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畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

東北応援企画~日帰り東北の旅~其の6

2011-06-20 12:00:00 | 旅行・観光
 いよいよ、「東北応援企画~日帰り東北の旅~」も第6弾にして最終回になりました。今日は志波城の外郭南門から入った城内をレポートします。


 外郭線のすぐ外に築地外溝があったように、同じく塀のすぐ内側にも溝があり「築地内溝」と言われています。この外郭線の内溝に沿った形で、竪穴住居跡が250軒も発掘されました。城域全体では1000軒ほどあったのではないかと推定されており、どうやら城を守る鎮兵の住居あとだったのではないかと考えられています。



 さて、外郭南門から北方向に目を向けます。南門からまっすぐ北に道路が伸びています。「南大路」といって、真正面に見える「政庁南門」まで230m続いている城内道路です。幅員は18mで、外郭線の外にあった道路と同じようです。これを見ていると私がみた去年の光景を思い出すようです。

 上の写真は「平城京跡朱雀大路」です。もちろん国家の首都である平城京の道路の方が、道路両端の塀の幅員が約89mと、幅員18mの志波城と比べられるわけありません。しかし、道路の横に木があるなど、その構成が見て取れます。志波城は平安時代の城柵。平城京の雰囲気を残しているとも言えないでしょうか。



 志波城古代公園は全域が公有化されているわけではないので、このように外郭線から城内に入っても田園風景が続いています。また残念ながら南大路を分断するように小さな一般道路が横切っています。これも近鉄奈良線に分断された平城宮跡との共通点ですね(笑)


 南大路を北上して政庁南門を紹介する前に、政庁南門から東に行ったところにある復元施設を紹介します。

「南東官衙」です。官衙は志波城の政庁のすぐ近くにある建物で、重要な公的役割を担った建物と考えられます。城で行う儀式の準備、日常の維持管理、兵士への禄の支給、蝦夷の記録、多賀城や胆沢城への物資の中継、東北行政経営、遠征計画などなど色々な職務を行っていたことでしょう。「南西官衙」「東官衙」「南東官衙」と政庁からみてどの位置にあったかで便宜上分けられていますが、規模からみて「南東官衙」が一番大きく重要な施設だったと思われています。この「南東官衙」からは鉄の成分も発掘されており、工房もあったのではないかと考えられています。「南東官衙」のうち、一軒の建物が復元されており、あとは芝生による平面展示となっています。



 「南東官衙」の復元建物の中は展示スペースとなっていますが、常時開館しているわけではなく、「総合案内所」で一声かけなければ開館しないそうです…。



 「総合案内所」のスタッフはとても丁寧で親切で、すぐに走って官衙建物施設を開けてくれました。建物に入ると、すぐに文章を書いている平安時代の役人の模型がお出迎え。



 志波城政庁付近の模型があります。平安時代にはこんな風景が広がっていたんだなあと感じれます。まあ、結構実際の復元がされているので、それだけでも臨場感が味わえますけどね。



 展示パネルで政庁の様子を詳しく解説しています。また、役人の仕事と暮らしなど平安時代を理解できる展示もあり、その内容は「総合案内所」以上です。

 出土遺物も展示されています。

 また、「政庁正殿」「政庁南門」「南東官衙」の発掘調査の結果や、そこから復元に至る過程などを詳しく解説しているパネルもあります。「政庁正殿」は実際には復元されていないのでCGですが、雰囲気がつかめます。また官衙建物では、CGによる政庁復元想像図と、志波城の歴史をVTRで見ることができます。


 では、官衙建物を出て政庁に行きますか…。おっとこれは…。

窓の支える鉄棒。これって根城の復元主殿でも見ましたね。根城は安土桃山時代なので、15世紀終わり頃。志波城は9世紀初め頃。およそ700年近くたっても共通点があるんですね。



 さて、官衙建物を出て政庁南門に戻ってきました。発掘調査で八脚門であったことがわかっています。当時の建物は残っていませんが、志波城は大和朝廷が作った建物なので、当然我が国の古代建築を基準にして作られているだろうと想定して、法隆寺東大門を参考に作ったそうです。なお、官衙建物の説明によると、志波城では瓦が一枚も発掘されなかったので、瓦使用はなかったと推定し、薄い木の板を屋根として復元したそうです。
 政庁は一辺が150mほどの長さの塀で四方を囲まれていたました。政庁全部が公有化されているうようで、南門と一部の塀、東門、西門が復元されており、後の四方の壁は生垣で表現されています。



 南門から入って東側に撮影した写真です。政庁の塀の内側に溝があります(内溝)。政庁の門の外にも外溝がありましたが、発掘調査によると、外溝は水の跡が確認されていますが、内溝は確認されておらず、空堀だったようです。しかも、この写真のように大きさや幅が不規則なのが特徴です。



 これは政庁南門を入って内側から撮影した写真です。政庁南門の外側から中が直接見えないように目隠し塀跡が発掘されていました。城内でもこのような配慮が必要だったということは、かなりの上級官僚から下級官僚まで入り乱れて志波城内に居たという証拠ですね。


では、政庁全部の外観を押さえておくために、官衙建物で展示されていた「政庁中心部想像図」を見てみましょう。

 政庁の中心は何と言っても「正殿」です。それ以外にも「東脇殿」「西脇殿」とあり、その周囲にも建物が多くあります。北門、西門、東門もありますが、目隠し塀がないことを考えると、それ程日常的に解放されていなかったのかもしれませんね。



 政庁の東脇殿から東門を望んだところです。東脇殿の建物の大きさが芝生で平面展示されています。東門は西門と同様に復元されています。志波城ができた当初は棟門だったようですが、後に四脚門に改修されていたと発掘調査でわかりました。



 手前にある柱は、建物跡を平面展示しています。奥に見える生垣は、政庁の北辺の塀を表しています。その真ん中にある柱が北門ですが、これも平面展示です。

 北門平面展示をアップしてみました。立体復元している方が臨場感がありますが、これはこれで新しい発見があります。まず、北門は12本の柱で建築されていることがわかります。また、よく見ると柱跡に礎石がありません。そういえば、官衙建物にも礎石がなく、掘立柱建物でした。



 北西側から西門を写真に撮りました。西門近くにも建物跡があり平面展示されています。



 手前の平面展示されているのは「西脇殿」です。



 「政庁正殿」跡も平面展示してあります。 もう一度、官衙建物にあった正殿復元CGを思い出してみましょう。ちょっと不思議な感じがしませんか?

 床が高床式になっています。建設時の総柱の足場穴から高床式だったのではと指摘されているらしいです。また、柱穴に白土が残っていたことから白壁だったのではないかと推定されています。



 これで志波城をすべて周り終えました。現在15:50。およそ45分ほどで周り終えました。志波城古代公園の近くには大きな道路がないので、あまり流しのタクシーも来ません。ですので、総合案内所でタクシーを呼んでもらうことにしました。

 帰りの新幹線は、盛岡駅を17:41発。まだ2時間弱時間がある。じゃあもういっちょ周っちゃいましょうか…「盛岡市遺跡の学び館」。方向的には志波城から盛岡駅方面に戻る位置にあるので、十分間に合いそう。

 …タクシーで10分ほど1000円強で到着。

入館料200円と安い…が自分のお目当てのものはあるだろうか…。



 館内は主に縄文時代の展示が主でした。発掘調査の結果を展示しているというより、発掘調査の現場を復元し発掘調査の方法を紹介してという感じです。

 もちろん普通の出土遺物展示もあります。12世紀の遺物のかわらけなども展示されていました。「埋蔵文化財センター」のような展示ですね。



 志波城の外郭南門の1/10復元模型がありました。

 ここでも刊行物が買えます。また本を買ってしまいました(笑)


 さて、室町戦国系の展示物が少なかったので、まだ16:30です。新幹線までまだ1時間あります。今回の旅では財布に4万円入れてきましたが、すでに残金が1万5千円になってしまいました。盛岡駅まで歩いて20分ほどというので、歩いてみることにしました。荷物が重いですが、それで1000円近く浮くなら仕方ありません…。



 「遺跡の学び館」のあたりは大きな公園になっていて(中央公園)、他にも公共施設として盛岡市の明治以降活躍した人物の先人を紹介する「盛岡市先人記念館」や、「盛岡市こども科学館」など遊べるスポットがいっぱいあります。


 その文化施設ゾーンを抜けると大きな橋が見えてきました。

 志波城を水害に見舞った雫石川を渡る「杜の大橋」です。橋の途中で雫石川を見たらとても美しい光景でした。

 これだけ大きい川がこの後、北上川と合流します。そんな川だから志波城を押し流してしまうほどの力をもっていたのでしょうね。



 志波城古代公園や遺跡の学び館の方向に行くなら、盛岡駅の自由通路を使うと便利です。盛岡駅は反対側が市街地になっており、こちら側はあまり人通りも多くないです。私はタクシーもバスもこちら側にはないと思っていたのですが、タクシー乗り場はありました。こちら側から乗ればもっと安くタクシーに乗れたのかもしれません。



 盛岡駅のビルの中にある書店にいったら、日本の遺跡シリーズに「志波城・徳丹城」があったので、即購入。このシリーズはなかなか興味深い。



 盛岡駅は、八戸駅以上にお土産ショップが充実しています。よし、帰りの新幹線の中では、車観光でできないことをしよう!


それはもちろん

お酒!車だと運転するから飲めないもんね。地ビール「銀河高原ビール」はメッチャクリーミーな味わいですごくおいしかった。2杯目は氷結グレープフルーツ。3杯目は新幹線車内で買った「プレミアムワイン」。なんとコップ付です。ほろ酔いしながら、歴史の本を読みながら帰宅路へ。疲れたけど、とっても楽しい一人旅。こんな旅もいいもんだ。


東北応援企画~日帰り東北の旅~其の5

2011-06-19 12:00:00 | 旅行・観光
 さて、新幹線も含めて乗り放題の「JR東日本パス」。ここに落とし穴がありました。それは、盛岡以北は全席指定の「はやて」号しか乗り入れていない、という点です。「JR東日本パス」は前日までに予約すれば2回まで指定席への乗車が可能です。

1.東京→八戸(はやて号…一番速い)
2.八戸→盛岡(はやて号…以外なし)
3.盛岡→東京(はやて号…一番速い)

 となると、3回の新幹線指定席が必要になります。3番を新幹線自由席にすることもできますが、自由席がある「やまびこ」号は停車駅が多く、帰京が遅くなってしまいます。


 …はて、困ったものだ…と思い、何とか八戸→盛岡に「速く安く」行ける方法を考えてみました。在来線では時間がかかりすぎる(新幹線だとおよそ30分。在来線だと110分以上…)。仕方ないので、新幹線指定席を別料金で払うか…と調べていたら…

「特定特急券」

というすばらしいものを見つけました。これは、盛岡以北に全席指定新幹線しか乗り入れていない対策のため、「新青森~盛岡の間までなら、空いてる座席に座れる自由席扱いの切符」でした。しかもこの「特定特急券」は「JR東日本パス」の新幹線の2回までの指定に含まれずに予約できるとあり、全くの追加費用なしで新幹線を利用できることがわかりました。これって知っていると知らないとでは大きな違いがありますね。



 八戸を14:06発の「はやて」128号に「特定特急券」で乗って、盛岡に14:36到着しました。盛岡を出発する新幹線は17:41発の「はやて」134号東京行を予約していました。つまり、盛岡には移動時間を含めて3時間半しか滞在できません。



 盛岡には2度目の訪問です。以前結婚前の妻と来ました。その時も新幹線で来て時間がなく、盛岡城を簡単にみて、駅前でわんこそばを食べ(記録102杯)ました。
 盛岡は県庁所在地だけあり、駅も大きいし街も大きいです。ですのでたくさんのバス路線が走っています。そこで、バス案内所があったので、志波城方面に行くバスを聞いてみました。

義綱「すみません。飯岡十文字に行くバスはどちらですか?」
案内「13番のりばですね…でも先ほどでてしまったので、次に出るのは15時以降です。」

 …またもややってしまった…。バスがなくタクシーで行くパターン。八戸駅→根城より、盛岡駅→志波城の方が遠いので、タクシー代がかなりかかるのは決定です…。仕方なしにタクシー乗車。


 タクシーで行くと、市街地とは反対方面へ。市街地とは違い大きな川を超えるととたんに建物がなくなりました。道は広いので空いています。
運転手「あちらが志波城ですよ。」

義綱「おお!そういえば。志波城の帰りってタクシーつかまりますかねぇ」
運転手「いやいや、あの辺はあまりタクシーつかまらないよ。もし電車の時刻があるのなら、タクシーを電話で呼んでくださいね。」
と名刺をくれた。確かに周りは田んぼだらけ。タクシーが頻繁に走っていそうにない。バスで盛岡まで帰るのも不安があったし(帰りの新幹線に間に合わなかったら大変)。帰りもタクシー利用がいいと思います。ちなみに私が盛岡駅前→志波城駐車場までにかかったタクシー代は2030円…高い…。



 駐車場を降りると、さっそく志波城の外郭築地塀が見えてもうすでに迫力があります。

 では、志波城とはなんなのか。志波城は室町や戦国時代の史跡ではありません。平安時代の城跡です。781年に桓武天皇が即位すると、征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命し、東北蝦夷の征討に乗り出します。802年に胆沢城(岩手県水沢市)を築き、胆沢蝦夷の首領である阿弖流為(あてるい)は朝廷に帰順し投降させます。その甲斐あって、その翌年の803年に胆沢城の北に志波城(岩手県盛岡市)を築いて、北上盆地まで大和朝廷の支配下になりました。胆沢蝦夷の征討に成功したことで、より支配地を広げるために、志波城を築いたと言えます。この地を選んだ理由は、雫石川と北上川の合流地点にあり、海上交通の要所だったと考えられます。

 この志波城は、東北城柵(平安時代の東北の拠点城)の中では、最も北にあり東北の拠点として重要だったことがわかります。また、城柵の中で最大規模を誇り、その勢力の大きさが知られます。

 しかし、志波城は近くにある雫石川の度々の氾濫などの水害に悩まされ、築城からわずか9年後の811年に朝廷に対し「志波城廃城の建議」がなされ、実際に志波城の南に徳丹城(岩手県矢巾町)が築かれ、志波城の役割は終わりを迎えることになったと言われます。


 志波城跡は、かつてその地名から「太田方八丁遺跡」と呼ばれ、古戦場跡と思われていました。しかし1976(昭和51)年に、東北自動車道建設に伴う発掘調査が行われ、築地塀や竪穴住居が発掘され、さらなる発掘調査で政庁などが発掘され、古来の文献より見える「志波城」と確認されたのです。

では、そんな平安時代の城柵である志波城。実際に見ていきましょう!

駐車場には志波城の案内所があります。それがこちらです!

う~ん…プレハブかあ。これじゃああんまり期待できないかなって思ったら意外や意外。

 志波城の復元模型で、史跡全体を把握できます。

 志波城の発掘調査の様子もカラープリントでファイルしてありました。

 志波城から発掘された出土品も展示しています。土器や須恵器などが発掘されていたようです。

 そしてなんと志波城のパンフレット(200円だけでなく)、『志波城跡-第Ⅰ期保存整備事業報告書-』(4000円)が売っていました。後者の本は発掘調査のまとめだけでなく、どのような観点から発掘調査を元に復元を行ったのかが詳細に書いてあります(内容が専門的ですが)。とても面白そうなので迷わず購入。
 そして、もう2つこの案内所の役割があります。志波城にある南東官衙建物が復元されていて、建物ないに展示物があるのですが、常時開館しているわけではなく、案内所の方に言わないとあけてくれません。ここまで来たのに官衙建物を見ないのは本当に損です。だから迷わず申し込みます。
 それともう一つ、すべての見学が終わったらタクシーを呼んでもらう。自家用車やレンタカーならいいのですが、あまり広い道路が付近にないので、流しのタクシーを拾うと思うと結構な時間のロスになりそうです。
 案内所は年間を通して、12月21日~3月14日までの期間を除いて年中無休だそうです。雪深い時期を除けば休日平日関係なくいつでもやっています。ぜひ案内所によって全体像を把握してから史跡を周りたいものです。


 それでは、案内所を出ていよいよ志波城に向かいましょう。

 このロケーションが一番キレイなので最初に紹介します。この写真だけをみるとすぐにでも、外郭南門に行きたくなりますが、もっとここは詳しく見ていきましょう。




 案内所からまっすぐ東へ進むと、このような石碑展示パネルがあります。ここで改めて志波城の全体図や概要をつかむことができます。

 パネルにはこのような想像図が載っていますので、当時の様子をイメージすることができます。

 これは外郭の築地塀を作る時の枠型だそうです。築地塀は土を固めて作ったものなので、こういう枠組みが利用されていたんですね。


 では、外郭南門に戻りましょう。「外郭」というくらいなので、ここは志波城の一番外側ということがわかります。でさらにいきなり門へ行かずに注目するところがありました。

 まずは、この堀です。外郭築地塀のさらに外側にある外大溝です。この外大溝は四方合の一辺が928m(合計で3712m)にもなりかなりの大きさを誇ります。現在南方の外大溝のみ確認されており、あとは道路の下となっているそうです。この外大溝は、志波城の前に築かれた胆沢城や、志波城の後に築かれた徳丹城でも確認されておらず、志波城の大きさと堅固さを物語るものです。



 正面に見える、志波城の外郭南門からまっすぐに南に延びる道路。道路の幅員は18メートルとかなりの幅があります。外大溝から30m南まで道路が確認されているようです。本当はもっと伸ばす計画があったのかもしれませんが、志波城の歴史がわずか9年で終わってしまったため、城外の計画まで広がりをみせなかったのかもしれませんね。



 そして、いよいよ外郭南門へ到着です。壮大な五間の正門で朝廷の権威を象徴する門であったと考えられます。そして門の東西には土で固めた築地塀(築地大垣)が建っています。塀は厚さ2.4mで高さ約4mとかなり大きなものです。しかもこの築地塀を60m間隔で櫓跡が発見されています。

 この外郭南門には2階があり、内側から登れるようになっています。しかし、ハシゴは閉鎖されていて見学はできませんでした。その代りこのように石碑の写真で2階の様子がうかがえます。



 志波城全体でこの櫓跡が52棟確認されており、そのうち外郭南辺の築地塀で12棟が確認されています。この櫓は当然兵士の見張りとして作られたようで、築地塀の内外をまたぐように櫓が建っていたと考えられています。それにしても、こんな大規模な櫓があったというのは驚きです。室町戦国の城郭ではあまり見かけない形ですが、中国の三国志のような形をしているような気もしますね。



 志波城の築地塀(築地大垣)のすぐ外側にも溝があります(築地外溝)。幅も深さも一律ではないようですが、それにしても外大溝に築地外溝と、その規模がすごいですね。

 さて、写真をみると気付くかと思いますが、築地塀(築地大垣)の南辺も全部は復元できなかったようで(費用的な問題か?)、あとは写真のような生垣で示しています。それでもその塀の長さが伝わるようにしている点がすごいなあと思います。


では、いよいよ志波城の城内へ入っていきましょう。その様子は、第6弾でお伝えします。


東北応援企画~日帰り東北の旅~其の4

2011-06-18 18:00:00 | 旅行・観光
 「日帰り東北の旅」なのにすでに第4弾…写真が500枚もあるので、ついつい書きたいことが多くなっちゃう。今回こそはスリムに書きたいな…。


 根城本丸見学で1時間余り。ゆっくり見学してもそれくらいで見て回れます。ボランティアガイド員をつけるともうちょっと必要かも。詳しいからね。



本丸から出ると、このような「史蹟根城址」という石碑があります。それを入れて写真に収めると、カッコイイ写真が撮れますね。


 で時間はちょうど12時を回った頃。、「史跡根城の広場」の広いところで八戸駅で買ったお弁当を食べよう。よ~し、いただきま……

 あっ…、持ち運んだ時、揺れてうにが寄ってしまった…。まっ味は変わらないからいっか。天気も曇りで結構涼しい。史跡周りにはちょうど良い日和だ。


 では、腹ごしらえも済んだことだし、いよいよ「八戸市博物館」へ行きましょう。

 根城本丸と共通券を出して入館。館内に写真撮影禁止の表示がなく、いいの?とおもいつつ写真をとっちゃった。

 館内にあった根城本丸の模型。想像図の時に感じた違和感をこの模型が解決してくれた。

 「物見」と「下馬屋」を模型復元していた。そうだ、想像図には物見がなかったんだ。このくらいの規模だったんだ。本丸にしては小さな物見だなあ。まあ柱が6本ならこの高さが限界か…。

 「奥御殿」と「板蔵」の関係もこの模型をみるとよくわかりますね。板蔵はまさに奥御殿の倉庫ですね。



 八戸市博物館は展示物は充実しているが、根城関連の展示物が充実しているかと言えば、そうとは言えない。まあ、野外であれだけ復元展示しているから、博物館ではそれ以外の時代の展示をしたいという方針だろうか。



 庭園跡がないならそれほど文化的ではなかったのかな…と思いつつ、出土品からお茶用の風炉(お茶用の火鉢)が出土していることから、やっぱりある程度の上級武士はそれなりの教養を持っていたんだなと思った。それならばぜったい庭園があってもいいはずなんだけどなあ…。



 出土品としては気になる能登とのつながり。そう、陶磁器と言えば「珠洲焼」です。ここでもわずかながら出土していたようです。根城は八戸市にあるので、太平洋側ですが、日本海海上交通から一部商品が流通しているんですね。北海道にも珠洲焼が伝わるくらいだから、根城にもあってよかった。



 鉄を溶かす坩堝や貨幣が見つかっています。やっぱりどこの領主も鍛冶は持っていたんですね。七尾城下町では金が付着した坩堝が見つかっていますし、戦国城下町の様子をもっと明らかにしたいですね。



 おお!こんなすごい建物があったなんて…と思ったら江戸時代の八戸藩。江戸時代の技術ってすごいですよね。室町からさらに進化した感じです。後は、江戸や明治、昭和の民族展示が主でした。もうちょっと根城関連の展示があればなあ。



 博物館では刊行物を売ってくれます。しかし、根城関連の刊行物は全部一昨年通販で買ってしまっていて、新しいのはありませんでした…。無念。もっと頻繁に根城関連の情報を発信してほしい。



 こちらの博物館の刊行物より、根城の事を知るなら、こちらの市販本の方がずっと詳しい。先ほどから引用している本である

佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』同成社.2007年.1800円

 しかも結構売れている本なので、日本全国で売っています。お勧めです。この本を書いた佐々木浩一氏は元八戸市博物館の職員で、根城の復元に携わった人です。そりゃもう根城に詳しいわけです。


 さあ、博物館のインフォメーションでバス停の位置と、バス時刻を調べて八戸駅に向かいます。来るときにはバスが過ぎてしまい、1290円もタクシー代がかかった。一方バスなら駅まで210円!安っ!


 さて、新幹線発車まで約1時間。遠くには行けない。じゃあ、駅周辺でお土産もの探しだ。幸い駅近くにいいお土産売り場があった。

 八戸駅前「ユートリー」です。

 結構広めのお土産コーナー「がんばろう!!八戸」なんて書かれると、ヤヴァイいっぱい買っちゃいそう…。

 八戸といったら「県民ショー」でやっていた「せんべい汁」。鍋にせんべいを入れる。しかも安い!土産用のせんべい汁用のせんべいが210円!重さも軽いからお土産にぴったり!

せんべい汁ってこんな感じらしい。早く食べてみたい!


 八戸といったら海産物。…でもこれからまだ家に帰るまで10時間もあるから、さすがに海鮮物を買っても鮮度が持たないかも…。

 鉄道マニア向けに「青い森鉄道」グッズもありました。もちろん買いました。こんなにグッズがあるのも、新幹線が昨年12月に新青森駅まで延伸する前まで、青い森鉄道の本社は八戸市にあったからだそうです(現在は青森市に移転)。



 八戸の観光をするなら、ぜひ行きたかったところ。JR八戸線で八戸駅から2駅の「陸奥湊駅」が最寄りの八戸朝市。好きな海鮮を買って100円ごはんを買って食べる…。そんな朝ってサイコー。

 八戸駅からワンコインバス(運賃100円)で約10分の距離にある「八食センター」。ああ!ここで新鮮な海鮮料理が食べたかった~。


あ~!広告見てたら行きたくなってむなしくなってきた…。

大人しく待合室で待っていよ~…。

 あれっ?ここってお土産物コーナーがある!「林檎の香の石鹸」?これはうちの妻が好きそうだね。じゃあ買っちゃおう!ついでに黒こしょうニンニクドレッシングも購入。東北の名水も購入。ああ~土産物みると買いたくなっちゃう。「東北を応援しよう!」って気持ちで財布の紐が緩みすぎ~。


 ということで、八戸駅を14:06発の新幹線にのって盛岡へ。盛岡着は14:36です。続きは第5弾へ。

東北応援企画~日帰り東北の旅~其の3

2011-06-17 06:00:00 | 旅行・観光
 日帰り東北旅行の旅なのに、すでにブログは第3弾です。根城は本当に内容が濃いなあと実感します。



 主殿内部からでて入口に戻ってきました。主殿に隣接する建物が2つあり、板蔵と上馬屋です。上馬屋は当主が所有する馬をつないであるそうです。


 さて、上馬屋かす進むと中馬屋が見えてきます。その前に柴垣があります。どうして、他のように板塀ではないのだろうと思うと、これもまた深イイ話があるんです。
 この主殿北から発掘されたのは、主殿を区切るようにあった長さ30メートル深さ5cm~25cm程度の穴。しかし、柱穴ではなかったので、このような柴垣があったのでは?と想定されました。このように、区切るものひとつとってもしっかりと推考しているんですね。



 ここは「中馬屋」です。中館側から入る門の近くにあり、板塀だったので、来客用の馬をつないだところと想定されました。上馬屋よりつなげる馬が多いのは、もちろん来客が多く来た時に対応するものでしょう。馬屋の図面もないので、絵巻物や現存する建物から復元したといいます。なお古文書に「馬屋で釘を使うと、馬のひづめを痛めるから使うな」という記録があるので、板敷で釘を使わなかったそうです。



 中馬屋から西側にくると「下馬屋」があります。残念ながら平面展示になっています。馬屋兼倉庫になっていたのと、馬の世話人や番人が居たことから、上馬屋や中馬屋より広い構造になっています。しかし、どういった構造なのか不明なので復元は見送られたそうです。
 その横に建っているのは、お手洗いです。景観を損なわないように、番小屋に見立てて作られたそうです。また、消火器も景観に合うように作られています。どこにあるかわかります?



 下馬屋からさらに西に行くと、「物見」があります。残念ながらこれも平面展示です。 
 この写真は長野県千曲市の荒砥城の物見櫓です。根城は物見の柱が6本なので、もっと低いものと思われますが、こんなようなものがあったんでしょうか。それにしてもなぜこのような場所に物見が?西門から来る人を監視していたのでしょうか?近くに番所もありますし。物見の左奥に土塁が見えますが、ここの方が物見に適しているのでは?と思っていたら、ここは祭壇跡とされているようです。



 これは番所です。公園内で休憩するために板塀を一部外して、木のイスを配置していました。ホントつくづく景観を生かしたうまい設計だなあと感心します。



 番所のところから本丸外郭を眺めてみました。このように郭は高台になっており、木柵で囲まれています。木柵の柱穴も実際に発掘調査でみつかっています。が、大きな柱と小さな柱があり、一定ではなかったようです。



 番所から南へ下がると、外郭沿いに工房があります。

 この工房では、納屋と同じように、少し地面から掘り下げて作られています。地面に焼け跡がなかったので、鍛冶工房ではなく、鎧や弓を直した工房ではないかとされました。



 主殿の南にあるのが「常御殿」です。ここは「当主が寝起きし、領内を治めるための仕事をしていたところです。重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や、寝所、従臣の詰所などがあったと考えられます。」と説明版にありました。この建物も平面展示です。建物の構造や建設費に不透明なところが多いためと言われています。日常の生活空間なので、主殿よりも「常御殿」や「奥御殿」の方が建物の規模が大きくなるので、費用面での工面が難しいのは仕方ないところです。



 ここは「野鍛冶場」です。これは説明するより、説明版をそのまま掲載した方がわかりやすいですね。

 地面に焼面が多く見られたことから、野鍛冶場と推定されたが、とくに鉄の成分などは発掘されたとは書いていない。これと同じような場所を見たことがある。

 これは愛知県豊田市の足助城。南の丸腰曲輪にある「カマド小屋」の推定復元です。この場所には、木の燃えカスや炭・灰が出土し、調理のためのカマドがあった推定されています。ひょっとしたら根城も「野鍛冶場」ではなく、カマド小屋の可能性もありますね。「常御殿」や「奥御殿」に近いので、十分可能性としては考えられますね。全国の史跡を巡るとこういう比較ができて面白くなりますね。




 工房と同じ竪穴建物の「鍛冶工房」です。ここが鍛冶工房と推定された理由は、この掘り込みを見るとわかる通り他の施設より深い。90cmもあるそうです。

 しかも内部に強い焼かれた面があるため、刀鍛冶など火力の強い鍛冶工房ではないかとされたそうです。八戸市博物館が復元を考えた時、すぐ外にある野鍛冶場との関連が考えられた。野鍛冶場は野外なので強い火力が使えるので、鉄の製作など大きく作られ、それが鍛冶工房に持っていかれ、鉄の精製を通じて製品化されるという過程を描いて復元されたという。しかし、鍛冶工房内部の写真をよく見ると、壁から土が漏れ出してきており、深さ90cmの建物のメンテナンスの難しさを感じる。



 根城本丸の郭で最大の面積を誇るのが「奥御殿」です。残念ながらここも構造上や費用面での不透明さから復元が見送られ平面展示になっています。奥御殿は「当主の家族が住んでいたところ」で実質的な生活の場であると思われます。奥御殿の奥には、一番最初に紹介した納屋が見えます。



 奥御殿の近くに井戸がありました。根城は主要な建物のすぐ近くに井戸があり、本丸跡だけでも、4つ以上の井戸が復元されていました。水は人間にとってどうしても必要なもの。これだけたくさんあるという事は、たくさんの人間が本丸で生活していたことを示していますね。



 奥御殿の南にあるのが「板蔵」です。奥御殿で使う衣類や道具などをしまっていたと思われます。その証拠に、壁板が厚さ6cmと厚めに作られて設計上丈夫になるように作られていました。それほど、大事なものがしまってあるんですね。



 ここには「はさみ箱」(移動などに持っていく収納箱)、「行器」(弁当箱)、名持(衣装ケース)など生活に必要なものが復元展示されいる。また、書物箱などもあり、貴重な品がここに保存されていたことが想起されます。


 これで、根城の本丸の復原探索は終わりです。根城の入口に展示パネルがあります。それを使いながらおさらいしてみましょう。

 現在の根城の航空写真です。主殿が真ん中に配置され、晴れの舞台であることがわかりますね。

 根城全体図です。しかし、これだと中館や東善寺も入ってしまうので、ちょっとみずらいですかね。じゃあ本丸だけアップしますか…。

 なんか、この復元図を見ていて違和感があります…。なんだろう…。この本丸想像図を見ると、本丸には随分建物が密集していたことがわかりますね。東門は一族などが入る通用門で、そのまま「奥御殿」に繋がる「ケの空間」(日常の空間)ですね。一方北門は、そのまま中馬屋に繋がり、主殿に通じています。来客用の「ハレの空間」(もてなし空間)なんですね。朝倉氏館も建物が密集していました。どこの館も同じようなものなんですね。しかし、これを見るとまだ2つの疑問点があります。


 ひとつは、根城本丸内部は、主殿という来客をもてなす施設があるのに、庭園はなかったのでしょうか?本丸想像図をみると、主殿L字の内側に池のようなものがありますが、ここに池があったのでしょうか?あったのならばなぜ復元しないのでしょうか?う~ん謎。


 もうひとつの疑問はこれです。
こちらは根城主殿を後ろからみた写真です。

これと、この写真を比べてもらいます。

こちらは、福井県福井市の一乗谷朝倉氏史跡の朝倉氏館跡の写真です。すべて平面展示になっていますが、根城との違いがわかりますか…。

はい、シンキングタイム…。



シンキングタイム終了…。


 答え…礎石がない。よく見ると根城の建物は主殿に限らずすべての建物に礎石がありません。礎石がないのに。このような大きな建物を建てることができるんですかね…。
 しかし、過去の史跡を見るとすべての史跡で礎石があったわけではないんですよね。八王子城や一乗谷朝倉史跡、勝沼氏館、東氏館、足助城、平城宮跡では礎石がありました。でもよく考えたら、江馬氏館や、飛山城などでは見かけなかったような気がします。礎石がなくても大きな建物は建てることができたんでしょうか。ちょっと気になるところです。


 ちょっと長くなってしまったので、第3弾はここで終わりです。次は八戸市博物館に行ってみよ~。

東北応援企画~日帰り東北の旅~其の2

2011-06-16 06:00:00 | 旅行・観光

 いよいよ到着。「史跡根城の広場」。八戸市博物館の前には根城を築城した「南部師行」の銅像があります。博物館も行きたいけど、よりみたいのは根城の復元部。さきに根城に行こう!



 「史跡根城の広場」の入口。入口右に見える建物は「ボランティア案内員」希望すれば無料で案内をしてくれるそうだ。本当ならボランティアの案内を聞いていきたいところだが、今回は時間もないし、自分のペースで周らないと…と断念。

 入口にパネルで根城の事が紹介されている。根城の説明版すべてに共通することだが、すべて説明が簡易で聞きやすい。簡潔にまとめられていている。難しい説明は、マニア受けするが、一般客には向いていない。その点で根城は一般の観光客にも耐えうるスポットだと思う。



 ここにあるパネルは本丸にも同じものがあるので、混んでいたらとばしてもOK。いきなり本丸の復元にたどり着くのではなく、東善寺郭と中館郭を通って行くことになる。こちらの郭は、本丸と違ってそれほど発掘調査は行われていない。



 広場を入ると、左は駐車場、右は薬草園と歴史に全く関係ないもの。広場である以上は、市民の憩いの場にしなくちゃということで、こうなったんだろうかな。



 このように単なる広場のスペースもちゃんと郭ごとに分けられて、空堀が再現されていんます。斜面は急ではないがかなりの深さだ。この東構郭でも屋敷跡が発見されたそうで、やはり根城の一部であったことが確認されています。



 東善寺跡の郭には、現在もお墓があるようです。



 東善寺の郭から先に行くと、堀で区切られて新たな郭がある。ここは現在とても広い広場になっており、家族連れなどが、サッカーやバトミントンをするなどに利用されているようだ。この辺りには、根城の武士たちが観賞用としたと思われる桜や松の木などが発掘されている。また籠城に備えて実のなる木が植えられていた跡もあったようで、その植栽に合わせて公園内の木が植えられています。



 この広場から空堀を隔ててあるのが、「中館址」の郭。郭には休憩施設である建物がたっています。

 さらにここには根城本丸の全体模型がある。ここで次の本丸の全体像を頭に入れるといいかもしれないですね。

 「中館址」を過ぎるといよいよ根城本丸。堀切に掛けられている木橋を渡っていく。なお木橋は、本丸への観光客のため、手すりをつけており、室町時代にはなかったものであると説明版にあった。やはり説明が丁寧です。



 空堀を渡ると、いよいよ復元ゾーン。木柵と築地塀に囲まれた虎口を入ると、東門が見えてきます。



 料金所で料金を払います。大人なら250円。博物館と共通なら400円。入場は9時から受付で、16:30に受付終了です。定休日は月曜日と年末年始。こんだけ復元してるのに250円とはお得ぅ~。



 さて、ここで復元クイズぅ~。これは何の役割を持っている建物でしょうか?



正解は…

納屋でした。一見縄文時代のような竪穴式住居に見えますが、わざと30cmほど掘りくぼめて土間にすることで涼しくなる効果を狙っています。人類の知恵ですね。



 さて、もうイキナリ根城のメインである主殿に到着してしまいました。今回の旅のメインです。まだ午前中なのにもうメインディッシュでいいの?ってくらい心の整理がついていません(笑)
 主殿とは「当主が特別な来客とあったり、様々な儀式を行ったところです。」(主殿説明版より)つまり郭の中でもっと晴れ舞台なんですね。ちなみに屋根が納屋と違って茅葺ではなく板葺なのは、発掘調査で柿板が見つかったことから、板葺だったのではないか?と考察した結果によるものなのだそうです。細かいところまで考えていますね。



 主殿の建物はおおよそこんな風になっています。L字のような建物ですね。もちろん、このような図面が残っていたわけではありません。発掘調査で得られた柱穴の様子から建物の間取りを想像して、その間取りと配置から割り出したものです。本当に気の遠くなるような作業ですね。主殿の復元には5年以上も構想・設計にかかったようなので、関係者による英知の結集が行われたのが、私が見えている主殿の復元なんですね。


 この主殿実際に入れます。入口がいきなり台所なので、一瞬ビフォーアフターしたろかっ?って思っちゃいますが…実際、当時の入口ってどこだったんですかね?ところで台所にしては設備が簡単過ぎじゃない?と思った方はするどい。この主殿はあくまで公式の場所。日常的に使う場所ではなかったのです。ですので、きちんとした台所場「奥御殿」にあり、こちらは簡単な調理や配膳を行う簡易台所というわけです。


 そして、一番最初の部屋が「詰ノ間」です。この復元主殿では、正月の宴会の様子が再現されており、台所で準備された宴会用のお料理が詰ノ間に運ばれています。しかも、この囲炉裏は実際に使えるそうで、体験学習時に実際に串餅を焼いたこともあるそうです。(佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』より)



 主殿の廊下である「縁」を伝って次の間に行きます。あれ窓が開いていますね。ガラス戸がなかった時代です。このように上に窓をせりあげて固定します。この窓の開け方覚えておいてください。この後違う史跡で見ることになります。



 主殿「詰ノ間」の次がこちらの「茶ノ間」です。こちらにも囲炉裏がありますうが、こちらはつりさげるものがないですね。「詰ノ間」よりも面積が狭いですからないのかもしれません。



 面積もあまり広くなく、広間などの儀式を行うための準備室のような設定といいます。儀式の準備として、灯明皿や火鉢がおいてあります(一瞬鍋料理かと思ったが…)。根城では「根城ではかわらけ(素焼きの皿)が出土していないため、出土品の検討から灯明皿は瀬戸・美濃産の陶磁器とした」(佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』P.153より)というが、かわらけが出土しない遺跡なんてあるの?ってちょっと読んでいてビックリ。かわらけなんてどこの遺跡でもザックザクでるのに、どうして?東北の遺跡はかわらけ使わないの?ちょっと疑問。



 主殿の中で広間に次ぐ格式をもった部屋が「二ノ間」であり、儀式用の弓・鉄砲やほら貝などを置いて、監視用に武士が一人いるという設定になっていまあす。



 主殿の中で一番格式高い「広間」です。ここでは「武事始め」の儀式が行われている様子を再現しています。それを表すために、板敷に置き畳を敷いています。

 「武事始め」は正月十一日に行われる儀式で、現在では鏡開きの日として伝統になっています。(もっとも一般家庭ではそれすらも行われなくなりましたが…)そのため、広間の背後に鏡餅があります。この部屋は、畳の縁の色、列席の仕方、服装、食事や食器などなど細かな点が復元にあたり議論されたそうです。

 ここで出されている食事は「詰ノ間」で用意されていたものと同じです。酒菜三献肴の配膳で、「南北朝期の勝ち戦の陣中で食されたものに由来し、料理は豆腐の吸い物、生の大根、煎大豆、煎披椒であり、箸は茅とした。」」(佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』P.151より)



 さて、私がよく見ていないで見逃してしまった2つを紹介。この広間から横の廊下。奥には「雪隠」つまりトイレがあります。どんな感じだったのでしょうか。復元されて公開しているの?それとも全然見えなかったの?



 前の写真から突き当りの奥から右に進んだところです。細長く続く廊下に展示スペースか…と思っていましたが、家に帰ってよくよく見ていると、ここって「重宝ノ間」だったんです。南部家に伝わる重宝を入れておく部屋、とあります。そもそも広間の後ろが廊下で、広間が廊下に囲まれているってのもちょっとおかしいとは思っていたんですが…無念、重宝ノ間の全体像を取り忘れてしまった…。



 「二ノ間」と「控ノ間」に挟まれていて、表の廊下から行けないところにあるのが、この「祈祷ノ間」。古文書によると、本丸に度々東善寺の僧侶が訪れ加持祈祷をするとあるので、最も奥まったところに「祈祷ノ間」を再現しているそうです。


 こう考えると、主殿は色々な構想を重ねてできたということが改めて確認できた。これはすごい復元だなあと感心(しかも家に帰ってきてからの方がさらに感心が深くなるという)。


 さて、次は主殿を出て根城本丸の他の復原部分を見ていきましょう!