古本屋で見つけたために、今までなかなか見る気がしなかった今谷明著『足利将軍暗殺-嘉吉の土一揆の背景-』を読んだら、今までずっと頭の中でもやもやしたものが一瞬にして繋がった。私が歴史を調べる時にテーマとしていることがある。それは「傀儡(かいらい)」だ。辞書で調べると「傀儡:自分の意志や主義を表さず、他人の言いなりに動いて利用されている者」をさす。しかし、実はこの傀儡。全く自分の意思や主義を表さないことはないのである。ここにちょっとその考えのラフ案(これから事実など盛り込んで考えを補強するので)をここに記したい。
「傀儡君主と衆議政治」
室町幕府の将軍や守護大名はよく「連合盟主的な存在」と言われる。すなわち、強力な大名権力で家臣を支配するのではなく、重臣たちの意見を入れて、うまく調整し実行するのである。これを『足利将軍暗殺』で今谷氏は「衆議の尊重」と言っている。従来これは、将軍権力や大名権力の脆弱性として取り上げられてきたが、氏は違う見方を展開された。それは、足利義持の後継者問題である。義持は死に際して次の将軍について「面々用ゐ申さざれば、正体あるべからず」(ここで自分が決めてもみなが認めねば意味がないとの意)「ただともかくも面々相ひ計らい、然るべき様に定め置くべし」(みんなで相談してちゃんと決めてほしいの意)と述べて幕閣に後継者問題を任せて死去したのである。足利義持と言えば、義満・義教と並んで幕府の安定期の将軍である。これすなわち、専制君主と言えども重臣たちの衆議を必要としていたのである。
つまり、中世において将軍や大名は、家臣の意識の差を調整し、まとめあげる役目を担っており、それでこそ権力・権威を維持し得たのである。だが、それがうまくできない場合は、家臣によって暗殺や追放の憂き目に遭い、強制的に君主を換えるという下剋上に発展するのである。
しかし、重臣が下剋上を起こしたからと言って、自分がすぐに大名になれるわけではないのである。前述のように家臣たちの「衆議の尊重」から、下剋上の主犯格が大名になれないこともしばしばあったのである。そこで考えられたのが、「傀儡君主の擁立」である。建前として君主がいれば「衆議の尊重」は守られ、重臣たちの合議で政治を行えばよいのである。観音寺騒動の後の六角家などはその典型例と言えよう。しかし、建前ではあっても傀儡君主が「衆議の尊重」のために擁立されたのであれば、それは「ただの傀儡君主」にならないこともしばしばあった。重臣間の権力争いが起きたとき、建前上の君主であっても味方につけようと重臣たちは担ぎ上げ、反筆頭重臣の総大将として祭り上げられる時があるからである。この例としては傀儡で有名な鎌倉幕府の「摂家将軍」である藤原頼経の存在がある。
http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/retuden/fujiwara_yoritsune.html
「傀儡君主」と言えども、その本人の好むと好まざるに関わらず、政局に関与(巻き込まれる)することが多々あったのである。それゆえ、中世の将軍や大名は建前の「絶対的な権力」と実際である「意見調整の役割」とのギャップに苦しめられたのである。ここで、そのギャップを埋め絶対的な権力を得たものが織田信長や豊臣秀吉ら安土桃山時代の主役となる近世の大名であり、ギャップを埋め切れなかったのが、大多数守護大名として没落していった勢力になったのではなかろうか。
さて、信長・秀吉ら「絶対的な権力」を持つ君主が登場したことにより、中世的な「衆議を尊重する役割」は近世になり一新されたように見えた。これは江戸期に入って、身分制が固定されたことにあいまって確立したかのように見えた。しかし、この「衆議を尊重する」役割は江戸時代の後半にまた形を変えて現れたのである。すなわち、幕府政治は将軍の手から老中や側用人などの家臣政治へと移っていったし、諸藩の大名は重臣たちより「古来よりの伝統」というしばりつけで家格や品格を重んじる役割を担わされ、独自の政策をなかなか展開できなかったのである。ある意味、将軍・大名権力が中世的「衆議政治」に部分的回帰したと言えよう。
以上がパッと考えた構想段階の論文です。ぜひご意見ください。
「傀儡君主と衆議政治」
室町幕府の将軍や守護大名はよく「連合盟主的な存在」と言われる。すなわち、強力な大名権力で家臣を支配するのではなく、重臣たちの意見を入れて、うまく調整し実行するのである。これを『足利将軍暗殺』で今谷氏は「衆議の尊重」と言っている。従来これは、将軍権力や大名権力の脆弱性として取り上げられてきたが、氏は違う見方を展開された。それは、足利義持の後継者問題である。義持は死に際して次の将軍について「面々用ゐ申さざれば、正体あるべからず」(ここで自分が決めてもみなが認めねば意味がないとの意)「ただともかくも面々相ひ計らい、然るべき様に定め置くべし」(みんなで相談してちゃんと決めてほしいの意)と述べて幕閣に後継者問題を任せて死去したのである。足利義持と言えば、義満・義教と並んで幕府の安定期の将軍である。これすなわち、専制君主と言えども重臣たちの衆議を必要としていたのである。
つまり、中世において将軍や大名は、家臣の意識の差を調整し、まとめあげる役目を担っており、それでこそ権力・権威を維持し得たのである。だが、それがうまくできない場合は、家臣によって暗殺や追放の憂き目に遭い、強制的に君主を換えるという下剋上に発展するのである。
しかし、重臣が下剋上を起こしたからと言って、自分がすぐに大名になれるわけではないのである。前述のように家臣たちの「衆議の尊重」から、下剋上の主犯格が大名になれないこともしばしばあったのである。そこで考えられたのが、「傀儡君主の擁立」である。建前として君主がいれば「衆議の尊重」は守られ、重臣たちの合議で政治を行えばよいのである。観音寺騒動の後の六角家などはその典型例と言えよう。しかし、建前ではあっても傀儡君主が「衆議の尊重」のために擁立されたのであれば、それは「ただの傀儡君主」にならないこともしばしばあった。重臣間の権力争いが起きたとき、建前上の君主であっても味方につけようと重臣たちは担ぎ上げ、反筆頭重臣の総大将として祭り上げられる時があるからである。この例としては傀儡で有名な鎌倉幕府の「摂家将軍」である藤原頼経の存在がある。
http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/retuden/fujiwara_yoritsune.html
「傀儡君主」と言えども、その本人の好むと好まざるに関わらず、政局に関与(巻き込まれる)することが多々あったのである。それゆえ、中世の将軍や大名は建前の「絶対的な権力」と実際である「意見調整の役割」とのギャップに苦しめられたのである。ここで、そのギャップを埋め絶対的な権力を得たものが織田信長や豊臣秀吉ら安土桃山時代の主役となる近世の大名であり、ギャップを埋め切れなかったのが、大多数守護大名として没落していった勢力になったのではなかろうか。
さて、信長・秀吉ら「絶対的な権力」を持つ君主が登場したことにより、中世的な「衆議を尊重する役割」は近世になり一新されたように見えた。これは江戸期に入って、身分制が固定されたことにあいまって確立したかのように見えた。しかし、この「衆議を尊重する」役割は江戸時代の後半にまた形を変えて現れたのである。すなわち、幕府政治は将軍の手から老中や側用人などの家臣政治へと移っていったし、諸藩の大名は重臣たちより「古来よりの伝統」というしばりつけで家格や品格を重んじる役割を担わされ、独自の政策をなかなか展開できなかったのである。ある意味、将軍・大名権力が中世的「衆議政治」に部分的回帰したと言えよう。
以上がパッと考えた構想段階の論文です。ぜひご意見ください。