かった。大宰府政庁や水城にもこれくらい人が居てくれればなあとも思った。あれだけ素晴らしい展示があるのになぁ。

太宰府天満宮は、テーマカラーがミントグリーンなのか、おみくじや巫女さんの袴もこの色だった。夏らしくて爽やかで、個人的にこの色好きなのだが、おみくじはあまり引く性分ではないのでやらなかった。

 太宰府天満宮の名物は「梅ヶ枝餅」。参道の至るところで販売していた。外の餅がちょっと固めで中は粒あんが入っていた。個人的にすごく好きな味と食感。ここをゆっくり訪れるならこれをお土産にするものいいかも。ただ、店頭で食べると熱々のまま食べれるので、それが一番おいしい食べ方のような気もする。

 大宰府天満宮に行くには、西鉄「大宰府駅」から徒歩6分。参道にたくさんお店があって飽きない。車の場合はコインパーキングがたくさんあるので、駐車に困ることはなさそう。

 ちなみに、大宰府政庁が中世の室町時代にはどうなっていたかどうか・・・。戦国時代好きとしては気になるところ。その答えが『市制30周年記念大宰府人物志』に書いてあった。P.112~113「宗祇が見た戦国時代の大宰府」に、同時代に活躍した連歌師・宗祇が1480(文明12)年に周防の戦国大名だった大内政弘に招かれて山口へ下向した。9月には太宰府天満宮を訪れている。宗祇によると「鳥居より入ると松・杉その他の常緑樹が茂り、池の周りには梅林が広がり、楼門。回廊などがありました。宿坊としえは社家の満盛院と花台坊が確認でき」として賑わっているよう。一方で大宰府政庁は「境内みな秋の野らにて大きなる礎の数を知らず」とあり、現代同様に野原に大きな礎石が確認できる状態となっている様子が見られると言う。


水城跡

2024-08-15 21:45:13 | 歴史

 今回紹介するのは、福岡県太宰府市にある「水城跡」です。この水城は、天智天皇が665年に築かせた朝鮮式山城の大野城の守りを補完する防塁である。663年に起った「白村江の戦い」で朝鮮の旧・百済を助けて援軍を出し、唐・新羅連合軍に大敗したことをきっかけに、百済から亡命した技術者の指揮のもと築城したのが大野城で、「遠の朝廷」と言われる「大宰府」を守るためのものである。

九州は、中国や朝鮮からの入口に辺り、攻め込んでくるとすればまず狙われるのが福岡県。そこで、大野城を築き、山と山の間に水城を築いて大宰府を守ろうと考えた。「水城」という名称は『日本書紀』にも出てくると言う。

 この水城跡にある施設は、水城東門跡にある「水城館」である。九州自動車道太宰府インターを降りるとすぐに水城が見つかり、車で5分ほどで到着。ここで水城について詳しく学べる施設である。

 水城館の展示によると、水城は長さ1.2km、幅80m、高さ10mの土塁と内外に水を張っている濠からなる施設で、福岡平野の最も狭くなった場所を防ぐ設計がされている。土塁の版築作業が上記写真の左に見えるものであり、地盤が軟らかい箇所には生木の枝葉を敷き詰める「敷そだ」という工法が取られており、中国・朝鮮の古代土塁に類似例があることもあり、技術の系譜が見られると言う。結局は唐・新羅連合軍は日本に攻めてくることはなかったが、この水城は大宰府の正面入口として機能した。

 現在でも上記の写真の緑の地域が示すようにしっかりと現存しており、国の指定特別史跡になっており、文化財となっている。

 大宰府の水城の見どころは、東門跡に多く集まっている。ここには礎石跡がこの横にある。が、私は急いでいたのでその礎石を写真に収めるのを忘れてしまった。

 上記イラストのように、水城でかなり強固な守りが固められていたようである。鎌倉時代の『平家物語』にも「水城の戸」と書かれており、大宰府の出入口と鎌倉時代以降も認識されていたようである。

 大野城は今回訪問する時間がなかったが、次回くる時にはここも訪問したい。そのための拠点はやはりこの水城館である。

 他にも水城関連の史跡としては、西門跡や土塁断面広場などもある。

 次に水城の土塁の上に登ってみよう。水城館の上が「展望台」になっている。

 展望台では休憩施設がある。

 10mの高さがあるので見晴らしが良い。大宰府の防御施設として機能していた頃は、かなりの視認性があったと考えられる。上記写真億に見えている緑の部分が西門跡へと続く水城である。この道路で水城が途絶えているところは、道路開通のためにに水城を切ったのではなく、もともとあった東門跡を利用しているという。

 水城の紹介はここで、終了です。この周辺の歴史スポットとしてはここから車で10分程の距離にある「大宰府政庁跡」と車で20分ほどの距離にある「太宰府天満宮」にはぜひ行っておきたいところです。


大友氏館~第1弾・庭園編~

2024-08-14 14:06:17 | 歴史

 

 今回は九州旅行に行って参りました。大友氏館は令和12(2030)年の「大おもて(主殿)」を立体復元する予定であり、その頃に行こうかと思っていました。しかし、家族旅行の予定で令和6(2024)年に九州・鹿児島に行く予定ができたことに加え、大友氏館の第1期整備完了が令和15(2033)年だったのが、現行計画から7年遅らせ、令和22(2040)年度と延期された。発掘調査や土地の取得が当初の想定より遅れていることが理由らしい。そこで、先行して公開された「大友氏館跡庭園」に行くことにした。そこで今回の訪問レポートを「大友氏館~第1弾・庭園編~」としてお届けする。令和22(2040)年以降に再び訪れた時に第2弾をお届けしたい。

 私は今回はレンタカーで訪れた。上記地図からも比較的大分駅から近いが、それでも徒歩でいくと20分ほどかかる。大友氏館は従来は上記地図の南東にある「上原館跡」という場所に比較的小さな居館があったと考えられていた。

 しかし古地図にある「大友館」にある比定地を平成28(2016)年に発掘すると、館南東部にある池の規模が東西約67m、南北約30m確認され、平成30(2018)年に、館中央で中心建物と考えられる大型の礎石建物跡の規模が明らかになったことで、ここが大友氏の館の本拠であることが確認されて整備されることになった。

 上記が「第1期整備計画」の全体図。庭園は令和2(2020)年に整備完了され公開されている。中心建物と呼ばれる「大おもて(主殿)」は令和12(2030)年公開予定。すでに発掘調査も終わっており、大友宗麟公生誕500年に合わせて整備されるもので恐らく遅延することはないであろう。

 大友氏館は九州豊後の戦国大名である大友氏の拠点に築かれた館である。14世紀後半に10代当主・大友親世の頃に整備された。21代当主・大友宗麟や22代当主・大友義統の頃に大友氏は最大の版図となる九州6ヶ国を領し、その城下町は南蛮貿易の拠点として栄え、居館も200m四方に及ぶ巨大な屋敷として整備された。

 第1期整備に合わせて発掘調査をしていた。岐阜県神岡市に作られた江馬氏の会所整備も7年間かかった。

大友氏館はかなりの規模であり居館の整備にはかなり時間を要すると思われる。戦国時代の史跡整備で先行していると言えば「一乗谷朝倉氏遺跡」(福井県福井市)である。しかし、こちらは大名居館の復元は行っていない(「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」で一部復元・公開)。こちらの建物を復元整備することで、室町・戦国時代的な景色を直に体験できることは貴重である。そして、その居館に似つかわしい姿として整備されたのが今回の「庭園」であり、復元された庭園はその頃を姿を想定整備されたものである。

 まずは庭園に行くより、併設されている「南蛮BVNGO交流館」を訪れることをお勧めする。この「南蛮BVNGO交流館」は第1期整備完了時には「歴史文化観光拠点施設」に発展的に解消すると思われる。なので現在は無料の資料館であるが、ボランティアガイドもおり、積極的に解説してくれたり、工夫されたVTRなどでより大友氏館が詳しく知ることができる。

 また、資料館でよくある解説VTRの裏には上記写真のような会所風景のようなものがあった。この半透明のスクリーンに「大友宗麟」を映し出し、自分の館の説明をするというよく考えられたVTRだった。このVTRは大友氏と南蛮のつながりを紹介したものだった。

続いて2本目のVTRを視聴する。このVTRは大友氏館全般の発掘調査を示すものだった。この2本のVTRはきっと第1期整備が終わった後には新しいものが作られると思うと、なんだかもったいない気もする。そしてこの部屋は茶室が再現されていた。この茶室が、庭園を見るのに影響してくるから、やはり資料館とはよく考えて作られているものだと実感する。

 さて、いよいよ庭園向けて出発する。私も室町関連の庭園はだいぶ目が肥えてきた。松波城庭園、岐阜城庭園、江馬氏庭園、朝倉氏庭園、鉢形城庭園、八王子城庭園とそこそこ経験値を積んできた。しかし、大友氏館跡庭園はちょっと違った作りになっていた。

 まずは中島が結構大きい事に違和感があった。さらに庭園の近くには会所と言う建物があってそこで客人をもてなす為に作られていたはずだが、建物跡も無い。また室町庭園は会所に隣接されているから座って庭園を見るのが基本だが、座る視点にすると池があまり見えない。これはボランティアの人の解説で疑問点を解消できた。

 まず、近くに建物跡がない理由は、この庭園付近の建物が想定される場所は土壌改良の為に低く土地が掘られており、遺構が失われたのでは無いかと。これは一乗谷朝倉氏遺跡でも同様のことがあったので仕方ないとも言える。

 ただ、会所が想定される位置の横に庭園跡の遺構として玉砂利が散見される、3方が波打っている曲線なのに一方だけ直線的な位置取りである。ここに庭園跡があったのではないかボランティアの方が言う。ここが会所の縁側であり、低くなった位置よりもっと高い位置に会所があれば庭園が見渡せたと思う。

 さらに庭園の奥に小さな建物跡がある。この大きさでは会所とは言えない。これは茶室だったのでは無いかと、ボランティアの人が言う。なるほどだから資料館には茶室の風景が再現されていたのだとこれも納得。この庭園跡はボランティアの解説が無いと、初見の人なら見落としてしまう箇所が散見された。ぜひガイドの方と共に見るのが良いと思う。

 次に庭園の中島が大きかったり、池の底に玉砂利が散見されること、また16世紀中頃に見られた枯山水がこの庭園には見られないこと。この疑問もボランティアさんが解説してくれた。大友宗麟は1580年代と戦国大名としては後期であり、室町庭園と言うより、江戸時代初期型の庭園であったのではないかと、と言う推定である。室町庭園は会所から見るいわゆる接待型の庭園である。それに対して、江戸時代の庭園は、例えば金沢市の兼六園のような人が歩いて回る回遊型の庭園である。庭園の移り変わりが見られる貴重な庭園であり、見応えがあった。

 また植栽も地中から多く見つかった種子を基に配置しており、地中から何も検出できなかった箇所は築山があったと想定して復元しているとおっしゃっていた。復元の様子がわかる展示がここにもいずれできるだろうが、それをボランティアさんから今回聞けて良い勉強になった。

  さて、庭園から出るとこの大友氏館の復元は今のところ大おもて(主殿)と周囲の一部塀にとどまるらしい。整備イメージでは主殿周辺の建物も整備されるように見受けられるが、どうやら予算が足りないらしい。一乗谷朝倉氏遺跡は福井県や福井市に加え、だいぶ国からの予算も降りている。大友氏館もそのような予算が獲得できれば追加で復元が行われるかもしれないと話を結んでいた。私も寄付したい気持ちはあるが、寄付をするなら私は七尾城再建に向けて資金を投じたいと思ってしまった。次に訪れるのは、第1期整備が完了する令和22(2040)年かな。

 ちなみにこの日に私が泊まったホテルはこちら「ガレリア御堂原」さんです。デザイナーズホテルのような外観です。場所は大分県別府市。高台にあるホテルで、別府のホテルは杉乃井さんが有名ですが、ここは高台に建っており客室からの景色が絶景でした。

 また、客室の浴室が別府温泉で24時間入りたい放題!源泉は結構熱いので水を入れて調整しながら入る。そして湯上がりにベランダで涼む。そしてまた何度も個室温泉に入る。なんと夢のような感覚。私は一泊二日で7回も温泉に入りました。畠山七人衆を意識してましたwww。

 それと素晴らしかったのが、お食事。結構お値段がするので、夕食はお弁当にして朝食だけにしたのですが、すごく凝った料理でお値段にも納得。私が頼んだのは大分野菜のカレー。これにバイキングがついているので、たっぷりゆっくり味わいました。レストランから見える景色も素敵。

 別府は全日の夕方に着いて、翌日は朝に大友氏館に行くので、観光する余裕があまりありませんでした。そこで候補は2つ。別府タワーと言う街中にあるタワーか、グローバルタワーと言うより地上100mと高いタワー。今回の私はグローバルタワーを選びました。

 この建物は大分県出身の世界的建築家の磯崎新氏の設計によるビーコンプラザのシンボルタワーで特徴的な外観。地上100m+高台に立つガラス箱のような展望台から別府市街が一望でき、良い思い出になりました。ここはもっと宣伝に力入れても良いなあと思うタワーでした。

 


「守護大名権力論」の備忘録

2023-10-30 20:56:28 | 歴史

 上記山田康弘著『足利将軍たちの戦国乱世』を読んで、室町期の守護大名権力論に考えが及んだので備忘録として記す。

著者は足利将軍の権力が不安定であった理由を同書でこう述べている。「守護は「あくまで各国における将軍の代理人にすぎず、将軍によって意のままに任免される」という建てつけになっていたことである。」「このように足利将軍は「守護を使って、各国支配や有事に対応する」という仕組みを採用した。このような仕組みであれば、将軍は各国支配のための巨大な官僚機構も、有事の際に必要な強力な直轄軍も自前で用意しなくてよい。」と。

 鎌倉幕府は、執権が自らの独裁政治のために反対派を徹底的に粛清した。それは自らよりも上位権力である征夷大将軍さえも。次に江戸幕府は、全国の土地の25%という広大な直轄地と強力な直轄軍を将軍自体が持っていた。だからこそ室町幕府は権力が不安定であったと言える。

 では室町幕府の各国の権力である「守護大名」はどうして戦国期に「下剋上」されてしまったのだろう。それを同書を読んで「足利将軍権力が弱体化したからこそ、守護大名権力も弱まったのではないか」と仮定する。

(1)守護大名は将軍の代理人である→在京して将軍の意に沿う行動をする→領国を守護代に任せる

(2)将軍は、権力の安定化を図るため、守護大名の世襲を認める→在地の守護権力の出先機関である守護代の在地との関係が深まる

(3)将軍権力が高いと「在京している守護大名の権力」と、「在地勢力を結びつく守護代権力」のパワーバランスが保たれる。

(4)将軍権力が低いと「在京している守護大名の権力」と、「在地勢力を結びつく守護代権力」のパワーバランスが崩れ、在地優勢に。

(5)だからこそ守護大名は将軍権力に近づき、守護代勢力と対抗しようとする。

(6)一方で、守護自体が在地勢力と結びついて権力を高めようとする→戦国大名化もしくは守護代の反発による下剋上

(7)戦国大名は自信の勢力を有利にしたいがために、足利将軍の権威を利用する

 こう考えると、(2)の時点で、守護代と在地勢力の結びつきは時間を追う毎にどんどん強固になり、守護との二重権力構造になることは明らかで有り、相対的に守護権力は後退する。となると当然(1)の前提も崩壊するので、足利将軍権力の後退することは明らか。となると、室町幕府の後半の将軍ほど、パワーバランスを保つのが難しくなり、義稙や義晴などがしょっちゅう管領などと相反して動座するのも、一種のパワーバランスを取り戻すための手段と考えられる。

 この推論の元に歴史を紐解くならば、(3)時に4代将軍足利義持が死去し、諸大名の合意のもとでくじ引き将軍が誕生したと言える。さらに6代将軍足利義教は(3)の中で(1)に戻そうとしたから、赤松満祐に殺されたと言える。さらに8代将軍足利義政に時期に(4)と(5)の間の1467年の「応仁の乱」があり、守護大名が将軍権力に近づき過ぎた故に大きな乱が発生したと捉えられよう。したがって時の将軍足利義政が「政治に興味が無い」とか「教養に耽っていた」というのは過小評価につながろう。その後、応仁の乱以降(6)の段階で守護大名の戦国大名化の動きや下剋上の動きが活発化していった。(7)の段階で、足利義稙の大内氏や、足利義晴の三好氏や、足利義昭の織田氏のように、自身の権力を高めるために戦国大名は足利将軍に近づいたのではないか。