先日焼け跡を通りかかると、すっかり、さら地になっていました。それまでは焼け焦げた柱や梁やカウンターが痛々しい姿を見せていたのですが…。ここで刻まれたさまざまな思い出まで、きれいさっぱり取り払われた思いがしました。
カウンターだけ8席ほどの小さな店。以前は左手に2畳くらいの小上がりがあったのですが、近年は、のり子さんの物置になっていました。のれんを分け引き戸を開けて中に入ると、すぐ左におしぼりボックスがありました。客はまずそこから自分でおしぼりを取って着席するのが習わしでした。初めての客が来店したときは、近くに腰掛けた常連が「どうぞ」と、おしぼりを取ってあげるものでした。
店が飾り気がなければ、メニューも飾り気がなく、小さな黒板に手書きで書かれた品は、がらんつ、冷奴、カツオの腹皮、つけあげ、野菜てんぷら、ニガゴリ炒め、塩サバ、オクラ玉、納豆、ホウレンソウ、カタクチイワシなど、どちらかといえば質素なものがほとんど。客は客で、1品か2品をさかなに、焼酎グラスを重ねるといった具合でした。開店早々に店に入ったとき、まだ黒板が前日のままの日もあり、今夜のメニューを代筆したことも何度かありました。
焼酎は、かんつけ器から、のり子さんがいちいちグラスについでくれました。ボタンを押してつぐのですが、その名人芸たるは。見事な表面張力を示しました。そんな焼酎をグラスから一滴もこぼさないように、客は身を乗り出してグラスに口を近づけていました。
飾り気がないのは、のり子さん自身でした。客にこびるでもなく、来る者は拒まず、去る者は追わず。いや、来る者を時にはピシャリと断っていました。他の客に絡んで迷惑をかけそうな人、金払いが悪そうな人、そんな人を一瞬のうちに見抜くのでした。女1人の商売。長年の間にはいろんなことがあったのでしょう。
金払いが悪いといえば、自分も月に一度しか払いませんでした。35年の付き合いということで、つけを許してもらっていたのです。毎月25日に律儀に請求書が会社へ届けられました。これを持って、その日支払いに行くというのが常連たちの給料日の慣習でした。人づてに請求書が届けられるため、たまにちゃんと届かないことがあり、請求書の行方を逆に捜索するものでした。
名山堀でも代表的な老舗となり、近年の名山堀人気もあって「のり子」はさまざまな取材を受けました。南日本新聞の夕刊に載った店の小さな記事がきっかけとなり、週刊誌のグラビアに取り上げられたこともあります。セクシーなダイコンの写真記事でした。
火事があった夜、自分も1時間前まで店にいました。天文館の店にいたら、のり子にまだ残っていた仲間から「のり子から火が出た。もうダメだ」という電話が入りました。急いで駆けつけると、消防車が何台も止まり、のり子の方から煙が上がり、人が詰めかけて、現場は騒然としていました。
揚げ物の鍋に引火。店に残っていた仲間たちが、おしぼりボックスからおしぼりを取り出して投げ込んだり、近くから借りてきた消火器を使ったりしたのですが、もうどうにもならなかったそうです。東日本大震災の年、自分にとっては定年退職の年の、もう1つの一大事でした。
「まち案内」を始めてから、天文館で声をかけた県外の人たちを「のり子」まで案内したこともあります。皆さんに、とても喜んでもらいました。地元の人が通うこんな店こそ、県外客は望んでいるのかもしれません。でも、もうそれもかなわなくなりました。
火事で、けが人が1人も出なかったのが幸いでした。それほど延焼しなかったのも幸運でした。「のり子」と、隣の「めいさん」が抜け落ちたのはとても残念ですが、名山堀のために他の店々に奮闘してもらいたいと願っています。
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